今回は、1873年に実施された地租改正についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
いつものごとく、まずは地租改正の概要を教科書風にまとめておきます↓
この記事では、地租改正について以下の点を中心に解説を進めていきます。
地租改正までの流れ
最初に、地租改正が行われるまでの流れを確認しておきます。
- 1871年7月
- 1871年9月田畑勝手作の禁を解いた
田畑で自由に作物を作ることを認めた。
物納(主に米)じゃなくても、売れる作物を自由に育ててOK。その代わり作物を換金して金納してくれ!ってこと。
- 1872年5月田畑永代売買の禁止令を解いた
土地売買が認められた。7月には、土地の所有を証明する地券が政府から発行された。
地租改正に向けて課税基準となる地価計算を行うため、土地の所有権を整理した。
- 1873年地租改正
- 1876年全国で大規模な地租改正反対一揆が起こる
地租改正により課税された税金は重税だった・・・!
- 1877年地租が3%→2.5%へ減税
地主たち、戦い(地租改正反対一揆)に大勝利
地租改正が行われた理由
地租改正が行われた理由は実にシンプルで、
新政府で行われている数々の改革を計画的に実行するため、安定した財源が欲しい!
というものでした。
江戸時代の税金はお米が基本。お米を自分の所属している藩主の元へ納めることが納税でした。
しかし、お米には致命的なデメリットがありました。それは・・・
豊作・不作の波があり、税収が安定しない・・・!
という点。豊作の時は嬉しい誤算で良いですが、不作の時には困りものです。
実際、江戸時代は大飢饉が起こるたびに幕府は財政難に苦しみました。
江戸時代最初の大飢饉だった寛永の大飢饉で、幕府は上で述べたデメリット(税収が安定しない)を痛感することになります。そしてこのデメリットに対応するため、2つの禁止令を作りました。それが上の年表にも載せた田畑勝手作の禁と田畑永大売買の禁止令です。
明治政府は、江戸時代に形骸化してしまった小手先のテクニックではなく、「米が気候に左右される不安定な財源なら、不作でも徴収できるお金で納税させればいいじゃん。」と税制を根本から変えようとしました。
さらに、当時の日本は富国強兵を目指して工場をドンドン建設したり、外国人を多く雇ったりしていましたが、これらに対する支払いは基本的にお金で行われました。
なので、政府としては
せっかく年貢(米)を徴収しても、結局換金しないと使えない。それなら最初からお金で納税させた方がよくね?
と思うようになったのです。
地租改正の内容
地租改正は順次進められ、まずは形骸化していた田畑勝手作の禁止令を廃止しました。
明治政府の考え方は「お米じゃなくてもいいから、売れる商品作って金稼いで、その金を納税しろ」というスタンスだったので、その真逆である田畑勝手作の禁止令を廃止したわけです。
また、これと似た理論で「お金を稼げれば、無理に田畑を持つ必要もない。だから土地の売買を認めて良いだろう」ということで田畑永代売買の禁止令も廃止されました。これに合わせて、土地の所有状況を証明する地券が政府から発行されました。
次に、物納→金納と政策転換を目指す中で、こんな問題に直面します。
これまではその土地の収穫高を基準に納税額を計算していたけど、そもそも金納だとどうやって計算するんだ?
金納の場合、極論を言えば収穫物がなくても別の方法でお金を稼げていればOKなわけだし、別の基準が必要なのでは・・・?
この点については明治政府内でも議論がありましたが、結局「持っている土地の価値(地価)を計算して、それを基準にすべき」という結論に落ち着きます。
すると次は、「じゃあ、その地価はどうやって計算するんだ?」という疑問が湧いてきます。明治政府が出した答えは「旧来の税収を維持できるように地価を定める」というものでした。
つまり、地租改正で税制が見直されても、それを納める人々の負担は変わらなかった・・・ということです。(むしろ、不作でもお金を納める必要があるので重税になってしまった)
これらの下準備を終えた1873年7月、いよいよ地租改正が行われました。その内容は以下のようなものでした。(冒頭の概要とほとんど同じ内容です)
地租改正への不満と相次ぐ不正行為・・・
税金を納める人々は、地租改正に強く反発します。
反発が起こった理由は色々ありますが、シンプルに言ってしまうと
今までより税金が高くなったから!
です。
新政府の方針は「旧来の税収を維持する。(しかも、不作時でも税収を減らさない)」なので、当然、ほとんどの地域で税の負担は大きくなりました。
しかも、当時は年々物価が上がっていたので、5年ごとに地価を見直すとその地価も値上がりし、実質的に「5年ごとの税が重くなる」仕組みだったので、これに対しても強い反発がありました。
これに加えて、土地所有を証明する地券をめぐっても、様々な問題が発生します。
地券による土地所有の確認は地方役人を中心に行われ、所有権が曖昧な土地については、政府が保有する国有地となりました。
そして、所有権が曖昧な土地の1つに入会地というものがあります。
【入会地】
村や集落が生活のために共同で使っていた土地のこと。
この入会地も所有権が曖昧だったため、その多くが国有地となってしまいます。すると、以前のように入会地を自由に使うことができなくなり困った人々は、強い不満を持つようになります。
おまけに、地方役人の中には要人とのコネを利用して入会地を、自分の土地にしてしまう輩も現れました。
富裕層や役人を中心に不正紛いの行為が多く行われ、ほとんどのケースで庶民がその被害者となりました。
また、金納をするには商品を商人たちのところへ持っていき、換金する(売る)必要があります。この時も、農民たちが換金できないと困る(納税できない)のを良いことに、安値での商品買取を迫り、ここでも農民たちは苦しめられることになりました。
地租改正反対一揆
人々の不満は溜まりに溜まり、1875年頃から各地で農民たちによる地租改正反対一揆が起こるようになります。
1876年には今の三重県を中心に、当時としては最大クラスの一揆まで起こり、犠牲を伴いながらも新政府から減税措置(税率3%→2.5%へ)と5年ごとの地租見直しの撤廃(増税廃止)を勝ち取ります。
当時、人々は地租改正のみならず、徴兵令や重い負担を強いる学制、人々を監視する警察制度、士族の生活財源を奪う秩禄処分など新政府のほとんどの政策に強い不満を持っていました。
しかし、官僚たちが政策の全てを決めてしまう当時の仕組みでは、民衆の声が反映されることはありません。声が届かない以上、民衆は行動によって意思表明をするしかなく、それが地租改正反対一揆という大暴動に発展したわけです。
民衆たちが暴動でこれに反対する一方で、知識人たちは、板垣退助を中心に民選議院設立の建白書を明治政府に提出することで政治改革を訴えました。
地租改正反対一揆(1876年)のような民衆の大暴動、そしてその翌年(1877年)に起こる西南戦争による士族たちの反乱を通じて、民意を反映させるための明治政府の組織改革が大きな焦点となっていきます。
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