屯田兵とは?北海道開拓と士族救済を担った明治の兵士をわかりやすく解説

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屯田兵

もぐたろう
もぐたろう

今回は明治時代の重要制度「屯田兵とんでんへい」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!北海道の開拓と防衛を担い、失業した武士たちの受け皿にもなった、この制度の全貌を見ていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)に対応

この記事を読んでわかること
  • 屯田兵とは何か(定義・「半農半兵」という役割)
  • なぜ屯田兵制度が必要だったのか(ロシアの脅威・士族救済の背景)
  • 黒田清隆が制度を作った経緯(1874年・制度のしくみ)
  • 屯田兵の生活と北海道開拓の実績(兵村・農業・軍事訓練)
  • 士族屯田から平民屯田への変遷(前期・後期の転換)
  • 廃止の理由と北海道への遺産(1904年・第七師団との関係)

実は屯田兵、最初は「行きたくない人ばかり」だったって知っていますか?明治政府は廃刀令や秩禄処分で職と収入を失った武士たちに、あえて過酷な北海道行きを「救済策」として提示したのです。

とはいえ、彼らが切り拓いた大地は、今の北海道の農村風景や、まっすぐ伸びる農道として今もはっきり残っています。屯田兵は、ただの歴史用語ではなく「現代の北海道の景色そのものを作った人たち」なんです。

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屯田兵とは?3行でわかる基本

3行でわかるまとめ
  • 屯田兵とは、平時は農業・有事は兵士として北海道に入植した「半農半兵」の兵士のこと
  • 1874年(明治7年)黒田清隆くろだきよたかの建議で制度が生まれ、北海道防衛・開拓・士族救済の三つを担った
  • 1904年(明治37年)に廃止。約7,300戸・約4万人が37の兵村に入植し、北海道の礎を作った

もう少しくわしく見ていきましょう。屯田兵は、簡単に言うと「畑を耕しながら、いざというときには銃を持って戦う人たち」のことです。普段は北海道の未開の土地を切り拓き、農業で生活します。

しかし戦争や有事になれば、すぐに軍隊として出動する。そんな二つの顔を持った特殊な兵士、それが屯田兵です。「屯田とんでん」という言葉自体、古代中国の「兵士が土地に住んで自給自足しながら国境を守る」制度に由来しています。

もぐたろう
もぐたろう

屯田兵っていうのは、今でいう”自衛隊員兼農家”みたいなもの。農業をしながら軍事訓練もして、戦争が起きたら戦いに行く……そんな過酷な役割を担った人たちなんだ。北海道の「広い農地」と「軍事的な備え」を、たった一つの制度で実現しようとした明治政府の知恵だね!

ゆうき
ゆうき

普通の農民でもなく、普通の兵隊でもないってこと?テストで聞かれたらどう答えればいいの?

もぐたろう
もぐたろう

「平時は北海道で農業をし、有事には兵士として戦う、明治時代の北海道に置かれた半農半兵の兵士」って覚えればOK!「半農半兵はんのうはんぺい」というキーワードが超重要だよ!

明治天皇が屯田兵の入植地を訪問する様子(高村真夫画)
1881年(明治14年)、明治天皇が札幌の山鼻屯田兵村を訪れた様子(高村真夫画・明治神宮聖徳記念絵画館蔵)。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

明治天皇自らが屯田兵の村を視察するほど、当時の屯田兵制度は国家の重要事業として位置づけられていました。次の章では、なぜここまで国を挙げて屯田兵を必要としたのか、その背景に迫っていきます。

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なぜ屯田兵が必要だったのか?制度誕生の背景

明治政府が屯田兵という特殊な制度を作った背景には、大きく分けて二つの深刻な問題がありました。一つは「北からの脅威」、もう一つは「内側で爆発しそうな不満」です。

この二つの問題を同時に解決するアイデアこそが、屯田兵制度だったのです。それぞれ詳しく見ていきましょう。

■ ロシアの南下政策という「北の脅威」

幕末から明治初期にかけて、日本にとって最大級の外交課題がロシアの南下政策でした。ロシアは不凍港を求めて極東へ進出し、樺太(サハリン)や千島列島をめぐって日本と境界を接していたのです。

当時の北海道(蝦夷地)は、ほとんどが未開拓の原野でした。アイヌの人々が暮らしてはいたものの、日本人の人口は少なく、軍事的にも経済的にも非常に手薄だったのです。

1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約からふと・ちしまこうかんじょうやくで、日本は樺太を放棄して千島列島を獲得しました。これでロシアと日本は北海道の目と鼻の先で国境を接することになり、北海道の防衛強化はもはや待ったなしの状況だったのです。

ゆうき
ゆうき

ロシアって、そんなに北海道に近かったの?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだ!樺太(今のサハリン)をめぐってロシアとピリピリした状態が続いていたんだよ。1875年の樺太・千島交換条約で樺太は手放したけど、千島列島の先っぽはカムチャツカ半島とすぐ近く。北方への警戒はずっと続いていたんだ!

■ 廃刀令・秩禄処分で失職した士族問題

もう一つの問題が、明治維新で職と特権を失った士族しぞくの問題でした。江戸時代まで武士として藩から給料をもらっていた人たちが、新政府によって一気に「ただの元武士」になってしまったのです。

1876年(明治9年)には秩禄処分によって武士の給料(秩禄)が打ち切られ、同じ年に廃刀令はいとうれいで帯刀(刀を腰に差すこと)も禁止されます。武士の収入もアイデンティティも、両方とも失われた瞬間でした。

仕事を失った元武士たちの不満は爆発寸前で、翌1877年には西南戦争という大規模な士族反乱が起きるほどでした。政府としては、なんとかして士族たちに「新しい仕事」を与える必要があったのです。

📌 士族問題ってなに?:江戸時代まで武士は藩から「秩禄」と呼ばれる給料をもらって生活していました。しかし明治政府はこの秩禄を打ち切り(秩禄処分)、さらに帯刀も禁じます(廃刀令)。収入もプライドも失った元武士たちの不満は各地で噴出し、佐賀の乱・神風連の乱・萩の乱・西南戦争へとつながっていきました。

あゆみ
あゆみ

つまり「ロシアへの備え」と「士族の失業対策」っていう、まったく別の課題を一つの制度でまとめて解決しようとしたってこと?

もぐたろう
もぐたろう

その通り!しかも北海道の開拓(農業振興)まで一緒にこなす。一石二鳥どころか一石三鳥のアイデアだったんだ。これを思いついたのが、次に出てくる黒田清隆という人物だよ!

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黒田清隆が動いた!屯田兵制度の創設(1874年)

屯田兵制度を構想し、明治政府に強く働きかけたのが黒田清隆くろだきよたかでした。薩摩出身の元武士で、当時は開拓使かいたくしという北海道開拓専門の官庁の次官(のちに長官)を務めていました。

黒田は北海道を視察するなかで、「ただの軍隊を駐留させるだけでは費用がかかりすぎる。それなら兵士に農業もさせて自給自足させればいい」と考えました。そして1873年(明治6年)に屯田兵設置の建議を政府に提出します。

翌1874年(明治7年)、ついに屯田兵制度が正式に発足。そして同年中に最初の屯田兵が札幌郊外の琴似ことに(現・札幌市西区)に入植したのです。

黒田清隆
黒田清隆

北海道を守るには、そこに住んで耕す人間が必要じゃ。武士たちに誇りある仕事を与えながら、日本の北を固める——一石二鳥ではないか。刀を捨てさせるだけでは、彼らは生きていけぬ。

黒田清隆の肖像写真
黒田清隆。開拓使次官・長官として屯田兵制度を建議し、のちに第2代内閣総理大臣も務めた。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 制度のしくみ:農業と軍事の二刀流

屯田兵制度の骨格はシンプルでした。志願した家族に対して、政府が北海道の土地(1戸あたり約5,000坪=約1.65ヘクタール)と家屋・農具・種もみを支給します。屯田兵は家族でその土地に入植し、農業を営みながら集落(兵村)を作っていくのです。

同時に、屯田兵は正規の軍人としての訓練も義務付けられました。月に数回の訓練日があり、農閑期には集中訓練を行います。有事には大隊・中隊単位で出動する、れっきとした軍隊だったのです。

屯田兵制度の3つの目的:①北海道の防衛ぼうえい(対ロシア) ②北海道の開拓かいたく(農業振興・殖産興業) ③士族の救済きゅうさい(雇用創出)

3つの目的が一つの制度に詰め込まれているのが屯田兵の最大の特徴です。今でいうなら、防衛省・農林水産省・厚生労働省の仕事をいっぺんに引き受けるような制度、と例えるとわかりやすいかもしれません。

もぐたろう
もぐたろう

テストで「屯田兵の目的は?」って聞かれたら、迷わず「防衛・開拓・士族救済」の3つ!この3点セットで覚えておけば、記述問題でも穴埋めでも対応できるよ!

■ お雇い外国人ケプロンの助言

屯田兵制度の構想には、お雇い外国人のホーレス・ケプロン(アメリカ人)の助言も影響したと言われています。ケプロンは元アメリカ農務局長で、開拓使顧問として北海道の開拓計画全体に大きな足跡を残しました。

お雇い外国人ホーレス・ケプロンの肖像写真
ホーレス・ケプロン。元アメリカ農務局長で、開拓使顧問として北海道の近代的な開拓計画を主導した。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

札幌農学校(現・北海道大学)の創設や、アメリカ式の大規模農業の導入など、北海道の近代化は外国人技術者の知恵も借りながら進められていったのです。屯田兵制度も、こうした「西洋の知恵 × 日本の士族問題」の融合のなかで生まれたと言えます。

📌 ケプロンとは?:ホーレス・ケプロン(1804〜1885)はアメリカ農務局長を務めた農業専門家。1871年(明治4年)に開拓使顧問として来日し、約4年間にわたって北海道の農業・牧畜・気候調査をリードしました。札幌の都市計画にも関与しています。

こうして1874年に正式に動き出した屯田兵制度。次の章では、彼らが実際にどのような生活を送っていたのかを覗いてみましょう。

屯田兵の生活:農業と軍事訓練の二刀流

屯田兵の暮らしは、現代の私たちから見るとかなり過酷なものでした。北海道の厳しい自然と戦いながら、農業と軍事訓練を両立させなければならなかったのです。

でも同時に、彼らがゼロから作り上げた集落(兵村)は、今の北海道の風景の原型にもなっています。「過酷だった」だけでは終わらない、屯田兵の日常を見ていきましょう。

■ 兵村の風景:短冊状の土地が今も残る

屯田兵の集落(兵村へいそん)は、政府が事前に区画整理した土地に作られました。中央に練兵場や中隊本部を置き、その周囲に屯田兵の家屋と農地が「短冊状」に整然と並ぶ独特の配置です。

これはアメリカの開拓時代の街区計画を参考にした、当時としては最先端のグリッド型区画整理でした。1戸あたりの農地は約5,000坪(約1.65ha)。江戸時代の本州の農家とは桁違いの広さです。

そして驚くべきことに、この兵村の区画は現代の北海道の農村地帯に今もそのまま残っているのです。まっすぐ何kmも続く農道、規則正しい長方形の畑——あれは屯田兵時代の名残なのです。

もぐたろう
もぐたろう

北海道を旅行したことのある人ならわかると思うけど、本州とは違って農道が一直線にずーっと続いているよね。あれは屯田兵時代の区画整理がそのまま残っている証拠なんだ。歴史って、本当に今の風景にしっかり生きているんだよ!

🗺️ 今の北海道に残る屯田兵の痕跡:札幌市西区の「琴似」、北区の「新琴似」、東区の「篠路」「丘珠」、江別市の「野幌」、旭川市の「永山」「東旭川」など、北海道の多くの地名・地区が屯田兵村に由来します。地名そのものが歴史の記録になっているのです。

■ 過酷な生活環境:冬の寒さと開拓の苦労

北海道の冬の寒さは、本州出身の屯田兵たちにとって想像を絶するものでした。最低気温はマイナス20度を下回り、雪は2メートル以上積もります。最初の冬を越せずに病死する人も少なくありませんでした。

食料も常に不足しがちでした。初年度は政府から米や味噌が支給されましたが、それも限られた量。山菜や鹿肉、川魚で食いつなぐ日々が続きます。木材を切り倒し、根を掘り起こして畑にする作業は、文字通り「血と汗の労働」でした。

そして毎日の農作業の合間には、軍事訓練も待っています。鍬を置いて銃を担ぎ、整列・行進・射撃の訓練。「兵士」と「農民」という二つの役割を同時にこなす生活は、想像以上に過酷だったのです。

あゆみ
あゆみ

元武士が農業なんて、大丈夫だったの?プライド的にも辛そうだし、農業の経験もないんじゃない?

もぐたろう
もぐたろう

実は、ものすごく複雑な心境だったみたい。刀を持って戦うことが誇りだった武士が、鍬で土を耕す日々……。でも「ここで成功すれば家族を養える」「武士の誇りで大地を開く」って気持ちで前を向いた人も多かったんだ。なかには逃げ出す人もいたけどね。

■ アイヌ民族との関係(現代的視点)

屯田兵制度を語るうえで避けて通れないのが、先住民であるアイヌ民族との関係です。屯田兵が入植した土地の多くは、もともとアイヌの人々が狩猟や採集で利用してきた土地でした。

明治政府は北海道の土地を「無主の地」とみなして開拓を進めましたが、これはアイヌの伝統的な暮らしを大きく揺るがすものでした。鹿や鮭などの狩猟・漁労が制限され、独自の言語や文化への抑圧も進んだのです。

屯田兵自身もまた「国策に動員された側」でもありますが、結果としてアイヌ社会に大きな影響を与えたことは、歴史的事実として知っておきたい視点です。2019年にはアイヌ施策推進法あいぬしさくすいしんほうが成立し、アイヌが法律上「先住民族」と明記されました。

こうした厳しい生活と歴史的背景のなかで作られていった屯田兵制度ですが、時代が進むにつれて、その対象と仕組みも大きく変化していきます。次の章では、屯田兵制度がたどった「変遷」を見ていきましょう。

士族から平民へ:屯田兵の変遷

屯田兵制度は、30年の歴史のなかで大きく性格を変えていきます。最初の15年ほどは「失職した士族の救済」が中心でしたが、後半は普通の平民にも開放されていくのです。

この前期(士族屯田)と後期(平民屯田)の区別は、テストでも問われることがある重要ポイント。順番に整理していきましょう。

■ 前期(1875〜1889年):士族中心の屯田兵

1875年に琴似(札幌)への入植が始まった最初の屯田兵は、ほぼすべてが旧士族でした。東北諸藩や薩摩・長州を中心とした全国の元武士から志願者を募り、家族ぐるみで北海道に移住したのです。

入植地は札幌平野が中心でした。琴似(1875年)、山鼻(1876年)、発寒(1877年)など、現在の札幌市内に最初の兵村が次々と作られていきます。

ふるさとを離れ、北へ渡った士族たち

実は、最初の琴似兵村に入った198戸の多くは、青森・宮城・酒田など東北各地の士族でした。なかでも、戊辰戦争で敗れてろく(給料)を失った旧仙台藩(亘理伊達家中)や会津藩の出身者が少なくなかったと言われています。

故郷も禄も失った彼らにとって、北海道行きは「過酷な未開の地」であると同時に、家族とともにやり直すための数少ない再起の場でもありました。雪に埋もれた原野に鍬を打ち込む彼らの胸には、再起にかける思いと、ふるさとを離れた寂しさが入り混じっていたのかもしれません。

この時期の屯田兵は「西郷隆盛のような不平士族が反乱を起こさないように、北海道で食い扶持を与えて落ち着かせる」という、政治的な意味合いも色濃く持っていました。

ゆうき
ゆうき

なんで途中で平民にも開放したの?最初は士族だけだったのに。

もぐたろう
もぐたろう

大きな理由は二つあるよ。①士族の人数だけでは北海道全部を開拓しきれなかったこと、②そもそも士族問題が時間とともに落ち着いてきて、救済の役目が薄れたこと。だから「もっと幅広い人に北海道に来てもらおう」って方針に転換したんだ!

■ 後期(1890〜1904年):平民屯田兵への転換

1890年(明治23年)の屯田兵令改正によって、屯田兵の資格は士族だけでなく平民にも開放されました。これ以降を「後期屯田兵」または「平民屯田」と呼びます。

後期屯田兵の入植地は、札幌平野を越えて道北(旭川周辺)、道東(北見・釧路方面)にまで広がります。永山・東旭川・士別・名寄・剣淵・湧別など、現在の北海道の主要な農業地帯の多くが、後期屯田兵によって開かれたのです。

この道北開拓を陣頭で指揮したのが、「屯田兵の父」と呼ばれた永山武四郎ながやまたけしろうです。鹿児島出身で、開拓使に入って屯田兵制度の立ち上げに深く関わり、1885年(明治18年)には屯田兵本部長とんでんへいほんぶちょうに就任。のちに第2代北海道庁長官、そして第七師団の初代師団長まで務めた人物です。

屯田兵の父と呼ばれた永山武四郎の肖像写真
永山武四郎。屯田兵本部長として道北の開拓を主導し、「屯田兵の父」と称された。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

もぐたろう
もぐたろう

1888年(明治21年)、明治天皇は上川につくられた中核の兵村に、開拓を率いた永山の名をとって「永山村」と名づけたんだ。今の旭川市永山地区がそれだよ。人の名前がそのまま街の名前になって、100年以上たった今も生き続けているなんてロマンがあるよね!

制度全体を通して、最終的に37の兵村が作られ、約7,300戸・約4万人が入植しました。開拓された農地はおよそ7万ha以上と言われ、これは琵琶湖の面積(約670km²)を超える規模です。

前期と後期の違い:士族限定(1875年〜)→ 平民にも開放(1890年〜)→ 全国で37兵村・約4万人が入植し、北海道農業の基礎を築いた

あゆみ
あゆみ

4万人ってすごい規模ね。今の北海道の農業の風景は、ほとんど屯田兵が作ったものってこと?

もぐたろう
もぐたろう

屯田兵だけじゃなくて、一般の移住者や民間の開拓団もたくさんいたんだけど、屯田兵が作った兵村の区画は今でも農地のレイアウトのお手本になっているよ。札幌の街並みや旭川の整然とした農村風景は、まさに屯田兵の遺産なんだ!

こうして屯田兵は北海道の各地に広がり、開拓を進めていきました。しかし、彼らの本来の役割はあくまで「有事には兵士として戦うこと」。次の章では、屯田兵が実際に出動した戦争を見ていきます。


戦場に立った屯田兵たち

屯田兵の本来の役割は、有事には兵士として戦うこと。彼らは「いざ」というときに備えて、農作業の合間に絶えず軍事訓練を積んでいました。

実際に屯田兵が出動した戦争は、大きく3つあります。西南戦争・日清戦争・日露戦争——明治日本の歩みそのものを反映するような舞台に、彼らは北の大地から駆けつけたのです。

■ 西南戦争(1877年)での初陣

屯田兵の初陣は、創設からわずか3年後にやってきた西南戦争です。1877年(明治10年)、西郷隆盛率いる薩摩の士族たちが反乱を起こし、政府はその鎮圧のため全国から軍を動員しました。

このとき、北海道から派遣された屯田兵第一大隊とんでんへいだいいちだいたい(琴似・山鼻の2中隊合わせて約480人)が政府軍として九州に出征します。彼らの多くは、もともとは旧幕臣や東北諸藩出身の士族たち。皮肉なことに、同じく士族である西郷軍を相手に戦うことになったのです。

戦場は熊本・宮崎・鹿児島。屯田兵たちは熊本城の救援戦などで活躍し、その規律と戦闘能力が評価されました。「半農半兵でも、いざとなれば正規軍に劣らない働きができる」ことを証明した戦いでもあったのです。

ゆうき
ゆうき

同じ士族同士で戦うって、屯田兵の人たちはどんな気持ちだったの……?

もぐたろう
もぐたろう

複雑だったと思うよ。でも、彼らからすれば「政府に救ってもらった恩を返す」「武士として再び戦える」という気持ちもあったみたい。北海道で鍬を握って我慢してきた日々が、ここで一気に「兵士の誇り」に転化したんだ。

■ 日清戦争(1894〜95年)への出征

1894年(明治27年)に始まった日清戦争では、翌1895年(明治28年)3月に屯田兵を中心とした臨時第七師団りんじだいしちしだんの編制が命じられました。しかし、講和交渉が始まったため現地での戦闘に参加することなく、5月に復員命令を受けます。本格的な戦闘経験はほとんど積めませんでした。

とはいえ、日清戦争を機に「北海道にも常設の正規師団が必要だ」という議論が一気に進みます。これが後の第七師団(旭川)創設につながり、結果として屯田兵制度の終わりへの伏線にもなりました。

■ 日露戦争(1904〜05年)と第七師団

そして1904年(明治37年)、屯田兵制度が廃止されたまさにその年に始まったのが日露戦争です。屯田兵そのものは制度として廃止されていましたが、彼らとその子弟は第七師団の中核兵力として戦場に駆けつけました。

とくに有名なのが、戦争末期の奉天会戦ほうてんかいせん(1905年3月)です。零下20度を超える満州の極寒のなかで、北海道の冬を耐え抜いた旧屯田兵たちは「寒さに強い兵」として奮戦し、大きな戦果をあげました。

日露戦争・奉天会戦における戦闘の様子
奉天会戦(1905年)。極寒の満州の戦場で、北海道で鍛えられた第七師団の旧屯田兵たちが奮戦した。出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

「北海道の凍てつく大地で訓練と開拓を続けた経験が、満州の戦場で活きた」——皮肉ながら、屯田兵制度が30年かけて鍛えあげた人材は、廃止のあとに最大の戦果を残したとも言えるのです。

もぐたろう
もぐたろう

農業をやりながら軍事訓練も続けていたから、いざ戦争になったらしっかり戦えたんだよ。まさに「農閑期は訓練」という生活を30年続けてきた成果だね。屯田兵制度は廃止されても、その精神と人材は第七師団に受け継がれていったんだ!

屯田兵が出動した3つの戦争:①西南戦争(1877年・初陣) ②日清戦争(1894〜95年・臨時第七師団) ③日露戦争(1904〜05年・廃止後も第七師団として奉天会戦で奮戦)

そして1904年、日露戦争と同時に屯田兵制度は静かに役割を終えます。次の章では、その「終わり」と、屯田兵が北海道に残したものを見ていきましょう。

1904年廃止:屯田兵制度の終わりと北海道への遺産

屯田兵制度は、1904年(明治37年)に正式に廃止されました。創設から数えてちょうど30年、約4万人の入植者を北海道へ送り出した制度の終わりです。

では、なぜこのタイミングで廃止されたのか。そして、屯田兵は北海道に何を残したのか。最後にこの2つを整理していきましょう。

■ 廃止の理由:正規軍(第七師団)への移行

廃止の最大の理由は、北海道に近代的な正規師団が整備されたことです。1896年(明治29年)に第七師団だいしちしだんが編成され、1901年(明治34年)には旭川に常設されました。これにより、北海道防衛は正規軍が担う体制が完成します。

当然のことながら、近代化が進めば「半農半兵」という二重構造の制度は時代遅れになります。装備も戦術もどんどん高度化するなかで、農繁期に訓練を中断するような兵では、もう近代戦に対応できません。

もう一つの理由は、士族問題が落ち着いたことです。明治維新から30年が経ち、士族の多くは官吏・軍人・教員・実業家など新しい職業に就いていました。「失業士族の救済」という当初の目的は、もはや必要なくなっていたのです。

そして1904年、屯田兵令の廃止と同時に、現役の屯田兵は後備役こうびえきへ編入。彼らに支給されていた土地は本人の所有地として確定し、屯田兵は「ただの北海道の農家」として、新しい人生を歩みはじめました。

1904年廃止の3つの理由:①第七師団(旭川)の常設で正規軍体制が完成 ②近代戦に半農半兵が対応できなくなった ③士族問題が解消し制度の目的が薄れた

■ 廃止後のその後:遺構と現在の北海道

制度は終わりましたが、屯田兵が北海道に残したものは今もはっきりと見えるかたちで生き続けています。

まず地名。札幌の琴似・新琴似・篠路、江別の野幌、旭川の永山・東旭川、士別、剣淵、湧別……これらはすべて屯田兵村に由来する地名です。北海道の地図を開けば、明治の屯田兵の足跡がそのまま記録されていると言っても過言ではありません。

次に区画。屯田兵村で採用されたグリッド型の区画整理は、現在の北海道の農村風景の基礎になりました。本州とは違う「まっすぐな道」「規則正しい畑」——あの独特の景観は、まさに屯田兵制度の遺産なのです。

そして遺構。北海道の各地には、屯田兵屋(屯田兵が住んだ家屋)が記念館として保存されています。札幌の「新琴似屯田兵中隊本部しんことにとんでんへいちゅうたいほんぶ」や、江別市の「江別市屯田資料館」、旭川市博物館の常設展示など、当時の生活を体感できる場所も少なくありません。

あゆみ
あゆみ

屯田兵制度って、結局「成功」だったのかしら?

もぐたろう
もぐたろう

「成功」かどうかは、見る角度によって変わるよね。北海道の防衛と開拓という目的を達成した点では大成功。でも、アイヌ民族の暮らしを大きく変えてしまった側面もある。「ひとつの制度が、誰かにとっては救いで、誰かにとっては痛みだった」——歴史ってそういう複雑さもちゃんと見ていきたいよね。

こうして屯田兵制度は静かに役割を終えました。けれど、その遺産は地名・区画・遺構として、今も北海道の風景のなかに息づいています。次の章では、テスト対策として押さえておきたいポイントを整理していきましょう。

屯田兵・北海道開拓の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
もぐたろう

屯田兵についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!

①制度・歴史を深く知りたい人なら|屯田兵とは何かを体系的に学べる一冊

屯田兵とは何か その遺勲と変遷

有馬尚経 著|幻冬舎メディアコンサルティング


②北海道開拓の全体像を掴みたい人なら|Q&A形式でわかりやすい入門書

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 屯田兵制度の創設年(1874年・明治7年):開拓使次官・黒田清隆の建議により制定された
  • 屯田兵制度の3つの目的:①北海道防衛(対ロシア南下) ②北海道開拓 ③士族救済(廃刀令・秩禄処分で失職した旧武士の雇用)
  • 屯田兵の性質:平時は農業・有事は兵士として戦う「半農半兵」の存在
  • 最初の入植地(1875年):札幌の琴似・山鼻に最初の屯田兵村が置かれた
  • 前期(士族屯田)と後期(平民屯田):1890年(明治23年)に平民にも開放
  • 廃止年(1904年・明治37年):第七師団(旭川)の常設に伴い役目を終えた
  • 入植実績:37兵村・約7,300戸・約4万人が入植し、約7万ha以上の農地を開拓

📌 暗記のコツ:「屯田兵」は創設1874年・廃止1904年を年号セットで覚える。目的は「防衛・開拓・士族救済」の3点セットを口で唱えて暗記。提案者は黒田清隆(開拓使次官・のちの首相)、廃止のきっかけは第七師団(旭川)の常設。記述問題では「明治政府は、ロシアの南下に備える防衛と、廃刀令・秩禄処分で失職した士族の救済を兼ねて、1874年に屯田兵制度を創設した」という1文を書ければ満点圏内。

🔍 地租改正・徴兵令との混同に注意:すべて明治初期の制度だが目的が違う。地租改正(1873年)=税制改革(米納→金納)。徴兵令(1873年)=全国民を対象とする兵役義務。屯田兵(1874年)=北海道限定の「半農半兵」。「明治初期の3つの制度を区別せよ」の比較問題は超頻出!

ゆうき
ゆうき

テストで「屯田兵の目的を3つ答えよ」って出たとき、どう書けばいい?

もぐたろう
もぐたろう

「①北海道の防衛(ロシアの南下に備える) ②北海道の開拓・農業振興 ③士族の救済(廃刀令・秩禄処分で職を失った旧武士の雇用創出)」——この3点が満点ライン!記述問題なら「明治政府は…」で始めてこの3点を盛り込めば完璧だよ!

屯田兵に関するよくある質問

最後に、屯田兵について検索でよく聞かれる質問をまとめておきます。テスト直前の確認や、調べものの仕上げにご活用ください。

A. 屯田兵とは、明治時代に北海道の防衛・開拓を担うために配置された「半農半兵」の兵士のことです。平時は農業を行い、有事には兵士として戦う特殊な役割を担いました。1874年(明治7年)に黒田清隆の建議により創設され、1904年(明治37年)に廃止されました。約30年間で37兵村・約4万人が入植し、現在の北海道の農村風景の基礎を作りました。

A. 大きく3つの理由があります。①ロシアの南下政策に備える北海道の防衛、②未開拓だった北海道の農業開拓、③廃刀令・秩禄処分で職と収入を失った士族の救済——この3つの課題を一度に解決する策として、開拓使次官の黒田清隆が建議しました。「自分で食料を作りながら、いざというときに戦う」というアイデアは、防衛と開拓と雇用の三方一両得を狙ったものだったのです。

A. 兵村と呼ばれる集落に家族とともに住み、平時は1戸あたり約1.65ha(約5,000坪)の農地を耕しました。農繁期は農業に、農閑期は軍事訓練に明け暮れる生活です。北海道の冬は厳しく、最初の数年は食料不足と寒さで命を落とす人も少なくありませんでした。木を切り倒し、根を掘り起こし、ゼロから畑を作る重労働。それでも家族で支えあい、北海道の大地を少しずつ開いていきました。

A. 1904年(明治37年)に廃止されました。理由は、①日露戦争を控えて北海道防衛を担う正規軍として第七師団(旭川)が常設され、軍事的な役割が不要になったこと、②近代戦に「半農半兵」では対応できなくなったこと、③明治維新から30年が経ち、士族問題が解消して救済目的も薄れたこと——この3点が大きな理由です。

A. 全くの別物です。地租改正(1873年)は、税制を「米納」から「地価の3%を現金納付」へ変更した全国的な税制改革。一方、屯田兵(1874年制定)は、北海道限定で「半農半兵」の兵士を配置する軍事・開拓制度です。同じ時期の明治初期の制度ですが、目的(税制改革 vs 防衛・開拓)も対象地域(全国 vs 北海道)も全く違います。テストでは「地租改正・徴兵令・屯田兵」の3点セット比較問題が頻出なので注意。

A. 3つの大きな影響があります。①地名:札幌の琴似・新琴似・篠路、江別の野幌、旭川の永山・東旭川、士別・剣淵・湧別など、現在も使われている多くの地名が屯田兵村に由来します。②区画:屯田兵村で採用されたグリッド型の区画整理は、現在の北海道の農村のまっすぐな道・規則正しい畑の原型になりました。③遺構:屯田兵屋敷や記念館が各地に保存され、訪れて当時の生活を体感できます。「今の北海道の風景は屯田兵が作った」と言っても過言ではありません。

まとめ:屯田兵制度が残したもの

屯田兵制度は、明治政府が直面した「北海道防衛」「北海道開拓」「士族救済」という3つの難題を一度に解決しようとした、明治日本らしい知恵の結晶でした。最後に、記事のポイントをまとめて締めくくります。

屯田兵のポイントまとめ
  • 屯田兵とは:平時は農業・有事は兵役の「半農半兵」。1874年創設・1904年廃止
  • 3つの目的:北海道防衛(対ロシア)・北海道開拓・士族救済
  • 黒田清隆:開拓使次官として制度を建議。のちの第2代内閣総理大臣
  • 実績:37兵村・約7,300戸・約4万人が入植し、約7万ha以上を開拓
  • 変遷:士族中心の前期(1875〜89年)→ 平民にも開放された後期(1890〜1904年)
  • 廃止の理由:第七師団(旭川)常設による正規軍体制完成・近代戦への対応不可・士族問題の解消
  • 残したもの:北海道の地名・グリッド型区画・各地の屯田兵屋敷/記念館

屯田兵制度の年表
  • 1869年
    明治政府が開拓使を設置し、北海道の本格的な開拓を開始
  • 1874年
    黒田清隆の建議により屯田兵制度が創設(明治7年)
  • 1875年
    札幌の琴似に最初の屯田兵が入植(198戸)
  • 1876年
    廃刀令・秩禄処分が実施。士族の困窮が深まり屯田兵志願が増加
  • 1877年
    西南戦争に屯田兵第一大隊が政府軍として出動(屯田兵の初陣)
  • 1890年
    屯田兵令改正により平民にも資格開放(後期屯田兵の開始)
  • 1894〜95年
    日清戦争。翌1895年3月に臨時第七師団が編制されるも講和成立で復員
  • 1896年
    第七師団が編成。1901年に旭川へ常設配置となる
  • 1904年
    屯田兵制度廃止(明治37年)。37兵村・約4万人が入植した制度が幕を閉じる
  • 1905年
    日露戦争・奉天会戦で第七師団(旧屯田兵を含む)が奮戦

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以上、屯田兵制度のまとめでした!「半農半兵」というユニークな仕組みで、北海道の防衛と開拓、そして士族救済という三つの課題を同時に解決しようとした、明治政府の知恵が詰まった制度だね。北海道を旅する機会があったら、まっすぐな農道や規則正しい畑のなかに、屯田兵たちの汗の記憶を探してみてほしいな。下の関連記事もあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「屯田兵」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「黒田清隆」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「第7師団(日本軍)」(2026年5月確認)
コトバンク「屯田兵」(日本大百科全書・山川日本史小辞典)(2026年5月確認)
コトバンク「黒田清隆」(日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

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この記事を書いた人
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