
今回は日英同盟について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ日本とイギリスは手を組んだのか?その理由・内容・解消のいきさつまで、テストに出るポイントも交えてまとめるね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は、日英同盟はシンプルな軍事同盟ではありませんでした。日本もイギリスも、相手を頼り切るつもりなど毛頭なく、あくまで「自国の利益を守るため」に互いを利用し合った、徹頭徹尾・打算的な関係だったのです。いわば「便利な保険」——それが日英同盟の本質でした。
日英同盟にちえいどうめいとは?(読み方・簡単な意味)
①1902年、ロシアのアジア進出に対抗するため日本とイギリスが結んだ軍事同盟
②どちらか一方が1カ国と戦争になったとき→他方は中立を守る。2カ国以上と戦争になったとき→共同参戦する
③日露戦争・第一次世界大戦に影響を与え、1923年に解消された
日英同盟とは、1902(明治35)年1月30日、ロンドンで締結された日本とイギリスの間の軍事同盟です。
「日」は日本、「英」は英国(イギリス)、「同盟」とは軍事的な協力関係を約束することを指します。当時の国際情勢において、ロシアの東アジア・南アジアへの南下政策が両国にとって共通の脅威となっていました。
この同盟は、締結から1923年の失効まで約21年間続き、日本の近代外交史において最も重要な条約のひとつとして評価されています。

「同盟」って普通の条約と何が違うの?仲良くする約束ってこと?

同盟っていうのは、今でいう「セキュリティグループへの加入」みたいなイメージだよ!「どちらかがピンチになったら助け合う」って約束するんだ。普通の条約(友好条約や通商条約)より踏み込んだ、軍事的な協力関係の取り決めなんだよ。
日英同盟が結ばれた背景――義和団事件ぎわだんじけんとロシアの南下

日英同盟が結ばれた直接のきっかけは、1900年に中国(清)で起きた義和団事件(北清事変)です。
義和団とは、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」——「清を助け、外国を滅ぼせ」——を掲げた中国の排外主義的な民衆運動のことです。北京の各国公使館を包囲したため、日本・ロシア・イギリス・ドイツなど8カ国が共同出兵(八カ国連合軍)して鎮圧しました。
問題はその後でした。鎮圧後もロシアが満州(現在の中国東北部)から撤退を拒否し、むしろ軍を増強して南下を続けたのです。ロシアの最終目標は、不凍港(冬でも凍らない港)を持つ朝鮮半島や中国東海岸への進出でした。
この動きは、日本とイギリスの双方にとって深刻な脅威でした。日本は「朝鮮半島がロシアに取られれば、日本の安全保障が根底から崩れる」と危機感を抱きました。一方のイギリスは「ロシアがインドや中国に迫ってくれば、植民地帝国としての権益が根こそぎ脅かされる」と恐れていました。

イギリスってヨーロッパの国なのに、なんでアジアのことにそこまで口を出してくるの?

当時のイギリスは世界最大の植民地帝国で、インドも香港も清の租借地も全部イギリスの商圏だったんだよ。ロシアが南下してきたらその権益が全部奪われちゃう!だから必死だったんだ。「光栄ある孤立」という、他国と同盟を結ばない外交方針を変えてでも、ロシアを止める必要があったんだよね。
📌 「光栄ある孤立」とは:19世紀後半のイギリスの外交方針。「世界最強の我々が、わざわざ他国と同盟を結ぶ必要はない」という考え方。しかし20世紀に入るとロシア・ドイツ・フランスが接近し始め、孤立政策の維持が難しくなった。日英同盟はこの方針を転換した画期的な選択だった。
なぜ日英同盟は結ばれたのか?日本とイギリス、それぞれの理由

①日本側の理由:ロシアの南下を単独では止められない → 列強の後ろ盾を得て、満州・朝鮮の権益を守りたい
日清戦争(1894〜95年)に勝利した日本は、遼東半島を獲得しました。しかしロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」によって返還を余儀なくされ、その後ロシアが遼東半島を租借します。「臥薪嘗胆」——耐えて力を蓄え、いつかロシアに取り返す——が日本の合言葉となりました。

しかし現実には、ロシアの軍事力は日本をはるかに上回っていました。単独でロシアと戦争すれば敗北は必至。そこで求めたのが、世界最強の海軍国・イギリスとの同盟だったのです。イギリスが「日本の味方だ」と示すだけで、ロシアの動きをけん制できると考えました。
②イギリス側の理由:インド・中国の権益をロシアから守りたい → 日本に東アジアを任せれば、自国は他地域(南アフリカ・ヨーロッパ)に集中できる
イギリスにとっては、日本は「東アジアの番人」を務めてくれる便利な存在でした。ロシアとの対立を日本に肩代わりさせることで、自国の兵力をヨーロッパや南アフリカなど他の戦略地点に集中させることができます。
こうして、「ロシアをけん制したい」という目的が一致した日本とイギリスは、同盟交渉を開始します。ただしこの決断、日本国内では激しい対立がありました。
📌 満韓交換論とは:「満州(中国東北部)はロシアの影響圏として認める代わりに、韓国(朝鮮)の権益は日本のものと認めさせる」という外交方針。伊藤博文・井上馨らが主張した。イギリスとの同盟(対ロシア強硬路線)を推進する桂太郎・小村寿太郎らと真っ向から対立した。

ロシアとは話し合いで解決できるはずだ…。わざわざイギリスと手を組まなくても、満州はロシアに任せて朝鮮の権益だけ守れればいい。それが「満韓交換論」というものだ。

ロシアとの決着をつけるためには、イギリスと手を組むしかない!伊藤さん、話し合いでロシアが引き下がるわけがないでしょう。日本単独ではロシアに勝てません。イギリスの後ろ盾があってこそ、やっと対等に渡り合えるんです!
最終的に、当時の首相・桂太郎と外務大臣・小村寿太郎が推進した「日英同盟論」が採用されます。1902年1月30日、ロンドンで日英同盟協約が調印されました。こうして日本は初めて、西洋の列強国と対等な軍事同盟を結ぶことに成功したのです。
📌 交渉の舞台裏:林董の粘り強い外交
日英同盟の実際の交渉を担ったのは、在英公使・林董でした。当初、イギリス外相ランズダウン侯爵は「アジアの新興国と軍事同盟を?」と慎重な姿勢でした。しかし林董は「ロシアの南下脅威はイギリスにとっても死活問題のはず」と粘り強く説得し、交渉開始からわずか数ヶ月で妥結に持ち込みました。「日本がイギリスと対等に外交した」という事実は、当時のアジア諸国に大きな衝撃を与えたと言われています。

日英同盟の締結は、日本が「アジアの新興国」から「列強の一員」へと認められた瞬間でもあったんだよね。当時のイギリスは世界最強の国。その国が「日本と対等に同盟を結ぶ」って言ったわけだから、他のヨーロッパの国々も日本を無視できなくなった。これがその後の日露戦争勝利への自信にもつながったんだ。
日英同盟の内容(3つの約束事)
日英同盟協約(第1次・1902年)の内容は、大きく3つの取り決めからなります。
①清国・韓国における日英両国の権益を相互に承認する
→ 「お互いの縄張りを認め合う」取り決め。日本は清・韓での権益を、イギリスは中国・インドでの権益を互いに尊重する
②どちらか一方が第三国と戦争になった場合、他方は中立を守る(厳正中立)
→ 例:日本がロシアと戦争 → イギリスは中立。ロシアの同盟国フランスが参戦しようとしても、イギリスが「うちの同盟国と戦うの?」と牽制できる
③どちらか一方が2カ国以上と戦争になった場合、他方は参戦して援助する(共同参戦)
→ 例:日本がロシア+フランスと同時に戦争 → イギリスは日本を助けて参戦する義務が生じる
3つの取り決めのうち、最も重要なのは②と③のセットです。日本がロシアと一対一で戦う限りイギリスは中立を守りますが、もしフランス(ロシアの同盟国)が参戦してきたら、イギリスも日本側に立って戦うという約束になります。
つまり日英同盟は、「フランスがロシアを助けに来られないようにする」抑止力として機能しました。これが後の日露戦争において決定的な意味を持つことになります。

②の条文が超重要!日本がロシアと戦うとき、フランスがロシアを助けに参戦しようとしても「イギリスとの同盟がある日本に戦争を仕掛けるの?」って牽制できるんだ。これが日本にとって最大の「保険」だったんだよね。フランスが動けなかったのは、この②のおかげだよ!

テストで「日英同盟の内容を3点書け」って出たら、①権益承認、②厳正中立、③共同参戦って書けばいいの?

そうそう、完璧だよ!もう一歩踏み込むなら「②は1カ国と戦争のとき・③は2カ国以上のとき」の違いを押さえておくと、論述問題でも活躍できる知識になるよ!
日英同盟と日露戦争にちろせんそう

日英同盟が締結されてから約2年後、1904(明治37)年2月、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まります。
ここで日英同盟が絶大な効果を発揮しました。ロシアの同盟国であるフランスは、本来ならばロシアを助けて参戦するはずでした。しかし日英同盟の②の条文が機能します。「フランスが参戦すれば2カ国以上との戦争となり、イギリスも日本側に参戦する」——この可能性がフランスを動けなくさせたのです。
さらにイギリスは、財政面でも日本を支援しました。当時の日本の戦費は総額18億円以上。そのうち外国からの借款(外債)が約8億円を占め、イギリスの金融市場を通じた戦時国債の発行が日本の戦争継続を支えました。

当時の日本の国家予算って年間2億円くらいだったんだよ。戦費18億円っていうのは、それの9倍!外国からの借金なしには戦争できなかったんだ。ユダヤ系アメリカ人のジェイコブ・シフが日本国債を買い支えたエピソードも有名だけど、イギリスの金融市場がその窓口になったんだよね。
📌 秘話:明石工作(陰の日英同盟効果)
日英同盟の陰で、もうひとつの作戦が進んでいました。陸軍大佐・明石元二郎はヨーロッパに派遣され、ロシア国内の革命勢力を資金援助して内部から揺さぶる「明石工作」を実行しました。日英同盟による外交的後ろ盾があったからこそ、英国・フィンランド拠点での活動が可能だったとされています。この工作が1905年の第一次ロシア革命を間接的に後押しし、戦線でのロシア軍の士気低下につながったとも評されています。
日露戦争は1905(明治38)年9月、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、ポーツマス条約が締結されて終結します。日本は旅順・大連の租借権・南満州鉄道の権益・樺太南半分などを獲得しました(賠償金はゼロでしたが)。
この勝利の背景には、間違いなく日英同盟があります。「フランスを動けなくした」抑止力と「戦費を支えた」経済的支援の両面で、同盟は機能したのです。
💭 歴史のif:もし日英同盟がなかったら?
フランスがロシア側に参戦し、日本は日露両国軍に加えてフランス海軍とも対峙しなければならなかった可能性があります。その場合、日本海海戦でのバルチック艦隊撃破も、陸軍の満州攻略も現実とは大きく異なっていたはずです。日英同盟は単なる外交上の条文ではなく、日露戦争の勝敗を左右した「見えない同盟国」だったと言えるでしょう。

日英同盟って、実際に「一緒に戦った」わけじゃないけど、それでも効果があったってこと?

そうなんだよ!これがまさに「保険」的な同盟の強みだよ。「イギリスが味方についてる」という事実だけで、他国が手出しできなくなる。現代でいえば「核抑止」みたいなもので、実際に使わなくても存在するだけで効果があるんだ。日英同盟はその典型的な成功例だったんだよ。
日英同盟のその後――第2次・第3次改定
日露戦争での勝利により、日本の国際的地位は飛躍的に向上しました。この変化を受けて、日英同盟は2度にわたって改定されます。改定のたびに内容が強化・変更されていきました。
📌 第2次改定(1905年)
・対象地域をインドまで拡大(イギリスの最重要植民地を正式に保護対象に含める)
・共同参戦の発動要件を「1カ国との戦争」に引き下げ(より強固な軍事同盟に強化)
・日本の韓国保護権をイギリスが正式承認(→ 1910年の韓国併合への布石)
📌 第3次改定(1911年)
・アメリカを適用除外(日米どちらかがアメリカと戦争する場合は同盟を発動しない)
・有効期間を10年に延長
・この改定と同年(1911年10月)、辛亥革命が起こり中国情勢が大きく変化する
第2次改定で特に重要なのは、共同参戦の条件緩和です。第1次では「2カ国以上と戦争になったとき」だった共同参戦の発動条件が、「1カ国との戦争」でも発動するよう強化されました。これにより同盟はより実効性の高い軍事同盟となりました。
第3次改定のアメリカ除外は、当時の国際情勢の変化を反映しています。1905年前後から日本移民問題をめぐって日米関係が悪化し始めており、「もし日本がアメリカと戦争になったらイギリスも参戦するの?」という懸念が生じていました。アメリカを明示的に除外することで、イギリスは日米関係の悪化に巻き込まれないようにしたのです。

第2次改定で一気に強い同盟になってるのね。でもアメリカを除外したってどういうこと?イギリスは日本の味方じゃないの?

この頃、日本の移民問題でアメリカとの関係が悪くなり始めてたんだよ。日英同盟をそのまま維持すると「日本がアメリカと戦ったらイギリスも参戦?」ってことになっちゃう。アメリカはイギリスの大事な貿易相手国だからね。だからアメリカだけは例外にしたんだ。これが後々、日英同盟の亀裂のはじまりにもなっていくんだよ。
こうして日英同盟は強化・変化を重ねていきますが、やがて国際秩序の大変動——第一次世界大戦——という大きな試練が訪れます。
日英同盟と第一次世界大戦――日本参戦の根拠
1914年6月、サラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたことをきっかけに第一次世界大戦が勃発しました。ヨーロッパが戦火に包まれるなか、日本は素早い判断を下します。
同年8月、日本はドイツに宣戦布告し、連合国側として参戦しました。その根拠として掲げたのが日英同盟でした。「イギリスの同盟国として、ドイツと戦う義務がある」というロジックです。
📌 日本が得た「果実」:宣戦布告後、日本は山東省のドイツ租借地(青島など)と赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領。ヨーロッパの本戦には事実上参加せず、アジア・太平洋のドイツ権益を短期間で手に入れた。
さらに1915年には二十一カ条の要求を中国(袁世凱政府)に突きつけ、山東省のドイツ権益の移転・満州権益の延長などを強引に認めさせました。これによって日本の大陸進出は一気に加速しますが、同時にアメリカやイギリスとの摩擦も深まっていきます。

第一次世界大戦に日本が参加したのって、日英同盟があったからなの?それって本当に「義務」だったのかな?

義務というより「口実」と言ったほうが正確かも。実はイギリスは日本に助けを求めていなかったし、参戦を要請してもいなかったんだよ。日本側が「同盟があるから参戦する」と自発的に動いたのが実態で、ドイツの権益を一気に手に入れるチャンスだったんだ。
なぜ日英同盟は解消されたのか?――ワシントン会議と四カ国条約

第一次世界大戦後、世界の勢力図は大きく変わりました。戦勝国・アメリカの発言力が急上昇し、太平洋地域でのプレゼンスを強める日本を警戒するようになります。1921〜22年に開催されたワシントン会議は、その緊張を解消するための国際舞台でした。
アメリカは、日英同盟について強く反対しました。その理由は明快です。「日本がアメリカと武力衝突したとき、イギリスも日本側に参戦するのか?」という懸念が拭えなかったからです。当時アメリカと日本は移民問題・太平洋の権益をめぐって摩擦が続いており、日英同盟はアメリカの太平洋政策と真っ向から衝突する存在でした。
① 第一次世界大戦後、日本の中国進出(二十一カ条)でアメリカ・イギリスとの関係が悪化
② 1921〜22年 ワシントン会議開催 → アメリカが日英同盟の更新に強く反対
③ 1921年 四カ国条約(日・米・英・仏)締結 → 日英同盟は1923年に正式失効
四カ国条約(日・米・英・仏)は、太平洋地域における各国の権益を相互に尊重するという多国間の協調条約です。二国間の軍事同盟である日英同盟とは性質が根本的に異なり、「相手を助けに行く義務」は含まれていませんでした。これにより日英同盟は名実ともに代替・消滅し、1923年8月に正式失効となりました。

日英同盟がなくなって、日本って困らなかったの?

1920年代の「協調外交(幣原外交)」の時代は、ワシントン体制の枠組みでうまくやれていたんだよ。でも1930年代に入ると満州事変・国際連盟脱退と孤立化が進んでいく。日英同盟という「後ろ盾」を失ったことが、その後の外交的孤立の遠因の一つとも言われているんだ。
テストに出るポイント
日英同盟の理解を深めるおすすめ本

日英同盟をさらに深く学びたい人に、一冊おすすめしておくよ!
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ・混同注意:年号は「1902(日英同盟)→1905(第2次)→1911(第3次)→1923(失効)」と10年前後の刻みで覚える。論述では「なぜ締結→ロシアの南下」「なぜ解消→アメリカが反対(ワシントン会議・四カ国条約)」の2点セットが鉄板。三国協商・三国同盟と混同しないよう注意!

テストで一番聞かれるのってどこ?

①締結の年(1902年)と目的(ロシアの南下に対抗)、②解消の理由(ワシントン会議・四カ国条約)の2点は絶対に覚えて!論述では「日本外交の転換点」という位置づけで書けるとポイント高いよ!
よくある質問(FAQ)
1902年(明治35年)1月に日本とイギリスが結んだ軍事同盟です。ロシアのアジア進出に対抗することを主な目的とし、どちらか一方が他国と戦争になった場合の中立義務・共同参戦義務を定めました。1923年まで約21年間続いた近代日本外交の基軸条約です。
日本とイギリスが共通の脅威であるロシアの南下を牽制するためです。日本は満州・朝鮮への南下を、イギリスはインド・中国の権益侵食を恐れていました。1900年の義和団事件後にロシアが満州を占領したことで両国の危機感が高まり、利害が一致して同盟締結に至りました。
主な取り決めは3点です。①清国・韓国における日英両国の権益を相互承認する。②どちらか一方が1カ国と戦争になった場合、他方は厳正中立を守る。③どちらか一方が2カ国以上と戦争になった場合、他方は参戦して援助する(共同参戦)。第2次改定(1905年)でこれらの条件はさらに強化されました。
1902年(明治35年)1月30日にロンドンで調印・締結されました。その後1905年に第2次改定、1911年に第3次改定(有効期間10年延長)を経て、1923年8月に正式失効。約21年間続いた同盟でした。
「にちえいどうめい」と読みます。「日」=日本、「英」=英国(イギリス)を指します。「にっえいどうめい」と読み間違えやすいので注意してください。
日本は日英同盟を根拠に1914年8月にドイツへ宣戦布告し、連合国側として参戦しました。ただし参戦義務があったわけではなく、山東省・南洋諸島のドイツ権益を獲得する好機と判断した面が大きいとされています。同年の二十一カ条の要求は欧米との関係悪化を招き、日英同盟解消の遠因となりました。
1921〜22年のワシントン会議でアメリカが強く反対したためです。「日本がアメリカと戦争になったときイギリスも参戦するのか」という懸念が払拭できず、代替として四カ国条約(日・米・英・仏)が締結されました。これにより日英同盟は1923年に正式失効しました。
まとめ

以上、日英同盟のまとめでした!「打算的な保険」として機能した同盟が、21年後には国際秩序の変化によって消滅していく——歴史の皮肉を感じるよね。下の記事で日露戦争やワシントン会議もあわせて読んでみてください!
- 1900年義和団事件(北清事変)→ロシアが満州占領。日英両国の危機感高まる
- 1902年第1次日英同盟締結(1月30日)。ロシアの南下に対抗する軍事同盟
- 1904年日露戦争勃発。日英同盟がフランスの参戦を抑止
- 1905年第2次改定:対象地域拡大・共同参戦要件強化・韓国保護権承認
- 1911年第3次改定:アメリカを除外・有効期間10年延長
- 1914年第一次世界大戦勃発。日本は日英同盟を根拠に連合国側で参戦・ドイツ権益獲得
- 1921〜22年ワシントン会議。アメリカの反対で日英同盟更新見送り
- 1921年四カ国条約締結(日・米・英・仏)→日英同盟の代替条約
- 1923年日英同盟、正式失効・消滅。日本外交の転換点となる
📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「日英同盟」(2026年6月確認)
コトバンク「日英同盟」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
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