今回は源平合戦のヒーロー、あの有名な源義経(みなもとのよしつね)についてわかりやすく、丁寧に紹介してみました。
この記事を読んでいただければ、源義経のことはだいたいわかるはず!源義経入門のきっかけにしていただければ嬉しいです。
父は源義朝
源義経の話に入る前に、その父である源義朝(みなもとのよしとも)について少しだけ話をしておきましょう。
源義朝の詳しいお話は以下の記事に譲るとして、ここではサラッと紹介します。
後三年の役により源義家が凋落して以降、源氏は長い間、関東地方で所領などを巡って一族同士での争いを続けていました。
武勇に秀でていた源義朝はその勝者となり、源氏の棟梁として関東地方を束ねます。これが1150年ごろの話。関東地方の動乱が収まると、源義朝は関東を息子の源義平(みなもとのよしひら)に任せ、自らは朝廷への進出を目指します。
1147年には、源義朝とその正妻の由良御前の間で男子が生まれます。これが後の源頼朝になります。
さらに1153年、京随一の美女と言われていた常盤御前を側室に。美女だったけど身分が低く貴族たちに敬遠されていた常盤御前を、「チャンス!!!!」と言わんばかりに源義朝が目をつけた感じです。
その後1156年、複雑な権力争いである保元の乱に参戦し、勝利。乱の詳細については以下の記事を読んでみてください!
保元の乱から少し経過した1159年、源義朝と常盤御前の間に子が生まれました。これがこの記事の主役の源義経です。
同年(1159年)、平治の乱が起こります。源義朝は首謀者の1人でしたが、敗北して戦死。源義経は、1歳にもならぬうちに父を失いました。
父を失った幼少期
幼少期の源義経は、物心つかないうちから激動の生涯を歩み続けることになります。木曽義仲もそうですが、当時の有名人たちの人生は本当に凄まじいです・・・。源平合戦が多くの人を魅了するのも納得です。
平治の乱で敗戦の将となった源義朝。その余波は義朝の息子たちにも及びます。当時10代前半だった源頼朝は奇跡的に処刑を免れ、伊豆に流刑。
乳飲み子の源義経を抱えた常盤御前は、子どもたちを守ろうと平安京を抜け身を隠します。ところが、常盤御前の母が平清盛に捕まってしまいます。平清盛は平治の乱の勝者だした。
常盤御前は母を助けんと平安京に戻り、平清盛に助命を願い出ます。この時点で義経の命運も平清盛の手の内にあります。常盤御前は息子の死を覚悟しながらも、必死の抵抗を試みます。
常盤御前「夫(義朝)の平治の乱での行いを見れば、子供たちの死は仕方ないかもしれません。ですが、私は子供たちの殺される姿を見ることに絶えることはできません。どうか、子供たちを殺すのならまずは最初に私を殺してください」
平清盛は常盤御前の美しさやその覚悟に感服。さらに、そもそも平清盛が「どうせ義朝の嫡男だった源頼朝も助けちゃったんだし、その他の子供の命まで奪う理由はないかな!」と思っていたのもあって義経は奇跡的に一命を取り留めます。
平清盛「子供や母を助けてやったんだから、俺の女になれ」
常盤御前は絶世の美女でしたから、こんな風に言われて平清盛の妾になったなんて言われることもあります。(事実かどうかはわかりません。)
平清盛は、夫の義朝を死に追いやった人物です。そんな常盤御前を自分の女にするとか平清盛さん、鬼畜すぎじゃないですかね・・・。
武蔵坊弁慶との出会い
一命を取り留めた源義経はその後、鞍馬(くらま)寺に預けられ将来的に出家すべく平穏な日々を過ごします。これは、義経を俗世から離れた所に置くことで再び権力者に命を狙われないよう常盤御前が図ったものでした。
源義経は乳飲み子の頃に父を失っているので、自分の父が関東を束ねる源氏の棟梁だったことをしばらくは知らなかったはずです。しかしながら、義経は清和源氏の高貴な血を引く御曹司です。色々な噂があり、自分の父が関東一帯を支配していた源義朝であることをどこかで知ったのでしょう。
1174年頃、義経は鞍馬寺で出家をすることを拒絶し、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の下へ向かいます。
当時、常盤御前は一条長成という貴族の下で暮らしており、一条氏の勧めででわざわざ遠い奥州まで向かったと言われています。
義経の動きを知った常盤御前の心は複雑だったことでしょう。なんせ、争い事に巻き込まれないよう義経を鞍馬寺に預けたわけですからね。最終的には義経の気持ちを尊重した形です。
決意を新たに、父の仇である平家打倒を目指す源義経。そんな義経の前に、超ガタイの良いヤンキーみたいなヤツが喧嘩を売ってきます。これが有名な武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)です。都の五条大橋での出会いだったと言われています。(真偽は不明)
武蔵坊弁慶「ふふ、俺は強者と戦い続け敵の刀を999本奪ってきた。喜べ、お前の刀でちょうど1000本目だぜwwww」
源義経「・・・(何いってんだこいつ)」
キンっ!キンっ!スッ(刀の打ち合いと、斬撃を避ける音)
武蔵坊弁慶「・・・こいつ桁違いに強いんだが(汗。全然攻撃が当たらん。」
源義経「脛(すね)、思いっきり叩いたろ」
ドカッ!
武蔵防弁慶「痛ッーーーーー!!!!!!!!」(これが「弁慶の泣き所」の由来)
源義経「これであなたの負けですね^^(余裕の笑み)」
武蔵坊弁慶「お前強すぎだろ・・・。一体何者だ?」
こうして荒くれ者だった武蔵坊弁慶は、義経が源氏の御曹司であることを知り、義経に心酔。その後、最後の最後まで側近中の側近として大活躍します。
さてさて、武蔵坊弁慶という生涯の盟友と出会った源義経は藤原秀衡のいる奥州へと向かいます。
藤原秀衡との出会い
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、やってきた源義経を快く迎えました。
藤原秀衡は以下の記事でも紹介していますが、非常に頭が切れて決断力もあるかなり有能な奥州の統治者でした。
そんな藤原秀衡は、源氏の高貴な血統を利用して奥州統治をより一層強固なものにしようと考えました。秀衡にとって、義経は政治の道具でもあったわけです。
ところが1180年、世の動きが大きく変わります。以仁王という皇族が、権力を掌握し横暴な政治を行う平家に謀反を起こしたのです。
以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されますが、これに呼応し、各地の源氏たちが反乱を起こしました。有名な源平合戦の始まりです。源義経の異母兄である源頼朝も流刑地の伊豆から挙兵を決意。平家の政治に不満を持つ北条時政らと共に平家軍と戦います。
源氏でもなんでもない藤原秀衡は、どの勢力にも加担せず情勢を静観していました。しかし、兄の頼朝が挙兵したことを知った源義経は、奥州でジッとしていることに我慢なりません。なんせ義経が鞍馬寺を出た理由は父の仇打ちですからね。この絶好の機会を無駄になんかできません!
1180年、源義経は藤原秀衡の抑止を押し切って挙兵。兄の源頼朝の下へ馳せ参じました。
その頃、源頼朝は富士川にて平家軍に勝利した直後でした。この富士川にて頼朝と義経は感動の初対面を果たします。
源平合戦での大活躍!
兄の元に馳せ参じた源義経は、武将として源平合戦の戦局を大きく左右するほどの大活躍を成し遂げます。
いくつかハイライトで紹介しましょう。各戦いの詳しい話はそれぞれ別記事で解説しておりますので、気になる方は合わせてご覧ください。
一ノ谷の戦い
1183年、福原付近に構える平家軍と源氏軍が対峙します。平家は地の利を活かし防衛線を構えていましたが源義経がそれをぶち壊します。
平家側が「この断崖絶壁なら天然の要塞だぜ!」と思っていた断崖絶壁を駆け下り、奇襲を仕掛けたのです。俗に言う「源義経の逆落とし」というやつです。
義経の奇襲で平家軍は大混乱。源氏の本部隊も到着し、平家軍をフルボッコにすることに成功します。
屋島の戦い
一ノ谷の戦いで破れた平家軍は、四国の屋島に避難します。水軍を持たない源氏は四国に容易に攻め込めず、戦況はこう着状態に陥ります。
ここでまたまた源義経は、奇策に出ます。1184年、屋島を背後から奇襲したのです。意味不明なところから攻撃を仕掛けられた平家軍は少数の義経軍にすら勝つことができず敗走。
壇ノ浦の戦い
源平合戦最後の戦い壇ノ浦の戦い。ここでも義経軍は主力として大活躍します。
壇ノ浦の戦いは水上戦。海を熟知する平家軍が圧倒的有利でしたが、敵の水夫を狙って敵船を操縦不能にさせるなど、当時としては奇想天外な策を用いて平家軍を大破。そして、迫り来る敵の猛将を見るや八つの船をピョンピョン飛んで一瞬のうちに消え去ります。(この神がかり的身のこなしは「八艘飛び伝説」と言ったりする)
源平合戦は源の勝利に終わり、源義経はその活躍から一挙として有名人となり、平安京でも名を馳せるようになります。
源義経と源頼朝の対立
ところが、源義経の華やかな経歴もここまで。壇ノ浦の戦い後の源義経は、それまで戦果がまるで嘘であるかのように崖から転げ落ちる悲痛の人生を送ることになります。
戦いが終わると義経について、悪い噂?が次々と頼朝の耳に舞い込んできます。
この他、源頼朝は源義経の人望の厚さやその逸脱して優れた武勇を危険視します。「このままでは俺と源義経の間で源氏の棟梁の座を巡って争いが起きかねない・・・」と。
源頼朝は父の義朝が関東で一族争いに明け暮れていたことなどもあって、このような問題にはかなり敏感だったのです。
義経の悲痛の叫び、腰越状
源頼朝は、こんな書状を義経らに送りつけます。
「自らの命に反して朝廷から役職をもらったやつは、鎌倉に帰ってくるな!平安京で勝手に頑張れ!」(超訳)
源義経は朝廷から役職を貰っていたので、義経にも「鎌倉に入るな!」と頼朝は言っています。鎌倉幕府樹立を目指す源頼朝にとって、朝廷と密かに関係を持つ者は危険人物だったのです。
ところが、源義経にはその源頼朝の真意が理解できません。源義経は、源頼朝の命令を無視して鎌倉手前の腰越まで向かい、頼朝に鎌倉入りを願う嘆願状を送りました。これを腰越状(こしごえじょう)と呼びます。内容は簡単に言うと「なんでこんなに活躍したのに意地悪するのお兄さん?」ってことが書いてあります。
が、頼朝から送られてきた返書は「そんなこと知らねーからとっとと平安京に帰れ!」のみ。
源義経も流石にこれには激怒。
「源平合戦で大活躍したのに、この仕打ちはなんだ!!もう怒ったぞ。源頼朝に不満のある奴は俺と共についてこい!!」
こう言い残して、源義経は腰越を去ります。これを知った源頼朝も同じく激怒。恩賞として与えた所領を全て没収してしまいます。頼朝が義経を挑発してわざと怒らせ、手のひらで転がしている感も否めませんが、この腰越状の一件により源頼朝と源義経の対立は決定的となります。
後白河法皇の暗躍
源義経は、同じく源頼朝を恐れていた後白河法皇に接近します。後白河法皇は、源平合戦中の寿永二年宣旨などの交渉を通じて、じわりじわりと頼朝に権力を奪われ始めていて、頼朝のことを強く警戒していました。
さらに、源義経の下には頼朝に不満を持つ源行家なども集まり、反頼朝の狼煙が上がろうとしていました。
頼朝も手を打ちます。1185年10月、義経暗殺部隊を派遣したのです。これは失敗に終わりますが、こうして国中を巻き込んだ兄弟の大喧嘩が始まろうとしていました。
頼朝の暗殺部隊派遣に気付いた源義経は後白河法皇に源頼朝追討令を出すよう直訴。これに応じた後白河法皇は源頼朝追討命を出します。後白河法皇は各地の反頼朝分子の力を期待してこの兄弟喧嘩を通じて、強引に頼朝を潰そうとしたのです。
・・・が、これは大失敗。全然兵が集まりませんでした。これは、源頼朝に不満を持つ者が想定以上に少なかったことを意味し、源頼朝の力が盤石だったことを示しています。源義経はひとまず西国へ逃げ、体制を立て直すことを決めます。
源頼朝「恐れていた義経の反乱が遂に現実のものとなったか・・・」
義経の能力や人望を恐れる源頼朝はこの事態を重く受け止め、自ら出陣し、鎌倉から平安京へと向かいます。源頼朝は駿河国で待機し、先鋒隊を平安京に送り様子を見ます。
源頼朝のこの待機地は、1180年に頼朝と義経が感動の再会を果たした場所でした。同じ地にいながら、わずか5年でお互いに殺し合うとは、夢にも思わなかったことでしょう。夢うつつと言う言葉がありますが、案外、現実と夢の違いというのは曖昧なものなのかもしれません。
後白河法皇は、「頼朝出陣!」の報告を受け、ビビって頼朝にこんな旨の書状を送ります。
後白河法皇「今回の頼朝さんの追討命令はね、天魔が勝手にやったことで俺のせいじゃないの!(だから許して!)」
これ受け源頼朝「天魔って何よ?そもそも院宣ってお前が出したんだろ?何を調子の良いこと言ってるんだ!ほんと、あんたは日本一の大天狗だよ・・・」
源頼朝は代官として北条時政に千騎の兵を与え入京させ、後白河法皇との交渉に入ります。
「今回の件、白紙にしたければ俺(源頼朝)の言う通り、源義経の追討院宣を出せ。そして、義経逮捕を名目に全国に守護・地頭を配置しろ」(外には千騎の兵がいるからな。よーく考えて回答しろよ)
頼みの源義経は西国に向かっていたため不在であり、後白河法皇はなすすべも無く源頼朝の要求を飲み込みます。無計画な後白河法皇の頼朝追討令が、逆に頼朝に利用されてしまった形です。
ちなみに、この交渉の中で各地に置かれたのが武家政権による新たな地方統治組織である「守護・地頭」です。
後白河法皇は次は「義経追討命令」を発令し、源義経は一変して朝敵となり、命を狙われることになります。
源義経の最期
命を狙われる身となった源義経は、西国から各地を転々とし最終的に1187年2月に故郷の奥州に身を委ねます。約2年ほどの逃走劇でした。この間、源義経は妻の静御前を頼朝に捕らえられています。
朝敵の義経を匿うということは、それだけで源頼朝に敵対することを意味します。藤原秀衡は源平合戦の間もずーっと静観を決め込んでましたが、日々強大化する源頼朝に対して遂に敵意を示すことを英断。その意思をハッキリと示すため、源義経を受け入れたのです。藤原秀衡カッコ良すぎ。
ところが、その藤原秀衡が1187年10月に亡くなり、息子の藤原泰衡が奥州を支配するようになると、次第に不穏な空気が流れ始めます。
頼朝の圧力外交
源頼朝は藤原秀衡を優秀な人物と警戒していました。しかし、その息子の泰衡はそれほどの人物ではないと見て、源頼朝は執拗に藤原泰衡に圧力を掛けます。
「義経の首を差し出してくれたら、奥州は潰さないでやるよ^^。こっちは義経を匿う奥州藤原氏をいつでも攻めれるんだからね^^。それに恩賞も泰衡くんにあげようじゃないか!!!」(大嘘)
奥州は当時、唯一頼朝の勢力が全く及んでいない地域でした。政治のプロである源頼朝がこんな絶好の機会に奥州に手を出さないわけがありません。頼朝のハッタリに対して藤原泰衡は葛藤します。
葛藤の末の結論は・・・「義経討つ!」でした。
武蔵坊弁慶の立往生
1189年、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡は、父秀衡の「義経を主人として奥州を守れ」という遺言を無視し、義経邸を襲撃。
この時、主人の義経を守ろうと武蔵坊弁慶は敵を次々と討ちますが、しかしながら奇襲を受けた義経側の兵力はなく、多勢に無勢。矢を受け刃に切られた武蔵坊弁慶はこの地で命を落とします。
武蔵坊弁慶は多くの傷を負い命絶えてもなお、持っていた薙刀を杖代わりに仁王立ちのまま立ち続け、敵兵たちを恐れさせたと言われています。
武蔵坊弁慶の必死の抵抗も虚しく、追い詰められた源義経は自害。こうして、源平合戦の英雄である源義経は人生の幕を降ろします。
この一年後の1190年、頼朝は「義経を討ってくれたのは嬉しいんだけど、やっぱ長年義経を匿ってた罪は重いよね。泰衡ちゃんごめんね、ぶっ潰すわ^^」と手のひら返しで奥州攻めを決行。こうして奥州合戦が勃発し、奥州藤原氏は滅びることになります。源頼朝の外交術が卓越しすぎてます。
源義経の人物像とか
幼少期の複雑な生い立ち、源平合戦の活き活きした様子、そしてその後の人生の急転落。その波乱万丈で悲哀に満ちた源義経の生涯は非常に多くの人を魅了し続けています。真偽不明な多くの逸話が残されているのはその証拠です。聖徳太子並みかそれ以上の人気です。
源義経はすごい素直なんだけど、一方でちょっと天然ボケが入っている人柄だったのだろうと思います。
一ノ谷の戦いの時「断崖絶壁だけど、ここから攻めたら勝てるからちょっと駆け下ったろ」
屋島の戦いの時「超暴風雨だけど、今渡れば勝てそうだから周囲の意見無視して四国に渡ったろ」
壇ノ浦の戦い「禁止されてるけど、敵船の水夫狙って敵の動き止めてみよ」
こーゆー奇抜な発想って考えすぎたり知識がありすぎると逆に躊躇してしまう気がするんですよね。だから義経って、自分に素直で無邪気な人間だったと思うし、その思考回路も頭が良いというより天然・天才肌というかそんな感じだったんじゃないかと思います。
さらに、源義経は人に好かれる何かを持っていたと言われています。源平合戦時、正規軍に混じっていた義経軍の兵たちの中には武士だけではなく、実に多様な人間がいたと言われています。義経の生涯の盟友の武蔵坊弁慶も破戒僧ですからね。兄の頼朝にとってはこの人望の強さは脅威だったはずです。
そんな天然ボケで人に好かれる人柄も、源義経が悲劇のヒーローとして長い間人々に親しまれていた理由かもしれません。
あと、義経を自害に追い込んだ源頼朝が悪く言われることも多いですが、源頼朝も二度と一族同士の紛争を起こすまいと確固たる信念を持って動いており、源頼朝を悪く言うのは違います。(頼朝が個人的に好きなのでフォローしとく!)
頼朝と義経の2人が源義朝の血を受け継いだ時点で、兄弟が争う運命は既に決まっていたのだと思います。「運命」で二人の関係をまとめるのもどうかと思いましたが、そんな感じで記事を終わらせておこうと思います。
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