徳川綱吉の政治を簡単にわかりやすく解説【年表付まとめ版】

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江戸幕府5代将軍の徳川綱吉
もぐたろう
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今回は、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉つなよしの政治について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • 徳川綱吉の政治の特徴は何?
  • 綱吉はどんな政治を行ったの?
  • 具体的にどんなことをしたの?
  • 綱吉の政治の結果はどうだったの?
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4代将軍までのおさらい

本題に入る前に、綱吉が将軍になるまでの幕政の流れをサラッとおさらいしておきましょう!

1代〜3代(家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつ)まで時代(1600年〜1651年)は、出来立てホヤホヤの江戸幕府を幕政の基礎をしっかりと固める時代でした。

幕府は反乱が起こらないよう力と権力で人々を抑えつける武断ぶだん政治を敷き、反乱の火種となるキリスト教を禁止し鎖国体制を完成させました。

徳川家康(江戸幕府初代将軍)
初代将軍の徳川家康

4代家綱いえつなの時代(1651年〜1680年)になると、幕政もだいぶ安定して、表面上は平和な時代が訪れました。

もぐたろう
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1637年に起きた島原の乱以降、日本では大きな反乱は起こらなくなっていたよ。

江戸幕府4代将軍の徳川家綱
4代将軍の徳川家綱

ここであえて「表面上」と言ったのは、ちょうど家綱が将軍になった1651年、これまで幕府に抑えつけられていた人々の不満が爆発し、慶安の変という反乱未遂事件が起きたからです。

江戸幕府
江戸幕府

日本もだいぶ平和になったし、これからは無理に人々を抑えつけるよりも、民衆の不満が高まらないよう、法や思想によって世を治めるべきだな・・・。

慶安の変をきっかけに、幕府は武断政治から文治ぶんち政治へ幕政方針を転換。

そして、文治政治が本格始動したのが、今回のテーマである5代将軍綱吉の時代(1680年〜1709年)でした。

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徳川綱吉の政治の特徴

徳川綱吉は、良くも悪くも文治政治を行うのにうってつけの人物でした。

・・・というのも、綱吉は儒教や宗教(仏教・神道)がめちゃくちゃ大好きな人物だったからです。

そのため、綱吉が行った政治にも儒教・仏教・神道の影響が色濃く反映されていました。

綱吉が行った重要政策まとめ
  • 武家諸法度ぶけしょはっとに儒教の教えを反映させた。
  • 儒教じゅきょうを世間に広めるため学問塾の湯島聖堂ゆしませいどうを建設する。
  • 生類憐しょうるいあわれみの令を出す。
  • 神道を重んじ、服忌令ぶっきれいを出す。(朝廷との関係も回復する)
  • 財政難となり、貨幣の見直しを行う。
もぐたろう
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1つ1つの政策については、後ほどしっかりと解説していくよ!

綱吉の側近たち(堀田正俊と柳沢吉保)

綱吉が将軍になった当初、側近として大老たいろう堀田正俊ほったまさとしが綱吉を補佐していましたが、1684年、堀田正俊が暗殺されてしまいます。

※暗殺された理由は諸説あります(ここでは詳細には触れません。)

堀田が暗殺された場所は江戸城の中、しかも将軍と大老・老中たちが普段打ち合わせをしている部屋の近くでした。

徳川綱吉
徳川綱吉

堀田が殺された場所、打ち合わせで俺が頻繁に出入りしてる部屋の近くじゃねーか!

これからは、大老・老中らと安易に会わないようにしよ・・・。

巻き添えを恐れた綱吉は、打ち合わせ部屋を変えたほか、簡単な報告・連絡であれば伝令役に任せるようになり、次第に綱吉と老中らの間のコミュニケーションが減っていきました。

そして、綱吉と老中らの溝を埋める形で幕政に大きな発言力を持つようになったのが、伝令役として将軍と老中らとの橋渡しをしていた側用人そばようにんと呼ばれる役職でした。

堀田が暗殺された当時、側用人だったのは柳沢吉保やなぎさわよしやすという人物。

柳沢吉保は、綱吉と話をする場面も多く、綱吉からの信頼も厚かったため、堀田正俊が亡くなった後、その代わりとして綱吉の政治を支える重要人物となっていきました。

側用人の柳沢吉保
側用人として綱吉の政治を支えた柳沢吉保
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武家諸法度の改正(天和令)

1683年、武家諸法度が改正され、儒教の教えが色濃く反映されました。

例えば武家諸法度の第1条。

第一条には、武士の心構えが書かれていますが、次のように改正されました。

武家諸法度第1条(改正前)

文武弓馬ぶんぶきゅうばの道、もっぱ相嗜あいたしなむべき事(学問と武芸の道に邁進まいしんすること)

武家諸法度第1条(改正後)

文武忠孝ぶんぶちゅうこうはげまし、礼儀を正すべき事(学問・武芸に励み、忠孝を尽くして礼儀を正すこと)

この改正で重要なのは、儒教で重んじられている忠・孝・礼儀というワードが武家諸法度に盛り込まれた・・・という点です。

忠:臣下が君主に対して誠実に尽くすこと

孝:子が親のことを敬うこと

もぐたろう
もぐたろう

儒教では、忠孝は大事なことだと考えられていて、忠孝の気持ちを示す行為として礼儀が重んじられたんだ。

幕府は、特に臣下と君主の関係である『忠』の思想を大名統制の基礎にしようと考えました。

武士たちに忠の考え方が浸透すれば、武力や権力を振りかざさなくとも、大名を安定してコントロールできる・・・と幕府は考えたわけです。

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湯島聖堂

湯島聖堂
湯島聖堂

綱吉は、儒教の学問所である湯島聖堂の建設も行いました。

湯島聖堂はもともと、林家りんけ(※)が代々経営していた私塾でした。

ところが儒教が大好きな綱吉は、塾の移転を命じ、幕府の手によって新しい塾を建造してしまいます。

これまで私塾だった湯島聖堂は、綱吉の手によって今でいう国立学校のような公的機関となり、儒教の教えを広める中心地となっていきました。

林家とは

林家というのは、儒学者の林羅山はやしらざん(1583年〜1657年)の子孫たちのことを指します。

林羅山が徳川家康に仕えて重用されたのをきっかけに、林家はその後も代々儒学者として幕府に仕えるようになりました。

林羅山
徳川家康に仕えていた儒学者の林羅山

ちょうど綱吉の時代の林家は、3代目の林鳳岡はやしほうこうという人物で、湯島聖堂の管理者(大学頭だいがくのかみ)になったのも林鳳岡でした。

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生類憐みの令

綱吉は、民衆に生き物を愛でる心を育むため、1685年、生類憐みの令を出しました。

生類憐れみの令によって、多くの生き物の殺生が禁止され、捨子を保護することも義務化されました。

綱吉、めっちゃ優しくていい奴やん!

もぐたろう
もぐたろう

確かにそうだね。

・・・でも、生類憐みの令はとても厳しい内容で、ちょっとした油断で民たちが理不尽に罰則を受けることもあり、民衆にとってはとても迷惑な法令だったんだ。

※綱吉が生類憐みの令を出した明確な理由はわかっておらず、諸説あります。ただ、儒教や仏教には「生き物を大切にしようね!」的な教えがあって、綱吉もその影響を受けてたのだろう・・・と言われています。

綱吉は特に犬の保護にとても大事にしたため、野犬を見て見ぬ振りをしたり、お腹を空かしている犬を放置するだけで、人々が罰を受けてしまうこともありました。

※綱吉が犬の保護に特にこだわったは『綱吉が戌年生まれだったから』だと言われています。(これも諸説あります。)

生類憐みの令には、捨子の保護など福祉の一面もありましたが、民衆たちからの評判は総じて悪く、約20年後に廃止されることになります。

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服忌令

1684年、綱吉は、身内が亡くなった際のふくす作法について、服忌令という法令も定めました。

もともと喪に服す作法には神道による作法がありましたが、綱吉は神道の作法をアレンジして新たに服忌令を定めました。

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綱吉は、1683年に息子(徳松とくまつ)を亡くしていて、その影響で翌年(1684年)に服忌令を出した・・・と言われているよ。

「忌」とは故人の霊をまつる期間、

「服」とは故人への哀悼の気持ちを表す期間

のことをそれぞれ言い、「忌」と「服」について定めたのが服忌令です。

けがれと「えた」

忌の期間中は、死者の穢れを世間に広めないよう、神社への参拝やお祭りへの参加はタブーとされました。

そのため服忌令が出されると、「死に関わること」=「穢れ」と見なされるようになり、死んだ牛馬を片付けるかわた(長吏ちょうりなどの仕事は、穢れた仕事として差別を受けるようになり、えた(穢多)などの蔑称で呼ばれました。

また、綱吉が儒教における君臣の礼儀や、神道を重んじた結果、幕府と朝廷との関係も改善しました。

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財政難と貨幣政策

綱吉の時代は、幕府の財政難に頭を抱えるようになった時代でもありました。

今まで幕府は、お金の問題に悩まされることはあまりありませんでした。

なぜなら、佐渡金山さどきんざん石見銀山いわみぎんざんで無尽蔵に金銀が採れていたからです。

・・・ところが、綱吉の時代になると次第に金銀の産出量が減少。

一方で明暦の大火(1657年)からの復興や、綱吉の仏教・神道推しによる積極的な寺社造営によって、幕府のお金はドンドン減っていき、幕府の財政難に陥ってしまいます。

この財政難の対応に迫られたのが、勘定吟味役かんじょうぎんみやく(のちに勘定奉行かんじょうぶぎょう)だった荻原重秀おぎわらしげひでという人物でした。

荻原重秀は、「金銀の産出量が減っているなら金貨・銀貨に使う金銀の量を減らせばいいんじゃね?」と考え、貨幣の作り直し(改鋳かいちゅう)を行いました。

幕府は、金銀がたくさん含まれている古い貨幣を回収し、金銀の量が少ない新貨幣を世に広めました。

こうすることで、幕府は金儲けをすることができました。

小判を例に挙げると、

古い小判(慶長けいちょう小判)には小判1枚に金約15g

新しい小判(元禄げんろく小判)には小判1枚に金約10gが含まれていました。

幕府がある人物から慶長小判1枚を回収して、その代わりに元禄小判を渡せば、幕府は金15gを受け取って金10gを渡すことになるので、金5gが幕府の手元に残るわけです。

慶長小判2枚を回収すれば、幕府の手元には金10gが残り、その10gで新たに元禄小判を鋳造することができ、錬金術的に手元資金を増やすことが可能でした。

つまり、慶長小判200枚を回収すれば、幕府は小判100枚分の利益を得ることができます。

荻原重秀は、こうしたトリックを使って財政難を解決しようと考えたのです。

もぐたろう
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ここで紹介した例は、あくまでシンプルな参考例です。

実際には、持っている小判をわざわざ質の悪い元禄小判と交換しようと思う人は多くなくて、幕府は小判を交換する際、少しだけ割増して相手に元禄小判を渡すこともありました。

元禄小判
荻原重秀による改鋳によって作られた元禄小判

・・・ただ、貨幣に含まれる金銀の量が減れば、当然、商人たちは商品を値上げします。

例えば、金貨の金の含有量を30%減らせば、商人たちはこう考えるわけです。

金の含有量が30%減ったってことは、今までの30%増で商品を売らないと、今までと同じように金をゲットできないわけだな。

・・・つまり、30%商品を値上げしないと、今までより損をするってわけだな。

すると、世の中の商品価格が次々と高騰こうとうするようになり、人々の生活に大きな混乱をもたらしてしまいました。

荻原重秀による貨幣改鋳以降、歴代幕府は財政難に陥るたびに貨幣の改鋳を繰り返しました。

その結果、江戸時代は総じて物価が不安定となり、貨幣改鋳のたびに人々の生活は混乱することになります。

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財政難と物価の安定は、幕府が幕末まで抱え続ける大きな大きな課題となっていくよ。

・・・さらに、1707年には富士山が大噴火。甚大な被害をもたらし、復興に多大なお金が必要となったため、財政立て直しは困難を極めました。

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徳川綱吉の政治まとめ【年表】

最後に綱吉の政治の重要事項を時系列でまとめておきます!

綱吉の政治まとめ(時系列)
  • 1680年
    徳川綱吉、5代将軍に就任
  • 1683年
    武家諸法度を儒教推しの内容に改正
  • 1684年
    服忌令が出される。
    大老の堀田正俊が暗殺され、側用人の柳沢吉保の影響力が増す。
  • 1685年
    生類憐みの令が出される
  • 1690年
    湯島聖堂が建てられる
  • 1695年
    荻原重秀による貨幣改鋳が行われる
  • 1707年
    富士山が大噴火。
  • 1709年
    綱吉死去。徳川家宣が6代将軍になる

生類憐れみの令は評判が悪くてすぐに廃止されましたが、法や儒教により大名を統治しようとする文治政治は、綱吉亡き後、6代将軍の家宣いえのぶ、7代将軍の家継いえつぐの治世(正徳の政治)にも引き継がれることになります。

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この記事を書いた人
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教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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江戸時代【幕末以前】
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コメント

  1. 日本史の女王 より:

    いつもお世話になりまくってます高3生です!!
    ほんとにわかりやすくて大好きです!!!
    一つだけ…あの…年表のところが「御成敗式目」となっていますが「武家諸法度」の間違いではないでしょうか…