今回は、4代将軍の徳川家綱の時代に打ち出された末期養子の禁止の緩和について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
末期養子ってそもそもなに?
末期養子というのは、
跡継ぎがいない大名が死ぬ直前(末期)になって、大名家の断絶を防ぐために養子を向かえ入れること
を言います。
どんな時に末期養子の話が出てくるかというと、
俺はまだ若いからいずれ実子が生まれるだろうし、まだ後継者のことなんか考えなくていいっしょ!
と思って跡継ぎを決めないうちに、大名が病や事故で危篤状態になってしまった時です。
もし末期養子を行うことができなければ、跡継ぎがいないため大名家は断絶し、大名の地位を失うことになります。
・・・しかし、江戸時代初期は末期養子が禁止されていました。なので、跡継ぎがいないまま大名が倒れることは、そのまま大名家の繁栄が途絶えることを意味していたのです。
上で紹介した「実子が生まれるのを待っていたら、その前に大名が亡くなってしまった」ケースは意外と多くて、末期養子が禁止されていたせいで没落してしまった大名が多くいました。
末期養子はなぜ禁止されていたの?
江戸時代の初期はまだ幕政が不安定だったため、幕府は大名たちを武力と権力で厳しく統制する必要がありました。
幕府に反感を持っている大名に好き勝手にされると反乱を起こされかねないので、幕府としても断固とした対応が必要だったんだ。
※江戸時代初期の、大名を武力・権力で抑え込もうとする幕府のやり方は、武断政治と呼ばれています。
大名が跡継ぎを決める際も、幕府は大名たちに事前報告を求めていました。
幕府は跡継ぎが危険人物かどうかをチェックし、もしヤバい奴だったら跡継ぎを認めないこともありました。
・・・ところが、末期養子だと大至急で養子を決める必要があるため、幕府への報告が間に合わないことがあります。
さらに、危篤状態の大名が意識を失っていた場合、大名の意見を聞かずに側近たちだけで跡継ぎが決まってしまうこともあり、そうなると危険人物が跡取りになったり、跡継ぎを巡って大名家の中で争いが起こることも考えられます。
つまり、安易に末期養子を認めてしまうと、いろいろとトラブルの元になるので、幕府はこれを禁止にしたわけです。
末期養子の禁止はなぜ緩和されたの?
幕府にとって末期養子の禁止にはヤバい奴が大名になることを防げるというメリットがありましたが、大名たちにとって末期養子の禁止は少しミスれば大名家が断絶してしまう恐ろしい制度でした。
実際、跡継ぎが見つからずに大名家が断絶することは江戸時代あるあるでした。
1600年に江戸時代から開かれてから1650年までの50年間で、実に約50人もの大名が跡継ぎがないまま断絶し、領地を失っています。
さらに末期養子の禁止は、大名だけではなく、大名に仕えていた武士たちにも大きな影響を与えました。
というのも、大名家が断絶すると、その大名に仕えていた武士たちの多くがリストラされてしまったからです。
リストラされた武士の中には、別の大名のところに再就職したり、百姓・町人となって新しい人生を歩む者もいましたが、その多くが就職先が見つからない浮浪者となってしまいました。(この浮浪者のことを牢人と言います。)
社会に溢れるようになった牢人たちは、幕府にとって大きな悩みの種となります。
牢人たちの中には、再起のため戦乱の場を望んでいる者も多く、大阪の陣や島原の乱では、多くの浪人たちが戦いに参戦していました。
おまけに、そんな血気盛んな牢人たちはチャンスを求めて人口の多い江戸や大阪に多く集まっていたのです。
もし血気盛んな牢人たちが反乱でも起こしたら、幕府が崩壊してしまうのでは・・・?
・・・つまり、牢人は幕府にとって幕政を脅かしかねない不穏分子だったわけです。
幕府は、牢人たちが不穏な動きをしないよう、牢人に対しても厳しい統制を敷き、牢人の行動に厳しい制限を設けていました。
慶安の変
しかし、力と権力で不都合な相手を抑えつける幕府のやり方は、次第に限界を迎えます。特に社会に大量に溢れてしまった牢人を幕府の力で抑えつけることは不可能となっていました。
牢人を抑えつければ抑えつけるほど、かえって牢人の幕府への不満を高める結果となり、1651年、ついに牢人たちを中心とした反乱未遂事件「慶安の変」が起こります。
首謀者は、由比正雪という軍学者でした。
由比正雪は軍学塾を開いており、そこで困窮する牢人たちを多く見てきました。
牢人の実情を知った由比正雪は、牢人を大量に生んだ幕政のあり方に強い疑問と憤りを感じるようになり、幕政の改革を求めて反乱を起こしたのです。
反乱そのものは、計画が幕府にバレて未然に防がれてしまったため、大きな事件には発展しませんでした。
・・・が、幕府が懸念していた「牢人が幕政を脅かすかもしれない」という不安が現実のものとなったため、幕府は幕政の大きな見直しに迫られました。
末期養子の禁止の緩和へ
幕府がこれまで、大名・牢人に対して武断政治を行ってきたのは、大名・牢人たちが反乱を起こすのを防ぐためです。
しかし、慶安の変は、その武断政治へ不満によって引き起こされたものでした。
江戸幕府が開かれてから50年が経ち、島原の乱を最後に大きな反乱も起こらず、幕政もだいぶ安定してきた。社会情勢も当初とは大きく変わったようだ。
もはや大名・牢人の不満を無理やり抑え続ければ、かえって反乱が起きかねない。これからは、力・権力で人々を抑えつけるのではなく、法や思想で人々を治める文治政治を行うべきだ!
慶安の変の後、すぐに幕政の見直しが行われ、これまで続いていた大名・牢人への厳しい規制も緩和されました。
その1つが、今回のテーマである末期養子の禁止の緩和でした。
緩和の具体的な内容
具体的に何を緩和したかというと、これまで末期養子が原則禁止だったのが、大名家の当主が50歳未満だったら末期養子にしてもOKという条件に緩和されました。
この緩和によって、次のようなケースで末期養子が可能となり、大名家の断絶を防ぐことができるようになりました。
まだ幼い当主がとつぜん病に倒れてしまった。
働き盛りの当主が、実子の誕生を待っている間に危篤状態になってしまった。
要するに、「当主が若い間は後継者をすぐに決められないだろうから、50歳までは末期養子をしてもいいよ!」っていうのが末期養子の禁止の緩和の目的です。
ただ、末期養子を行う余裕すらないまま当主が急死したり、候補者が幕府から養子として認められなかった場合には、大名家が断絶する場合もありました。
あくまで条件の緩和であって『どんな時でも末期養子をしてオッケー!』って感じではなかったことには注意しておきましょう。
末期養子の禁止の緩和の影響
末期養子の禁止の緩和によって、断絶する大名家が減り、その結果、牢人の増加を抑えることに成功しました。
幕府は慶安の変の後、幕政の方針を武断政治から文治政治へと転換しましたが、
今回紹介した末期養子の禁止の緩和は、方針転換を代表する政策であり、4代将軍家綱の政治を理解する上での重要な政策の1つだったのです。(だから教科書にも載っています。)
コメント