【両統迭立のきっかけを作った後嵯峨天皇】
今回は、鎌倉時代後期から始まった天皇家の分断である両統迭立(りょうとうてつりつ)について紹介します。
両統迭立とは「一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態」を言います。
鎌倉時代の後期になると皇統が2つに分かれ両統迭立となり、皇位継承が超不安定に。そして皇位継承が不安定になると政局も不安定となり、皇室が北朝と南朝に分かれて争うこととなる南北朝時代に繋がっていきます。
後に活躍する後醍醐天皇や南北朝時代について知るには、鎌倉時代後期の両統迭立について知っておくことが重要なんですが、当時の時代背景はとても複雑です。
この記事で詳細なところまでは説明しきれませんが、以下の2点についてザックリと紹介してみたいと思います。
今回登場する天皇たちの系図を以下に簡単にまとめておきました。このころの皇位継承は非常にややこしいので、関係性がわからなくなったらご活用ください。
両統迭立の始まり
両統迭立は、後嵯峨上皇が崩御した際に次の天皇家の家督(治天の君)をはっきりと決めなかったことから始まります。
後嵯峨上皇がはっきりとした態度を示さなかったせいで、その息子である亀山天皇(90代)と後深草上皇(89代)が治天の君(天皇家の家督!)の座を巡って揉めたわけです。
後嵯峨上皇がビシッと決めてしまえば、揉める事なんてなかったのに、なぜ後嵯峨上皇は曖昧な態度で崩御したのでしょうか?
その理由ははっきりとはわかってないんですが、後嵯峨上皇が即位した時の諸事情が関係しているのでは?なんて言われています。
というのも、後嵯峨上皇が鎌倉幕府の意向によって即位した天皇だったからです。後嵯峨が天皇として即位できたのは幕府(ここ重要)のおかげなんです。
後鳥羽天皇が承久の乱を起こした後、鎌倉幕府は危険な天皇が即位しないよう皇位継承に深く介入するようになりました。その典型だったのが当時の後嵯峨天皇だったんです。
以下は四条天皇メインの記事ですが、後嵯峨天皇即位までの経過となってますので、参考までに。
だから、余命わずかの後嵯峨上皇はこんなことを思ったんじゃないかと言われています。
後嵯峨上皇「どうせ俺が何を言ったって、最終的に次の治天の君を決めるのは鎌倉幕府なんだよな・・・。なら、俺が崩御した後の治天の君は最初から鎌倉幕府が決めたら良かろう。」
こうして1272年、後嵯峨上皇は「後のことは鎌倉幕府に任せる」と遺言を残して崩御してしまったわけです。
両統迭立の道のり①:亀山系が天皇家の家督!
天皇家の家督問題を丸投げされた鎌倉幕府ですが、実はあまり乗り気じゃありませんでした。
というのも、亀山系と後深草系どっちが天皇家の家督になっても幕府に害をなすことはなさそうだったからです。承久の乱の時とは事情が違うのです。だから、幕府はこう言って朝廷のボールを返しました。
鎌倉幕府「後嵯峨上皇はどっちを治天の君にしたがってた?後嵯峨上皇がしたがってた方でいいんじゃなーい。(ハナクソホジー」
こうして朝廷で色々と揉めた結果、生前の後嵯峨上皇は亀山天皇を寵愛していたっぽい!という理由で亀山天皇が天皇家の家督の地位をゲットします。
そして1274年、亀山天皇(90代)は息子の後宇多天皇(91代)に譲位し、自ら治天の君として院政を敷くようになります。
ちなみに、朝廷内でイザコザのあった1272年〜1274年というのは、文永の役直前の出来事です。当時の日本は内にも外にも問題だらけだったことがわかります・・・。
上で亀山系とか後深草系って表現を使いましたが、一般的に亀山系は大覚寺統(だいかくじとう)、後深草系は持明院統(じみょういんとう)と呼ばれているので、以下からは大覚寺統・持明院統で表現を統一します。
両統迭立の道のり②:持明院統が天皇家の家督!
亀山上皇が治天の君になって、揉め事は一件落着!と思いきや、事態はそう簡単には収まりません。
大覚寺統が治天の君になって、一番納得できないのは後深草上皇です。後深草上皇は、出家や上皇の地位の辞退まで覚悟して、その後も幕府と粘り強く交渉を進めました。
この交渉の時に活躍したのが、西園寺実兼(さいおんじさねかね)という貴族。
西園寺実兼は関東申次(かんとうもうしつぎ)と言って鎌倉幕府と朝廷との間を取り次ぐ仕事をしていました。なので、幕府との交渉には適任だったんです。
西園寺実兼と北条時宗の間で交渉が行われた結果、北条時宗は次の天皇を持明院統から即位させることを認めてしまいます。そして、北条時宗死後の1287年、後深草上皇の息子が伏見天皇(92代)として即位。
これは後嵯峨上皇の後に起こった亀山or後深草問題よりもさらに根の深い問題です。
亀山or後深草問題は、どちらかを家督に決めればよかったんです。そして大覚寺統が家督を継ぐと決まりました。揉めはしたけど家督の血統は分断されてません。しかし、この西園寺実兼と北条時宗の交渉によって一度決まった家督が別の血統に移り、分断されてしまいます。
この分断が、両統迭立へと繋がってしまいました。
両統迭立の道のり③:またまた大覚寺統が天皇家の家督!
持明院統の伏見天皇が即位すると、次に納得いかないのは亀山上皇。1289年、亀山上皇は失意の中、南禅寺で出家。法皇となり、次は亀山法皇が幕府との交渉を続けます。
1298年には後伏見天皇(93代)が即位。伏見上皇が院政を行います。そして、亀山法皇はこれに不満を爆発。
亀山法皇「後嵯峨上皇は私を天皇家の家督にと望んでいた。それなのに持明院統の人物を伏見・後伏見と二代連続で即位させた。これは後嵯峨上皇の意思に背くことになるぞ!!」
で、この亀山法皇の願いは叶ってしまいます。1301年、大覚寺統の後二条天皇(94代)が即位したんです。もうメチャクチャ・・・( ゜Д゜)
両統迭立が始まったのはこの後二条天皇即位の頃からだったと言われてます。系図を再掲しますが、後伏見→後二条→花園→後醍醐と交代して天皇が即位しており、両統迭立となっていることがわかります。
後二条天皇の頃になると、目まぐるしい皇位継承の連続によってなんと上皇が五人(亀山・後深草・後宇田・伏見・後伏見)もいました!この上皇の多さは、当時のカオスっぷりを物語っています。
1308年、大覚寺統の後二条天皇は若くして崩御してしまいます。すると次は持明院統の出番なんですが、持明院統の後伏見上皇はまだ若くて跡継ぎがいません。そこで即位したのが後深草の弟だった花園天皇。
さらに両統迭立のルールがあったので、花園天皇の即位と同時に大覚寺統で後二条天皇の息子の邦良親王(くによししんのう)を皇太子に・・・となるはずだったんですが、実はそうはなりませんでした。
邦良親王は病弱で幼少だったため、邦良親王が成長するまでの間のつなぎ役として後二条天皇の弟だった尊治親王(たかはるしんのう)が皇太子に選ばれたんです。この尊治親王が後の後醍醐天皇となります。
しかし、後醍醐天皇はバイタリティあふれる人物で、つなぎ役なんかでは満足しません。自らの正当性を主張するため天皇親政を目指し、倒幕計画まで企てます。
この倒幕運動は成功して鎌倉幕府は滅ぶんですが、話はこれだけで終わりません。
後醍醐天皇が天皇親政を行うようになった後、揉めに揉めて両統迭立どころから持明院統も大覚寺統も「俺が正当な天皇家の家督だ!」と天皇家が大きく分裂し、天皇家が南朝と北朝に別れた南北朝時代が始まります。
鎌倉幕府「皇位継承の話マジうざいんだが・・・」
さて、後二条天皇の頃から両統迭立が始まりますが、なぜ交代に天皇即位することになったんでしょうか?はっきりとした理由はわかっていませんが、大きく2つの説があります。
私もがっつり調べたわけじゃないんですが、概ね後者の「めんどくさい説」を採用している人が多いような気がします。
両統迭立まとめ
以上、両統迭立についてまとめてみました。読んでいて感じたかもしれませんが、この頃の皇位継承は本当にグダグダです。
なぜ、こんなグダグダなのかというと天皇家に自らの家督を決定する力がなかったから。そして、なぜ自分で自分の家のことを決めれなくなったかというと、承久の乱の後、鎌倉幕府の意思で天皇が決まるようになったから。
だから皇位継承の問題が起こると、みんな鎌倉幕府の元へ直訴するようになったわけです。
・・・自分のことを自分で決めれないって、なんだか情けないですよね?
多分、後醍醐天皇も同じことを思ったはずです。後醍醐天皇は、この情けない状況を打破しようと情熱に燃え、天皇親政を目指し倒幕運動を開始します。(そして、実際に成功する!!)
古今東西、革命とは混沌の中から生まれるものなんでしょうかね。両統迭立は一見ただのグダグダに見えますけど、その混沌(カオス)のエネルギーが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅亡させる大きな原動力になったのではないか・・・なんてこの記事を書いて思ったりしたのでした。
コメント
わかりやすいですね!