得宗専制政治とは?得宗家・執権との違い・内管領をわかりやすく解説【中学・高校日本史】

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得宗専制政治

もぐたろう
もぐたろう

今回は得宗専制政治について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!執権政治との違いや、なぜ北条氏が幕府を支配できたのか、その仕組みから崩壊までを一気に見ていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 得宗・得宗家とは何か(北条惣領家の定義と由来)
  • 得宗専制政治とは何か(執権政治との違い・仕組み)
  • 内管領の役割と御内人が台頭した理由
  • 霜月騒動・平禅門の乱とその意味
  • 御家人の不満と永仁の徳政令(得宗専制末期の動揺)
  • なぜ得宗専制政治は崩壊したか(鎌倉幕府滅亡との関係)

得宗専制政治とくそうせんせいせいじと聞くと、「北条氏が幕府を私物化した独裁政治」というイメージを持つ人が多いかもしれません。

しかし実は、得宗専制政治は最初から腐敗していたわけではなかったのです。きっかけはむしろ、元寇という未曾有の国難に直面した鎌倉幕府が、危機を乗り切るために権力を一点に集めざるを得なかったという、切実な事情から始まっています。

ところが、強くなりすぎた北条得宗家の体制は、やがて他の御家人ごけにんたちの不満を膨らませ、幕府そのものを自滅させる構造的矛盾を生み出していきました。

この記事では、得宗・得宗家の定義から、執権政治との違い、内管領の役割、霜月騒動・平禅門の乱、そして永仁の徳政令まで、得宗専制政治の全体像を中学生・高校生にもわかるようにストーリーで追っていきます。

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得宗・北条得宗家とは?

得宗家を3行でわかるまとめ

得宗とは、北条氏の惣領(本家・嫡流)のこと。2代執権・北条義時の別号「徳宗(得宗・徳崇とも)」が由来とされます(諸説あり)。
得宗家は鎌倉幕府において執権職を独占し、幕府の実権を掌握した家系。
北条時頼のころから、得宗が執権という役職を超えた実質的権力者となっていきました。

北条時宗の肖像画
8代執権・北条時宗の肖像画(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

「得宗」というのは、もともと北条義時ほうじょうよしとき(2代執権)の別号・追号に由来すると言われている言葉です(法名起源説・追号説など諸説あり)。

義時の別号・追号が「徳宗とくそう(徳崇とも)」だったとされ(諸説あり)、これがやがて北条本家・嫡流を指す呼び方として定着していきました。つまり「得宗=北条氏の本家筋」というのが基本イメージです。

鎌倉幕府の最高実力者である執権は、初代・北条時政から代々、この得宗家の人物が引き継いでいくことになりました。具体的には、時政 → 義時 → 泰時 → 経時 → 時頼 → 時宗 → 貞時 → 高時 と続く本家ラインが、得宗家の系譜です。

「北条得宗」「北条得宗家」と呼ばれるときも、意味は同じです。要するに「北条氏のなかでも特別な存在である本家=幕府の実権を握る家系」のことを指しているのです。

ゆうき
ゆうき

「執権」と「得宗」って何が違うの?同じ北条氏なのに、別々に覚えないといけないの?

もぐたろう
もぐたろう

いいところに気づいたね!カンタンに言うと、執権=「役職名」、得宗=「家柄(家名)」なんだ。「執権」は会社でいう社長ポスト、「得宗」は北条本家っていうイメージ。最初は得宗が執権を兼ねることが多かったけど、のちには「執権にならなくても得宗が裏で実権を握る」時代がやってくるんだよ!

その「執権の役職を離れても、得宗が実権を握る」という新しい時代を切り開いたのが、5代執権の北条時頼ほうじょうときよりでした。

時頼は1256年に病を理由に執権職を引退して出家しますが、その後も得宗として幕府の実権を握り続けました。形式的な執権はおじや息子に譲り、自分は得宗という立場から政治を動かす——これが「得宗専制政治」の原型といえる権力構造になります。

北条時頼
北条時頼

執権という役職などなくてもよい。得宗である私自身が、本当の権力者なのだ。表向きの政治は誰に任せても、最終的な決定は得宗の御所で下す——これからの幕府は、そうあるべきだ。

時頼が作ったこの「執権から得宗へ」という権力のシフトが、次の章で見る得宗専制政治へとつながっていきます。

📖 謡曲「鉢の木」と北条時頼:北条時頼には、諸国を行脚して民衆の暮らしを見て回ったという「廻国伝説」が伝わっています。出家後の時頼は「最明寺時頼」と呼ばれ、民衆から慕われたとも記録されます。謡曲「鉢の木」では、時頼が諸国行脚中に貧しい老武士の家に泊まり、寒さをしのぐため大切にしていた盆栽(鉢の木)を薪にして暖をとってもらった——という逸話が描かれます。のちに時頼が「いざ鎌倉」と呼びかけたとき、老武士は真っ先に駆けつけたと伝えられます(伝説色が強く、史実かどうかは確認できていません)。

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専制政治とは?執権政治との違いをわかりやすく

得宗専制政治の話に入る前に、そもそも専制政治せんせいせいじとは何かを押さえておきましょう。

専制政治とは?簡単に

専制政治とは、君主や特定の一族など「ひとり(もしくはごく少数)」が、他者の意見にしばられずに国家の権力を独占して行う政治のことです。合議制(みんなで話し合って決める政治)の反対概念にあたります。

つまり「会議で物事を決めるのが合議制」「ひとり(一族)の判断ですべてが決まるのが専制政治」、というシンプルな対比です。

これを踏まえると、鎌倉幕府の歴史は次のように整理できます。

執権政治(合議制):北条氏と有力御家人が評定衆ひょうじょうしゅうという会議で話し合って政治を進めるしくみ。北条泰時が御成敗式目(1232年)とあわせて完成させた。

得宗専制政治(一家独占):得宗(北条本家)が、御内人みうちびとたちと開く寄合よりあいという私的会議で政治の重要事項を決めるしくみ。形式上は評定衆も残るが、実質的な意思決定は寄合に移った。

図式化すると、「将軍 → 執権・評定衆による合議(執権政治)」から、「将軍 → 得宗+寄合衆による独占(得宗専制政治)」へと、権力の流れが大きく変わったことになります。

もちろん、評定衆そのものがいきなり廃止されたわけではありません。形のうえでは評定衆も残っていました。しかし重要な決定は、得宗の私邸で行われる寄合で先に決まり、評定衆はそれを追認するだけの存在になっていきます。

あゆみ
あゆみ

会議そのものはあるけど、本当のところは別の場所(得宗の私邸)で決まっている……現代の組織でも、よくありそうな構図ね。

もぐたろう
もぐたろう

まさにそう!「公式の会議室では当たり障りのない議論をして、実は社長室で全部決まってる」みたいな状態だね。表向きの執権政治はそのまま、中身だけが得宗専制に変わっていったっていうのがポイントだよ。

📌 得宗専制政治の始まった時期には諸説あります(宮騒動・北条時頼期・二月騒動・霜月騒動など)。中学・高校のテストでは「北条時頼のころに始まり、貞時のころに完成」と押さえておけばOKです。

では次の章では、得宗専制政治を支えた具体的な仕組み——北条一門が独占した役職と、「内管領」という新しい権力者について見ていきましょう。

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得宗専制政治の仕組み ― 北条一門が独占した役職

得宗専制政治の特徴をひと言でいうと、「幕府の重要ポストを、ほぼ北条一門だけで独占した」状態です。

もともと鎌倉幕府は、源頼朝に従った各地の有力武士たちが御家人として集まり、北条氏・三浦氏・安達氏・大江氏など多くの一門が幕政に関わる「連合政権」の性格を持っていました。

しかし執権政治のなかで北条氏が他の有力御家人を次々と排除し、得宗の時代になると、幕府の主要ポストはほぼ北条一門で占められるようになりました。

北条一門が独占した主な役職
執権(将軍を補佐する幕府最高ポスト)
連署(執権の副官)
評定衆(合議の構成員)の多数
引付衆(裁判担当)
六波羅探題(京都の朝廷監視・西国統治)
守護(諸国の軍事・警察職)の多く

13世紀半ばには、全国60余ヶ国の守護の半数以上が北条一門で占められていたと言われています。中央のポストだけでなく、地方の支配権までも北条一門が押さえていたわけです。

そのうえで、本当に重要な政治判断は得宗の私邸で行う「寄合」で決められました。寄合のメンバーは、得宗本人・有力な北条一門・そして次に登場する御内人みうちびとの代表たちです。

■ 内管領とは?御内人の台頭

内管領ってなに?

内管領うちかんれいとは、得宗家(北条本家)の家政機関を取り仕切る最高責任者のこと。今でいう「社長一族の財布・人事・雑務を取りまとめる側近秘書」のような存在です。代表的な人物が平頼綱たいらのよりつなで、彼はこの役職を背景に幕府の政治そのものに介入していきました。

ここで重要なのが、御内人御家人の違いです。両者ともに北条氏の周辺にいる武士ですが、立場が大きく異なります。

御家人:将軍と「御恩と奉公」の関係で結ばれた、いわば「将軍の家来」。三浦・安達・千葉などの伝統ある武家もここに含まれる。

御内人:得宗家に個人的に仕える「得宗の家来」。建前上は御家人より格下だが、得宗の信頼の厚さを背景に幕府政治に強い影響力をもつようになる。そのトップが内管領

本来、御内人はあくまで「得宗家の私的な家来」にすぎませんでした。しかし、得宗が幕府の実権を握れば握るほど、その身近で仕える御内人たちの政治的な存在感も大きくなっていきます。

とくに得宗が幼かったり病弱だったりするときには、内管領が「得宗の代理人」のような顔をして、寄合や政務に深く関わるようになっていきました。その代表例こそが、後ほど詳しく見る平頼綱です。

あゆみ
あゆみ

得宗が強くなるほど、その家来(御内人)も強くなる……今の大企業でも、社長秘書や側近が実権を握ってしまう、みたいな話はよく聞くわね。

もぐたろう
もぐたろう

まさにそんな構図!しかも、平頼綱は得宗・北条貞時がまだ若かったタイミングを狙って、内管領の地位から幕府の政治を実質的に動かすようになるんだ。次の章で見る「霜月騒動」は、その権力を一気に拡大させた決定的事件だよ。

御内人の代表である平頼綱は、得宗の信頼を独占し、ほかの御家人たちを排除する野心を抱いていきました。「得宗の権威」と「内管領という公式の地位」を結びつけて、有力御家人とも互角以上に渡り合える存在になっていきます。

こうして、得宗を頂点に、内管領・御内人が幕府を実質的に動かすという独特の権力ピラミッドが完成しつつありました。次の章では、この構造を一気に固定化することになる二つの大事件——霜月騒動と平禅門の乱——を見ていきます。

霜月騒動と平禅門の乱 ― 得宗専制の確立

得宗専制政治を語るうえで欠かせないのが、1285年の霜月騒動しもつきそうどうと、1293年の平禅門の乱へいぜんもんのらんです。この二つの事件を経て、得宗専制政治は名実ともに完成したと言われています。

■ 霜月騒動(1285年)― 安達泰盛の滅亡

1284年、8代執権の北条時宗が34歳の若さで亡くなり、その子・北条貞時ほうじょうさだときが13歳(数え年)でその地位を継ぎました。

幼い得宗のもとで、ふたりの実力者が政治の主導権を争うことになります。ひとりは有力御家人の代表である安達泰盛あだちやすもり(貞時の外祖父)、もうひとりが内管領・平頼綱です。

安達泰盛の肖像(蒙古襲来絵詞より)
安達泰盛の肖像(蒙古襲来絵詞より/出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

安達泰盛は、御家人たちの利益を守りつつ幕政を改革しようとした人物でした。元寇後の混乱を立て直すための政策(弘安徳政と呼ばれます)を打ち出し、御家人たちからの支持を集めていました。

これに対し、得宗家を背景に勢力を伸ばしていた平頼綱は、安達泰盛の存在を強く警戒します。そして1285年11月(旧暦霜月)、頼綱は貞時の許可を取り付けたうえで、安達泰盛とその一族・関係する御家人たちを攻め滅ぼしてしまいました。これが霜月騒動です。

霜月騒動によって、有力御家人の代表であった安達一族と、その支持者たちが幕政の中枢から一掃されました。代わって御内人と内管領・平頼綱の発言力が一気に増し、御家人勢力に対する得宗家と御内人勢力の優位が決定的になります。

📖 霜月騒動の衝撃:霜月騒動は1285年11月(旧暦の霜月)に発生し、わずか一日で安達泰盛とその一族数百人が滅亡したと伝えられています。得宗・北条貞時はまだ13歳。平頼綱が「貞時の命令」を名目に動いたとされており、内管領が得宗を盾に有力御家人を粛清するという構図が露骨になった事件でした。御家人たちから見れば「もう幕府の中で安心していられない」と感じる、ショッキングな出来事だったのです。

ゆうき
ゆうき

安達泰盛って、なんとなく悪者っぽい印象がないんだけど……御家人を守ろうとして、内管領にやられちゃったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そうそう、その理解でOK!教科書的には、安達泰盛は「御家人たちの利益を代表しようとした旧勢力」、平頼綱は「得宗・御内人勢力」のリーダーって整理だね。霜月騒動で旧勢力が一掃された結果、得宗専制への流れが一気に進んだんだ。詳しくは霜月騒動の専用記事もあわせて読んでみてね。

■ 平禅門の乱(1293年)― 貞時が平頼綱を滅ぼす

霜月騒動から8年後、今度はその平頼綱自身が滅ぼされることになります。これが平禅門の乱です。

頼綱は霜月騒動以降、内管領の地位から幕府の政治を実質的に動かす立場になっていました。御家人たちへの厳しい弾圧を続け、訴訟も力ずくで処理するなど、その専横ぶりは次第に得宗・北条貞時の目にも危険なものに映るようになります。

とくに頼綱が、息子の飯沼資宗を将軍にしようとしているという噂が広まったことで、貞時との関係は決定的に悪化したと伝えられます。

1293年4月、貞時はついに行動を起こします。鎌倉の頼綱邸を急襲し、平頼綱とその一族を滅ぼしました。頼綱は出家していて「平禅門へいぜんもん」と呼ばれていたため(出家した武士は「禅門」と通称される慣習があった)、この事件は「平禅門の乱」と呼ばれるようになります。

霜月騒動が「内管領による御家人勢力の排除」だったのに対し、平禅門の乱は「得宗自身による内管領の粛清」でした。邪魔者となった御家人を内管領が排除し、その内管領も今度は得宗自身が排除する——こうしてすべての対抗勢力を取り除いたのち、北条貞時は名実ともに鎌倉幕府の専制君主となりました。

北条貞時
北条貞時

平頼綱はあまりに専横だった。御家人を抑え込むのに必要な存在ではあったが、放っておけば幕府そのものを乗っ取られかねない。安達泰盛を排除し、頼綱までも排除した今、本当の専制者はこの私、得宗・北条貞時だ

多くの教科書では、この平禅門の乱(1293年)をもって得宗専制政治の完成とする整理がされています。貞時は寄合の主導権を完全に握り、評定衆や引付衆の役職も縮小・改編しながら、得宗を中心とする政治構造を固めていきました。

しかし、専制体制が完成すればすべてうまくいく——というわけにはいきません。次の章では、この強大な得宗専制政治の足元で、御家人たちがどれほど苦しんでいたか、その不満の正体に迫ります。

得宗専制政治と御家人の不満 ― 農村問題と元寇の影

蒙古襲来絵詞・てつはう(炸裂弾)が炸裂する場面
蒙古襲来絵詞に描かれた「てつはう(炸裂弾)」と御家人の戦闘場面(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

得宗専制政治が完成していくのとちょうど同じ時期、幕府を支えてきた御家人たちは深刻な経済的危機に直面していました。直接のきっかけは、元寇文永の役弘安の役)です。

1274年と1281年、二度にわたって押し寄せたモンゴル軍を、御家人たちは命がけで撃退しました。とくに九州の御家人たちは、自費で武器や兵糧を用意し、博多湾沿岸で防戦にあたっています。

ところが、戦いが終わったあとに大きな問題が発生します。幕府がほとんど恩賞を出せなかったのです。なぜでしょうか。

これは、鎌倉幕府の御家人制度のしくみが原因です。御家人は将軍に対して奉公(戦争での働き)を果たし、その見返りとして御恩(土地・所領)を与えられるのが基本でした。しかし元寇は「外敵を撃退した戦い」であり、勝っても新しく奪い取れる土地がなかったのです。

問題①:元寇での恩賞不足——外敵を撃退する戦いでは「奪った土地」がないため、命がけで戦った御家人にも十分な恩賞が与えられなかった。

問題②:分割相続による所領縮小——御家人の土地は子どもたちに分割相続されるのが原則。代替わりするたびに、ひとりあたりの所領が細分化されて縮んでいった。

問題③:貨幣経済の浸透——市場や定期市の発達で日々の生活に現金が必要になったが、土地から得られるのは米中心の年貢。御家人は慢性的に現金不足に陥った。

そのうえ、元寇後も幕府は異国警固番役いこくけいごばんやくとして、御家人たちに九州沿岸の警備を続けさせました。「戦った見返りはない、でも警備は続けてくれ」という状態が、何十年も続いていたのです。

ゆうき
ゆうき

頑張って元寇と戦ったのに、ご褒美がもらえないなんてかわいそうすぎる……。じゃあ御家人たちは、生活するためにどうしたの?

もぐたろう
もぐたろう

多くの御家人は、所領を担保にして借金をするようになったんだ。商人や金融業者からお金を借り、それでも返せなければ土地そのものを失う——という御家人が続出するようになる。当然、幕府への不満もどんどん高まっていくよね。
そこで幕府が打ったのが、次の章で見る「永仁の徳政令」なんだ。

こうして御家人たちは、「命がけで国を守ったのに報われない」「土地はどんどん減っていく」「日々の生活には現金が必要なのに収入が追いつかない」という三重苦に追い込まれていきました。

得宗専制政治は、表面上は強大な権力を誇りながら、その足元では支え手であるはずの御家人たちの不満が静かに、しかし確実にマグマのように溜まっていたのです。次の章では、この御家人たちの困窮を救おうとした幕府の最後の切り札「永仁の徳政令」と、それがなぜ逆効果に終わってしまったのかを見ていきます。

永仁の徳政令(1297年)― 御家人救済の限界

御家人たちの困窮が限界に達するなか、得宗・北条貞時のもとで幕府が打ち出した最後の切り札が、1297年の永仁の徳政令えいにんのとくせいれいです。

「徳政」というのは、もともとは「徳のある政治」という意味でしたが、鎌倉時代以降は借金や土地の売買を帳消しにする政策を指す言葉として使われるようになっていきます。永仁の徳政令も、苦しむ御家人を救うための「借金リセット令」だったと考えるとイメージしやすいです。

■ 永仁の徳政令の主な内容

永仁の徳政令には、御家人を救うためのいくつかのルールが盛り込まれていました。代表的なポイントを整理すると、次の3つになります。

内容①:御家人が手放した土地の取り戻し——御家人が売却したり質入れしたりした所領は、本人に返還することとされた(買主が御家人なら20年以内のもの、買主が非御家人なら年限なしで返還対象)。

内容②:御家人の金銭訴訟を受理しない——御家人どうしの借金や金銭に関する訴えについて、幕府の裁判所(引付)は今後一切受け付けない、と定めた。

内容③:御家人以外への土地売却の禁止——御家人の所領が非御家人や金融業者の手に渡らないよう、原則として御家人以外への土地の売却・質入れが禁止された。

ねらいはとてもシンプルで、「御家人を借金漬けの状態から救い出し、所領を守ってもう一度幕府を支えられるようにしよう」というものでした。御家人を見捨ててしまえば、いざというときに戦う武士がいなくなり、幕府そのものが立ち行かなくなるからです。

ゆうき
ゆうき

えっ、借金がなかったことになって、土地もタダで戻ってくるの?それなら御家人は大喜びじゃない?

もぐたろう
もぐたろう

一見そう見えるよね。でも実はここからが、永仁の徳政令の「悲しすぎる落とし穴」。借金をチャラにしてもらえた御家人たちは、その後どうなったと思う?じつは、もっと深い苦しみが待っていたんだ……。

■ なぜ徳政令は「逆効果」になったのか

永仁の徳政令は、短期的には御家人を救う効果を発揮しました。一度は失った所領を取り戻せた御家人もいて、貞時の人気も一時的には上がったといわれています。

しかし、長い目で見ると、この政策はかえって御家人たちの首を絞めることになりました。一番の理由は、金融業者が御家人にお金を貸さなくなったからです。

金融業者の立場で考えてみると、よくわかります。「幕府は気が向いたときに徳政令を出して、貸したお金や担保にとった土地をチャラにしてしまう」——そんな相手にお金を貸し続ければ、自分たちが破産してしまいます。

その結果、御家人がふたたび生活に困って借金をしようとしても、誰もお金を貸してくれないという最悪の状況が生まれてしまいました。借金がなくなった代わりに、お金そのものが手に入らなくなったのです。

さらに、御家人どうしの金銭トラブルを幕府が裁判で扱わないとしたことで、御家人たちは「いざというとき幕府は助けてくれない」と感じるようになりました。御家人の心が、幕府からゆっくりと離れていく決定的なきっかけになっていきます。

📌 試験頻出3点セット ―「1297年」「御家人の土地取り戻し」「かえって金融が止まり逆効果」。この3つはセットで暗記!「永仁の徳政令=救おうとして、かえって苦しめた政策」と覚えるのがオススメ。

あゆみ
あゆみ

これって、現代でいうと「借金をチャラにする法律を作ったら、銀行が誰にもお金を貸さなくなった」みたいな話よね……。良かれと思ってやった政策が、逆に経済を回らなくしてしまう。なんだか考えさせられるわ。

もぐたろう
もぐたろう

まさにそれ!永仁の徳政令は、「善意の政策が必ずしも良い結果を生むとは限らない」という歴史の教訓そのものなんだよ。実はこのあと幕府は徳政令を撤回するけれど、御家人たちの信頼は二度と戻らなかった。鎌倉幕府の「終わりの始まり」とも言える事件だね。

結局、永仁の徳政令の主要部分は数年のうちに撤回・修正されることになります。しかし一度壊れた金融秩序はすぐには戻らず、御家人たちの困窮も解消されないまま、得宗専制政治は「強い権力を持ちながら、足元の御家人を救えない政治」という矛盾を抱え続けることになりました。

次の章では、この矛盾がどのように積み重なって、強大に見えた得宗専制政治が崩壊していったのかを見ていきます。

なぜ得宗専制政治は崩壊したのか?

北条貞時のもとで完成した得宗専制政治は、その後およそ40年で崩壊し、1333年には鎌倉幕府そのものが滅亡することになります。なぜ、これほど強大な権力体制がこんなに早く崩れてしまったのでしょうか。

北条高時の肖像画(栗原信充筆)
最後の得宗・北条高時の肖像(栗原信充筆/出典:Wikimedia Commons・パブリックドメイン)

崩壊の理由は一つではありません。長年たまった構造的な矛盾が、いくつも同時に噴き出した結果だと考えると整理しやすいです。教科書的によく挙げられるポイントを5つにまとめてみます。

■ 崩壊の5つの要因

得宗専制政治が崩壊した5つの要因
  • 御家人の経済的困窮と不満の蓄積(元寇の恩賞不足・分割相続・徳政令の失敗)
  • 元寇後の幕府権威の失墜(「戦っても報われない幕府」というイメージの広がり)
  • 北条氏末期の政治的退廃(最後の得宗・北条高時の政治不関与)
  • 悪党の台頭(幕府の支配に従わない武装勢力が各地で出現)
  • 後醍醐天皇の討幕運動(足利尊氏・新田義貞の離反を誘発)

とくに大きかったのは、御家人たちの「幕府への信頼の崩壊」です。命がけで元寇と戦っても恩賞は不十分、徳政令を出してもらってもかえって金融が止まる、訴訟も助けてもらえない——御家人たちは少しずつ、「得宗のために命をかける意味があるのか」と考えるようになっていきました。

そこに重なったのが、9代得宗・北条高時ほうじょうたかときの不熱心な政治態度でした。高時は田楽(当時流行した芸能)や闘犬に熱中し、政治の実権は内管領・長崎高資ながさきたかすけ父子に握られていたといわれます。

📖 北条高時の「田楽狂い」:最後の得宗・北条高時(1303〜1333年)は田楽踊りや犬追物(犬を的にした狩猟)に熱中し、政務をほとんど行わなかったと史料に残っています。「太平記」では、高時が田楽師たちを館に招いて日夜踊り明かし、御家人たちが呆れて帰ってしまう場面が描かれています。幕府が滅びるわずか数年前のことでした。「強い権力者がいなくなった得宗専制」は、もはや骨董品のように形だけが残っている状態だったのです。

北条貞時
北条貞時

邪魔者をすべて排除し、私こそが鎌倉幕府の専制者となった。だが御家人たちは離れていくばかりだ。徳政令も裏目に出た……。もう、どうにでもなれ。私の死後、この幕府がどうなるか——もはや知ったことではない。

このように、得宗本人の覇気が失われていったことも、得宗専制政治の足腰を弱める原因になりました。

■ 悪党の台頭と後醍醐天皇の討幕運動

御家人の弱体化と並行して、近畿地方を中心に悪党あくとうと呼ばれる新しい武装勢力が登場しはじめます。悪党は荘園の支配や交易ルートに勝手に介入し、幕府の命令にも従わない存在でした。

幕府は六波羅探題などを使って悪党を取り締まろうとしますが、御家人の弱体化と相まって、思うように制圧できません。そんななかで現れたのが、後醍醐天皇ごだいごてんのうです。後醍醐天皇は天皇親政の復活と幕府の打倒を掲げ、悪党や反幕府勢力を巻き込んだ討幕運動を起こしていきます。

幕府は当初、後醍醐天皇を隠岐へ流刑にするなどして抑え込もうとしました。しかし、後醍醐の呼びかけに応じて、もともと幕府の有力御家人だった足利尊氏新田義貞らが幕府を裏切るという事態が起こります。鎌倉幕府の中枢を支えてきたはずの御家人たちが、自分たちの手で幕府を倒す側にまわってしまったのです。

あゆみ
あゆみ

権力が一家に集中しすぎると、かえって脆くなる——って、なんだか現代の組織にも当てはまる話ね。得宗専制政治って、結局は自分たちで墓穴を掘ってしまったってこと?

もぐたろう
もぐたろう

まさにその通り!得宗一家に権力を集中させすぎた結果、幕府を支える御家人たちが「自分たちは幕府の主役じゃない」と感じるようになってしまったんだ。北条氏が強くなればなるほど、幕府そのものの基盤は弱体化していく——という皮肉な「自滅構造」だったんだよ。

1333年、新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め込み、最後の得宗・北条高時とその一族は東勝寺で自害。約150年続いた鎌倉幕府は滅亡し、同時に得宗専制政治もここで完全に終焉を迎えました。

こうしてみると、得宗専制政治の崩壊は単なる「権力闘争の失敗」ではなく、御家人制度という鎌倉幕府の土台そのものが時代に合わなくなっていたことを象徴する出来事だったとも言えそうです。次の章では、ここまでの内容をテスト対策の観点から一気に整理していきます。

テストに出るポイント

得宗専制政治は、共通テスト・高校入試・定期テストで頻出の単元です。とくに「執権政治との違い」「キーパーソンと事件のセット」「永仁の徳政令の逆効果」の3点が問われやすいので、しっかり整理しておきましょう。

テストに出やすいポイント
  • 得宗=北条氏の惣領(本家)のこと。執権という役職を超えた実質的権力者
  • 寄合=得宗の私邸で開かれた私的会議。評定衆に代わる実質的意思決定機関
  • 内管領=得宗家の家政機関トップ。御内人の最高責任者(平頼綱が代表例)
  • 霜月騒動(1285年)=平頼綱が安達泰盛を滅ぼした事件
  • 平禅門の乱(1293年)=北条貞時が平頼綱を滅ぼし、得宗専制政治が完成
  • 永仁の徳政令(1297年)=御家人救済の法令だが、金融が止まりかえって逆効果に
  • 得宗専制の崩壊→後醍醐天皇の討幕運動→1333年に鎌倉幕府滅亡

📌 共通テスト・難関大では「得宗専制政治と執権政治の違い」がとくに頻出。執権政治は北条氏+有力御家人による合議制(評定衆)、得宗専制政治は得宗家による独占(寄合)という対比で押さえるとスッキリ。

項目執権政治得宗専制政治
権力の中心執権(北条氏)+有力御家人得宗(北条本家)+内管領
意思決定の場評定衆・引付衆(公式の合議機関)寄合(得宗の私的会議)
主役の人々北条泰時・北条時頼など北条貞時・北条高時など
時期の目安13世紀前半〜半ば13世紀後半〜14世紀前半
御家人との関係合議制で利害を調整御家人を排除し独占化
象徴的な出来事御成敗式目(1232年)霜月騒動・平禅門の乱・永仁の徳政令

ゆうき
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「霜月騒動」と「平禅門の乱」、名前が似ててどっちが先か混乱する……。テスト前にスッキリ覚えるコツはある?

もぐたろう
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霜月(1285年)が先、平禅門(1293年)が後」が鉄則!流れは「平頼綱が安達泰盛を倒す(1285)→ その8年後、貞時が平頼綱を倒す(1293)」。悪者が悪者に倒されるどんでん返しの構図で覚えると、もう絶対に忘れないよ!

得宗専制政治の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
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得宗専制政治や北条氏の支配の仕組みをもっと深く知りたい人に、読みやすくてためになる本を2冊紹介するよ!

①北条氏と執権・得宗を体系的に学びたいなら|最新の学術文庫で読みやすい

執権 北条氏と鎌倉幕府

細川重男 著|講談社学術文庫


②最新研究で鎌倉幕府の「なぜ?」を解き明かしたいなら|従来の常識を覆す一冊

鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像

山田徹・谷口雄太・木下竜馬・川口成人 著|光文社新書

よくある質問

A. 得宗とは、鎌倉幕府の執権を世襲した北条氏の惣領(本家・嫡流)のことを指す言葉です。2代執権・北条義時の法名「徳崇」に由来するとも、その別号「徳宗」に由来するともいわれ、北条時頼のころから「得宗」と呼ばれるようになったとされています。執権職を独占しただけでなく、寄合という私的会議を通じて鎌倉幕府の実権を握りました。

A. 執権政治は、執権(北条氏)と有力御家人による合議制(評定衆)で運営される政治体制です。一方、得宗専制政治は得宗(北条本家)が寄合という私的会議で独断的に幕府を運営する体制で、合議制が形骸化した点が最大の違いです。執権政治の代表が北条泰時・時頼、得宗専制の代表が北条貞時・高時と覚えると整理しやすいです。

A. 内管領とは、得宗家(北条本家)の家政機関を統括する最高責任者のことです。御内人(得宗家に直接仕える家来)のトップにあたり、得宗が幼少であったり政治に関心が薄かったりするときには、内管領が実質的に幕府の政治を動かすことがありました。平頼綱(霜月騒動の主役)や長崎高資(鎌倉幕府末期の実力者)が代表例です。

A. 霜月騒動(1285年)は、内管領・平頼綱が有力御家人・安達泰盛を滅ぼした事件です。平禅門の乱(1293年)は、その8年後に得宗・北条貞時が今度は権力を持ちすぎた平頼綱(出家名:禅門)を滅ぼした事件です。「平頼綱が御家人を倒す→貞時が平頼綱を倒す」という順番と、「誰が誰を倒したか」を区別して覚えるのがポイントです。

A. 永仁の徳政令(1297年)は、御家人が売却・質入れした土地を取り戻せる法令でしたが、「御家人への貸し付けは返してもらえない」と判断した金融業者が以後の融資を拒否するようになりました。その結果、御家人はお金を借りることもできなくなり、経済的困窮がさらに深刻化しました。短期的には御家人を救う効果はあったものの、金融秩序そのものを壊してしまった点で「逆効果」と評価されています。

A. 主な原因は、①御家人の経済的困窮と幕府への不信感の蓄積、②元寇後の権威低下、③北条氏末期の政治的退廃(北条高時の政治不関与・内管領の専横)、④悪党の台頭と治安維持能力の低下です。これらの矛盾を背景に後醍醐天皇の討幕運動が広がり、足利尊氏・新田義貞が幕府を裏切ったことで、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。

まとめ ― 得宗専制政治の全体像

ここまで、得宗・得宗家とは何か、執権政治からの変化、内管領の役割、霜月騒動と平禅門の乱、御家人の不満と永仁の徳政令、そして得宗専制政治の崩壊までを順番に見てきました。最後に全体像をぎゅっと整理しておきましょう。

得宗専制政治のポイントまとめ
  • 得宗=北条氏の惣領(本家)。執権という役職を超えた実質的権力者
  • 評定衆(合議機関)に代わり、寄合(得宗の私的会議)が実権を握った
  • 内管領(御内人のトップ)も政治に介入し、有力御家人を排除
  • 霜月騒動(1285年)→ 平禅門の乱(1293年)を経て得宗専制が完成
  • 永仁の徳政令(1297年)は御家人救済のために出したがかえって逆効果に
  • 御家人の離反と後醍醐天皇の討幕運動により1333年に鎌倉幕府滅亡

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以上、得宗専制政治のまとめでした!「強くなりすぎた権力が、かえって自分の足元を崩した」——この自滅構造をイメージできれば、テストでも一発で答えが出せるようになるはず。鎌倉時代の関連トピックは下の記事もあわせて読んでみてください!

得宗専制政治の年表
  • 1246年
    宮騒動 ― 北条時頼の権力確立・得宗専制の萌芽
  • 1256年
    北条時頼、執権職を辞するも実権を保持
  • 1274年
    文永の役(元寇第1回)― 御家人困窮の始まり
  • 1281年
    弘安の役(元寇第2回)― 恩賞なく御家人の不満増大
  • 1285年
    霜月騒動 ― 平頼綱が安達泰盛を滅ぼす
  • 1293年
    平禅門の乱 ― 北条貞時が平頼綱を滅ぼし得宗専制完成
  • 1297年
    永仁の徳政令 ― 御家人救済も逆効果に終わる
  • 1333年
    鎌倉幕府滅亡 ― 得宗専制政治の終焉

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📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版『詳説日本史』(2022年版)に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。

参考文献

Wikipedia日本語版「得宗」「霜月騒動」「平禅門の乱」「永仁の徳政令」(2026年5月確認)
コトバンク「得宗」「内管領」「得宗専制政治」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』

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この記事を書いた人
もぐたろう

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