

今回は建武の新政について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ2年で終わったのか、武士はなぜ反発したのか、しっかり解説していくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・共通テスト・大学受験対応
「建武の新政」といえば、武士が怒って失敗した改革——そんなイメージを持っている人は多いかもしれません。しかし実は、怒っていたのは武士だけではありませんでした。貴族も、農民も、さらには後醍醐天皇の盟友であった足利尊氏まで反発した「全員が敵」状態の政治だったのです。なぜそこまで嫌われ、わずか2年で崩壊してしまったのか。その真相に迫っていきます。
建武の新政とは?3行でわかるまとめ
建武の新政(1334〜1336年)は、後醍醐天皇が武士の力を借りずに天皇自身が政治を行う「天皇親政」を復活させようとした改革です。「建武」というのは1334年に改元された元号の名前で、その年に新しい政治体制が本格スタートしたことから「建武の新政」と呼ばれるようになりました。
しかし、この改革はわずか2年で崩壊します。武士の不満を抑えきれず、最終的に足利尊氏が朝廷に反旗を翻したことで終わりを迎えるのです。「建武の新政」は、教科書では失敗した改革として紹介されますが、その後の南北朝の動乱(1336〜1392年)を生み出した重要な分岐点でもあります。

ザックリ言うと「武士の世の中だった鎌倉時代を終わらせて、平安時代みたいに天皇が直接政治する世の中に戻そう!」っていう改革なんだ。ただ、これがあまりにも理想に走りすぎちゃって、現場の武士たちはブチ切れちゃうんだよね。
建武の新政が始まった背景

建武の新政は、突然始まったわけではありません。13世紀末から鎌倉幕府は元寇の戦費負担や永仁の徳政令の失敗で求心力を失いつつあり、社会全体に「もう鎌倉幕府はもたない」という空気が漂っていました。
そんな中、1318年に即位した後醍醐天皇は、武士の世を終わらせて天皇親政を取り戻そうと決意します。後醍醐天皇は1331年に元弘の変で倒幕計画を起こしますが失敗し、隠岐へ流されてしまいます。しかし諦めず、1333年に隠岐から脱出。足利尊氏・新田義貞・楠木正成らの活躍によって、ついに鎌倉幕府は1333年5月に滅亡します。

鎌倉幕府を倒したのは武士の力なのに、なんで後醍醐天皇は「武士なしの政治」を目指したの?普通は武士に感謝するんじゃないの?

そこが後醍醐天皇のヤバいところなんだ。彼は「武士に政治を任せる時代は間違いだった。本来は天皇が政治を行うべきなのだ」って信じきってたんだよね。だから武士は倒幕の道具としては使うけど、政治の主役にはしない。これが武士たちの不満の原点になっていくんだ。
■後醍醐天皇はなぜ天皇親政にこだわったのか
後醍醐天皇が理想としていたのは、延喜・天暦の治と呼ばれる、平安時代中期の醍醐天皇・村上天皇の親政でした。摂関政治が始まる前の、天皇自らが政務を取り仕切る理想の時代——後醍醐天皇は死後の呼び名(追号)として生前から「後醍醐」を自ら指定するほど、この時代に強いあこがれを抱いていたのです。

余こそが正統な天皇である!延喜・天暦の治を目指し、すべての政治は余が直接決める。武士に権力を渡す時代は終わったのじゃ。

「延喜・天暦の治」ってなに?テストに出る?

出るよ!平安時代中期、醍醐天皇と村上天皇が摂関政治に頼らず親政を行った時代のこと。後醍醐天皇は「自分も醍醐天皇のように直接政治する!」って強く憧れていたんだ。だから「後醍醐」って名乗ったんだよ。
つまり後醍醐天皇は、武士の世を「あるべき姿から外れた異常事態」と捉えていたのです。だからこそ、鎌倉幕府を倒した武士たちに恩返しをするのではなく、武士のいない政治へと一気に時計を巻き戻そうとした。これが建武の新政の根本的な構想であり、同時に致命的な誤算の原点でもありました。
建武の新政の政治機構
後醍醐天皇は鎌倉幕府滅亡後、京都に戻ると天皇が中央集権的に政務を取り仕切る政治機構を次々と設置していきます。すべての判断を天皇に集中させることが目的でしたが、結果的に処理能力を超える業務量を抱え込んでしまい、これが新政崩壊の伏線となっていきました。
■中央の4機関(記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所)
記録所(きろくしょ):重要政務・国家方針を扱う最高機関
雑訴決断所(ざっそけつだんしょ):土地争いなど一般訴訟を扱う機関
恩賞方(おんしょうがた):倒幕の功績に対する恩賞を決める機関
武者所(むしゃどころ):京都の警備・治安を担当する機関
記録所はもともと平安時代後期に設置された機関で、後醍醐天皇はこれを復活させて政務全般の最高機関と位置づけました。雑訴決断所は土地に関する訴訟を扱う場で、鎌倉幕府の引付衆に近い役割を果たします。恩賞方は倒幕の論功行賞を担当し、武者所は京都の治安維持を任されました。

「雑訴決断所」って名前が難しいけど、今でいうと「土地問題専門の裁判所」ってイメージに近いよ!「恩賞方」は「人事と報酬を決める部署」みたいなもの。どっちも武士たちの生活に直結する超重要な部署なんだ。

結局、4つの中でどの機関が一番問題の種になったの?

断然「恩賞方」だね!倒幕に協力した武士は数万人いて、その全員が「俺の手柄を認めてくれ!」って恩賞方に申し出るんだよ。でも処理能力が全然足りないし、後醍醐天皇は公家ばかり優遇したから「不公平だ!」って大炎上することになるんだ。

なお、武者所の長官には後醍醐天皇の皇子・護良親王が任命されましたが、足利尊氏と激しく対立。1334年、尊氏に内通した疑いをかけられ、鎌倉将軍府に幽閉されてしまいます。翌1335年の中先代の乱の混乱の中、足利直義の命令で命を落としました。天皇みずからの皇子でさえ守れなかった新政の実態は、その権威の脆さを示す出来事として伝わっています。
■地方統治の仕組み(陸奥将軍府・鎌倉将軍府)
地方には陸奥将軍府(東北地方を統治)と鎌倉将軍府(関東地方を統治)が設置されました。陸奥将軍府は後醍醐天皇の皇子である義良親王を北畠顕家が補佐して統治し、鎌倉将軍府は皇子の成良親王を足利尊氏の弟である足利直義が補佐して統治しました。
さらに地方では、朝廷が任命する国司と、鎌倉時代から続く守護の両方が同じ地域に置かれるという、きわめてあいまいな体制が取られました。これは地方統治の混乱を招いた大きな要因の一つです。
💡 国司と守護の併置問題:建武の新政では、朝廷が任命する国司と、鎌倉時代以来の守護が同じ地域に並立した。誰が実権を持つのかあいまいで、地方では「どちらの命令を聞けばいいのか」という混乱が起き、土地紛争を加速させた。
なぜ武士は建武の新政に反発したのか
建武の新政に対して、特に強く反発したのが武士たちでした。鎌倉幕府滅亡のために命をかけて戦ったのに、彼らが期待した「報酬」も「権利」もまったく与えられなかったのです。武士の不満は大きく3つに整理できます。
■恩賞が「もらえない」「遅い」「不公平」だった

武士の不満①:恩賞問題 倒幕に命をかけて戦ったのに、恩賞が「もらえない」「遅い」「公平じゃない」
恩賞方には日本中の武士から「俺の手柄を認めて領地をくれ」という申請が殺到しました。しかし担当者の処理能力は追いつかず、何ヶ月待っても返事が来ない、という状況が続きます。さらに、後醍醐天皇は公家を優先して恩賞を分配する傾向があり、命をかけて戦った武士からすれば「公家は戦ってないじゃないか!」という怒りが爆発していきました。
■武士の慣習・先例が無視された
武士の不満②:武士のやり方を無視した 鎌倉時代の武士法・先例慣習が朝廷からまったく顧みられなかった
鎌倉幕府は150年以上かけて、御成敗式目をはじめとする武士のためのルールを整えてきました。土地相続のルール、訴訟の進め方、武士同士のもめごとの解決方法——どれも武士の生活に根ざした実用的な仕組みです。
ところが建武の新政では、こうした武士の慣習をことごとく無視し、すべてを「天皇の決定」によって裁こうとしました。武士からすれば「自分たちが大切にしてきたルールが急に否定された」ようなものです。これも武士の不満を加速させる大きな要因になりました。
■二条河原の落書が映し出した世論
「此頃都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨 召人早馬虚騒動……」
(このごろ都に流行るもの、夜討ち・強盗・偽の天皇命令・召喚・早馬・デマ……)
1334年(建武元年)8月、京都の二条河原に風刺文が貼り出されました。これが有名な二条河原の落書です。新政が始まったばかりの京都の混乱ぶりを、見事に皮肉った内容になっています。
「夜討ち」「強盗」「偽の天皇命令(謀綸旨)」がはやっている、と書かれているのは衝撃的です。本来絶対に偽造できないはずの天皇の命令書すら偽物が出回るほど、建武の新政の権威は地に落ちていたということがわかります。

「謀綸旨(ぼうりんじ)」っていうのは「ニセモノの天皇命令書」のこと。今でいうと「総理大臣の偽造文書が街中で出回ってる」みたいな大ピンチ。それが堂々と落書のネタにされるレベルだったんだ。新政がいかに信頼を失っていたかがわかる、超重要な歴史史料だよ。
■農民・庶民も大内裏造営で疲弊した
不満を抱えていたのは武士だけではありません。後醍醐天皇は天皇親政の権威を示すため、京都に大内裏を再建する計画を立てます。大内裏とは天皇の住まいと政務機関を併せ持つ巨大な宮殿のことで、当時は焼失していました。
この大内裏造営のために、後醍醐天皇は全国の地頭に「二十分の一税」を課すという大増税を打ち出します。さらに紙幣(紙銭)の発行や労役の徴用まで予定され、農民・庶民の生活を直撃。結果的に大内裏造営は中途半端なまま頓挫しますが、人々の生活を疲弊させ、新政への不満を全国に拡散させてしまいました。
建武の新政が失敗した理由(なぜ2年で終わったのか)
ここまで見てきたように、建武の新政は武士・貴族・農民すべてから不満が噴き出す状態に陥っていました。そして決定的な転換点となったのが、1335年に起こった中先代の乱と、それに続く足利尊氏の離反です。失敗の理由を3つに整理して見ていきます。
■理由①:武士・貴族・農民すべてが反発
失敗の理由① 恩賞・訴訟・地方統治の機能不全により、武士・貴族・農民すべての不満が爆発した
武士は恩賞問題と慣習無視に怒り、貴族は身分秩序の混乱に戸惑い、農民は大増税と労役に苦しみました。後醍醐天皇の理想は「すべての階層が天皇の下で平等に統治される世の中」でしたが、現実には誰一人として満足していないという最悪の状態を生み出してしまったのです。
■理由②:大内裏造営が財政と民衆を疲弊させた
失敗の理由② 大内裏造営のための重税・労役が、財政破綻と民衆の生活疲弊を引き起こした
大内裏造営計画は、武士の不満が高まっていた1334年に強行されました。財源を確保するために二十分の一の地頭税に加え、紙銭発行や役夫の徴発まで打ち出され、農民から武士に至るまで「無理な税のために働かされる」状況が生まれます。これが新政から人心が離れていく決定打になりました。
■理由③:足利尊氏の離反(中先代の乱)
失敗の理由③ 1335年中先代の乱を機に足利尊氏が反旗を翻し、新政が一気に瓦解した
1335年7月、北条高時の遺児である北条時行が信濃で挙兵し、鎌倉将軍府を陥落させます。これが中先代の乱です。鎌倉将軍府を任されていた足利直義(尊氏の弟)は防戦に失敗。事態を重く見た足利尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ずに鎌倉へ出陣し、北条時行を撃破します。
問題はここからでした。尊氏は乱を鎮圧したあと、鎌倉にとどまり、勝手に独自に恩賞を与え始めます。後醍醐天皇からの上京命令を拒絶。これに怒った後醍醐天皇は新田義貞らに尊氏討伐を命じ、ついに朝廷と足利尊氏の全面戦争が始まってしまうのです。

……もはや天皇の下では武士は生きてゆけぬ。武士のための新しい秩序を、わしが作るしかあるまい。

足利尊氏は最初から後醍醐天皇に逆らうつもりだったわけじゃないんだ。むしろ天皇に従って恩を返したいと思っていた時期もあった。でも、自分のもとに集まる武士たちの不満を抑えきれなくなって、ついに「武士のリーダー」としての立場を取らざるを得なくなった——そんな流れなんだよね。
■「建武式目」との違いに注意
💡 建武式目(1336年)は建武の新政とは別物。足利尊氏が室町幕府を開く際に定めた武家政権の基本方針で、建武の新政が崩壊した直後に出されたもの。名前は似ているけど立場は正反対!テストで混同しやすいので要注意。
建武の新政のその後(南北朝時代の始まり)

1336年5月、足利尊氏は湊川の戦いで楠木正成・新田義貞らを破り、京都を制圧します。後醍醐天皇は比叡山へ逃れ、その後吉野(奈良県)へと脱出します。同年8月、足利尊氏は持明院統の光明天皇を新たに擁立し、京都を中心とする朝廷(北朝)を成立させました。
実はこの湊川の戦いの前、楠木正成は後醍醐天皇に「今は足利尊氏と和睦し、力を蓄えるべきです」と直訴しましたが、天皇は聞き入れませんでした。死を覚悟した正成は弟・正季(まさすえ)に「もし生まれ変わることができるなら、七度でも人間として生まれ、朝廷の敵を倒したい」と語ったといいます——これが後世に語り継がれる「七生報国(しちしょうほうこく)」の故事です。正成は湊川で壮絶な戦死を遂げましたが、その忠義の姿勢は時代を超えて語り継がれています。
一方、吉野に逃れた後醍醐天皇は「私こそが本物の天皇だ」と主張し、独自の朝廷(南朝)を開きます。こうして京都の北朝と吉野の南朝、2つの朝廷が並び立つ「南北朝時代」(1336〜1392年)が始まりました。南北朝の対立は約60年続き、最終的に3代将軍足利義満のときに合一されることになります。

南北朝時代って「天皇が2人いる時代」って言うけど、当時の人にはどう見えていたの?

今でいうと「東京と関西に別々の政府ができて、お互い『俺たちが本物だ!』って言い合ってる」感覚に近いかな。武士は誰につけば自分の利益を守れるかで判断するから、武士の中でも家ごとに南朝派・北朝派が分かれて、60年も内乱が続いちゃうんだ。
建武の新政は失敗に終わりましたが、歴史的にはとても大きな意味を持ちます。「武士の世はもう後戻りできない」という現実を、誰の目にも明らかにした出来事だったからです。後醍醐天皇の理想は崩れましたが、それと引き換えに、武士による政権——足利尊氏が開く室町幕府が登場することになりました。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「建武の新政」と「建武式目」は混同しやすいので要注意!建武の新政=後醍醐天皇の天皇親政(1334〜1336年)/建武式目=足利尊氏の武家政権の基本方針(1336年)。「天皇 vs 武士」という正反対の立場なので、対比でセット暗記すると忘れにくい。

一番テストに出るのはどこ?

絶対押さえたいのは①始期と終期(1334〜1336年・約2年)②中央4機関の名前と役割③失敗した理由3つ(武士の反発・大内裏造営・足利尊氏離反)④二条河原の落書、の4点だよ!特に「なぜ失敗したか」は論述問題で頻出だから、3つの理由を自分の言葉で説明できるようにしておこう。
建武の新政の理解を深めるおすすめ本

建武の新政や後醍醐天皇についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!授業だけじゃ物足りない人はぜひ読んでみてね。
よくある質問(FAQ)
A. 建武の新政(1334〜1336年)とは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したあと、武士の力を借りずに天皇自らが政治を行う「天皇親政」を復活させようとした改革のことです。記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所などの新しい政治機関を設置しましたが、武士・貴族・農民すべての反発を招き、足利尊氏の挙兵によって約2年で崩壊しました。
A. 主な原因は3つあります。①武士・貴族・農民すべての階層から不満が爆発したこと、②大内裏造営による重税・労役で財政と民衆生活が疲弊したこと、③1335年の中先代の乱をきっかけに足利尊氏が朝廷に反旗を翻したこと——です。とくに「武士のための政治」を放棄して公家を優遇したことが、武士の離反を決定づけました。
A. 武士が反発した理由は主に3点です。①倒幕の功績に対する恩賞が「遅い・少ない・不公平」だったこと、②鎌倉時代以来の武士の慣習や先例(御成敗式目など)が無視されたこと、③後醍醐天皇が公家を優遇し武士を軽んじる姿勢を見せたこと、です。命をかけて戦った武士たちが「武士は道具扱い」と感じたことが反発の根本にあります。
A. 1336年に終わりました。同年5月の湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成・新田義貞らを破り、後醍醐天皇が比叡山へ逃れたあと、吉野へ脱出した時点で実質的に崩壊します。同年8月には足利尊氏が光明天皇を擁立して北朝を成立させ、南北朝時代が始まりました。1334年の開始から数えて約2年で終わったことになります。
A. 建武の新政は後醍醐天皇による天皇親政の改革で、1334〜1336年の約2年間のことを指します。南北朝時代は建武の新政が崩壊したあと、京都の北朝(光明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)が並び立った時代のことで、1336〜1392年の約60年間です。「建武の新政の崩壊」を出発点として「南北朝時代」が始まるという流れで理解するとわかりやすいです。
A. 1334年(建武元年)8月、京都の二条河原に貼り出された風刺文のことです。「此頃都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨……」という有名な書き出しで、建武の新政下の京都の混乱・偽の天皇命令の横行・人々の不安などを皮肉った内容になっています。新政への世論を伝える一級史料として、教科書でも必ず登場する重要な史料です。
A. 建武の新政(1334〜1336年)は後醍醐天皇による「天皇親政」の政治改革です。一方、建武式目(1336年)は足利尊氏が室町幕府を開く際に定めた武家政権の基本方針のことで、両者は名前は似ていますが立場は正反対です。新政の崩壊直後に出されたのが建武式目なので、テストでは「建武の新政の崩壊→建武式目→室町幕府成立」というセットで覚えるのがおすすめです。
まとめ
建武の新政は、後醍醐天皇が「武士の世を終わらせて天皇親政を取り戻す」という理想のもとで始めた改革でしたが、現実には武士・貴族・農民すべての階層から不満が噴き出し、わずか2年で崩壊しました。失敗の3大要因は、①恩賞・訴訟・地方統治の機能不全、②大内裏造営による民衆疲弊、③中先代の乱を機とした足利尊氏の離反、です。
結果として、後醍醐天皇は吉野(南朝)へ逃れ、足利尊氏は京都に光明天皇(北朝)を擁立し、約60年にわたる南北朝時代が始まりました。建武の新政は失敗に終わりましたが、「武士の世はもう後戻りできない」ことを歴史的に証明し、室町幕府の成立へとつながる重要な分岐点となったのです。
- 1331年元弘の変(後醍醐天皇が倒幕を計画して失敗・隠岐へ流される)
- 1333年足利尊氏・新田義貞らの活躍で鎌倉幕府滅亡
- 1334年元号を建武に改元し建武の新政が始まる・二条河原の落書
- 1335年中先代の乱(北条時行の挙兵)→足利尊氏が独断で鎌倉へ出陣
- 1336年5月湊川の戦いで足利尊氏が勝利・建武の新政崩壊
- 1336年8月足利尊氏が光明天皇を擁立・建武式目を制定・南北朝時代へ
- 1392年足利義満による南北朝合一(明徳の和約)

以上、建武の新政のまとめでした!下の関連記事で、後醍醐天皇の生涯や足利尊氏の動きについても詳しく解説しているので、あわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』
Wikipedia日本語版「建武の新政」(2026年5月確認)
コトバンク「建武の新政」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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