今回は、源頼政(よりまさ)という人物について紹介します。
源頼政は源氏の武士でありながら、歌人としても有名なちょっと変わった人物。そして、最期の辞世の句が感涙崩壊レベルで切ないことでも有名な人物です。今回は、源頼政の複雑な生涯について見ていくことにします!
没落してゆく源氏の生き残り、源頼政
突然ですが、平安京では1156年・1159年と皇位継承を巡る大きな争いがありました。保元の乱と平治の乱です。このうち平治の乱では源義朝が処刑され、力を持っていた義朝の流れを汲む源氏一族が没落してしまいます。
一方、この記事の主役である源頼政は、源義朝とは別の源氏一族(摂津源氏と呼ぶ)であり、保元の乱・平治の乱では源義朝とは対照的にどちらも勝者側に付くことで戦乱の中を生き残ることができました。
源頼政の大出世
源頼政は、源義朝の一族とは別ルートで古くから朝廷に仕えていました。その朝廷での長い経験から、源頼政は朝廷での貴族的な立ち振る舞いも心得ており、武士でありながら貴族的な思考もできる、いわゆる宮廷武士と呼ばれる存在でした。
保元・平治の乱の後、朝廷において強い影響力を持つようになった平家が活躍するようになっても、源頼政は中央政界で生き残ることに成功します。というか、源頼政は平家からの信頼も厚く、非常に重用される存在にまでなってしまいます。
「別の流れとはいえ源氏を滅ぼした平家にくっ付くとか頼政ってプライドとかなかったわけ?」と思う人もいるかもしれません。しかし、以下の2つの理由から平家に付くことが得策だと頼政は考えたのでした。
源頼政の歌人の才
源頼政は、朝廷で活躍する貴族的武士として有名ですが、歌人としても有名でした。朝廷内では公私を問わず、様々な場面で和歌を披露する場面があり、歌が上手いというのは朝廷において非常に優れた長所になりました。
源頼政が武士でありながら武士を嫌う貴族たちと共に中央政界で活躍できたのも、歌人としての源頼政の才に頼るところが大きかったのだろうと思います。源頼政は没落した河内源氏(源義朝の流れ)に代わって、朝廷における源氏の最有力者にまでなります。
当時の情勢を踏まえれば、源頼政は源氏繁栄の最期の希望だった・・・とも言えるかもしれません。
和歌でゲットした破格の昇進
1178年、すでに70歳を超えていた源頼政は、一族の今後の繁栄のため従三位(じゅさんい)という身分を望むようになります。当時、源頼政は正四位という身分でした。数字が小さくなるほど位が高くなってゆきます。
朝廷は、家柄や身分を重んじる社会。武士が朝廷内で昇進する際にも三位と四位には超えられない壁が存在しました。
平家は、圧倒的な影響力によってこの超えられない壁を突破しました。そして、高齢の源頼政も源氏として死ぬ前に三位の壁を超えることを強く望むようになります。死ぬ前に「源氏が三位になった!」という実績を子孫たちのために残したかったのです。
ある日、源頼政は、平清盛に次のような歌を詠み、そこはかとなく低い身分のままである自らの境遇を嘆くことにしました。
【現代語約】
昇進の見込みのない私は、四位に甘んじで生き続けるのだろうか
この歌を聞いた平清盛は驚きます。
平清盛「なぜ、平家のために活躍し信頼も厚い源頼政がまだ正四位の座に留まっているのだ!?」
源頼政は確かに平家からの信任厚く、重用される存在でしたが、平家一門は源頼政の昇進を完璧に忘れてしまっていたんです。
この和歌をきっかけに平清盛は源頼政を従三位に昇進させるよう取り計らい、遂に源頼政は従三位という武士では平家しか成し遂げられなかった高い身分を得ることに成功したのです。和歌でそれとなく意見するあたりは、なんとも源頼政らしいやり方です。
しかし、源氏が従三位になったことは他の貴族たちはかなりショッキングな出来事でした。「平家だけでなく、源氏も従三位になる世の中になったのか・・・」と。貴族から見れば武士の台頭はライバルが増えることを意味するので、あまり良い出来事ではなかったのですが、源頼政はその歌人としての才などが貴族たち好かれており、極端に敵が増えるようなことはなかったようです。
平家を裏切る源頼政 ー以仁王の挙兵ー
平家政権下、源氏でありながら破格の昇進を遂げた源頼政ですが1180年、一変して平家に対して謀反を起こします。源頼政が謀反を起こした理由は、実は今でもよくわかっていません。
平家物語では、源頼政の息子の馬が平宗盛(清盛の三男)に取り上げられて、焼印を押されるという屈辱を味わったからだ・・・とされていますが、これが真実かどうかはわかりません。
1180年当時、平清盛は後白河上皇を幽閉し、各地の所領を平家が独占していました。さらには、強引に孫の安徳天皇を即位させるなどその横暴な態度が多くの人の批判の的になっていました。もしかすると、このような平清盛の横暴な態度が、源頼政の心の奥底に長年秘められていた源氏の再興という野望に火をつけたのかもしれません。
源頼政は、平家憎しで志を同じくしていた後白河上皇の息子の以仁王と共に打倒平家計画を企てます。平家に抑圧されていた各地の源氏に挙兵を呼びかけ、自らも挙兵する計画でした。詳しくは以下の記事を参考にどうぞ。
しかし、平家打倒計画はすぐに平家側にも露呈し、平家軍は討伐軍を派遣。源頼政と以仁王は挙兵をする暇もなく、同じく平家と敵対していた奈良の興福寺へと逃げようとします。
源頼政は平清盛からの信任が厚く、実は以仁王討伐軍にも抜擢されています。源頼政が以仁王と結託し平家を裏切ったことは平家にとっては青天の霹靂(へきれき)。
源頼政は以仁王を追討中、密かに平家軍を抜け出し以仁王に合流。事ここに至り、平家側はようやく源頼政の裏切りに気付くことになります。源頼政が本当に平家から信頼されていたことがわかるエピソードです。
源頼政の最期
興福寺へと逃げる源頼政と以仁王は、今の宇治市の平等院のところで平家軍に追いつかれてしまいます。源頼政は、以仁王を逃がすため平等院で平家と衝突しますがこれに敗北。
死を悟った源頼政は、自害。最後に次のような辞世の句を残したと言われています。
実は影の大功労者だった源頼政
平等院での敗北により源頼政と以仁王の挙兵は失敗することになります。しかし、源頼政と以仁王の挙兵に応じた各地の源氏たちが立ち上がったからこそ、源平合戦は始まったわけで、源平合戦のきっかけを作った源頼政の功績というのはかなりデカイ。
全国で本格的なドンパチ始まった時には既に亡くなってたから、マイナーキャラになっている感ありますけど、源頼政の人生をかけた行動は歴史を大きく動かしました。つまりは、源頼政は源平合戦のきっかけを作り出した影の大功労者だったわけです。
源頼政の武勇伝 ー妖怪退治!ー
最後にちょっとしたおまけ話を。
源頼政の活躍の場は、「宮廷武士」の名のとおり朝廷でした。歌人としての才を活かせる朝廷は源頼政にとってはまさに天職だったことでしょう。
一方で、「宮廷武士」の名の通り、源頼政は武士でもあります。実は、源頼政にはその文武両道さを示すような武士としての武勇伝がしっかりと残されています。
その武勇伝というのは、ズバリ妖怪退治!!まぁ、ほぼ100%逸話でしょうけど、煙のないところに火が立たないのと同じ理屈で、源頼政がヘナチョコだった武勇伝すら生まれないわけだから、やはり頼政は武勇でも名を馳せていたのだろうと思います。
さて、その妖怪退治の武勇伝の詳細とやらを見ていきます。
妖怪、鵺(ぬえ)
近衛天皇の時代、病を患う近衛天皇が突如として毎晩何かに怯えるようになります。「これは何か良からぬものが身の回りにいるに違いない!」そう思った朝廷の人々は、近衛天皇の護衛に武士をつけることにしました。そこで護衛役として選ばれた一人が源頼政。
とある晩、源頼政が近衛天皇の部屋周辺を護衛していると突然黒雲が現れ、その中から妖怪が現れたのです。妖怪の名は鵺(ぬえ)。鵺はスフィンクスみたいにいろんな動物が合体したような妖怪で、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビという恐ろしい姿をしています。
源頼政はこれに怯むことなく、鵺に弓矢を放って妖怪を退治し、近衛天皇を無事に守ったのでした。
めでたしめでたし。っていう武勇伝です。この武勇伝のとおり、源頼政は弓の達人としても有名でした。和歌も上手くて、弓の達人・・・まさに文武両道!
まとめ
源頼政は、歌人の才を持ち、武勇にも優れたとても優秀な宮廷武士でした。さらに、平家が繁栄する中で、一人源氏として朝廷で高い地位を維持できたことは、源頼政の政治や巧みな処世術のあり様を示してくれているようにも思います。
最後はその平家を裏切り、以仁王と共に挙兵。最初の挙兵は鎮圧され、源頼政は自害しますが、この挙兵がきっかけとなって源平合戦が始まります。
平安時代から鎌倉時代へ。そんな大きな大きな時代の転換期の最初の狼煙を上げたのが源頼政だったのだろう・・・と思います。
おしまい。
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