今回は、源平合戦で起こった戦の1つである倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いについて紹介しようと思います。
倶利伽羅峠の戦いと木曽義仲
倶利伽羅峠の戦いでは源平合戦の主役の1人である木曽義仲(きそよしなか)という人物が登場します。
木曽義仲は源義仲とも呼ばれる源氏の血を引く人物の1人。1180年に反平家で挙兵した以仁王は各地の源氏の血筋の者に「俺と一緒に平家を倒そうぜ!」と手紙を送りますが、その中には木曽義仲も含まれており、木曽義仲はこの呼びかけに応じ挙兵したのでした。
因縁の関係、源頼朝と木曽義仲
さて、木曽義仲が挙兵した頃、あの有名な源頼朝も打倒平家のために挙兵をしていました。
木曽義仲と源頼朝、共に平家を倒すために立ち上がったわけですが、この2人は決して協力し合うことはありませんでした。
木曽義仲は、育ちは信濃国ですが本来生まれは武蔵国(今でいう東京らへん)でした。木曽義仲の父は、源義賢(よしかた)。源義朝(みなもとのよしとも)の弟であり、有名な源頼朝の乳でもあります。つまり、木曽義仲と源頼朝は従兄弟(いとこ)の関係だということです。
源義朝はちょうど保元の乱が起こる少し前、突如として武蔵国にいる弟の源義賢を襲撃し、武蔵国を奪い取ってしまいます。この時、木曽義仲は、父を源義朝に殺されることになります。
源義賢の息子でまだ乳飲み子だった木曽義仲は源義朝に命を狙われ続けることになりますが、諸々の取り計らいにより信濃国に匿われるようになります。ちなみに「木曽」という名は、義仲が育った信濃国の木曽谷という地名が由来していると言われています。
つまり、木曽義仲からすれば源頼朝は父を殺し武蔵国を奪った義朝の息子。同じ「打倒平家」を掲げてはいるものの、両者が協力し合うわけがないのです。
当時の反平家勢力は大きく源頼朝派と木曽義仲派の2つに分かれています。源頼朝は、「自分に逆らう奴は絶対に潰す!」という強い政治理念の持ち主で、逆らう者は徹底的に排除してきました。
そうすると当然、源頼朝に虐げられた人は不満を持つわけで、排除された人らは次々と木曽義仲の元へと馳せ参じてゆきました。源頼朝が自分と敵対する者を受け入れる木曽義仲のことを快く思うわけもなく、木曽義仲と源頼朝は政治的にも本格的に対立するようになります。
何が言いたいかというと、源平合戦と言えば「源氏VS平家」ってイメージがあるかと思いますが、実はそうじゃないよ!ということです。
倶利伽羅峠の戦い当時の状況は厳密には、平家VS源頼朝VS木曽義仲の国を三つ巴にした状況に日本最高の権威を持つ後白河法皇が平安京に構えている・・・という状況でした。当時の状況を簡単にまとめるとこんな感じです。
そして、この3者に加えて、東北地方では強大な勢力を築いていた奥州藤原氏が中立の立場で争いを静観していました。
なぜ倶利伽羅峠の戦いが起こったのか?
倶利伽羅峠の戦いは1183年に起こります。当時の源平合戦の戦況は三つ巴の状況という話をしましたが、各々の状況は次のような感じでした。
1182年に起こった大飢饉で食料がない。しかも、多くの反乱が起こったせいで各地で食料供給を拒否される有様・・・。
辛うじて北陸ルートはまだ残っているが、木曽義仲がいつ攻めてくるかもわからない状況。この北陸からの食料ルートは絶対に死守しなければならない。これを邪魔する木曽義仲を叩かなければ!
平安京に向かい天皇・上皇らと関係を密にしたいが、関東の源頼朝の動きが不穏で迂闊な動きはできないな。
・・・って言ってるそばから平家軍が攻めてきた。源頼朝の動きはきになるけど、攻めてきたからには平家軍など捻り潰してやる!!
平安京に向かいたいが、関東の安定統治のため鎌倉から離れることができない・・・。背後の奥州藤原氏の動きも気になる・・・。
しかし、今回の平家軍の動きは悪い話ではない。平家側の木曽義仲討伐軍は大軍のようだし、両者ともに疲弊してくれればこれほど嬉しい話はない。ここはしばらく静観としよう。
倶利伽羅峠の戦いの直接的な原因は、平安京内の食糧難問題にあったと言われています。
平家側は、関東や近江での反乱により主に東海道からの食料調達ルートを失い、西国と北陸に食料を頼る状態に陥っていました。(その後、1182年の大飢饉により西国からの食料調達も困難になります。)この状態で北陸を木曽義仲に支配されることは平家にとって相当な脅威だったのです。
平家軍と木曽義仲は北陸地方で一進一退の攻防を続け、両者の最後の戦いとなったのが倶利伽羅峠の戦いなのです。
木曽義仲の戦術
1183年の春、平維盛(たいらのこれもり)を総大将に大軍が北陸に攻め入ります。当初は、平家軍が次々と北陸地方を制圧していきますが、能登半島の付け根辺りまで進軍すると、その後木曽義仲が押し返し、両者ともに倶利伽羅峠付近でのにらみ合いが続きます。
兵力的には、木曽義仲の圧倒的不利。しかし、防衛側の木曽義仲には地の利がありました。それに、木曽義仲の攻勢に撤退した平家軍は砺波山に逃げ込んでいたため、大軍を有効活用することができません。
そこで木曽義仲は、次のように考えました。
大軍をフル活用できる平野に戦力を展開されれば勝ち目はない。倶利伽羅峠を突破されるとその東には砺波平野が広がっている。ならば、砺波平野前の倶利伽羅峠にて奇襲をかけるのが得策。それに我らは山国の信濃の育ちだ。地の利は完璧にこちらにある。
峠道では平維盛軍が陣を構えられる場所も限られており、木曽義仲は平維盛軍が「猿ヶ馬場」という場所に野営するよう仕向け、そこを挟み撃ちで夜襲する計画を立てます。
倶利伽羅峠の戦いの経過
倶利伽羅峠の戦いの経過については、小矢部市さんが発行しているパンフレットの図がわかりやすいので引用してみました。
木曽義仲「大軍を偽り、平家軍をビビらせるべし」
木曽義仲の作戦は、平家軍が猿ヶ馬場で野営することが大前提の作戦。平家軍が野営をせずにそのまま倶利伽羅峠を突き抜けて砺波(となみ)平野に出てしまっては意味がありません。
木曽義仲は、平家軍に「木曽義仲軍は強大だ。慎重に攻める必要がある」と思わせ、その足を止めるため、一計を案じます。日宮林という場所に陣を構え、そこに白旗をたくさん掲げたのです。
この作戦は大成功。大量の旗を山から眺めた平家軍は、その旗の多さから敵は大軍だ!と考えてしまい、進軍を躊躇してしまいます。平家側はまんまと木曽義仲の策略にハマり、猿ヶ馬場で様子見を決め込んでしまいます。(結果的にこの平維盛の判断が平家軍の大敗北を招いてしまいます・・・。)
平家軍を倶利伽羅峠内に押さえ込むことに成功した木曽義仲は、夜襲に向けて着実に準備を進めていました。
木曽義仲「牛の角に火つけて平家軍に突っ込ませたろ」
木曽義仲は夜襲に備え、兵の一部(樋口兼光)を猿ヶ馬場を迂回し進軍させ、平維盛の背後に忍ばせます。
木曽義仲は、牛が暴れまわっているのを見てふと思い立ちました。
そういえば、昔に牛のツノに松明をつけて敵陣に突撃させる火牛の計なるものがあったな・・・。俺も試しにやってみるか!
木曽義仲はツノに松明をつけた牛を平維盛軍へと解き放ち、それと同時に一斉に平家軍に奇襲を仕掛けます。牛と人とのダブル奇襲に平家軍は大パニック。逃げようとしても、背後からは木曽義仲軍の樋口兼光(ひぐちかねみつ)が襲いかかってきます。
パニックに陥った平家軍は、唯一敵兵のいない南へと逃亡しましたが、敵がいないのは当たり前。南側は崖であり、行き止まりでした。しかし、崖で行き止まりにも関わらず、大パニックに陥っている平家軍は次々と崖のある南へと逃げ込んでゆきます。後続の兵士たちも、あまりにもスムーズに前に進むものだから、安心しきっていました。まさか崖があって皆が次々とそこから飛び降りてるとは夢にも思わなかったことでしょう。
人々が次々と飛び降り、死体の山を築き上げていったこの崖は今は「地獄谷」と呼ばれています。源平合戦後、谷には多くの白骨が散らばり、その様から地獄谷と呼ばれるようになったそうです。また、谷に流れる小川も大量の死体や血で酷い有様だったようで、その川は今でも「膿川」という名で呼ばれています。
ちなみに、挟み撃ちand夜襲で平家軍をフルボッコにしたのは本当らしいですが、「牛のツノに松明をつけて突撃させる」というのは作り話ではないか?なんて言われています。確かにツノに火なんかつけたら、牛が暴れてむしろ味方がやられるんじゃないか?なんて思います。
牛の逸話は平家物語という歴史物に載っているのですが、おそらく木曽義仲を美化するために考え出されたのでしょう。
倶利伽羅峠の戦いの後
次々と崖から飛び降りてゆく平家軍。仮に崖を避けて逃亡できたとしても、そこに勇猛果敢で山育ちの木曽義仲軍が襲いかかります。
こうなっては都育ちの平維盛の大軍はひとたまりもありません。平維盛は数万の兵を失い、自らも命からがらで逃亡するのがやっとな様子。倶利伽羅峠の戦いによる敗北で、平家は兵力のほとんどを失ってしまいます。
倶利伽羅の戦い後、木曽義仲は平安京に向けて進軍しますが、兵力を失った平家軍にもはや勝ち目はなく、木曽義仲の連戦連勝。1183年7月、木曽義仲は遂に平安京入りを果たします。
そして、木曽義仲に対抗するすべを失った平家は、亡き平清盛の権力により即位した幼き安徳天皇を抱え都落ちし、西へ逃亡。そしてこの2年後の1185年、壇ノ浦の戦いによって平家は滅亡することになるのです。
倶利伽羅峠の戦いは、平家の衰退を決定づけた重要な戦いなのでした。
木曽義仲の最期
以上、倶利伽羅峠の戦いについてでした。木曽義仲は戦には強かったのですが、朝廷内のしきたりやマナー、それに貴族的な人間関係や根回しなどについてはてんでダメでした。平安京入りした木曽義仲は、次から次へとトラブルを起こし、実質的に平安京を追放されてしまいます(汗。
一方、朝廷生活を経験したことがあり、人間の気持ちや感情を察知するのが上手だった源頼朝は、朝廷と木曽義仲の亀裂を利用し、巧みな外交術で木曽義仲の勢力を削いでゆきます。これを知った木曽義仲は大激怒。源頼朝が派遣した源義経らと武力衝突しますが、宇治川の戦いで敗北し、その一生を終えます。
京に入った後凋落してゆく様子を見る限り、倶利伽羅峠の戦いにおける木曽義仲はまさに全盛期であったと言えると思います。
コメント
すごいわかりやすかったです。