文永の役とは?【ぶんえいのえき】読み方・場所・神風の真実をわかりやすく解説

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文永の役

もぐたろう
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今回は文永の役(ぶんえいのえき)について、読み方から神風の真実まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!テスト前にも使えるまとめになっているから、ぜひ最後まで読んでね。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 文永の役の読み方・いつ・どこで・誰が戦ったのか
  • 元(モンゴル帝国)が日本に攻めてきた理由と背景
  • てつはう・集団戦法など元軍の戦い方と日本軍の苦戦の様子
  • 神風は本当にあったのか?元軍撤退の真相
  • 文永の役が鎌倉幕府の衰退につながった理由

神風が吹いて元軍を追い払った」——文永の役について、こんな話を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。

実は、神風が元軍撤退の主な理由だったとする説は、現在の歴史研究では否定的に見られています。

沈没船の発掘調査や新しい史料研究から、元軍が撤退した本当の理由は補給線の限界と内部の判断にあった可能性が高いことがわかってきました。

この記事では、文永の役の基本情報から、教科書では語られない「神風の真実」まで、くわしく解説していきます。

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文永の役とは?【読み方・いつ・どこで・誰が】

3行でわかる文永の役
  • 1274年(文永11年)、元(モンゴル帝国)・高麗の連合軍が博多湾に上陸した戦い
  • 元 vs 鎌倉幕府の戦いで、てつはう・集団戦法などに苦戦しながらも日本軍が持ちこたえた
  • 元軍は一夜のうちに撤退。「神風」の伝説が生まれたが、実際の撤退理由には諸説ある

■ 読み方は「ぶんえいのえき」

文永の役ぶんえいのえき——これが正しい読み方です。

文明ぶんめいの役」と間違えてしまう人もいますが、正しくは「ぶんえい」です。「文永」は1264年から1275年まで使われた元号げんごうで、この戦いが起きた1274年(文永11年)にちなんで名前が付けられました。

もぐたろう
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「文永の役」と「弘安の役」をまとめて「元寇(げんこう)」や「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」と呼ぶよ。文永の役は元寇の1回目にあたるんだ。

■ いつ起きた?——1274年(文永11年)

文永の役は1274年10月(旧暦)に起きました。

当時の日本は鎌倉幕府が政治を動かしていた時代です。第8代執権しっけん北条時宗ほうじょうときむねがわずか18歳で執権に就任し、元の脅威に立ち向かっていました。

■ どこで戦った?——対馬・壱岐・博多湾

元軍はまず対馬つしま壱岐いきに上陸し、その後博多湾(現在の福岡県福岡市付近)へ侵攻しました。

主な戦場は博多湾周辺の赤坂あかさか鳥飼潟とりかいがたなどです。

■ 誰が戦った?——元・高麗 vs 鎌倉幕府

攻めてきたのは元(モンゴル帝国)高麗こうらい(現在の韓国・北朝鮮付近にあった国)の連合軍です。兵力はおよそ2万5000〜4万(諸説あり)と言われています。

迎え撃ったのは、鎌倉幕府の指揮のもとに集まった九州の御家人ごけにんたちでした。

男性疑問キャラ
生徒

御家人って何だっけ?

もぐたろう
もぐたろう

御家人というのは、将軍と主従関係を結んだ武士のことだよ。将軍から土地をもらう代わりに、いざというときは命をかけて戦うという「御恩と奉公」の関係で成り立っていたんだ。

文永の役の背景:元とはどんな国だったのか?

■ モンゴル帝国の誕生とフビライ・ハン

文永の役を理解するには、まず攻めてきた「元」という国がどんな国だったのかを知る必要があります。

13世紀、ユーラシア大陸の広大な草原地帯から、チンギス・ハンチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が急速に領土を拡大しました。東ヨーロッパから朝鮮半島まで、まさに世界最大の帝国が誕生したのです。

チンギス・ハンの孫にあたるフビライ・ハンフビライ・ハンは、1271年に国号を「」と定め、中国大陸を支配下に収めました。

フビライ・ハンの肖像画
フビライ・ハンの肖像画(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

フビライは東アジア全体を元の勢力圏に組み込もうと考えていました。すでに高麗を服属させており、次の標的として日本に目を向けたのです。

■ 元の国書と幕府の「無視」

1268年、フビライは日本に国書こくしょを送りました。その内容を簡単に言えば、「元と友好関係を結ぼう。さもなくば武力を使うことになる」という、半ば脅迫めいたものでした。

※国書の原文には「不宣(あえて言わない)」という表現が使われており、「従わなければどうなるかわかるだろう」と暗に武力行使を示唆する内容でした。

この国書を受け取った朝廷は大騒ぎになりましたが、幕府の執権・北条時宗は返書を出さないという決断を下しました。

その後も元は何度も使者を送りますが、幕府はことごとく無視を貫きました。1268年から1272年にかけて、少なくとも5〜6回にわたって国書が届いたとされています。

男性疑問キャラ
生徒

なんで国書を何回も無視し続けたの?返事くらい書けばよかったんじゃ…。

もぐたろう
もぐたろう

そこがポイントなんだ。返書を出す=元の存在を認めることになる。幕府としては「元に従う気はない」という意思表示として、あえて無視を貫いたと考えられているよ。とはいえ、裏では九州の防備を固め始めていたんだ。

■ 北条時宗の決意

当時の執権・北条時宗は、元の脅威にどう対処するかという重大な判断を迫られていました。

時宗はまだ若く、執権に就任したのはわずか18歳のときでした。しかし彼は、世界最大の帝国を相手に一歩も引かない姿勢を見せたのです。

北条時宗の肖像画
北条時宗の肖像画(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

北条時宗
北条時宗

元がどれほど強大であろうと、この国を守ることが我が務めだ。御家人たちよ、九州に集まれ。異国の脅威に備えるのだ。

時宗は九州の御家人たちに異国警固番役いこくけいごばんやく(外国からの侵略に備えて海岸を警備する任務)を命じ、来るべき戦いに備えました。

そして1274年、ついにフビライの忍耐は限界に達し、日本への遠征軍が出発することになります。

文永の役の経緯:対馬・壱岐から博多湾へ

■ 対馬・壱岐の悲劇

1274年10月、元・高麗連合軍は合浦がっぽ(現在の韓国南部)を出発しました。軍勢は約900隻の軍船に、元軍・高麗軍あわせて2万5000〜4万とされています。

最初の標的となったのは対馬でした。

対馬の守護代・宗助国そうすけくにはわずかな手勢で迎え撃ちましたが、圧倒的な兵力差の前に壊滅。助国は戦死し、島は大きな被害を受けました。

続いて壱岐にも上陸。壱岐の守護代・平景隆たいらのかげたかも奮戦しましたが、衆寡敵せず樋詰城に籠城。翌日、城内で自害しました。

もぐたろう
もぐたろう

対馬・壱岐は日本列島と朝鮮半島の間にある島だから、元軍の最初の通り道になってしまったんだ。少ない人数で必死に戦った守護代たちの奮戦は、今も語り継がれているよ。

■ 博多湾への上陸と激戦

対馬・壱岐を制圧した元軍は、いよいよ本土への侵攻を開始します。

10月20日(旧暦)、元軍は博多湾に到達し、上陸を開始しました。

文永の役の侵攻ルート
合浦(韓国南部)→ 対馬 → 壱岐 → 博多湾上陸 → 赤坂・鳥飼潟で激戦

迎え撃つ日本軍は、少弐景資しょうにかげすけを大将として九州各地の御家人が博多湾に集結していました。

最初の激戦は赤坂で起こりました。元軍は海岸に上陸すると、日本軍に対して猛烈な攻撃を仕掛けます。日本軍は一時押されたものの、必死の反撃で持ちこたえました。

続いて鳥飼潟でも戦闘が行われ、双方に大きな被害が出ました。日本軍は一進一退の攻防を繰り広げながら、大宰府方面へ退いて防衛線を再構築したとされています。

てつはうと集団戦法:元軍の戦い方と日本軍の苦戦

文永の役で日本軍が苦戦した最大の理由は、戦い方の違いにありました。

■ てつはう(鉄炮)の恐怖

元軍が持ち込んだ兵器のなかで、とりわけ日本軍を驚かせたのがてつはうてつはうです。

てつはうとは、鉄の容器に火薬を詰めた爆裂弾のようなものです。投げると大きな音とともに爆発し、破片が飛び散って周囲の兵士を傷つけました。

蒙古襲来絵詞に描かれたてつはう
蒙古襲来絵詞に描かれた「てつはう」が炸裂する場面(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

火薬を使った兵器は当時の日本にはなく、初めて体験する爆発音と閃光に、馬が暴れ、兵士たちは大いに動揺したと伝えられています。

男性疑問キャラ
生徒

日本の武士って一騎打ちで戦ってたんでしょ?元軍にはそれが通じなかったの?

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだ。当時の日本の武士は、戦いの前に「やあやあ、我こそは〜」と名乗りを上げてから一騎打ちをする文化があったと言われているよ。でも元軍は集団で一斉に攻撃してきたから、そんな作法は全く通用しなかったんだ。

■ 集団戦法と毒矢——元軍の組織的な攻撃

元軍の戦い方は、当時の日本軍とはまったく異なるものでした。

元軍の主な戦法

集団戦法:太鼓(ドラ)の音を合図に、部隊が一斉に動く組織的な戦い方でした。個人の武勇よりも、集団の連携を重視する軍隊だったのです。

毒矢:元軍は矢に毒を塗って使用したとされています。かすり傷でもダメージを与えられるため、日本軍にとって大きな脅威でした。

騎馬突撃:モンゴル軍はもともと騎馬民族で、馬を使った機動力に優れていました。

竹崎季長と蒙古襲来絵詞
竹崎季長たけざきすえながは肥後国(現在の熊本県)の御家人で、文永の役で奮戦した人物です。彼が自らの戦功を記録するために描かせた『蒙古襲来絵詞もうこしゅうらいえことば』は、元寇の様子を伝える貴重な史料として有名です。てつはうが炸裂する場面も、この絵巻物に描かれています。

蒙古襲来絵詞に描かれた竹崎季長の奮戦
蒙古襲来絵詞に描かれた竹崎季長の奮戦(出典:Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

■ それでも日本軍は持ちこたえた

苦戦しながらも、日本軍は壊滅には至りませんでした。

御家人たちは個々の武勇で反撃を試み、元軍に一定の損害を与えたとされています。とくに、少弐景資率いる日本軍の反撃は元軍の副将・劉復亨りゅうふくこうを負傷させるほどの激しさでした。

日暮れとともに、日本軍は大宰府だざいふ方面に退いて体勢を立て直しました。翌日の決戦に備えたのです。

ところが——翌朝、博多湾を見た日本軍は驚きました。元軍の船が、一隻も残らず消えていたのです。

神風の真実:なぜ元軍は撤退したのか?

神風が吹いて元軍の船を沈めた」——文永の役でもっとも有名なエピソードがこれでしょう。

しかし、本当に神風が元軍を撤退させたのでしょうか?

■ 「神風」伝説はどう生まれたのか

「日本には神風が吹くから外敵は入れない」——この考え方は、元寇のあとに広まったものです。

とくに後年の弘安の役(1281年)では実際に暴風雨が元軍の船団を壊滅させたとされており、この印象と文永の役が混同されて「2回とも神風で勝った」という伝説が広まっていきました。

ところが近年の研究では、文永の役における「神風」は実際には存在しなかった可能性が高いとされています。

■ 元軍が撤退した本当の理由

では、なぜ元軍は一夜のうちに撤退したのでしょうか。現在の歴史研究では、いくつかの説が提唱されています。

撤退理由の主な説

説1:補給線の限界
元軍は海を渡っての遠征であり、長期戦に必要な食料・矢・水の補給が十分ではありませんでした。もともと短期決戦を想定しており、戦いが長引けば不利になることは明らかでした。

説2:副将の負傷と作戦判断
副将の劉復亨が矢で負傷し、指揮系統に影響が出たことが撤退の一因とされています。高麗側の史料『高麗史こうらいし』には、将軍たちが「兵力も矢も尽きつつある。このまま深入りすれば危険だ」と判断したと記されています。

説3:偵察的な遠征だった
そもそも文永の役は、本格的な征服戦争ではなく日本の軍事力を「探る」偵察目的だったとする説もあります。

神風は本当にあったの?

文永の役で暴風雨があったとする史料は限られており、帰路の途中で嵐に遭って船が沈んだという記録はあるものの、「博多湾で暴風雨が元軍を壊滅させた」という証拠は確認されていません。近年の海底遺跡調査でも、文永の役の沈没船は発見されておらず、大規模な暴風雨で船団が壊滅した可能性は低いと考えられています。「神風」伝説は、主に弘安の役のイメージが文永の役にも投影されたものと見るのが現在の主流の見方です。

もぐたろう
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つまり、文永の役では「神風で勝った」というより、「元軍が自らの判断で引き上げた」というのが実態に近いんだ。帰りの航海中に嵐に遭って船が沈んだという話はあるけど、それは戦場での出来事ではなかったんだね。

3度目の侵攻計画があった?
実はフビライは弘安の役(1281年)のあとも、3度目の日本遠征を計画していました。しかし元の国内で反乱が相次いだことや、フビライ自身の死去(1294年)などにより、計画は実現しませんでした。

文永の役のその後:石塁建設と幕府の衰退

文永の役で元軍を退けた鎌倉幕府ですが、この戦いの「その後」こそが、幕府の運命を大きく左右することになります。

■ 石塁(防塁)建設——二度目に備えよ

文永の役の翌年、幕府は九州の御家人たちに石塁せきるい防塁ぼうるい)の建設を命じました。

石塁とは、博多湾の海岸線に沿って築かれた石造りの防壁のことです。全長はおよそ20kmにも及び、元軍が再び上陸してきたときに海岸で食い止めるための防御施設でした。

もぐたろう
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この石塁は今でも福岡市の海岸沿いに遺跡として残っているよ。当時の御家人たちが必死で築いた防壁なんだ。実際、7年後の弘安の役ではこの石塁が大きな効果を発揮したんだよ。

■ 恩賞がもらえない!——御家人の不満

文永の役で大きな問題になったのが、恩賞(ご褒美としての土地)の問題です。

鎌倉幕府の武士社会は「御恩と奉公」で成り立っていました。戦いで命をかけた御家人には、幕府が恩賞として新しい領地りょうちを与えるのが当然とされていたのです。

ところが、文永の役は防衛戦争でした。敵の土地を奪ったわけではないため、御家人に分け与える土地がない

元寇後の恩賞問題のポイント
命をかけて戦った御家人 → 恩賞(土地)がもらえない → 不満が蓄積 → 幕府への信頼が低下

さらに石塁建設や異国警固番役いこくけいごばんやくの負担は、御家人たちの経済をじわじわと圧迫していきました。戦いで手柄を立てても報われない。防備の費用ばかりがかさむ。こうした不満は次第に幕府への不信感へと変わっていったのです。

北条時宗
北条時宗

御家人たちの不満はわかっている。だが、与える土地がないのだ…。元はまた来る。今は防備を固めることが最優先だ。

■ 使者の処刑と弘安の役への道

文永の役のあと、フビライは再び日本に使者を送りました。しかし北条時宗は、今度はこれまでとは違う強硬な対応に出ます。

1275年、元から派遣された使者を処刑したのです。外交使節の処刑は国際的な慣行に反するもので、これは時宗の「元とは一切交渉しない」という断固たる意思表示でした。

使者の処刑に激怒したフビライは、ついに本格的な日本征服を決意します。こうして、7年後の1281年弘安の役こうあんのえき——2度目の元寇——が起こることになるのです。

■ 元寇が鎌倉幕府の衰退につながった

文永の役と弘安の役を乗り越えた鎌倉幕府ですが、皮肉なことに、元寇の「勝利」こそが幕府衰退の大きな原因となりました。

恩賞不足による御家人の不満、防備費用による経済的疲弊、そして惣領制の崩壊による武士の困窮——これらが複合的に重なり、幕府の支配体制は徐々に揺らいでいきました。

やがて1333年、鎌倉幕府は滅亡します。元寇から約60年後のことでした。

もぐたろう
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文永の役は「勝ったのに滅びのきっかけになった」という、なんとも皮肉な戦いだったんだ。次の弘安の役ではどんな戦いが待っているのか、そちらもぜひ読んでみてね。

文永の役と弘安の役の違いをわかりやすく比較

元寇は「文永の役」と「弘安の役」の2回にわたって行われました。この2つの戦いはどう違うのでしょうか?ここでは表でわかりやすく比較してみましょう。

比較項目文永の役(1274年)弘安の役(1281年)
時期1274年(文永11年)10月1281年(弘安4年)5〜8月
元軍の兵力約2万5000〜4万人(諸説あり)約14万人(東路軍+江南軍)
侵攻ルート高麗 → 対馬 → 壱岐 → 博多湾高麗・中国南部 → 壱岐 → 博多湾・鷹島
日本側の防御石塁なし(防備不十分)石塁(防塁)建設済み
戦いの経過博多湾に上陸し日本軍と交戦。1日で撤退石塁に阻まれ上陸困難。約2か月の長期戦
結果元軍が一夜で撤退(理由は諸説あり)暴風雨で元軍の船団が壊滅し撤退
「神風」の有無なかった可能性が高い暴風雨があったとされる
男性疑問キャラ
生徒

文永の役は1日で終わったのに、弘安の役は2か月もかかったの?ずいぶん違うんだね。

もぐたろう
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そうなんだ。弘安の役は兵力が文永の役の約5倍にもなっていて、元にとっては「本気の征服戦争」だったんだよ。でも、日本側も文永の役の反省を活かして石塁を築いていたから、簡単には上陸できなかったんだ。

文永の役と弘安の役で大きく異なるのは、規模日本側の準備です。

文永の役では日本側に防備がほとんどなく、元軍の「てつはう」や集団戦法に大きく苦しめられました。しかし弘安の役では、石塁のおかげで元軍は博多湾への上陸を阻まれ、沖合で停泊を余儀なくされたのです。

そして弘安の役では、本当に暴風雨(台風)が元軍の船団を襲い、壊滅的な被害をもたらしたとされています。文永の役の「神風」は伝説色が強いですが、弘安の役の暴風雨は実際に起きた可能性が高いと考えられているのです。

テストに出やすいポイントまとめ

テストに出やすいポイント
  • 文永の役は1274年(文永11年):元・高麗連合軍が博多湾に上陸した最初の元寇
  • てつはう(鉄炮):元軍が使った爆裂弾。火薬兵器の恐怖で日本軍を苦しめた
  • 北条時宗:鎌倉幕府の第8代執権。元の国書を拒絶し、防衛を指揮した
  • 博多湾:元軍が上陸した場所。現在の福岡市にあたる
  • 石塁(防塁):文永の役後に九州沿岸に築かれた石造りの防壁。弘安の役で効果を発揮した
  • 竹崎季長と蒙古襲来絵詞:竹崎季長が描かせた絵巻物。元寇の貴重な一次史料
  • 恩賞問題:防衛戦争のため与える土地がなく、御家人の不満が蓄積 → 幕府衰退の一因

覚え方のコツ
文永の役は1274年。「いつ(1)ふ(2)な(7)し(4)の文永の役」(船なしでは海を渡れない)という語呂合わせで覚えている人も多いよ。弘安の役は1281年。セットで覚えよう。

もぐたろう
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テストでは「文永の役」と「弘安の役」を混同しないように注意しよう。「文永=最初の元寇・1274年」「弘安=2回目・1281年・暴風雨で壊滅」と整理しておくとバッチリだよ!

文永の役・元寇についてもっと知りたい人へ

もぐたろう
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元寇をもっと深く知りたい人に、おすすめの2冊を紹介するよ。どちらも「神風は本当にあったのか?」という疑問に正面から向き合っている良書だよ!

①『蒙古襲来と神風』(中公新書)

九州大学名誉教授の服部英雄氏による学術的な一冊。沈没船の発掘調査や最新の考古学的知見を踏まえながら、神風伝説の実態・てつはうの威力・元軍撤退の真相を丁寧に解説しています。中高生〜大学生にも読める平易な文体です。

②『世界史のなかの蒙古襲来』(扶桑社新書)

モンゴル史の専門家・宮脇淳子氏が、元・高麗側の一次史料(元史・高麗史)をもとに元寇の全体像を解説した一冊。「なぜモンゴルは日本に攻めてきたのか」をフビライ側の視点から読み解けます。世界史としての元寇に興味がある人に最適です。

よくある質問

「ぶんえいのえき」と読みます。「ぶんめいのえき」と誤読されることがありますが、正しくは「ぶんえい」です。「文永」は1264〜1275年の元号で、この役が起きた1274年(文永11年)に由来します。

1274年(文永11年)10月に起きました。元・高麗連合軍は、まず対馬・壱岐を攻撃したあと博多湾(現在の福岡市)に上陸し、日本軍と交戦しました。戦闘は約1日で終わり、元軍はその夜のうちに撤退しています。

日本軍がてつはうや集団戦法に苦しみながらも持ちこたえたこと、副将・劉復亨が負傷したこと、元軍の補給が限られていたことなどが重なり、元軍は自らの判断で撤退したとされています。「神風で勝った」という通説は現在の研究では否定的に見られています。

文永の役(1274年)で暴風雨が戦場で元軍を壊滅させたという証拠は確認されていません。帰路で嵐に遭ったとする記録はありますが、大規模な沈没被害の考古学的証拠はありません。一方、弘安の役(1281年)では実際に暴風雨(台風)が元軍に甚大な被害を与えたとされています。

てつはう(鉄炮・てっぽう)は、元軍が使用した爆裂弾のことです。鉄製の容器に火薬を詰めて投げつけると爆発し、大きな音と破片で周囲に被害を与えました。蒙古襲来絵詞にもその様子が描かれており、火薬兵器に慣れていなかった日本軍は大いに苦しめられました。

文永の役(1274年)は元軍約2万5000〜4万人(諸説あり)が博多湾に上陸した最初の元寇で、約1日で元軍が撤退しました。弘安の役(1281年)は約14万人の大軍が攻め寄せた2回目の元寇で、日本側は石塁で防御し、約2か月の戦いの末に暴風雨で元軍が壊滅しました。規模・期間・結果いずれも大きく異なります。

まとめ:文永の役のポイント

文永の役のポイントまとめ
  • 文永の役(1274年)は、元(モンゴル帝国)・高麗連合軍が博多湾に上陸した最初の対外戦争
  • 元軍のてつはう・集団戦法に日本軍は苦戦したが、元軍は一夜のうちに撤退した
  • 神風」伝説は後世に作られた可能性が高く、撤退の本当の理由は補給線の限界や内部判断とされる
  • 文永の役のあと、幕府は石塁(防塁)を建設したが、恩賞不足で御家人の不満が高まった
  • 恩賞問題・防備費用の負担が重なり、元寇の「勝利」が皮肉にも鎌倉幕府衰退の遠因となった

もぐたろう
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以上、文永の役のまとめでした!「神風で勝った」という話が有名だけど、実際の歴史はもっと複雑で、いろんな要因が絡み合っていたんだね。元寇全体の流れや弘安の役についても、ぜひ下の記事で読んでみてください!

文永の役をめぐる年表
  • 1268年
    元からの国書が届く(フビライの要求)
  • 1268〜1272年
    幕府・朝廷が国書を無視(複数回)
  • 1274年10月
    文永の役:元・高麗軍が博多湾に上陸
  • 1274年10月20日夜
    元軍が博多湾から撤退(理由は諸説あり)
  • 1275〜1276年
    幕府が九州沿岸に石塁(防塁)建設を命令
  • 1275年
    元の使者を処刑(北条時宗の強硬姿勢)
  • 1281年
    弘安の役:2度目の元寇
  • 1333年
    鎌倉幕府滅亡(恩賞問題など元寇の影響が遠因)

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📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「文永の役」(2026年4月確認)
コトバンク「文永の役」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)p.108–109
コトバンク「文永の役」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年4月確認)
コトバンク「宗助国」「平景隆」(日本大百科全書、2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「文永の役」「宗助国」「平景隆」「少弐景資」(2026年4月確認)
Historist(山川オンライン辞典)「文永の役」「石築地」(2026年4月確認)

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この記事を書いた人
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