今回は、1873年(明治5年)に制定された徴兵令とその根拠となった徴兵告諭についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
最初に教科書風に徴兵告諭・徴兵令についてまとめておきます↓
この記事では徴兵告諭・徴兵令について以下の点を中心に解説を進めていきます。
徴兵告諭・徴兵令が出された時代背景
最初に、徴兵告諭・徴兵令が出されるまでの時代の流れをチェックしておきます。
- 1869年徴兵制を提案した大村益次郎が暗殺される
戦いを生業としていた士族たちが徴兵制に反対し、徴兵制を提案する大村を討った。
国民が一律に徴兵されるようになると、士族の存在意義が失われてしまうため。
- 1871年2月廃藩置県への反対運動に備え、御親兵を設置
薩長・長州・土佐の士族を集めて新政府軍を創設。これが明治政府初の直属軍隊となる。
- 1871年6月〜各地に鎮台と呼ばれる軍事組織が置かれる
諸藩の士族が各地の鎮台に配属された。各地方で反乱の監視・鎮圧をするのが役割。
- 1872年8月廃藩置県が行われる
- 1872年3月役目を終えた御親兵が天皇直属部隊の近衛兵になる
常設の天皇直属部隊を創設。近衛兵の長は都督と呼ばれ、初代は長州出身の山県有朋。廃藩置県が終わり役目を終えた御親兵を中心に構成された。
メインの仕事は皇居付近の護衛。東京近辺の内乱の監視・鎮圧も担う。
- 1872年11月徴兵告諭を発表
徴兵制を敷くことが決定し、その内容を国民に告諭する。
- 1873年1月徴兵令を発表
徴兵制の具体的な内容が徴兵令として公布される。
士族だけでなく、身分に関係なく全国から徴兵することで軍事力の増強を図る。
ちなみに、徴兵告諭と徴兵令の違いは以下となります。
徴兵告諭は事前予告で、徴兵令が本番・・・というイメージです。
山県有朋「外国に対抗できる軍隊を創設する!」
上の時系列を見てもわかるように、実は徴兵令の前から新政府は軍隊を保有していました。
ただ、徴兵令以前の鎮台や近衛兵といった軍隊は、国内の反乱鎮圧を主な目的としており、大規模な軍隊ではありませんでした。
これに強い危機感を持っていたのが、近衛兵の初代都督にもなった山県有朋でした。
確かに、内乱を抑える程度の軍隊なら創設できた。しかし、これでは新政府の本来の目的である「欧米諸国に対抗する」軍隊には到底足りぬ。
もはや士族のみで軍隊を編成するのでは限界がある。広く国民に徴兵の義務を課すことで、巨大な軍隊を創設すべきである・・・!
山県有朋の思想はオリジナルではなく、同じく長州出身である大村益次郎が構想ていたもの。しかし、大村益次郎は反対する士族らに暗殺され、その志は道半ばで途絶えてしまいました。
故郷を共にする大村益次郎の志を受け継ぎ、これを現実のものにしようとしたのが山県有朋でした。以前までは机上の空論にも思えた徴兵制は、廃藩置県で日本全土が新政府の直轄領となることで一気に実現の可能性が見えてきたのです。
しかし、士族だけではなく、新政府の中でも徴兵制の導入には根強い批判がありました。その批判の大きな理由は、
民衆を集めた軍隊は時として、新政府に反旗を翻すかもしれない。(現に、徴兵令が議論されている当時、各地で一揆が起きていた。)
というものでした。しかし、山県有朋はそのようなリスクを認めながらも、「反乱が起きれば近衛兵が鎮圧すればOK」と新政府メンバーに説得を続け、遂に徴兵告諭と徴兵令が決定されることになります。
ちなみに、近衛兵は徴兵制の対象外でした。皇居を守る近衛兵は、優秀な人たちを集めたエリート部隊だったからです。だから「徴兵された兵が反乱を起こしても近衛兵が鎮圧すればOK」というわけです。
徴兵告諭の内容
徴兵告諭は、以下のような内容で発表されました。「国を守るために無償で働け!」ではなく、「国を守るということは結果的に、国民自身のためにもなるんですよ」と人々を諭すような内容となっています。なんとも政治家らしいやり方です。
言っていることは綺麗ですが、結局やっていることは「国を守るために数年間、無償で働け!」ってことなので、これには当然強い反対が起こることになります。
徴兵令の内容
国民皆兵を掲げた徴兵告諭でしたが、実際にどんな制度だったのか1873年1月に公布された徴兵令の内容をみてましょう。
結論から言ってしまうと、徴兵告諭の国民皆兵は真っ赤な嘘でした。
それは兵役を免除される3つの条件を見てみると明らかです。
要するに国民皆兵と言っておきながら「金持ちとお役人、役人の幹部候補」は徴兵が免除されているわけです。
徴兵告諭と徴兵令は、まさに本音(徴兵令)と建前(徴兵告諭)の関係であり、これこそまさに政治家の王道って感じのやり口です。
民衆ブチギレ!血税一揆起こる
民衆は徴兵令の内容に不満を爆発させました。徴兵制によって働き盛りの息子がいなくなることで、家計に大打撃を与えたからです。なんだか、飛鳥時代の防人制度を彷彿とさせます・・・。
おまけに、金持ちやお役人が徴兵免除ですから、徴兵告諭のいう「国民は平等」なんて嘘っぱちなのは誰の目にも明らかです。
1873年3月頃から、各地で徴兵制に反対する血税一揆が起こるようになります。
徴兵制はその負担のみならず、徴兵告諭で用いられた「血税」という言葉も心証を悪くしました。人々の中には「血を流してでも国家に尽くせ」とこれを解釈するものも多くいたからです。
一揆が血税一揆と名付けられたのも、やはり「血税」という言葉が民衆にとって強烈だったからでしょう。
血税一揆は、1872年に実施された学制に対する民衆の反対運動とも合体し、非常に大規模な一揆にまで発展しました。
江戸時代から明治時代へ歴史は大きく変わりましたが、民衆への苛政が変わることはありませんでした。
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