正長の土一揆を簡単にわかりやすく解説【「借金帳消しにしろおおぉ!!」という民衆の大暴動です】

今回は、1428年に起こった正長の土一揆(しょうちょうのどいっき)について解説していきます。(土一揆は「つちいっき」と呼ぶことも)

まず最初に、そもそも「土一揆」とは何かというと、

民衆たちが、権力者(幕府や有力大名・寺院など)に対して自らの要求を飲ませるために起こした暴動のこと

です。土一揆自体は、正長の土一揆以前から起こっていて、だいたい鎌倉時代末期〜南北朝時代から起こっていたのだろうと言われています。

土一揆が起こった時代背景は色々とありますが、大きい理由としては2つあります。

  • 農業技術の向上・経済発展によって民衆が豊かになり、力をつけた
  • 南北朝時代頃から各地で戦乱が続き、民衆たちは命を守るため団結しなければならなかった。

というわけで、土一揆自体は昔から起こっていたのですが、なぜ数ある土一揆の中で正長の土一揆が有名になったかというと、それにもちゃんと理由があって、

これまでの土一揆に比べて規模がメチャクチャ大きく、さらには京まで巻き込んだ暴動となり、幕府運営を揺るがす重大な事件だったから。

です。早速、正長の土一揆の経過を中心にお話を進めていきたいと思います。

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馬借「借金地獄で人生積んだから暴動起こすわ」

事の発端は1428年8月に今の大津市付近の馬借(ばしゃく)たちが暴動を起こしたことでした。

馬借は、馬で荷物を運ぶ運送業者。今でいうヤマト・佐川のイメージです。

暴動が起こった直接のきっかけや規模はわかっていませんが、とにかく大津で暴動が起こりました。

この暴動は各地に拡大し、醍醐寺(だいごじ)というお寺にはこんな記録が残っています。

「9月になると、醍醐寺所領の百姓たちが借金帳消し(徳政令)を求めて暴動を起こした。どうやら8月に起こった大津の暴動が原因のようだ。マジでウザい。三管領の細川氏・畠山氏に協力を求め、何かあれば弾圧する」(超訳)

大津で起こった暴動が、山科・醍醐地方に広がっていたことがわかります。

1428年は、天候不順で不作が続き作物が取れず、しかも流行病が流行り「人民多く死亡、骸(むくろ)諸国に充満す」という状態でした。そんな極限状態の中で、正長の土一揆は起こりました。

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鎮圧できない正長の土一揆

大寺院や幕府によって鎮圧されるかに思われましたが、正長の土一揆はこれまでの土一揆と違い、民衆たちは簡単には屈しません。

山科・醍醐方面からさらに暴動は拡大し、9月下旬になると京でも暴動が起こり始めます。

京でターゲットになったのは大寺院だけではなく、今でいう金貸し業をやっていた土倉(どそう)という人々や、土倉屋がやっていた酒屋などが襲われました。

しかも、暴動に便乗して略奪行為をする火事場泥棒みたいなヤツまで登場し、京は修羅場と化します。

その後も暴動は二ヶ月あまりも続き、11月になると事態を重く受け止めた室町幕府は遂に土一揆の禁止令を発令し、正長の土一揆は終わることになります。

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代替わりの徳政

もちろん、暴動を起こした人たちはタダで暴動をやめたわけではありません。

民衆たちは金貸し業社と直接交渉を初めて、借金チャラを求めます。交渉と言っても話し合いではなく、武器で相手を脅す感じだったんじゃないかと想像します。

この時に民衆たちが借金チャラを求めた理由として「将軍の代が変わったんだし、記念に借金ぐらい帳消しにしろや」というトンデモ理論がありました。現代でも、天皇が代替わりされると、恩赦(おんしゃ)と言って罪人の罪が許される制度がありますが、あれと似たイメージ。

ちょうど1428年1月に、将軍が五代目の足利義量から六代目の足利義教に代替わりしていたので、これが借金帳消しの根拠となったのです。

こうして多くの人々が借金を踏み倒すことに成功しました。こうして土一揆の目標は達成されました。ちなみに、この時行われた「私的な交渉で借金踏み倒しを認めさせる」ことを私徳政と呼びます。正長の土一揆以降、私徳政は増加の一途を辿ります。

ちなみに、暴動は奈良方面にも拡大し、この方面では徳政令が出される結果となっており、正長の土一揆は京の周辺一帯を巻き込んだ大規模な暴動だったことがわかります。

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播磨の土一揆「正長の土一揆に便乗して一揆起こす!!」

1428年11月に正長の土一揆が沈静化すると、それに呼応するかのように1429年1月、次は播磨国で土一揆が起こります。

有力者たちは、大津から始まった土一揆が京一帯に拡大し、しまいには近隣の播磨国にまで発展したこの連鎖性と、下から突き上げる強力なパワーを目の当たりにし、土一揆の恐ろしさを知ることになります。

民衆の力を知った有力大名らは、次第に家臣や地元の有力者たちの意見を無下にできなくなります。例えば三管領である畠山氏のような大名でさえ、その家の跡取りを決めるために家臣の意見を聞く必要がありました。お家の問題でありながらも家臣の意見を無視すれば、それがたちまち争いに発展してしまうからです。(実際にこれが争いに発展し、大騒乱になったのが応仁の乱です)

正長の土一揆以降、戦国時代までの長い間、各地で頻繁に大規模な一揆が発生するようになり、その様子から当時の民衆たちの力がどれほど強いものだったかを知ることができます。



室町時代
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