今回は、6代将軍の家宣&7代将軍の家継の治世を支えた新井白石による政治(正徳の政治)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
正徳の政治とは
正徳の政治とは、江戸時代の6代・7代将軍の家宣・家継の時代に行われた政治のことを言います。
6代家宣の治世が1609年〜1612年、
7代家継の治世が1613年〜1716年、
なので、正徳の政治っていうのは、1609年〜1716年までの約7年間の政治のことを言います。
ちょうどその頃の元号が「正徳」(1711年〜1716年)だったので、家宣・家継の政治のことを「正徳の政治」と呼ぶようになりました。
正徳の政治を支えた新井白石と間部詮房
6代将軍の徳川家宣は、もともと甲府藩の藩主であり、家宣の下には多くの家臣がいました。
家宣の治世を支えたのも家宣の家臣たちであり、特に大きな影響力も持っていた重要人物が2人いて、それが新井白石と間部詮房でした。
間部詮房
間部詮房は、もともと家宣から信頼の厚かった家臣であり、家宣が将軍になると側用人となりました。
※側用人:将軍の側近。将軍と役人たちの間の伝令役。
役人たちは、家宣と話をするには間部詮房を通す必要があったため、間部詮房は幕政に強い影響力を持つようになりました。
前代の綱吉の時代でも、側用人の柳沢吉保が幕政に影響力を持っていたことを思い出そう!
新井白石
新井白石は儒学者として、家宣に仕えていた家臣でした。
博識だった白石は家宣から政策立案を任されるようになり、正徳の政治の政策もその多くが白石によって立案されたものでした。
さらに7代将軍の家継がわずか5歳で将軍となったため、家宣亡き後の幕政は、事実上、間部詮房&新井白石によって行われることになりました。
正徳の政治の内容と特徴
正徳の政治では、次のような政策が行われました。
①幕政の刷新:生類憐れみの令の廃止・荻原重秀の罷免(クビ)
②貨幣の品質UP:正徳小判の発行
③朝廷との関係改善:閑院宮家を創設する
④外交政策:海舶互市新例の制定・朝鮮通信使の待遇の簡素化
難しい言葉がいくつか登場したけど、後ほどちゃんと解説するので安心してください!
正徳の政治は、5代綱吉の政治の時から大きな課題だった「文治政治による幕政の安定」「財政難」を克服するため、新井白石が綱吉の政治の良き部分を残し、悪き部分を改良したのが正徳の政治となります。
政策①:幕政の刷新
正徳の政治が始まってすぐに行われたのが、前代綱吉の幕政の刷新でした。
生類憐みの令の廃止
1709年に6代家宣が将軍になると、民衆から評判の悪かった生類憐みの令がすぐさま廃止されました。
荻原重秀の罷免(クビ)
さらに、綱吉の時代から幕府の財政を握っていた荻原重秀が、貨幣のあり方をめぐって新井白石と対立。1712年にクビとなり、代わって新井白石が財政対策を行うようになりました。
政策②:貨幣の品質UP(正徳小判の鋳造)
綱吉の時代、荻原重秀は幕府の財政難を貨幣の大量鋳造で乗り切るつもりでした。
・・・ただ、貨幣を大量に鋳造するには金・銀が不足していました。そこで荻原重秀は、貨幣に含まれる金・銀の量を減らして、貨幣の品質を落とすことにしました。
貨幣の品質を落としたことで通貨の発行量が増え、増えた通貨の一部が幕府の利益となり、幕府の財源となりました。
そして、その代償として、世に流通する通貨量が増えたことでインフレが起こり、庶民たちは物価高騰に苦しむようになりました。
なんで貨幣の量を増やしたら財政難対策になるの?
その答えは、綱吉の政治の記事で紹介しているので、あわせて読んでみてください!
(長くなってしまうので、この記事では割愛させていただきます・・・)
この荻原のやり方に異論を唱えたのが新井白石でした。
貨幣の品質は、国家の品格そのものを示すものだ。
確かに貨幣の品質ダウンは、幕府の財政難を救った。・・・しかし、それ以上に国家の品格に傷がついてしまった。
私の計算では、幕府が質素倹約に努めさえすれば、貨幣の品質を落とさなくとも財政は維持できる。
なので、貨幣の品質を元に戻そうと思う。
1712年に荻原重秀がクビになった2年後の1714年、再び貨幣改鋳を行い、貨幣の品質を以前と同程度に戻しました。
・・・が、金・銀不足で必要な量の貨幣を鋳造できず、短期間での度重なる改鋳を行ったため貨幣に対する信用が失われ、新しい貨幣は中途半端にしか流通しませんでした。
※この時、新たに改鋳された小判のことを正徳小判と言います。
短期間での度重なる改鋳は、物価の乱高下を招き、人々生活をかえって混乱させる結果になってしまったよ・・・。
政策③:閑院宮家の創設
新井白石は、皇室が途絶えることがないよう、皇室のルールにも大きな修正を加えました。
もともと皇室には、万が一天皇の直系血族が途絶えた場合の保険として、3つの宮家の出身者に限り、天皇家の養子となり天皇即位OK!というルールがありました。
宮家 | 家紋 | 始まり |
---|---|---|
伏見宮 | 1409年〜 | |
桂宮 | 1589年〜 | |
有栖川宮 | 1625年〜 |
・・・しかし、この3宮家にも1つ問題がありました。
というのも、3宮家は、当初は天皇の親近者によって定められましたが、時間が経つにつれて3宮家と天皇家の血筋が少しずつ離れてしまったのです。
いくら保険とはいえ、天皇家の血が薄い人物が天皇になれてしまうことに、朝廷は懸念を抱いていました。
いくら保険とはいえ、天皇家の血が薄い人物が天皇になってしまうと、皇統の存続に大きな問題となる。
・・・不測の事態に備え、現在の天皇と血縁の近い者を創始者として、もう1つ天皇即位OKな宮家を用意しておきたい。
天皇家の男たちは、皇位をめぐる争いを避けるために、自分が天皇になれる見込みがないことがわかるとすぐに出家して門跡寺院で暮らすことが慣例になっていました。
一度出家した者が天皇になることはNGとされていたので、天皇が若くに亡くなり皇位継承が早まったり、次期天皇候補が早死にして皇位継承の予定が狂うと、他の候補者がみんな出家していて次の天皇候補が決まらなくなることが多々ありました。
実際、正徳の政治が始まる少し前にも皇位継承者が不在となり、ピンチヒッターとして有栖川宮から後西天皇が即位したことがありました。
そのため、当時は3宮家への関心も高まっていたのです。
ただ、新しい宮家を創設し、存続させるにはお金が必要です。
応仁の乱以降、弱体化した朝廷の資金力では自力で新しい宮家を創設することは不可能でした。
そこで助け舟を出したのが新井白石でした。
皇統の断絶は、確かに国家存亡に関わる大きな問題だ。
わかったぞ。天皇家と血筋が近い宮家の創設を幕府が支援しよう!
こうして1710年に新たに創設された宮家が、閑院宮家でした。
閑院宮家は、当時の天皇だった中御門天皇の弟が創始者となり、皇統断絶の保険として機能するようになりました。
中御門天皇は114代天皇でしたが、中御門天皇の直系は118代の後桃園天皇で断絶してしまい、119代天皇には閑院宮から光格天皇が即位することになりました。
そして、光格天皇以降、現代に至るまで歴代天皇は閑院宮の血筋が続いています。
もし新井白石が閑院宮家の創設を支援しなければ、皇室の歴史は大きく変わっていたかもしれません・・・。
政策④:外交政策(海舶互市新例の制定・外交儀礼の簡素化)
政策②のところで説明したように新井白石は、貨幣の品質UPが必要と考えていて、品質UPに必要な金・銀の確保は、頑張って節約や工夫をすればなんとかなる・・・と考えていました。
こうした新井白石の考え方は、外国との関わり方にも変化をもたらします。
海舶互市新例
外国から輸入品を買う時、その対価として金・銀を支払っているけど、輸入量を減らせば支払う金・銀の量も減って節約になるのでは・・・!?
新井白石は、江戸時代が始まってから日本が持っている金の1/4、銀の3/4が国外に流出してしまったと試算。
そこで1715年、海舶互市新例を出して、輸入量に制限を設けることにしました。
制限の結果、
清との貿易は年間30隻、取引量は銀の量に換算して6,000貫
オランダとの貿易は年間2隻、3000貫に制限されました。
※1貫は約3.75kgなので、清との取引量は銀22,500kg、オランダとの取引量は銀11,250kg相当ということになります。
朝鮮通信使の待遇の簡素化
いつも朝鮮から使節団が来日したら、厚くもてなしてたけど、もっと待遇を質素にすればお金の節約なるのでは!?
こう考えた新井白石は、朝鮮通信使への待遇を以前よりも質素なものに見直しをしました。
※朝鮮通信使:朝鮮からやってくる外交使節団のこと。日本は鎖国中でも、朝鮮とは外交関係を持っていました。
新井白石は貿易や外交のあり方を見直して金・銀の節約に努めたけど、結局貨幣の品質UPの成果は、政策②のところで紹介したように微妙でした・・・。
正徳の政治のまとめ【年表付】
最後に、正徳の政治を年表形式でまとめておきます。
- 1709年徳川家宣、6代将軍に就任。すぐに生類憐みの令が廃止される。
側近として新井白石、間部詮房が実権を握るようになる。
- 1710年閑院宮家が創設される
- 1711年朝鮮通信使が来日。倹約のため待遇を簡素化する。
- 1712年荻原重秀クビになる
- 1713年家宣が死去。徳川家継、7代将軍となる。
- 1714年貨幣の品質UPのため貨幣改鋳を行う(正徳小判の発行)
- 1715年海舶互市新例が出される
- 1716年家継が死去。徳川吉宗が8代将軍となり、正徳の政治は終了する。
コメント