

今回は両統迭立について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!大覚寺統と持明院統がなぜ分かれたのか、どうして解消されずに南北朝時代へ突入したのか、テスト対策に必要なポイントもバッチリおさえていくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
両統迭立とは?3行でわかる基本情報
実は、両統迭立を引き起こしたのは天皇家でも幕府でもなく、一人の上皇の「決めなかった」ことでした。後嵯峨上皇が後継者を明確に指名しないまま崩御した——たったそれだけの不作為が、約60年にわたって日本の皇統を二分する大混乱を生んだのです。
- 鎌倉時代後期、皇統が大覚寺統と持明院統の2つに分裂した状態のこと
- 2つの皇統が交互に天皇を出す「交代制」を続けた(約60年間・13世紀末〜14世紀前半)
- 最終的に後醍醐天皇の倒幕・建武の新政を経て南北朝時代に発展した

「迭立」というのは「交互に立つ」という意味だよ。大覚寺統→持明院統→大覚寺統…っていうふうに、2つの系統が代わりばんこに天皇を出す仕組みのことなんだ!

「りょうとうてつりつ」って読み方も難しいし、漢字の「迭」もテストで書けるか不安なんだよな……。

大丈夫!「迭」は「交代する」という意味で、たがいちがいに入れ替わるイメージだよ。書き取り問題でも出やすいから、何度か手で書いて覚えておこう!
大覚寺統と持明院統の違いを整理する

そもそも大覚寺統と持明院統って、それぞれ何が違うの?名前の由来も気になるわ。

名前の由来は、それぞれが拠点としたお寺・邸宅から来てるんだよ。大覚寺統は京都・嵯峨野の「大覚寺」、持明院統は京都・上京の「持明院」という邸宅が名前の元なんだ!

大覚寺統と持明院統は、どちらも後嵯峨天皇を共通の祖とする系統です。後嵯峨天皇の複数の皇子のうち、2つの系統の子孫がそれぞれ別の「皇統」として枝分かれしていきました。
具体的には、後嵯峨天皇の第3皇子・後深草天皇の子孫が持明院統、第7皇子・亀山天皇の子孫が大覚寺統となります。最初に天皇に即位したのは兄の後深草でしたが、父・後嵯峨上皇は弟の亀山天皇のほうを溺愛していたとされ、これがのちの対立の火種になっていきました。


兄弟で皇統が分かれるって、お金や領地の取り分でもめたりしなかったの?

まさにそれが大問題だったんだ!実はこの2つの皇統、受け継いだ「荘園」の量が全然違ったんだよ。荘園は天皇家の収入源だから、これが対立の原因になっていくんだ……。
持明院統:後深草天皇の系統。長講堂領(後白河法皇から伝わる180か所以上の膨大な荘園)を受け継ぎ、経済基盤が強い。
大覚寺統:亀山天皇の系統。八条院領(鳥羽天皇の皇女・八条院から伝わる荘園群)を受け継いだとされ、こちらも有力な経済基盤を持つ。
後嵯峨上皇の死後、長講堂領は持明院統に、八条院領は大覚寺統に分配される形となりました。両皇統が「自分こそが正統」と主張できる経済的な土台を別々に持ったことが、対立を長引かせた根本原因の一つです。
📝 長講堂領・八条院領は、ともに鎌倉時代の天皇家にとって最大級の収入源でした。両者を別々の系統が受け継いだことで、皇統の対立は「家の格争い」ではなく「経済戦争」の側面も持つようになります。

のちの南北朝時代では、どっちがどっちにつながるのかしら?

ざっくり覚えるなら「大覚寺統=南朝・持明院統=北朝」だよ。後醍醐天皇は大覚寺統だから南朝、足利尊氏が立てた光明天皇は持明院統だから北朝、というつながりになるんだ!
なぜ両統迭立が起きたのか?後嵯峨上皇の「不作為」が引き金に

両統迭立の直接の引き金は、承久の乱後に幕府の後押しで即位した後嵯峨天皇の後継者問題でした。後嵯峨上皇は院政を行い、長男の後深草天皇から弟の亀山天皇へと譲位させた経歴を持ちます。問題はその先——上皇自身が崩御する1272年(文永9年)時点で、「次にどの系統が皇位を継ぐか」を明示する書面を残さなかったのです。

どうせ最後は幕府が決めるのじゃ。私が口を出しても無駄になる……後のことは、関東(鎌倉幕府)の沙汰に任せるとしよう。
後嵯峨上皇が後継者を明示できなかった背景には、承久の乱以降の「朝廷より幕府が強い」という現実があります。承久の乱で後鳥羽上皇が幕府に敗れて以降、天皇の即位や上皇の人事にまで幕府が関与するようになっていました。後嵯峨上皇自身も、幕府の強い後押しで即位した経緯があります。

「天皇のことは天皇が決める」っていうのが本来の姿のはずなんだけど、当時はもう「幕府にお伺いを立てる」のが当たり前になってたんだよ。承久の乱で完全に立場が逆転しちゃってたんだね。
■1272年——「治天の君」を幕府に問い合わせる事件
後嵯峨上皇が崩御した1272年、朝廷は「次の治天の君(=院政を行う上皇)を誰にすべきか」を鎌倉幕府に問い合わせました。これは異例の出来事です。幕府の答えは「故・後嵯峨上皇の遺志のままに」——つまり「自分たちでは決められない」というあいまいなものでした。
結果として、朝廷側は当時の天皇・亀山天皇の母である大宮院の証言にもとづいて、亀山天皇とその父系統(のちの大覚寺統)を「治天の君」と認定します。兄である後深草上皇の系統は、いったん表舞台から退くことになりました。
■1275年——幕府が「両統に皇位を伝える資格」を認めた転換点
不満を抱いた後深草上皇は出家を考えるまで追いつめられますが、これを哀れんだ鎌倉幕府が動きます。1275年(建治元年)、幕府は「後深草の皇子(のちの伏見天皇)にも皇位を継ぐ資格がある」と裁定しました。これにより、亀山系・後深草系の両系統が等しく皇位継承権を持つという形が確定したのです。
📝 幕府が後深草を救済した背景には、「どちらか一方の系統だけを正統とすると、外された側が幕府への不満勢力になりかねない」という政治的判断があったとされます。両統迭立は、幕府にとっても“両方を抑え込む仕組み”だったのです。
実はこのとき、後深草上皇は深刻なほど追い詰められていました。父・後嵯峨上皇の意思が自分ではなく亀山系を支持していたと知った後深草上皇は、「もはや上皇として生きていても意味がない」と出家を真剣に決意し、実際に出家の準備まで進めていたと伝わります。この話を聞いた鎌倉幕府は事態の深刻さに慌てます。「元天皇が出家すれば、朝廷の秩序がさらに乱れる」——そう判断した幕府が動いた結果が、1275年の裁定です。「出家寸前」の上皇が、図らずも60年の皇統分裂を生み出したわけです。
この1275年の幕府裁定こそが、後世「両統迭立の確定」と呼ばれる出来事です。後嵯峨上皇の「決めなかったこと」と、幕府の「両方を立てた決定」が組み合わさり、皇統は2つに分裂したまま走り続けることになりました。
両統迭立の歴史的経緯——大覚寺統・持明院統が交互に皇位を継いだ60年

1275年の幕府裁定以降、皇位は大覚寺統と持明院統のあいだを行ったり来たりすることになります。テストでは「歴代天皇の流れ」が問われやすいので、大きな流れをつかんでおきましょう。
■大覚寺統先行(亀山→後宇多)
両統迭立の幕開けは、大覚寺統からでした。亀山天皇は1274年に息子の後宇多天皇に譲位し、院政を開始。元寇(文永の役・弘安の役)の真っ最中という難局のなか、大覚寺統が皇位を握る形がしばらく続きます。
■持明院統への交代(伏見→後伏見→花園)
1287年、幕府の調停で後宇多天皇は譲位し、持明院統の伏見天皇(後深草の皇子)が即位します。ここで皇統が初めて「兄系統」へと切り替わりました。

父・後嵯峨上皇が望んでいたのは私の系統だったはず……それなのに、なぜ兄上の子(伏見天皇)にまで皇位を譲らねばならぬのか。
以降は伏見天皇→後伏見天皇と持明院統が連続しますが、1301年には再び大覚寺統の後二条天皇へバトンが移ります。
その後も花園天皇(持明院統)→後醍醐天皇(大覚寺統)と、ほぼ一代ごとに皇統が入れ替わる状態が続きました。即位の順序を決めるのも、譲位のタイミングを調整するのも、すべて鎌倉幕府の意向が大きく影響していたのが特徴です。

テストで「両統迭立の順番」が出たらキツいな……何かルールはなかったの?

じつは1317年の「文保の和談」までは、明確なルールがなかったんだ。譲位のたびに、両統がそれぞれ幕府に陳情して……その都度、幕府が「次は持明院統ね」「今度は大覚寺統」と裁定していたんだよ。だからややこしいんだ!
🌍 世界史メモ:両統迭立がピークを迎えた14世紀初頭は、ヨーロッパでは「アヴィニョン捕囚」(1309年〜)が始まり、ローマ教皇がフランス王の影響下に置かれた時代。日本では幕府が皇統を、ヨーロッパでは王権が教皇を左右していました。
文保の和談(1317年)——幕府が定めた「10年交代ルール」
両統迭立が始まってから約40年——譲位のたびに幕府が呼び出されてはモメる、という状況に、鎌倉幕府もうんざりしていました。ついに1317年(文保元年)、幕府は六波羅探題を通じて両統の代表を呼び、皇位継承のルールを話し合わせます。これが文保の和談です。

文保の和談って、なぜ幕府がルールを決めたの?朝廷で話し合えばよかったんじゃないかしら?

朝廷同士の話し合いだと、両統がお互いに譲らなかったから決着しなかったんだよ。承久の乱以降、京都の朝廷を監視する六波羅探題というポストもあって、もはや皇位継承は「幕府が決める案件」になっちゃってたんだ。
■文保の和談で決まった内容
文保の和談で決まったのは、ざっくり次の3点です。
- 次の天皇は大覚寺統の後醍醐天皇とする
- その次は持明院統に戻し、約10年で皇統を交代させていく
- 後醍醐天皇は「中継ぎ(つなぎ役)」とし、後醍醐の子孫には皇位を継がせない
この3点目が重要です。後醍醐天皇は「自分の代だけで皇位を譲ること」を最初から運命づけられていました。本来なら自分の子に皇位を譲りたい——そんな当然の願いを、幕府の決めたルールが封じてしまったのです。

📝 史実 vs 通説:教科書には「文保の和談で10年交代ルールが定められた」と書かれることが多いですが、実は当時の正式な書面は残っておらず、口頭での取り決めに近かったとされます。最新の研究では、文保の和談で決まったのは「次は後醍醐」という一点だけで、「10年交代」は後付けの解釈との見方もあります。

「中継ぎなのに、自分の子に皇位を譲れない」——これって、皇族にとってはかなり屈辱的だよね。後醍醐天皇がこのあと幕府に反逆するモチベーションって、ここから始まってるんだ!
後醍醐天皇の反乱——両統迭立が終わり、南北朝時代へ

1318年、文保の和談どおりに後醍醐天皇が即位します。しかし後醍醐は「中継ぎで終わる気はない」と決意していました。即位から3年後の1321年、父・後宇多法皇の院政を停止させ、自ら親政を開始(元亨元年)。さらに自分の皇子・護良親王らを皇位継承者に据えようと画策します。

「中継ぎ」だと?ふざけるな。我が子に皇位を継がせ、幕府の介入も断ち切る——天皇親政を、この手で取り戻してみせる!
■正中の変・元弘の乱——倒幕への動き
後醍醐天皇は1324年(正中元年)に倒幕計画を企てますが、事前に発覚(正中の変)。さらに1331年(元弘元年)に再び挙兵しますが敗北し、隠岐に流されました(元弘の乱)。しかし楠木正成や足利尊氏ら新興武士の力を得て、ついに1333年、鎌倉幕府を滅亡させます。
後醍醐天皇が隠岐(現・島根県隠岐の島)へ流されたのは1332年(元弘2年)のことです。しかし後醍醐は島でも諦めませんでした。翌1333年、後醍醐は隠岐を脱出し、伯耆国(現・鳥取県)の船上山に拠って全国の武士に倒幕を呼びかけます。「中継ぎで終われ」と宣告された天皇が、流刑地からわずか1年で時代を動かした——この劇的な逆転劇が、新田義貞の鎌倉攻め・足利尊氏の六波羅探題攻略へとつながっていくのです。
■建武の新政——両統迭立の「終わり」と思いきや
1334年、後醍醐天皇は建武の新政を開始し、天皇親政を復活させます。これで「幕府が皇統を決める」という両統迭立の構造はいったん崩壊しました。しかし建武の新政は武士の不満を爆発させ、わずか2年余りで崩壊。1336年、足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立して京都で北朝を立て、後醍醐天皇は大覚寺統のまま吉野に逃れて南朝を立てる——これが南北朝時代の始まりです。

結局、両統迭立って解消されたの?それとももっとひどくなったの?

「交代しながらも一応1人ずつ天皇」だった両統迭立が、「同時に2人の天皇が並び立つ」南北朝時代に進化しちゃった、というのが答えだよ。問題は解消どころか、もっとややこしくなっちゃったんだ!次の章では、この状況をテスト対策にすばやく整理する「覚え方」を見ていくよ!
両統迭立の覚え方——テスト直前に使える整理術
ここまで読んでくると、「大覚寺統」「持明院統」「後嵯峨上皇」「文保の和談」「後醍醐天皇」……と覚えることが多すぎてアタマがパンクしそうですよね。この章では、テスト直前にサッと見直せる覚え方のコツをまとめます。

テストで「大覚寺統」「持明院統」のどっちがどっちか、毎回混乱するんだよな……。

大丈夫!ポイントを「結末」から逆算して覚えれば、もう混乱しないよ。「大覚寺統=南朝=後醍醐天皇」とセットで覚えるのがコツなんだ!
■大覚寺統 vs 持明院統——「結末」から覚えると最強
もっとも混乱しやすいのが、「大覚寺統」と「持明院統」のどちらが南朝か・どちらが北朝か、です。これは「結末」を起点にして覚えるのが一番確実です。後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を立てた——この事実から逆算すれば、後醍醐の系統=大覚寺統=南朝、と一直線につながります。
大覚寺統=南朝:亀山天皇 → 後宇多 → 後醍醐 → 南朝(吉野)/キーワード「だ・い・かく寺=大変動の南朝」
持明院統=北朝:後深草天皇 → 伏見 → 後伏見 → 花園 → 北朝(京都)/キーワード「じ・みょう=京都=北朝」
■年号は「3つだけ」覚えれば足りる
両統迭立で問われる年号は、無数にあるように見えて、実はテストに直結するのは3つだけです。1272年(後嵯峨上皇崩御)/1317年(文保の和談)/1336年(南北朝分裂)——この3つを「始まり・中継・結末」のセットで覚えれば十分です。

確かに、この3つを軸に覚えれば全体像がスッと入ってくるわね!

そう!1272→1317→1336って数字の流れも、約45年→約20年で進んでいくから、リズムよく覚えられるんだ。次の章では、おすすめの参考書を紹介するよ!
両統迭立・南北朝時代をもっと詳しく知りたい人へ

両統迭立から南北朝時代の動乱の全体像をしっかり学びたい人に、信頼できる入門書を紹介するよ!
テストに出るポイント
両統迭立は中学歴史・高校日本史ともに頻出テーマです。ここでは定期テスト・共通テストに出やすいポイントをまとめます。
📝 比較問題でよく出るポイント:「大覚寺統と持明院統の違い」「文保の和談と1275年裁定の違い」が高校入試・定期テストでよく問われます。共通テストでは両統迭立→建武の新政→南北朝時代の流れを年表とセットで問う問題が多いです。

「りょうとうてつりつ」の読み方も確認しとかないと!漢字4文字で書けるかな……。

「両統迭立」は漢字の書き取りでも出るよ!特に「迭」(てつ)の字が難しいから要注意。「失」じゃなくて「失」の左下に「辶(しんにょう)」が付くんだよ。書き方の練習もしておこう!
よくある質問(FAQ)
両統迭立についてよく聞かれる質問を、Q&A形式でまとめました。
両統迭立(りょうとうてつりつ)とは、鎌倉時代後期に皇統が大覚寺統と持明院統の2つに分裂し、交互に天皇を即位させた状態のことです。1272年の後嵯峨上皇の崩御をきっかけに発生し、約60年以上にわたって2つの系統が交代で皇位を継ぎました。
後嵯峨上皇が後継者を明確に指名せず崩御したことが直接の引き金です。さらに承久の乱以降、鎌倉幕府が皇位継承に介入できる立場にあったため、幕府が「両統に等しく皇位継承権を与える」と裁定したことで分裂が確定しました。後嵯峨上皇の「決めなかった」ことと、幕府の「両方を立てる決定」が組み合わさった結果です。
大覚寺統は後嵯峨天皇の第7皇子・亀山天皇の系統で、嵯峨野の「大覚寺」を本拠としました。経済基盤は八条院領を中心としました。一方、持明院統は第3皇子・後深草天皇の系統で、京都の「持明院」を本拠とし、長講堂領を経済基盤としました。最終的に大覚寺統が南朝(吉野)、持明院統が北朝(京都)となり、南北朝時代を形成します。
文保の和談とは、1317年(文保元年)に鎌倉幕府の仲介で行われた、大覚寺統と持明院統の話し合いのことです。ここで「次の天皇は大覚寺統の後醍醐」「以降は約10年で交代」「後醍醐は中継ぎ扱いとし、後醍醐の子孫には皇位を継がせない」という3点が取り決められたとされます。ただし正式な書面は残っておらず、口頭での取り決めだったと考えられています。
両統迭立は、後醍醐天皇による倒幕・建武の新政(1334年)の後、1336年の南北朝分裂によって事実上の終焉を迎えます。「交代しながらも1人ずつ天皇」だった両統迭立が、「同時に2人の天皇が並び立つ」南北朝時代へと進化した形です。最終的には1392年、南北朝合一によって完全に決着しました。
「結末」から逆算して覚えるのがコツです。「大覚寺統=南朝=後醍醐天皇」のセットで覚えれば、もう一方が自動的に「持明院統=北朝」と決まります。年号は1272年(始まり)/1317年(文保の和談)/1336年(南北朝分裂)の3つだけ押さえれば十分です。
まとめ:両統迭立と南北朝時代の流れ
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1246年後嵯峨天皇が譲位、院政を開始
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1272年後嵯峨上皇崩御・幕府への問い合わせ
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1275年幕府裁定で両統迭立が確定(建治元年)
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1317年文保の和談で10年交代ルール成立
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1318年後醍醐天皇が即位(大覚寺統)
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1333年鎌倉幕府滅亡
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1334年建武の新政開始(後醍醐天皇の天皇親政)
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1336年南北朝分裂(北朝=持明院統/南朝=大覚寺統)

以上、両統迭立のまとめでした!後嵯峨上皇の「決めなかった」一つの選択が、約60年の皇統分裂と南北朝時代を生んだ——歴史って、こういう小さな不作為が大きな結果を生むことが多いんだよね。下の関連記事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「両統迭立」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「大覚寺統」「持明院統」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「文保の和談」(2026年5月確認)
コトバンク「両統迭立」(デジタル大辞泉・ブリタニカ国際大百科事典)
コトバンク「後深草天皇」「亀山天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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