今回は、1877年に起きた西南戦争についてわかりやすく解説していきます。
この記事では西南戦争について、以下の点を中心に解説をしていきます!
怒涛の反乱ラッシュ!西南戦争までの流れをつかむ
西南戦争が起こった当時、日本では明治政府に不満を持った人々による反乱が各地で起こっていました。
- 1874年
1873年の明治六年の政変による征韓論の中止がきっかけで、佐賀県の士族の不満が爆発。
- 1876年3月廃刀令が出される
士族の特権だった「刀を持てる権利」が奪われる。刀は武士道の象徴であり、廃刀令は士族のプライドをズタズタに引き裂いた。
- 1876年8月秩禄処分が始まる
士族の収入(秩禄)が廃止。多くの士族が生活する術を失う。
しかも、四民平等や徴兵令によって士族は特権や仕事まで奪われていました・・・。
- 1876年10月神風連の乱(熊本)→秋月の乱(福岡)→萩の乱(山口)
明治政府に対して士族たちがブチギレ。九州地方を中心に連鎖的に反乱が起こる。
- 1876年12月地租改正反対一揆
三重・愛知・岐阜・和歌山・大阪を中心に地租改正に反対する最強クラスの農民一揆が起こる。
農民たちは減税を勝ち取った。
- 1877年2月西南戦争、起こる←この記事はここ
明治時代最大の士族反乱が鹿児島で起こる。反乱軍は敗北。西郷隆盛もこの戦いで命を落とした。
上に書いた以外にも、小さな規模の反乱は各地で起こっていました。
士族の反乱、地租改正に反対する一揆、徴兵令・学制の負担に反対する一揆(血税一揆)など数えればキリがありません。
1876年に各地で起こった大規模反乱によって、明治政府は鹿児島県をめちゃくちゃ警戒するようになります。なぜなら、鹿児島県は不満を持っている士族の力が最も強い地域だったからです。
それでも西南戦争まで強い力を持つ鹿児島で反乱が起こらなかったのは、西郷隆盛が必死に士族たちの不満を抑え込んでいたからでした。陸軍にいたこともある西郷は明治政府の強さを熟知しており、反乱を起こしたところで勝ち目がないことを知っていたんです。
西郷隆盛は1873年(明治6年)まで明治政府の要職を務めていましたが、明治六年の政変で失脚すると士族たちの反乱を抑えるため、鹿児島に戻っていました。
西郷隆盛「士族を守るために私学校を創設したぞ」
1873年に西郷隆盛が鹿児島に戻ると、西郷を慕う多くの官僚たちが西郷と共に鹿児島に戻ってきます。その多くは士族たちです。
1874年、西郷隆盛は鹿児島県に私学校と呼ばれる学校を創設しました。私学校は、簡単に言うと「西郷隆盛が創設した士族専用の陸軍養成学校」です。
没落する士族の不満を抑えるために考え出された西郷隆盛の策の1つでした。
西郷隆盛が私学校を創設した理由は「外敵(ロシアとか)に向けての兵力増強(おまけに士族に仕事を与えられる)」だと言われていますが、明治政府はこれを「私兵を募って、幕府を倒すつもりなんじゃないか・・・」という危険視していました。
西南戦争は、そんな私学校のとある事件がきっかけで起こることになります。
大久保利通の謀略
もちろん、明治政府もこの事態を黙って見ていたわけではありません。
1877年1月、警視庁のトップだった川路利良が、鹿児島県にスパイを送り込みます。
鹿児島県出身の警察官は気分転換に地元に帰っていいぞー!(ただし、スパイとして鹿児島で裏工作をしてこい)
鹿児島に送られたスパイ警察官は、私学校に所属する士族たちに離反を呼びかけます。
私学校に行くのなんかやめとけって。明治政府に従っておけば、警察官になった俺みたいにちゃんとした生活もできるんだぜ・・・。
スパイを送り込んで裏工作を進める一方で、政府は表向きにも鹿児島を牽制し始めます。
1月29日、鹿児島にある政府陸軍の軍事工場に保管されていた兵器・弾薬の一部を大阪へ運んでしまいます。政府の軍事工場とはいえ、そこにある兵器や弾薬は薩摩藩士たちが購入したり製造したものだったので、私学校の士族たちはこれに大激怒します。
人のものを堂々と盗むとはいい度胸だな。
やられたらやり返す。倍返しだ・・・!
私学校の士族らは、報復として政府の火薬庫や造船所を襲撃。武器・弾薬を奪います。
スパイが送り込まれてることもバレバレなんだよ!
全員とっ捕まえてやる!!!!
2月3日、スパイたちは捕まり訊問を受け、次のような自白をします。
全部話すからこれ以上の拷問はやめてくれ!
俺たちは川路利良の命令で西郷隆盛の暗殺を命じられていたんだ。これが真実さ・・・。
明治維新に偉大な功績を持つ西郷さんを暗殺・・・だと?
もはや腐った政府はぶっ潰すしかない。戦争だ!!(完全ブチギレ)
西郷隆盛はこれまでずーっと、士族たちの不満を抑えるよう努めてきました。廃刀令・地租改正を無視したり私学校を創設したのも、「政府に反抗する」と言うよりも「士族の反乱を抑えるため」と言う意味合いが強いです。
しかし、士族たちは完全にブチギレました。士族たちのヒーローだった西郷隆盛がターゲットにされていたことに我慢ならなかったんです。
その西郷隆盛本人は、この事件の報告を知ると「しまった・・・」と言って、私学校へ向かったと言われています。この「しまった」の意味はおそらくこんな意味でした。
これまで士族の暴動を抑えていたが、今回ばかりは明治政府の挑発に上手く乗せられてしまった・・・。警視庁が絡んでいると言うことは大久保の仕業だな。
鹿児島を攻める口実を作って、私たちの力を削ぎ落としたいのだろう。
西南戦争、起こる!
2月5日、西郷も含めた私学校の要職たちが今後の方針について会議を開きます。会議の結論は「明治政府との全面戦争」でした。こうして西南戦争が始まることになります。
西郷隆盛は、この時ばかりは士族らを止めることはしませんでした。
政府軍と戦っても私学校の兵力では絶対に勝てないだろう。だからといって士族たちを抑え込んでも、あの大久保が挑発をしてくる以上、もはや暴動は時間の問題であろう。
もはや、進むも地獄、引くも地獄。こうなれば、全力で政府と戦い一矢を報い、士族たちの死場所を用意することこそが、私にできる最後の勤めであろうな・・・。
2月15日、西郷らは遂に挙兵。まずは熊本城を目指します。西南戦争の始まりです。当時の戦況を時系列で簡単にまとめておきます。
- 2月15日西郷軍、挙兵
西郷軍は海軍が非力だったため、陸路で本州上陸を目指し、福岡方面を目指していた。そこで要所となる熊本城を強襲することに。
- 2月19日明治政府、出兵
陸路は福岡。海路は長崎・鹿児島を目指し出兵。兵の数約4万、戦艦11隻。
行動が早いのは、政府が鹿児島を警戒していたのと、最新技術の電信線による電話で瞬時に情報を得ることができたから!
- 2月21日西郷軍、熊本城へ攻撃
電光石火の猛攻で攻め落とす予定だったが、堅牢な守備に阻まれる。
- 2月26日政府軍、福岡に到着
政府軍は福岡からそのまま南下。味方が守っている熊本城との合流を目指し、それを阻止しようとする西郷軍と田原坂方面で激突。
- 3月19日政府軍、熊本城の南に位置する八代を制圧
鹿児島〜熊本城の間にある八代を海路から攻め込み、西郷軍の補給ルートを遮断。そのまま熊本城へ向かう。
熊本城を攻める西郷軍は、南北から挟み撃ちにされる。
- 3月20日西郷軍、田原坂にて敗れる
- 4月14日西郷軍、熊本城の攻略に失敗する
西郷軍は、田原坂の敗北により政府軍の南北からの挟撃を受け、熊本城攻略を断念。
鹿児島へ撤退する。
序盤の戦況を地図でも整理しておきました。赤線が政府軍。黄色線が西郷軍の進路です。熊本城を攻める西郷軍が南北から挟み撃ちにされている様子がわかると思います。
3月20日まで続いた田原坂方面の戦いは、西南戦争最大の激戦地となります。
田原坂は、政府が大軍を福岡から熊本城へ送り込むためにどうしても通らなければならないルートであり、この戦争における最大の要所となったからです。(上の地図を見ると平地を通って久留米→熊本と進行する場合、田原坂を通らないといけないことがわかると思います。)
田原坂には西南戦争資料館があり、当時の激戦の様子を知ることができます。
参考URL熊本市観光ガイド「熊本市田原坂西南戦争資料館、田原坂公園」
両者互角に戦うも、次々と増援と兵器を投入する政府軍に西郷軍は敗北。敵大軍の南下を許してしまった西郷軍は著しく不利な状況に立たされ、4月14日には熊本城の攻略を断念した・・・という流れになります。
西南戦争(終盤)
- 4月27日西郷軍、人吉地方を拠点にする
熊本城から撤退した西郷軍は南下して人吉地方を拠点として、熊本・鹿児島・宮崎・大分と戦線を拡大。
同日、鹿児島に政府海軍が上陸。
- 5月〜8月上旬各地で戦闘が続く。
戦線が広がったことで兵力の少ない西郷軍が不利に。
人吉は破られ、撤退した宮崎の都城でも敗北。西郷軍は大分の延岡方面(大分の方)に移動する。
- 8月15日西郷軍、ついに限界へ
延岡方面の西郷軍は和田峠の戦いにより政府軍に大敗。長い戦いで兵力が減りはじめ、遂に限界へ・・・。
- 8月16日西郷隆盛、軍を解散する。西郷隆盛
雌雄は決した。我が軍ができることは、もはや死を覚悟で決戦に臨むのみ。
降参したい者は降参して良い。戦地での死を望むものだけ、私について来い・・・!
多くの兵が降伏し、残ったのは少数精鋭の約1000人の兵士のみ。
- 9月1日西郷隆盛、鹿児島の城山に篭城
少数精鋭の機動力を活かし、小競り合いをしながら鹿児島へ戻る。西郷たちは故郷の鹿児島を決戦の地(死地)に選んだということです。
- 9月24日西郷隆盛、自決。西南戦争終わる
城山を包囲する政府軍が攻撃を開始。西郷隆盛は被弾し動けなくなると自ら自害(切腹)をしました。
9月24日、被弾した西郷隆盛は、同じく負傷していた主力メンバーの一人、別府晋介にこう言います。
晋どん、もうここらでよか・・・
こういって、西郷は切腹。別府晋介は西郷の切腹を手伝ったあと、弾丸飛び交う戦地にて続いて自決。他の主力メンバーたちも各々、戦場で散り、西南戦争は終わりました。
城山には、今もなお西郷隆盛が最後に立て篭もったと言われている洞窟が残っています。
参考URL鹿児島県観光サイト「西郷隆盛洞窟」
西南戦争の兵力・死傷者の数は以下。
両軍合わせると、動員された兵力は約10万。死傷者数は約1万3000人。西南戦争は、明治時代に起こった反乱の中で最も大きい反乱となり、日本に大きな禍根を残しました・・・。
「武力」から「言論」へ
最大勢力を誇る鹿児島士族の敗北により、日本では西南戦争以降大きな反乱は一切起こらなくなります。明治政府に対抗できる者がいなくなったからです。
また、西南戦争は「徴兵令で集まられた庶民たちの軍隊でも戦闘に特化した士族たちに勝てる」ということを高らかに証明しました。明治政府はこの戦いを通じて、徴兵令の成功を確信したことでしょう。
ただ、これで明治政府に対する反対運動がなくなったわけではありません。当時、明治政府への反対運動には大きく「武力」と「言論」の2つの手法がありました。
西南戦争により「武力」による反対運動が不可能だとわかると、明治政府への反対運動は、「言論」を用いた自由民権運動へ一本化されることになります。民意を政治に反映させて、民衆の不満を解消しよう・・・というのが目的です。
反対運動は西南戦争で終わったわけではなく、戦場が「武力」から「言論」へと変わっていったのです。
【悲報】日本の経済、ヤバイ
古今東西、戦争にはお金が必要です。しかし、富国強兵を目指して散財しまくっていた明治政府の手元にはお金がありませんでした
そこで政府は紙幣を大量発行します。もちろん、これには副作用があります。(もし副作用がなかったら、お金を錬金術のように無限に増やせてしまう・・・!)
それは、紙幣を大量に発行して多くの人がお金を持つようになると物の値段が上がってしまうということです(これを「インフレーション」と言います)。みんながお金を持つようになると、値を上げても商品が売れるからです。
これによって、政府の税収が激減することになります。
そして、この日本経済の問題の解決を目指したのが、1881年に大蔵省のトップになった松方正義による、「松方財政」と呼ばれるデフレーション(物価下落)を目指した経済政策でした。
この記事では戦いの経過をハイライトでまとめてしまいましたが、詳細を追っていくと、そこには様々な人間ドラマがあり、人々を魅了する何かがあるように思います。youtubeで詳細な経過をわかりやすくまとめている動画があったので参考までに載せておきます。
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