面白いほどわかる日清戦争!簡単にわかりやすく解説【目的と原因、影響から下関条約までの流れをバッチリ確認】

今回は、1894年に起こった日清戦争にっしんせんそうについて以下の点を中心にわかりすく丁寧に解説していきます。

  • 日清戦争が起こった原因・時代背景は?
  • 日清戦争の目的は何?
  • 日清戦争の経過は?
  • 日清戦争が与えた世界への影響は?
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日清戦争が起こるまで

日清戦争は日本と清国が争った戦争です。戦争をするということは、日本と清国の関係は決して良いとは言えないものでした。

というわけで、最初に日清戦争が起こるまでの日清両国の関係を簡単に確認しておきます。

日本と清国の対立の歴史

こうして時系列で見てみると、日本と清国がその間にある国々(朝鮮・台湾・琉球王国)を巡って争い続けていることがわかると思います。

そして、壬午軍乱甲申事変による朝鮮をめぐる日清の対立を通じて、両国の戦争はもはや避けられないことが明白に。こうして1894年に両国の最終決戦となる日清戦争が勃発した・・・というわけです。

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甲午農民戦争から日清戦争までの流れ

全体の流れを確認したので、次は甲午農民戦争をきっかけに日清戦争が起こるまでの流れを確認します。

朝鮮で甲午農民戦争が起こると、日本と清国はそれぞれ以下のような理由で朝鮮へ軍隊を派遣します。

清国

清国は甲午農民戦争を自力で抑えきれない朝鮮政府から援軍要請を受け、朝鮮へ進軍することに。

壬午軍乱と甲申事変を通じて、朝鮮政府は清国と密接な関係を持つようになっていました。(だからこそ、清国に助けを求めた)

日本

日本は、清国が軍を派遣した勢いで朝鮮を支配を強めようとした時に、それを武力でもって阻止する(戦争をする)ため軍を朝鮮に送り込みました。

公式に戦争を匂わせる発言はできないので、表向きは「朝鮮に住む日本人を守るため」という名目で兵を送ります。

当時、日本と清国は甲申事変の後に結ばれた天津条約によって「朝鮮に出兵する時は互いに通知を送ること」という取り決めをしていました。

1894年6月上旬、日本と清国は互いに通知を送り、出兵したことを認め合います。もちろん、清国は日本の真の意図を見抜いています。

清国「日本は朝鮮在中の日本人を守るためとか言っているが、実際は清国の影響を朝鮮から排除するために戦争でもしたいんだろ!」

こうして日清両国に緊張が走りますが、実はこれに一番恐怖したのは朝鮮です。

朝鮮政府は「朝鮮が日清戦争の舞台となり、朝鮮がこれ以上日清両国に支配されるのはなんとしても避けなければならぬ・・・!」と考え、甲午農民戦争を起こす反乱軍との早期和睦を図りました。

甲午農民戦争さえ終わってしまえば、日清両国が朝鮮に兵を送った理由は失われます。朝鮮政府は日清両国に対して撤兵を求めますが、日本はこれを拒否します。

国際事情から日本と清国の戦争を望まないロシアとイギリスも日本に撤兵に応じるよう説得しますが、日本は撤兵することを頑なに拒絶します。

なぜ日本が頑なに撤兵を拒んだのか

日本には、絶対に戦争をしなければならない理由がありました。その理由は、「日本国内の政治を安定させるため」です。

日本では、1890年から帝国議会が開かれるようになりました。日本でもヨーロッパのような議会政治が始まったわけです。しかし、日本政府は慣れぬ議会政治に苦戦します。

1894年当時、議会では「日本の外交は弱腰すぎる!」との政府批判が強く、政府は議会で自らの意見や予算を通すことができず、苦戦を強いられていました。

そして、議会が八方塞がりでどうしようもなくなると議会は解散し、新しい議会で意見が割れるとまた解散・・・という繰り返しで、日本の政治は荒れていました。

それが、「日本と清国が戦争をするかもしれない」という話が浮上すると、議会は突如として「打倒、清国!」で一致団結します。

しかし、内政が安定してきたのに「ごめん、やっぱ戦争なくなったわ!」って話になると、また議会は荒れ、機能しなくなってしまいます。

この事態を防ぐためにも当時内閣総理大臣だった伊藤博文は、なんとしても日清戦争を実行しようと考えたのでした。

戦争を望む日本は、清国と戦争をする口実を探します。

1894年7月19日、日本は朝鮮に対して「朝鮮は清国の支配を受けない独立国家だよな?だったら独立を邪魔する清国軍を22日までに朝鮮から撤兵させろ。もしできないなら、代わりに日本が清国軍を撤兵させてやる(超訳)。」と要求。

7月22日、朝鮮がこれを拒否すると日本軍は朝鮮王宮に進軍。クーデターを起こし親日の傀儡かいらい政府を樹立させて、朝鮮政府を味方につけた上で武力による清国軍の追放を実行します。

傀儡かいらい

あやつり人形のこと。「親日の傀儡政府」=「日本のあやつり人形となった朝鮮政府」という意味。

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日清戦争の経過

次は、日清戦争の経過を紹介していきます。

豊島沖ほうとうおきの戦い

同じ頃、清国は日本との戦争を想定して朝鮮の牙山あさんにいた軍隊を平壌ぴょんやんへ撤退させるため、撤退支援用の海上艦隊を朝鮮に派遣します。

日本はこの情報をキャッチすると、これを阻止するべく艦隊を派遣し清国艦隊を激突。7月25日、日清間の初めての戦闘が起こりました。結果は日本軍の勝利に終わります。この戦いは、豊島沖の戦いと呼ばれています。(先頭の場所は、少し下にある地図の黒マークのところ)

豊島沖の戦いを描いた絵

豊島沖の戦いの途中、日本軍はイギリス国籍の船を撃墜して国際問題を起こしてしまいます。イギリス船を撃ち落としたのは、後に日露戦争の英雄となる東郷平八郎とうごうへいはちろう

しかし、イギリスへの留学経験を持つ東郷平八郎は、イギリスに責められないギリギリのラインで行動を取り、見事にイギリスからの責めを回避することに成功した・・・なんてエピソードも残されています。

船を撃沈した時の様子

平壌ぴょんやんの戦い・黄海海戦こうかいかいせん

次は、目を陸上戦に移します。

豊島沖の戦いが行われるのと同じ頃、日本軍は清国軍のいる牙山攻略を目指します。

ここで地理関係を整理するため、地図を載せておきます↓

朝鮮王宮を制圧した日本軍は漢城かんじょう上の地図の黄色マークに集まっていました。

一方の清国軍は、北方の平壌上の地図の青マークを拠点に兵を集めまていました。なので、漢城から北上して平壌を目指すことになるわけですが、その際に漢城の南にある牙山の清国軍が邪魔になります。(牙山を放っておくと、日本のいる漢城は平壌と牙山の南北から挟み撃ちされていることになる。)

7月29日、日本軍は平壌攻略の前に牙山上の地図の紫マークに進攻します。結果は日本軍の勝利。豊島沖海戦と牙山の攻略で、日本軍は後顧の憂いなく平壌へ進軍することが可能となります。

牙山での戦いを描いた絵
服装の違いから、近代化した日本軍の様子がわかりますね。

日本軍は本土からの援軍を得て、平壌へ北上。9月14日、山縣有朋やまがたありともを司令官として平壌を包囲。そして16日には平壌を制圧することに成功します。

平壌の戦いの様子

日本軍は兵站確保に苦しみ、多くの戦死者・負傷者を出しましたが、それ以上に清国軍に甚大な被害を与えました。

そして、平壌制圧の翌日(9月17日)には平壌の西に位置する黄海にて、海上戦が起こります。(黄海海戦)日本はこの戦いにも勝利し、勢いに乗ります。

黄海海戦の様子

旅順口りょじゅんこうの戦い・威海衛いかいえいの戦い

日本の最終目標は、清国の首都北京ぺきんの近辺(直隷ちょくれい地方。今の河北省当たり)。黄海海戦によって黄海の制海権を得た日本は、直隷地方を眼前に捉えます。

しかし、直隷地方に攻めるには、黄海に突き出ている遼東半島りょうとうはんとう山東半島さんとうはんとうが邪魔です。下の地図を見てわかるように、この2つの半島を制圧しない限り、後方の不安が取り除けないのです。

そこで、直隷地方の前にこの2つの半島を制圧することにしました。

1894年11月、日本軍は遼東半島の先っちょにある旅順口りょじゅんこう上の地図のオレンジマークを攻略します。旅順口は清国海軍の重要な港であり難攻不落の要塞でしたが、日本軍はこれをわずか1日で陥落させます。要塞は鉄壁でも、そこを守る清国兵が士気を失っていたのです。

良港と難攻不落の要塞を持つ旅順口は、地勢的に非常に重要な場所でした。1904年に起こる日露戦争でも、この旅順口をめぐって日本とロシアで大激戦が行われることになります。

旅順口での戦いの様子

1895年2月、次は山東半島の先っちょにある威海衛いかいえい上の地図の薄緑マークに進攻します。ここでも日本は勝利。軍港だった威海衛の陥落によって清国海軍は壊滅。清国海軍は日本に対して降参を申し出ました。

威海衛の戦いの様子
戦闘はもちろんですが、冬の寒さも日本軍を苦しめました。

清国海軍のトップだった丁汝昌てい じょしょうは降参を拒否しましたが、最期は「兵士たちを助けてくれるなら、降参を認める」とこれを認め、自分自身は敗北の責任をとって自害。敵とは言え自国のために勇敢に散っていた丁汝昌の亡骸を日本は丁重に清国へ送りかえしました。

最期に服毒自殺を図る丁汝昌

清国が海軍を失ったことで日清戦争の勝敗が誰の目にも明らかとなると、1895年3月に清国は日本との講和を申し出て、終戦に向けて動き始めることになります。

なぜ日本は大国の清国に勝てた?

日清戦争は、多くの国が「清国の勝利だろう」と思っていました。それが終わってみれば、日本の快勝。

なぜ日本は多くの国の予想に反して大勝利したのか。主な理由と言われているのは以下の2つです。

  • 近代化した日本軍の方が、武器や艦隊が優れていた
  • 清国は「日本と戦争をすべきか」で世論が分裂したまま日清戦争に突入したけど、日本は世論が「清国ぶっ倒す」で一致したため、軍全体の士気がとても高かった。

国の規模に劣る日本は、最新鋭兵器の活用と国全体の団結力によって大国からの勝利を掴み取った・・・と言えるかもしれません。

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日清戦争、終結へ

日本は直隷地方制圧を目指して遼東半島・山東半島を攻略しました。ところで、そもそも「直隷地方制圧」の目的は何でしょうか。

それは、「清国の首都を目指して攻め込むことで、講和の際に良い条件を引き出すため」でした。清国の首都を制圧する意図はありません。(首都制圧は最後の手段)

清国が講和を申し出てから一ヶ月後の1895年4月、清国と日本の間で、以下のような条件で条約が結ばれることになります。この条約は日本の下関で結ばれたので下関条約と呼ばれています。

下関条約の内容
  • 1 清国は朝鮮の独立を認める。(朝鮮は清国の属国ではないと言いたい!)
  • 2 遼東半島と台湾・澎湖諸島ほうこしょとうを日本へ渡す。
  • 3 賠償金は2億両(当時の日本円で3億1000万円)
  • 4 新たに4ヶ所の港を日本に対して開くこと
  • ・・・などなど

しかし、下関条約の内容が明らかになると遼東半島を狙っていたロシアがこれに猛反発。

ロシアは、同調するフランスとドイツを誘って、日本に対して「遼東半島を奪うのは流石にやりすぎだから清国に返還した方がいいよ^^(返還しなかったらぶっ飛ばす)」と脅しをかけてきます。これを三国干渉と言います。

日清戦争で精一杯だった日本は、ロシアとの戦いを避けるため遼東半島を清国に返還することを決断します。日本にとってこれは苦渋の決断でした。

遼東半島は、清国の首都である北京に近く、朝鮮にも隣接し、良港を持つという東アジア屈指の超重要拠点でした。

朝鮮を狙うロシアは日清戦争を静観していましたが、日本が遼東半島を奪ったとなると、これを看過することはできず、遂に動くことになったわけです。

ロシアの干渉で遼東半島の確保に失敗した日本では、「ロシア憎し」の世論が高まり、この世論は1904年に起こる日露戦争で爆発することになります。

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日清戦争を終えて・・・

最後に日清戦争の後、日本・朝鮮・清国がどうなったのか簡単にまとめておきます。

朝鮮の場合

下関条約によって朝鮮から清国の干渉が排除されると、次は日本が朝鮮の内政に干渉して、親日政権の樹立とその安定を目指します。

しかし、日本の政治干渉は失敗。逆にロシアが日本に反感を持つ朝鮮政府と結びつく隙を与えてしまうことになり、朝鮮をめぐって次は日本とロシアの間で緊張が走ります。

清国の場合

清国は日清戦争前まで「眠れる獅子」の異名を持っていました。つまりは「いつもは大人しいけど、本気を出したら超強い」と思われていたんです。

それが、日清戦争を通じて本気を出しても弱いことがわかると、清国は多くの列強国から舐められるようになり、列強国から過酷な要求を求められることになります。

清国は、日本への莫大な賠償金を支払うために列強国から多額の借金をします。そして列強国は、その代償として「お金を貸す代わりにお前(清国)の土地を貸せ(租借させろ)」と要求。

清国はこれを受け入れざるを得ず、清国の領土はドイツ・ロシア・イギリス・フランスの手に落ち、窮地に立たされることになります。(これを中国分割って言います)

その後、清国は弱体化の一途を辿り、1911年に起こった革命「辛亥革命」により清国は滅んで、新たに中華民国が生まれることになります。

日本の場合

明治時代ずっと苦しかった日本の財政は日清戦争で賠償金を得ると一気に改善。日本は、軍備拡大・産業の発展・金融政策など様々な分野に資金を投入して、国力増強を目指します。

北九州市で有名な八幡製鉄所が造られたのもこの頃です。

もう1つ、日清戦争で日本に大きな変化をもたらしたのは清国から手に入れた台湾の存在です。日本は日清戦争の勝利を通じて、アジア初の植民地保有国となりました。

列強国たちは「アジアの国ごときが植民地を統治なんてできるのか?」と日本の台湾統治に強い関心と懐疑心を持っていたんです。

なので、台湾統治を失敗することは絶対に許されません。列強国に弱みを見せれば、日本も清国のように列強国に蹂躙されるかもしれないからです。清国が日清戦争に敗れて列強国に領土を奪われている惨状に、日本は「明日は我が身かもしれない」と強い警戒心を持ちました。

そんなプレッシャーを感じつつも、日本は台湾統治に全力を注ぎ、これに一応の成功を収めることになります。

そして国力増強と植民地統治を通じて、日本は将来起こりうる朝鮮・遼東半島をめぐるロシアとの戦争を想定し、着実に準備を進めることになるのです。

一方で国内に目を向けると日清戦争後の産業発展によって、過重労働問題や公害問題のような新しい社会問題も起こるようになり、政府はこれらの対応に迫られることになります。

ロシアを中心とする三国干渉で遼東半島を奪われた時点で、次の日本の倒すべき敵はロシアへとシフトしていました。だからこそ、日清戦争が終わったばかりなのに、日本では再び戦争に向けた準備(国力増強)が行われるのです。

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日清戦争の時系列まとめ

最後に簡単ではありますが、日清戦争を時系列でまとめておきます。

日清戦争の時系列まとめ
  • 1894年5月
    朝鮮で甲午農民戦争が起こる

    日本と清国がこれに介入

  • 1894年7月
    日清戦争、始まる!

    7月に戦闘が始まり、8月1日に宣戦布告された。

  • 1894年9月
    平壌の戦い・黄海海戦で日本勝利
  • 1894年11月
    日本、遼東半島の先っちょにある旅順口を攻略
  • 1895年2月
    日本、山東半島の先っちょにある威海衛を攻略

    この戦いによって清国の海軍は壊滅。3月には、清国は日本との講和に向けて動き出す。

  • 1895年4月
    下関条約が結ばれる

    勝利国の日本は、有利な条件で交渉を結ぶ。

    しかし、下関条約で手に入れた遼東半島はロシアの圧力(三国干渉)によって返還する羽目になる。



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