今回は、源平合戦の間に起こった石橋山の戦いという戦について紹介したいと思います。
石橋山の戦いは、「源氏よ!平氏を倒すために立ち上がれ!」という以仁王の令旨を受け源頼朝が蜂起した後、平氏と源頼朝が衝突した最初の戦となります。
以仁王については以下の記事を参考にどうぞ。
流罪人の源頼朝、立ち上がる
平治の乱で父の源義朝が亡くなった後、運よく源頼朝は死刑を免れ、伊豆へと流されることになりました。これが1159年の出来事。そして約20年の実質的な幽閉期間を経て、以仁王の令旨を受け取った源頼朝は遂に挙兵することを決意します。
平治の乱については、以下の記事を参考にどうぞ。
源頼朝の父、源義朝については以下の記事をどうぞ。
しかし、源頼朝は伊豆において平氏の監視下に置かれており、下手な動きをすることはできません。ちなみに、源頼朝の監視役は伊東祐親(いとうすけちか)という人物でした。
崇拝される源頼朝の血統
伊東祐親に監視され何もできない源頼朝ですが、流罪人の身分でありながら源頼朝には支援者が数多く存在しました。
源頼朝は、後三年の役という戦役で名声を馳せた源義家の子孫。皇族に繋がる清和源氏の血統とその名声により源義家は関東一帯では知らない者などいないほどの存在でした。そんな偉大な源義家の子孫が源頼朝です。そして、源頼朝の父である源義朝も源氏の棟梁として関東一帯を支配した強者。平氏に虐げられていた関東地方の人々にとって、そんな先祖の血を引く源頼朝は精神的支柱となりうる存在だったわけです。
後三年の役については以下の記事を参考にどうぞ。
潜在的に源頼朝の味方になりうる者は多く存在し、源頼朝もその事実にしっかりと気付いていました。
北条政子と北条時政
そしてもう1人、源頼朝の味方となる重要人物が存在します。北条時政(ときまさ)です。
以仁王が各地に令旨を送った1180年当時、北条時政の立場は非常に複雑なものでした。北条時政は平氏側の人間でありながら、娘の北条政子(まさこ)が源頼朝と強引に婚姻関係を結んでしまったのです。
源頼朝が挙兵した際、究極の選択に迫られた北条時政は平氏を裏切り源頼朝に加担することを決心します。
石橋山の戦いの前に 〜山木兼隆殺害事件〜
以仁王の令旨を受け取った源頼朝は、実は様子見状態で挙兵するかどうかを迷っていました。しかし、平氏軍が以仁王の令旨を受け取った源氏らを攻めにやってくるという話が流れ、源頼朝も命を賭けて立ち上がらざるを得なくなります。
1180年8月、遂に源頼朝は挙兵することを決意。ちなみにこの時、発起人だった以仁王はすでに平等院による戦いで亡くなっていました。
源頼朝が挙兵し平氏を倒すには、まず伊豆国の目代(もくだい)である山木兼隆(やまきかねたか)を倒す必要がありました。目代とは、有力者が自らの所領の現地管理を任せた人物のことを言います。当時、ほとんどの所領は平氏一門が支配しており、山木兼隆も平氏から伊豆国の管理を任された1人ということになります。
伊豆国は長い間、源氏でありながら平氏からの信頼厚かった源頼政の所領で、源頼政の息子が目代として伊豆国を管理していました。ところが、源頼政が以仁王と共に平氏に対して謀反を起こすと、一変して平氏所領の国となり、目代も平氏側の人間になってしまったのです。
源頼政と良好な関係にあった伊豆国では、おそらく平氏一門から選ばれた山木兼隆を快く思わなかったはず。そんな状況を源頼朝は利用します。
源頼政については以下の記事を参考にどうぞ。
源頼朝の人心掌握術
山木兼隆を倒すため、源頼朝は協力してくれそうな人に密かに協力依頼をします。その方法がなんとも源頼朝らしいというか、人の心を掴む非常に賢い方法でした。
源頼朝は、いろんな人にこんな話を持ちかけます。「密かに山木兼隆を討とうと思う。これはあなただけに話す内容で、頼れるのはあなたしかいないんだ!」と。
源義家の子孫である源頼朝にこんなに頼りにされたら、No!とは言えません。むしろ、皆喜んで源頼朝に強力することを約束しました。鎌倉幕府を開いた源頼朝の政治的センスというか人の心を動かす力を垣間見ることができるエピソードです。
そして8月17日、源頼朝は協力者と共に謀反を起こし、山木兼隆を撃ち殺してしまいます。こうして遂に源頼朝が本格的に平氏に対して反旗を翻したのです。
石橋山の戦い
山木兼隆を殺害した源頼朝は伊豆から北上し、相模国の三浦氏という一族と合流することを目指します。しかし、その日の天候は雨。三浦氏は途中、水位の増した川に行く手を阻まれ、源頼朝と合流することができません。
こんな感じで三浦氏が手こずっているうちに、「三浦氏と源頼朝を合流させてはならない!」と意気込む平氏軍が源頼朝を包囲します。こうして源頼朝と平氏軍が石橋山で交えた一戦が石橋山の戦いです。
三浦氏と合流する前の源頼朝の軍勢は少数。しかも大軍の平氏軍に包囲されてしまった源頼朝は為す術がありませんでした。源頼朝軍は奮闘するも、敢え無く敗北。山の中、皆散り散りになって敗走します。石橋山の戦いは、源頼朝の大敗北に終わりました。
石橋山の戦いと梶原景時
【梶原景時】
石橋山の戦いでの敗北は、源頼朝にとっておそらく源平合戦最大の危機でもありました。
残党狩りをする平氏軍から逃げ隠れんと、源頼朝はとある洞窟に隠れます。しかし多くの平氏軍がウヨウヨする中、見つかるのは時間の問題。源頼朝はあっけなく平氏軍に発見されてしまいます。逃げ場のない洞窟では完璧に袋のネズミ状態です。死を覚悟した源頼朝は、味方共々自害しようと決心します。
洞窟に入り込んできた平氏軍は梶原景時(かじわらのかげとき)という人物。梶原景時は、自害しようとする源頼朝らにこう話しかけたと言います。「源頼朝殿、なんとかあなたをお助けしましょう。その代わり、戦が終わったら功を忘れずにお願いしますね!」と。
梶原景時は、立場上平氏側で戦わざるをえないけれど、心の奥底では昔々に関東地方の英雄として活躍した源氏側の味方となりたい!と考えていたのです。
梶原景時が、こっそりと源頼朝と話していると大庭景親(おおばかげちか)という平氏側の人物がやってきます。
大庭景親「おーい、梶原景時!洞窟の中の様子はどうだい?」
梶原景時「う〜ん、ここにも源頼朝はいないみたいだ。他を探そうぜ」
大庭景親「そっか。残念!洞窟の中はどんな感じなのかな。入ってみよーっと」
梶原景時「ちょっと待った!それって俺を信用してないってことだよね!?そうだよね!?なんかめっちゃプライド気付いたんだけど!!そんなに自分って信用されてないわけ!?」
大庭景親「えっ、そんなわけじゃないってば!そんなに熱くならなくても・・・。わかったよ。ただ興味本位で中を見たかっただけさ。もういいよ。」
こんな感じで、梶原景時はうまく源頼朝を匿い、源頼朝の命を救いました。九死に一生を得るとはまさにこのことです。幸運に恵まれ、源頼朝はなんとか命を繋ぐことができたのです。
この梶原景時という人物は、後に源頼朝に重用され鎌倉幕府において大活躍する人物でもあります。
辛うじて生き延びた源頼朝は、海を渡りひとまず安房国(今でいう房総半島の先っちょ)へ避難し、体制と立て直すと共に三浦氏ともそこで合流することにしました。
しかし、その三浦氏にも平氏軍の兵が襲い掛かります。
三浦氏の戦い
三浦氏はその名のとおり本拠地は三浦半島。三浦一族は三浦半島から安房国へと向かいます。多くの者が船で安房国へ向かう中、三浦一族の重鎮だった三浦義明だけは三浦一族の城に残り、最後まで平氏軍と奮闘。最後は壮絶な死を遂げたと言われています。詳しいエピソードはwikipediaがわかりやすく書かれていたのでそのまま引用します。
89歳の老齢であった三浦一門の当主三浦義明が城に残り、外孫である重忠らによって討たれた。『吾妻鏡』によると義明は「我は源氏累代の家人として、老齢にしてその貴種再興にめぐりあうことができた。今は老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の手柄としたい」とし、壮絶な最期を遂げたとするが、『延慶本平家物語』では三浦氏の軍勢が城を脱出する際に、老齢の義明が足手まといとなって置き去りにしたとされている。
出典:wikipedia「衣笠城合戦」
前者と後者でものすごい温度差のある経歴ですが、三浦氏は古くから源氏に仕えてきた一族。私は前者だと信じたいです・・・。
ちなみに「吾妻鏡」というのは鎌倉幕府公式の歴史書。つまり、その内容は鎌倉幕府びいきであるということです。(天武天皇が編纂した古事記をイメージするとわかりやすいかも)
そーゆー意味では、後者の「老人で邪魔だから置いていった」の方が信ぴょう性があるのかもしれません・・・。
石橋山の戦い(まとめ)
雨が降って三浦氏と合流できなくなったり、梶原景時に奇跡的に助けられたり、結果論ですが石橋山の戦いはまさに運否天賦が戦局を左右する戦いでした。そもそも、山木兼隆を殺害して挙兵したこと自体が一世一代の大博打です。源頼朝は石橋山の戦いでは負けたものの、命を繋いだことで大博打には勝ったと言えます。
源頼朝は、その後無事に安房国に逃げ込み、三浦氏とも合流。さらに房総半島一帯の一族も味方に付け、のちに大軍勢となって平氏軍に逆襲をすることになります。こうして、源平合戦は有名な富士川の戦いへと進んでいきます。
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