面白いほどわかる神仏分離令!目的や内容を徹底解説!【大教宣布の詔もセットでわかります】

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今回は、1868年に実施された神仏分離令しんぶんりれいについてわかりやすく丁寧に解説していきます。また、神仏分離令と深い関係のある大教宣布の詔たいきょうせんぷのみことのりについてもセットで解説していきます。

最初に、神仏分離令・大教宣布の詔について教科書風にまとめを載せておきます↓

神仏分離令・大教宣布の詔とは・・・

1868年、政府は王政復古による祭政一致さいせいいっちの立場から、古代以来の神仏習合しんぶつしゅうごうを禁じて神道を国教とする方針を打ち出した(神仏分離令)。

そのため全国に渡って一時、廃仏毀釈はいぶつきしゃくの嵐が吹き荒れたが、これは仏教界の覚醒をうながすことにもなった。

政府は1870年に大教宣布の詔を発し、また神社制度・祝祭日などを制定し、神道を中心に国民教化をめざした。

この記事では、神仏分離令・大教宣布の詔について以下の点を中心に解説を進めていきます。

  • 神仏分離令・大教宣布の詔が出された目的や理由
  • 神仏分離令・大教宣布の詔の内容
  • 神仏分離令・大教宣布の詔が日本に与えた影響
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神仏分離令・大教宣布の詔が出されるまでの流れ

最初に神仏分離令・大教宣布の詔が出されるまでの時代の流れをチェックしておきます。

神仏分離令・大教宣布の詔が出されるまで

神仏分離令の背景を知る上でキーワードになるのが、神仏習合復古神道ふっこしんとうという2つの言葉。これらについて簡単に紹介しておきます。

神仏習合とは

神々への信仰と仏教を融合させた日本特有の信仰方法。

神仏習合は、仏様と神様の上下関係により大きく2つの信仰に分類される。

  • 仏様>神様 :仏教で重んじられる(この説を本地垂迹説ほんじすいじゃくせつと言う)
  • 仏様<神様 :神道で重んじられる(この説を反本地垂迹説と言う)
復古神道

江戸時代、平田篤胤ひらたあつたねが完成させた新しい神道のこと。

復古神道を完成させた平田篤胤

日本の神様への信仰は、人々が本能的に思う「自然や祖先への畏敬の念」を基に発展してきたものです。それにゆえに信仰方法や信仰対象は比較的自由でした。

なので、経典という理論を持ち統一した信仰をする仏教と違って、人々が集まって教団のような大きな組織を作ることはありませんでした。

平田篤胤は、そんな神々への信仰を「古事記こじき」「日本書紀にほんしょき」の内容を中心に理論を統一しました。理論の統一によって多くの人が同じ考え方や目標を持てるようになると、復古神道は爆発的に各地へ広がりました。

復古神道は仏教や儒教を否定して「神こそが至高。だから、天照大神の子孫である天皇は偉大な存在!」と考えました。

この考え方は「江戸幕府でなくて、天皇自らが政治を行うべき!」という尊王攘夷論にまで発展し、明治維新の大きな原動力となりました。

なので、王政復古の大号令により天皇親政が開始されると、

復古神道の考え方に基づいて天皇親政が実現したんだから、次は復古神道を全国に広めて国教化すべき!!

そのためにも、神仏習合は廃止しなければならない!

という発想になるのは自然な流れでした。

しかも、神道を布教させるための強力な抵抗もなかったため、明治維新の数ある改革の中でも宗教改革は比較的早い段階で実施されることになります。(諸改革が本格化するのは1871年の廃藩置県後になる)

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神仏分離令の内容

1868年に出された神仏分離令の本来の目的は、「純粋な神道を信仰するために、神様と仏様を別々に信仰するようにしよう」というもの。

神仏習合では当たり前だった・・・

  • 僧侶が神社の仕事(社務)をする
  • 神社に仏像を置く
  • 神様を意味もなく『権現』と名付ける

といった仏教と神道がごちゃ混ぜになっている風習を全て禁止しました。

権現ごんげん

仏様>神様と考える本地垂迹説では、日本の神々は仏様が仮の姿として現れたものであると考えられていました。

そして、仏様の化身として現れている神様のことを権現と言います。神社に祀られている神様が権現の場合、その名前の最後に「〜〜〜権現」と付けられていました。

すると、社務を担っていた僧侶は僧位の返上を迫られ、神社に置いてある仏像は撤去されました。結果として神仏分離令は、仏教は弾圧する形になってしまったが、これは神道を国教化する以上、致し方のないことです。

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大教宣布の詔の内容

神仏分離令が出されてから2年後の1870年、大教宣布の詔が出されました。

みことのり

天皇(当時は明治天皇)からの命令

大教宣布の詔の内容は、以下のようなものでした。

  • 国教を神道とする旨の宣言
  • 日本を祭政一致の国とする
  • キリスト教は排除
  • 国家主導による神道の布教活動を本格化する

祭政一致さいせいいっち

宗教と政治を一体化させること。(政教分離の反対)

当時の日本で言うと、天皇は神道の最高の地位にあり、政治のトップでもあった。これが祭政一致。

大教宣布の詔を受けて、新政府は主に以下の2点の政策を推進します。

  • 1 新政府内に布教のための部署を設置
  • 2 天皇に由来する国民の祝日を設ける(逆に天皇に関係ない祝日は廃止)

しかし、1番は上手くいかず1877年に廃止。一方の2番は、人々に神道を広めるのにある程度の効果をあげました。

大教宣布の詔によって定められた祝日には、今も名前を変えて残っている祝日が結構あります。

今も残る大教宣布の詔の名残
  • 建国記念日(2月11日)【当時は紀元節】
    初代天皇の神武天皇じんむてんのうが即位した日
  • 文化の日(11月3日)【当時は天長節】
    明治天皇の誕生日
  • 勤労感謝の日(11月23日)
    神事の新嘗祭にいなめさいが行われる日

食実の名前が今と昔で違うのは、主に太平洋戦争の後にGHQ主導の政教分離が行われたからです。この時に天皇に関連するワードが祝日名から消されました。(大教宣布の詔と真逆の政策!)

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廃仏毀釈の始まり

神仏分離令によって仏教側がやむを得ずに不利益を被ることはありましたが、新政府には仏教を積極的に弾圧する意図はありませんでした。しかし、新政府の意図に反し、仏教への弾圧は激しくなり、廃仏毀釈はいぶつきしゃくと呼ばれる過激な仏教破壊運動に発展します。

「神様と仏様を分離する」はずだったのが「仏様を排除する」へと激化したのです。この時、廃仏毀釈が起こったのにはいくつかの理由がありました。

  • そもそも、神道を信仰する人たちにとって仏教は邪魔な存在だった。
  • 神仏分離令は、寺院の所領を奪う口実になった。
  • 民衆の寺請制度てらうけせいどへの不満が爆発した
寺請制度とは?

各々の家が寺院の管理下に置かれる制度。寺院の管理下に置かれた家は檀家だんかと呼ばれる。

江戸時代初期、キリスト教を弾圧していた幕府が「キリスト教とだと疑われたくないなら、檀家になってその宗派に属している証明書(寺請証文てらうけしょうもん)を決められた寺院から受けろ」と言ったのが始まり。

檀家はお布施によって寺院を経済的に支援する代わりに、寺院から寺請証文をもらうことで社会的信用を得ていました。逆に寺請証文がないと、檀家は社会的信用を失いその地に住めなくなったので、寺請制度は場合によっては半ば強制的に実施された。

そして、ほとんどの家が檀家になると寺院で各々の家の状況が把握できるようになり、宗門人別改帳しゅうもんにんべつあらためちょうと呼ばれる戸籍のようなものを作成して、江戸幕府に提出するようになります。

宗門人別改帳を通じて幕府との関係を深めた寺院の中には、幕府の後ろ盾を背景にやりたい放題する寺院も多く、寺請制度に不満を持つ人々が少なくなかった。

廃仏毀釈によって被害を受けた寺院で特に有名なのが、奈良の興福寺こうふくじです。

興福寺は春日大社と一体で運営されている典型的な神仏習合の寺院。神仏分離令の対象でしたが、興福寺は徹底的に破壊され、寺院の所領を奪われました。

広大な興福寺の所領は返上されることはなく、その多くは有名な観光地の1つである奈良公園になってしまいました。廃寺寸前に追い込まれた興福寺はその後復活を遂げますが、以前の栄光はそこにはありませんでした・・・。

このほかにも、各地で仏教VS神道の宗教戦争ともいえる紛争が起こり、新政府を悩ませました。

新政府を悩ませたのは宗教戦争をきっかけとして大反乱が起こること、そして、その隙を狙って信仰を拡大しようとするキリスト教の存在でした。

神道が国民に広まらないまま、最も信仰が盛んな仏教が衰えてしまうと、その隙を狙ってキリスト教が広まってしまうかも知れない・・・。

こうして1871年頃になると、新政府は神仏分離政策と合わせて仏教保護についても力を入れ始めるようになります。

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覚醒する仏教

江戸時代、寺院は宗門人別改帳による民衆管理を通じて幕府とズブズブの関係で、仏教は腐敗しかけていました。しかし明治政府の樹立と廃仏毀釈により、寺院は自らの存在意義について0から見つめ直す必要に迫られます。

所領を奪われた上に寺請制度も廃止されて経営難に陥った各寺院は、教育活動や社会活動などを通じて、信者との向き合い方を試行錯誤していくことになります。(この試行錯誤の結果、今の日本仏教がある)

また、寺請制度の廃止によって国民の統計情報を取得する手段が無くなりますが、これは1872年に編纂された壬申戸籍じんしんこせきによって代用され、寺請制度はその役目を終えることになります。(強制ではなくなったものの、檀家制度自体は今もなお残っています)

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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