今回は、1274年10月に元軍と日本軍が戦った文永の役(ぶんえいのえき)について簡単にわかりやすく紹介していきたいと思います。
元寇は663年に起こった白村江の戦いぶりの本格的な対外戦争であり、日本の歴史上でも最大級の国難です。
そして、元寇と言えば「神風で敵ぶっ倒したぜ!」って話が有名。
しかしながら、「なぜ元軍ははるばる日本を攻めてきたの?」「どーゆ経過で戦争になったの?」「戦争の経過は?」などなど詳細な話になると知っている人はあまりいないように思います。
しかし、歴史としての元寇の面白さはまさにその詳細な点にこそ隠されています。というわけで、今回は文永の役について以下の観点で色々と語ってみようと思います。
文永の役と元
まずは元(げん)ってどんな国なんだ?ってのをザックリと。
元は、モンゴル民族が次々と領土を拡大していった末に出来上がった超大国です。1206年に初代モンゴル帝国皇帝のチンギス・ハーンという人物によって創られました。
モンゴルは良馬の産地であり、弓を主力武器とした軽装騎馬兵がめちゃくちゃ強くて次々と周辺国を征服。あっという間に中央アジア全域を治めてしまいます。
1260年には、5代目モンゴル皇帝となるフビライハーンが即位。そして1271年に国号を「大元」と改めたことから元という国が完成します。
次々と領土を拡大していく元ですが、東アジア方面では比較的文明の進んでいた高麗と宋の侵略にはかなり苦戦します。
元は1231年〜1259年の28年もの間、高麗攻め続け、遂に高麗は降伏。その後、高麗はモンゴル帝国の従属国となりました。
高麗を服従させた元が次に標的と定めたのが宋でした。しかし、宋は強い!!
元は正面から宋とやり合うのは得策ではないと考え、宋の周辺国を征服し宋を孤立させることで宋を弱体化させようと図ります。(これは元軍に限らず、戦争の常套手段です。)
そして、そんな宋の周辺国で邪魔だった国の1つが日本だったのです。
文永の役のきっかけ
当時の日本は、宋と貿易を活発に行なっていました。
日本が宋に輸入していた主な物は金・硫黄・真珠などでした。特に硫黄は、火薬の原料となる貴重な資源です。このことから元は、敵国の宋へ火薬の原料や莫大な金を輸入している日本を最初に潰すべきだと考えたんじゃないか・・・と言われています。(この点については諸説ある。)
文永の役と外交の数々
文永の役で元軍が攻めてきた!!と言ってもいきなり攻めてきたわけではありません。
元は文永の役を始める何年も前から使節団を派遣して「日本さんよ、仲良くしようや。おとなしく降伏してくれたら兵を使わなくて済むしみんな幸せだぜ?」みたいな脅し外交を繰り返し続けていました。しかし、何度脅しても屈してこない日本に痺れを切らせて起こったのが文永の役なのです。
その第1回目の使節団派遣は、1266年に行われました。その役目は、日本との貿易経験もある元の属国になった高麗に託されます。
しかし、高麗は乗り気ではありません。何故なら、日本と元が戦争をすることになれば、元の従属国となった高麗からも兵を出さざるを得ないからです。高麗は長年の元との戦いでただでさえ国土も人も疲弊しており、これ以上の無益な戦いはしたくなかったわけです。
というわけで、1回目の使節団の派遣は、「天候が悪いし、日本人は怖いから・・・」という高麗側の理由で中止となりました。
しかし、絶対服従を誓ったはずの高麗が命令に従わなかったことにフビライハンは激怒。こうして1268年に2回目の使節団派遣が行われます。この時は、ちゃんと日本に向かったようで太宰府にて迎えられました。高麗からの使節団は、元からの封書を日本人に渡し、その返答を太宰府で待つことになります。
しかし、いくら待っても日本からの返事がありません。
日本としては返事をしないことを持って、確固たる意志を示したつもりでしたが、国際ルールとしてはかなり非常識な行為です。高麗からの使者はなぜ日本から返書がないのかわからず、困惑したまま帰国していくことになります。
そうするとまたもやフビライハンは不機嫌です。
フビライハン「おい、高麗の野郎ども。前に日本へは行けないと言っていたのに今回はちゃんと行けたよな。ってことは最初のは嘘だったってことだろ!?今回もさ、『なぜか日本は返事をくれなかったんです〜』とか言ってもね、全然信用できないんだわ。次は元の使者も遣わすから、次は必ず命令に従うことだ。」
元寇(文永の役・弘安の役)って日本も大変だったんですけど、それ以上に辛い想いをしていたのはおそらく高麗だったはずです。日本と元の間で板挟みにあい、非常に苦しい立場に立たされています。
1269年、3回目の使者を派遣するも、対馬で日本人に追い返され失敗。
同年、さらに4回目の使者を派遣するも、再び日本からの返答はなし。
フビライハンも流石に痺れを切らせ、日本に対して軍事行動を起こそうとした矢先、なんと次は高麗で反乱が起こします。この反乱は三別抄(さんべつしょう)の乱と呼ばれ、これにより日本進軍は一旦ストップします。日本としてはラッキーです。
1271年、高麗から日本に援軍要請らしきものがあります。しかし日本はこれを拒否。というのも、これまで何度も「元に服従しろや!」って使者を送ってきた高麗が突然いきなり援軍よこせって言ってくるんです。日本政府としては状況が意味不明すぎて、援軍要請に応じることはできなかったのでした。
ここで、もし日本が高麗に援軍を送っていれば、文永の役の戦局は大きく変わったかもしれません・・・。
高麗の惨状
1270年、元は日本侵略の兵站拠点を朝鮮半島に作るべく、趙良弼(ちょうりょうひつ)という人物を送り込み、高麗人に土地や牛を提供させ、強制労働させることで田畑を耕し軍糧を得ようと考えました。この時、高麗の人々の多くが飢餓で苦しみ、草や木の葉を食べて飢えをしのいだと言われています。
1271年、その趙良弼は5回目の使者として日本へ向かいます。三別抄の乱で背後が不安定だったことや、2度にわたって使者を無視した日本との万一の戦争に備え、朝鮮半島の先端では元の兵たちが構えていました。
そして、使者だった趙良弼も今回ばかりは本気でした。1271年9月に日本に到着した趙良弼は「これまで何度も返書を無視してきたが、今回ばかりは許さん。11月までに返書をくれなければ、ガチで戦争(文永の役)だからな。」と宣戦布告みたいなことまでしています。
しかし、日本政府はまたしてもこれを無視。ここに至り、「いつか元と戦うかもしれないなぁ・・・」と漠然思っていた日本政府も戦争が直前に迫っていることを確信し、防衛線の準備を本格的に開始します。
その後、1272年1月に趙良弼は帰国。そして同年、再び6回目の使節として日本を訪れ、一年間を日本で過ごすことになります。この一年間で趙良弼が何をしていたのかはわかりませんが、帰国したフビライハンに対してこんなことを言い始めます。
趙良弼「日本は山ばかりで土地に恵まれていないし、人々も野蛮だ。犠牲を払ってまで征伐などしない方が良い」
日本で何かあったんでしょうねぇ・・・何かわからないですけど。
フビライハンは一度は趙良弼の考えになびいたようです。しかし、1273年というのは、フビライハンにとっては嬉しい一年で、三別抄の乱を鎮圧し、あの強敵だった宋の最重要拠点を攻め落とした年でもありました。もはや我の前に敵なしと言わんばかりに、フビライハンは考えを変え、再び日本への侵略戦争(文永の役)を企てるのでした。
こうして1274年10月、いよいよ元VS日本の文永の役が始まります。
文永の役までの元の使節団の経過を整理するとこんな感じ。
1回目(1266年) | 高麗人のボイコットで中止 |
2回目(1268年) | 日本に服従するよう文書を渡すも、シカトされる。返書がないことにフビライハン激怒。 |
3回目(1269年) | 対馬より先に進めず失敗 |
4回目(1269年) | 日本に到着するも、またもや日本政府はシカト |
5回目(1271年) | 「返書よこさんと戦争だ」と脅しをかけるも、それでも日本政府はシカト。いよいよ戦争勃発の予感。 |
6回目(1272年) | 趙良弼の謎の一年間の日本滞在。1273年に元に戻った趙良弼はなぜか日本進軍を辞めるようフビライハンを諭す。しかし、趙良弼の意見は聞き入れられず。 |
元・高麗、そして日本の三者三様の考え方があります。何も知らないと元VS日本に見える文永の役ですが、実は元と日本の間に高麗がいます。高麗の複雑な立場もあって、当時の国際情勢は意外と複雑だったのです。
文永の役と日本の対応
さて、一方の日本は迫り来る文永の役に向けてどんな準備をしていたのでしょうか。
これが実にお粗末な対応で、5回目の趙良弼が脅しを仕掛けてきた1271年頃まで本格的な防衛策は行われていなかったようなんです。なので、もし三別抄の乱で高麗が時間を稼いでくれてなければ、日本は簡単に叩き潰されていたかもしれません。
1271年以降、日本では文永の役に備え、九州北部沿岸の警備を行う異国警固番役(いこくけいごばんやく)という役職が置かれました。異国警固番役には、九州に所領を持っていた東国武士たちが抜擢され、沿岸警備は交代制で行われました。
それに加え、九州の守護職になっていた反北条時宗派の勢力の一掃にも力を入れます。この反北条氏討伐の内紛のことを二月騒動と言います。ここでは詳細を書ききれなかったので、詳しくは以下の記事をご覧ください。
文永の役の経過
雑な地図ですが、上の地図を使って文永の役の経過を紹介します。
1274年10月3日、元軍は朝鮮半島の合浦を出航。まずは対馬を目指します。ちなみに元の軍隊には、元に服従させられていた高麗の人々の参戦しており、この記事では元・高麗軍という表記を中心に使っていきます。
高麗人は本当に踏んだり蹴ったりです。国を荒らされ、重い使役を課され、しまいには文永の役にまで参加させられたんですからね。ちなみに、元寇の際に用いられた多くの船も高麗人によって造られており、手抜き工事で作られたのでは?なんて言われています。
文永の役と対馬・壱岐
10月3日〜5日、元・高麗軍は対馬に到着。
元・高麗連合軍は対馬の人々と戦ったようですが、この時の詳細な経過はわかっていませんが、おおむね2つの説があります。
戦争において敵を背後に残して進軍することはまず考えられないので、対馬の人々の動向は全滅したか服従したのかの2択しかないはず。いずれにせよ、対馬にとっては悲劇的な事件だったことは間違いないはず。
ちなみに、元・高麗連合軍は大型船100〜300、小型船600ぐらいの規模で、水夫(船を運転する人)も合わせた総人数は10,000〜40,000ぐらいだったと言われています。数値に幅があるのは具体的な数字がはっきりしから。
対馬がすぐに平定された後、1273年10月13日、元・高麗連合軍は、壱岐に到着。ここでは、多くの島民が命を落としたと言われています。
壱岐島の守護職(代表者)だった平景隆(たいらのかげたか)が100騎ほどで元・高麗連合軍に抵抗しますが、数万の敵の前には多勢に無勢。あっという間にやられてしまいます。
まさに蹂躙という言葉が相応しいような悲惨な状況だったのだろうと思う・・・。
その後、元・高麗連合軍は今でいう長崎・佐賀北部を荒らしながら、博多湾を目指します。
文永の役と赤坂の戦い
10月19日、元・高麗連合軍は志賀島にて本陣を構え、20日早朝、遂に元・高麗連合軍が日本の主力部隊と衝突します。
元・高麗連合軍は志賀島から博多湾に上陸。赤坂山を目指します。上陸場所ははっきりとわかっていませんが、その兵数の多さから博多湾一帯に上陸したことが考えられます。
さて、敵国に上陸してまず最初にすべきことは、安全な拠点の確保です。そして安全な拠点には多くの場合、山は丘陵地など高い場所が選ばれます。
文永の役の際に元・高麗軍が拠点と考えたのが赤坂山だったのです。この赤坂山、今でいう福岡城跡地付近です。
赤坂山はその地勢上、博多湾上陸後の重要拠点でした。戦国時代に黒田長政が福岡城をここに建設したのには合理的な理由があったわけです。元・高麗連合軍は長い間続いた使節団の派遣を通じて日本の地理をしっかりと把握し、戦略を練っていたことがわかります。
一方、あっさりと要所を奪われてしまった日本軍は、赤坂山の東に位置する息の浜で陣を構えていました。馬の脚の使いやすさを考えてあえて、潟のある赤坂山ではなく息の浜を選んだと言われています。
【浜で陣を構える少弐景資たち】
ところが、敵将を仕留めて手柄を立てたい菊池武房という人物が先行して奇襲を仕掛け、赤坂山に構える元・高麗軍を敗走させてしまいます。
【打ち取った敵の首を持ち帰る菊池武房の様子】
敗走する元・高麗連合軍は、赤坂山の西にある次なる拠点候補の麁原山(そはらやま)へと向かいます。
文永の役と鳥飼潟(とりかいがた)の戦い
この敗走する元・高麗軍を追撃したのが鳥飼潟の戦いと言われる戦い。この戦いが文永の役の主戦だったとも言われています。
この戦いの様子が、おそらく多くの人が一度は見たことがあるであろう以下の絵巻に描かれています。
右の馬に乗っているのが竹崎季長(たけざきすえなが)という武将。左側が元・高麗軍です。そして、右上で爆発しているのがあの有名な「てつはう」です。
この絵巻に載っている竹崎季長は苦戦をするものの、戦い自体は日本軍が有利に進め、元・高麗連合軍は麁原山に逃れその日の戦いは終わります。
文永の役と元軍の戦法
さて、てつはうを始めとして未知の武器と遭遇する日本軍ですが、元軍の戦法とは一体どんな感じだったのでしょうか?
元軍は、音をとても有効活用していたと言われています。元の陣営には銅鑼(どら)があって、軍全体の指揮や戦闘開始の合図には銅鑼の音が使われます。(日本の戦闘開始の合図は、矢合わせという弓矢の一斉放射だった。)
てつはうも、爆発による殺傷能力だけではなくその閃光や爆音で相手をビビらせる効果もありました。日本軍は騎兵が多かったので、てつはうで馬がビビって行動不能に陥るケースが多くあったものと思います。
そして、元の兵たちは基本的に軽装備。主力武器は弓矢。日本の弓より小型で飛距離はでませんが、その先端には毒が塗ってあり殺傷能力は相当なものでした。
あと、意外かもしれませんが日本兵の主力武器も、元と同じく弓でした。日本刀のイメージがあるかもしれませんが、実はそうではないのです。上の絵を見ても、皆弓を持っているのがその証拠です。日本の弓は大きく、飛距離も破壊力もあり、元軍を大いに苦しめたようです。
具体的な元寇の戦闘描写について興味のある方は、ぜひ以下のマンガを読んでみて欲しいです。マンガとしても面白いですし、ストーリー自体は史実に合わせた創作物ですが、その戦闘描写はとてもリアル。著者の方が相当な研究をしたことが見ただけでわかります。
文永の役に神風はなかったっぽい
鳥飼潟の戦いの後も日本軍の追撃が続きます。そして、日本の総大将である少弐景資自ら、前線で弓を放ち敵の大将と射止めたという記録が残っています。
この時少弐景資が射止めたのは文永の役における元・高麗軍の副将だった劉復亨(りゅうふくこう)だと言われており、副将の負傷により元・高麗軍は撤退について検討を始めたと言われています。
少弐景資の武勇は素晴らしいのですが、総大将自ら戦っていることを考えると日本軍も相当苦戦し、被害を受けていたのだろうと思います。
そしてここからの展開は、大きく2つの説に分かれます。
どっちが正しいのかはわかりませんが、神風説については以下の点で無理があるように思います。
なので、「神風によって日本軍は勝った!」というよりも「日本軍が敵を追い払い、その帰路で敵は被害を受けた」という方が正確なのだろうと私は思っています。
さらに、仮に帰路で風に煽られたとしても当時、台風のような暴風雨が吹き荒れた記録は残っていません。つまり、元・高麗軍は比較的ショボい風で遭難した可能性があるんです。
先ほど話したように元・高麗軍の船は高麗人による強制労働によって造られた船です。手抜き工事で造られた可能性大であり、帰りに遭難したのは天災というよりも人災だった可能性の方が高いのかもしれません。
・・・手抜き工事で高麗人が造った船に高麗人が乗って遭難するとは、まさに文永の役は高麗にとっては悲劇以外の何もでもありません。
さて、何はともあれ、元・高麗軍は撤退し、日本はひとまず国を守ることができたわけです。
文永の役まとめ
もっとたくさん語りたいことはあるのですが、文永の役についてサクッとまとめてみました。
この戦いで一番被害を受けたのは意外にも日本でなく、おそらくは高麗です。重い労働を強いられ、強制出兵までさせられた上に敗戦。しかも、帰り道は嵐に見舞われた上に、戦いはこれで終わらず、再遠征に向けて再び使役を課されるわけですからたまったもんじゃなりません。高麗にとって文永の役・弘安の役は悪夢そのものだったんです。
文永の役に関連した面白い話は他にもたくさんあります。
竹崎季長の話からは当時の日本人の処世術や考え方、「神風」の話からは当時の日本人の信仰心が垣間見ることができてとても興味深い。これらについては、一つの記事ではまとめきれませんので、また別の機会に記事にしたいと思います!
先ほども紹介しましたが、元寇に興味のある方はアンゴルモア元寇戦記がかなり面白いのでオススメ!
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