今回は、1900年〜1901年にかけて起こった義和団事件と北清事変について、わかりやすく丁寧に解説していきます。
この記事では義和団事件・北清事変について以下の点を中心に解説を進めていきます。
なぜ義和団事件は起こったのか?
義和団事件の直接のきっかけは、中国分割という事件にあります。
少しだけ、当時の清国の情勢を時系列で整理しておきます。
- 1894年
- 1895年
日清戦争は日本の勝利に終わる。
戦後処理として清国との間で下関条約が締結される。日本は遼東半島をゲットしようとするもロシアに邪魔される(三国干渉)
- 1898年〜1899年
敗戦で弱った清国に列強国が迫り、清国は次々と領土や利権を奪われる。
- 1900年義和団事件←この記事はここ
他人の国で好き勝手する列強国に、清国の民衆たちはブチギレ。
ドイツが支配していた山東半島で、義和団と呼ばれる集団が暴れる。
貧困に苦しむ民衆を横目に、清国に進出した列強国たちは、鉄道敷設や鉱山など各地で自分たちに有利な利権を次々と手に入れていきます。
そんな中、ドイツの支配する山東半島で義和団という組織が反旗を翻しました。
義和団は「西洋を滅ぼす」ための具体的なターゲットとして、キリスト教を標的にしました。
義和団はキリスト教を邪教と呼び、教会を破壊したり宣教師を襲撃したり、頻繁にトラブル(暴動)を起こします。
清国政府は、ドイツの報復を恐れて義和団を厳しく弾圧しますが、義和団の勢力が拡大するにつれて、次第に義和団に同調するようになります。ドイツを含む列強国の支配を嫌っていたのは政府も同じですからね。
こうして、清国政府は表向きは「(ドイツのために)義和団を弾圧するぞ!」と宣言しておきながら、厳しい弾圧は行わずに義和団の行動を黙認します。
義和団事件から北清事変へ
1900年3月、清国の作戦が列強国に気付かれ、山東省で義和団を担当していた責任者が列強国の圧力によって退任。次の責任者には、袁世凱という人物が選ばれます。
袁世凱は、義和団を山東省からドイツの勢力外である直隷省(清国首都の北京がある省)へ追放します。これで一件落着かと思えば、これは全くの逆効果。逆に義和団の活動を拡大させる起爆剤になってしまいます。
義和団は山東省から直隷省へ移動する際に、各地の貧困層を取り込んで勢力を急速に拡大ししまいには、直隷省の2大都市である天津と北京(清国の首都!)に雪崩れ込んできます。
北京・天津には列強国の人々が多く駐在しており、この頃になると義和団のターゲットはキリスト教徒だけでなく、列強国の外人たちにまで及ぶようになり、外国人が襲われる事件が増えるようになります。
列強国は、清国政府に対して義和団の取締り強化を強く要求しますが、政府はこれを無視して引き続き義和団の暴動を黙認。「列強国憎し!」で一致する義和団と清国政府は、密かに連携をしていたんです。
1900年5月、清国の対応があてにならないとわかると、列強国たちは清国に駐在する人々を守るため、北京目指して軍を派遣。
さらに、列強国の連合軍によって天津の砲台が占領されると、1900年6月17日、次は清国が「そこまでやるなら、こっちだってやってやろうじゃねーか!!」と列強国に対して宣戦布告。
こうして、
義和団・清国政府
VS
日本・ロシア・ドイツ・イギリス・アメリカ・フランス・他いろいろ
という、清国には絶対に勝ち目のない絶望的な戦争が起こることになります。
清国政府が宣戦布告してからの一連の戦闘のことを北清事変と言います。
北清事変と複雑な外交戦
清国の宣戦布告に多くの列強国は恐怖します。どの国も、日清戦争で負けたばかりの清国が自分から戦争を仕掛けてくるなど夢にも思っていなかったからです。
列強国が恐れたのは戦争そのものというよりも北京や天津に取り残されてしまった自国民が義和団らによって皆殺しにされる可能性の方でした。戦争自体は、列強国が強すぎて清国に勝ち目はほとんどありません。
自国民を守るためにも大至急で派兵したいところですが、東アジアから遠いヨーロッパ諸国などはすぐに兵を送ることができません。
しかも、イギリスは南アメリカ(ボーア戦争)で、アメリカはフィリピン(米比戦争)で戦争中であり、そもそも兵を送る余裕すらありませんでした。
そこで脚光を浴びることになるのが、地理的に清国に近いロシアと日本です。
特にロシアは、「北清事変の鎮圧の口実に軍隊を送り込んで、そのまま清国北方(満洲)を占領するわwww(心の声)」と軍隊を次々と送り込みます。
一方の日本は悩みます。清国に残る日本人を助けたい・・・、しかし、真っ先に清国に軍を送り込めば、「日本は清国を支配するつもりだ!」と列強国からの疑惑を受け、日清戦争後に行われた三国干渉の二の舞になりかねません。
そんな悩める日本に大量派兵を決意させたのが、イギリスでした。
日本さんお願い!ロシアに負けずにたくさん兵を送り込んで!我が国の敵であるロシアが北清事変を口実に満洲を占領する気らしいの!
ロシアに満洲を支配されたくない・・・という点では日本と利害が一致するし、イギリスは日本の派兵を支援するよ!
1900年7月、「イギリスの後ろ盾があれば、他の列強国から何か言われることもないだろう」と日本は大軍を天津・北京へと派遣します。
こうして日本とロシアを中心に編成された連合軍は天津・北京へと進攻し、8月には北京を制圧。
清国政府は降伏し、1901年には列強連合軍との間に北京議定書が結ばれ、清国は多額の賠償金を負うことになります。
義和団事件・北清事変から日英同盟へ
義和団事件and北清事変は、わずか数ヶ月で鎮圧されましたが、清国を取り巻く国際政治に大きな影響を与えました。
まず、列強国の中国分割による清国支配が弱まることになりました。民衆の暴動(義和団事件)と清国政府の態度(北清事変)を見て、多くの列強国が「清国の領地を支配するのは思った以上に手を焼きそうだ・・・」と思ったからです。
ただ、ロシアだけは違いました。ロシアは、旅順とロシアを結ぶ鉄道を敷設するため満州の占領を熱望していました。事件が終わった後、ロシアは清国と独自に交渉を進め、満州に軍を置き続けます。
そして、このロシアの満州占領に最も不快感を示したのが日本でした。日本は朝鮮の支配をめぐってロシアと対立していたので、ロシアが朝鮮に隣接する満洲を占領することを良く思うわけがありません。
さらに、ヨーロッパ方面でロシアと敵対していたイギリスが、日本に接近してきます。
ロシアの東アジア方面での勢力拡大を阻止したいが、今のイギリスにはそのような余力はない。
だから日本との軍事同盟を考えているんだ。日本もロシアの満州占領を不快に思っているし、利害は一致するしね!
そして、共通の敵(ロシア)を持つイギリスと日本の接近は、1902年に軍事同盟である日英同盟という形で実を結ぶことになります。
列強国に支配される側だった日本がイギリスと軍事同盟を結ぶなど、50年前(幕末の頃)には誰も夢にすら思っていなかったこと。このわずかな期間で日本という国は大躍進を遂げていたのです。(明治時代のスローガンだった富国強兵は大成功!?)
日清戦争での勝利と北清事変の活躍は、各国に高く評価され、日本はすでに列強国と並んでも遜色ないほどの大国になっていたわけです。
義和団事件・北清事変によって国際情勢が大きく変わる中、清国にも大きな変化が見られました。
清国政府は北京が列強国に制圧された後、態度を一変し「やっぱ義和団は悪い奴らだから潰すわ!」と義和団を攻撃し始めます。さらに清国政府は、北京議定書で負うことになった巨額の賠償金を払うため、民衆に重税を課しました。
すると、民衆たちは清国政府を見限るようになり、次第に「清国政府なんかぶっ倒してしまえ!」という風潮が高まります。
そして1911年、清国で辛亥革命が起こると、清国は本当に滅んでしまうことになるのです。(清国の情勢がカオスすぎる・・・)
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