政所・侍所・問注所とは?鎌倉幕府3機関の役割と初代別当をわかりやすく解説

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侍所・政所・問注所 鎌倉幕府3機関

もぐたろう
もぐたろう

今回は鎌倉幕府の3つの機関「侍所・政所・問注所」について、初代別当の名前から設置の背景まで、わかりやすく丁寧に解説していくよ!テスト前に絶対読んでおいてね。

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 侍所・政所・問注所の役割の違い(それぞれ「今でいうと」何をする機関か)
  • 初代別当3名の名前と担当機関(和田義盛・大江広元・三善康信)
  • 公文所から政所へ名称が変わった理由(競合があまり触れない差別化ポイント)
  • 設置の背景と源頼朝の統治戦略(なぜ3つに分けたのか)
  • テストに出るポイントと覚え方(初代別当・設置年・役割を整理)

「侍所・政所・問注所って3つも覚えるのが大変…」と感じている人も多いのではないでしょうか。でも実は、この3つの機関には共通の背景があります。どれも源頼朝の仕事が増えすぎて手が回らなくなったから作った」という事情です。役割を1つ1つ丸暗記するより、「誰のために・何のために・いつ作られたか」をストーリーで理解すると、初代別当の名前まで自然に覚えられます。

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鎌倉幕府の3つの機関とは?侍所・政所・問注所を比べてみよう

鎌倉幕府は、1180年代に源頼朝が東国で武家政権を立ち上げる過程で、「軍事」「行政」「司法」の3つの仕事を分担するために侍所さむらいどころ政所まんどころ問注所もんちゅうじょという3つの機関を作りました。

頼朝は最初、ほとんど1人で東国の御家人たちをまとめていました。しかし御家人ごけにんの数が増え、訴訟や事務仕事も膨らんでくると、とても1人ではさばききれません。そこで、仕事を「武士を束ねる係」「お金や事務を回す係」「もめごとを裁く係」の3つに分けたのです。

鎌倉幕府に仕えた御家人(武士)の姿
幕府に仕えた御家人(武士)たち。3つの機関は、増え続けるこの御家人を束ねるために生まれた(図は『蒙古襲来絵詞』より)

まずは3機関の全体像を、一覧表で確認してみましょう。

機関名読み方今でいうと設置年初代別当
侍所さむらいどころ警察+軍事司令部1180年和田義盛
公文所→政所くもんじょ→まんどころ内閣府+財務省1184年→1191年大江広元
問注所もんちゅうじょ裁判所(事務局)1184年三善康信

3行まとめ

侍所=御家人を統率する軍事・警察機関。初代別当は和田義盛(1180年)
政所=財政・一般政務を担う行政機関。初代別当は大江広元(1184年公文所→1191年政所)
問注所=訴訟・裁判の手続きを担う司法機関。初代別当(執事)は三善康信(1184年)

ゆうき
ゆうき

テスト前なんだけど、3つ全部「初代別当」まで覚えないといけないの?絶対出る?

もぐたろう
もぐたろう

うん、テスト頻出!とくに「政所の初代別当は大江広元」「侍所の初代別当は和田義盛」は鉄板だよ。3人セットで覚えれば穴埋め問題も完璧。次の章では1つずつ詳しく見ていこう!

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侍所さむらいどころとは?役割と初代別当・和田義盛わだよしもり

侍所の初代別当は和田義盛です。1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆で挙兵してから半年ほど経った頃に設置された、鎌倉幕府で最も早く作られた機関です。

侍所の役割は、頼朝のもとに集まった御家人ごけにんたちを統率し、軍事行動や警備、武士たちの賞罰しょうばつを担当することでした。長官にあたる別当べっとうには、東国武士団のまとめ役として信頼の厚かった和田義盛が任命されました。

侍所の初代別当・和田義盛の肖像
侍所の初代別当・和田義盛の肖像

侍所ってなに?

侍所というのは、御家人(鎌倉殿に直接仕える武士たち)を取りまとめて、軍事行動の指揮・治安維持・武士たちの賞罰を担当する機関のことです。今でいうと「警察」と「軍の司令部」が合体したような組織。鎌倉幕府にとって武力こそが最大の財産だったので、3機関の中でも最も早く設置されました。

和田義盛
和田義盛

難しい話はわからんが、御家人どもをまとめるのはこの俺に任せろ!頼朝様の命令を東国の武士たちにビシッと行き渡らせるのが俺の仕事だ。

1180年といえば、頼朝が石橋山いしばしやまの戦いに敗れたあと、安房(千葉県)でやっと体勢を立て直し、鎌倉に入ったばかりの時期。まだ平氏との戦いも続いていて、御家人を1日も早く組織化する必要がありました。侍所はまさに「戦のための機関」としてスタートしたのです。

その後、源平合戦が終わった頃には、梶原景時が侍所の所司しょし(次官)として実務を仕切るようになり、和田義盛は名目上の別当として残ります。最終的に1213年、義盛は北条義時ほうじょうよしときとの「和田合戦わだかっせん」で敗れ、侍所別当の地位は北条氏に握られていきました。

あゆみ
あゆみ

侍所って、今でいうとどういう機関なんですか?警察と軍隊、両方やってたんでしょうか?

もぐたろう
もぐたろう

そう、まさに「警察+自衛隊」が一緒になったイメージ!平時は鎌倉のパトロール、有事には御家人を動員して戦争にも出る。当時の武家社会では、戦と治安維持は切り離せないものだったから、1つの機関でセットになってたんだよ。

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政所まんどころとは?役割と初代別当・大江広元おおえのひろもと

政所の初代別当は大江広元です。正確には、1184年に「公文所くもんじょ」という名で設置されたのが始まりで、1191年に「政所」へと改称されました。公文所の初代別当も、政所の初代別当も、ずっと大江広元が務めています

政所の役割は、幕府の財政管理・文書発行・一般政務。御家人への所領安堵や恩賞の事務、税の管理、頼朝の名で発行される命令文書(下文・下知状)の作成など、幕府の「頭脳と財布」にあたる仕事を一手に引き受けていました。

政所ってなに?

政所というのは、幕府の財政・文書発行・一般政務を担当する機関のことです。今でいうと「内閣府」と「財務省」を合わせたような役割。御家人へ恩賞を出すのも、税金を集めて管理するのも、将軍の命令を文書化して各地に送るのも、全部ここの仕事でした。ちなみに「政所」という名前は、もともと貴族の家政機関(家のお金や事務を扱う部署)を指す言葉で、頼朝が朝廷の慣習にならって採用したものです。

政所の初代別当・大江広元の肖像
政所の初代別当・大江広元の肖像

大江広元
大江広元

名前は公文所から政所に変わっても、私のやることは変わらぬ。文書で幕府を動かす。それが私の戦い方だ。

大江広元はもともと京都の朝廷で文書実務を担当していた下級貴族(実務官人)でした。京都で培った行政ノウハウを買われて頼朝に招かれ、鎌倉幕府の文書行政を一から作り上げた人物です。幕府の重要文書のフォーマットや決裁システムを整えたのは、ほとんど広元の手柄といってよいでしょう。

広元の働きは、事務仕事だけにとどまりませんでした。1185年、源義経の追討を名目に、頼朝が全国へ守護(惣追捕使)・地頭を置く権限を朝廷から獲得した際、その献策をしたのも広元だったとされています。鎌倉幕府が一地方政権から「全国を治める政権」へと飛躍する大きな一歩は、この京都仕込みの文人官僚の知恵から生まれたのです。

広元は頼朝の死後も幕府に残り続け、北条政子・北条義時ほうじょうよしときの時代まで政所の中枢を支えました。1221年の承久の乱じょうきゅうのらんでも、「ためらわず鎌倉から京へ攻め上がるべし」と進言したとされ、幕府勝利の立役者の1人になっています。武人ではないのに、ここまで幕府の中枢で活躍したのはきわめて異例でした。

ゆうき
ゆうき

テスト問題で「政所は今でいうと何?」って聞かれたら、なんて答えればいいの?

もぐたろう
もぐたろう

テスト的には「幕府の財政・一般政務を担当する機関」が模範解答!もう少し砕けて言うなら「内閣官房+財務省」ってイメージに近いよ。お金と書類を握ってる部署、って覚えるとわかりやすいかも!

問注所もんちゅうじょとは?役割と初代別当・三善康信みよしやすのぶ

問注所の初代の長官は三善康信です。1184年(元暦元年)、公文所と同じ時期に設置されました。なお、問注所の長官は他の2機関と違い「別当」ではなく「執事しつじ」と呼ばれます。ただし「初代別当」という言い方でも入試では通用するので、テスト的には「問注所の初代別当(執事)=三善康信」と覚えてしまって大丈夫です。

問注所の役割は、御家人どうしや所領をめぐる訴訟・裁判の手続きを担当することでした。当時の武士たちは土地(所領)が命綱でしたから、「誰の土地か」「年貢を誰が取るか」をめぐる訴えが連日のように持ち込まれていたのです。

問注所ってなに?

問注所というのは、御家人どうしや所領(土地)をめぐる訴訟・裁判の手続きを担当する機関のことです。今でいう「裁判所の事務局」のような役割。原告と被告を呼んで言い分を聞き、調書をまとめる「問注(もんちゅう)」を行うのが仕事だったので、その名前がそのまま機関の名前になりました。

ここで大事なのは、問注所は「判決を下す場所」ではなく、あくまで訴訟の手続きを進める専門部署だったという点です。最終的な裁決を下すのは、初期は頼朝自身、その後は将軍や執権、評定衆といった上位の権力者でした。問注所は、訴えを受け付け、当事者の言い分を整理して、裁定者に判断材料を渡す「司法の事務局」だったのです。

三善康信は、もともと京都で算道(算術)を家業とする下級貴族の出身で、法律(明法)にも通じた京都仕込みの法律専門家でした。母が頼朝の乳母の妹にあたり、頼朝が伊豆に流されていた頃から月に3度ほど京都の情勢を密かに伝え続けていたとされています。1180年(治承4年)には、朝廷が源氏を追討しようとしていることを頼朝に知らせ、奥州への避難を勧めたとも伝わっています。

ゆうき
ゆうき

「問注」って漢字、なんでこういう名前なの?難しいんだけど…

もぐたろう
もぐたろう

「問」は当事者から事情を問いただすこと、「注」はその内容を書き留める(注記する)こと。つまり「問注」=「事情聴取して調書を作る」って意味なんだ。問注所は「裁判の調書を作る役所」ってイメージで覚えるとピッタリ来るよ!

公文所くもんじょから政所まんどころへ:名前が変わった理由

「公文所」と「政所」、名前が違うのに初代別当は同じ大江広元。なぜ名前だけが変わったのでしょうか。答えは、頼朝の朝廷での身分が上がったからです。

当時の朝廷の慣習では、従三位以上の貴族(公卿)には、自分の家のことを取り仕切る「政所」という家政機関を置くことが認められていました。逆にいうと、それ未満の身分の者が自分の役所を「政所」と名乗ることはできなかったのです。

頼朝は1184年の時点ではまだその身分に達していませんでした。そのため、1184年に設置された段階では、より格下の「公文所」(公文書を扱う役所、という意味)という名前にせざるを得なかったのです。

公文所ってなに?

公文所は、1184年に設置された政所の前身にあたる機関です。「公文」とは公文書のこと。御家人への命令や所領に関する文書を作成・管理する役所として始まりました。初代別当は大江広元。1185年に頼朝が朝廷から「日本国惣追捕使ついぶし・惣地頭じとう」の権限を獲得し、さらに1190年に権大納言ごんだいなごん・右近衛大将に任じられ、公卿の地位が確認されたことで、1191年に「政所」へと名称を変えました。

つまり「公文所→政所」というのは、頼朝の昇進にあわせて、組織の格も格上げされたということ。実態として大江広元という同じ人物が、同じように文書行政を担っていたわけですから、仕事の中身はほぼ変わっていません

📌 ここが面白い:人事も仕事も同じなのに名前だけが変わるなんて、現代の感覚だと不思議に思えますよね。でも当時は「朝廷の身分秩序=役所の名前を決める基準」だったので、頼朝が公卿に昇格したら役所の名前も格上げしないと、かえって礼を欠くことになったのです。鎌倉幕府がまだ朝廷の権威に強く縛られていた証拠ともいえます。

ゆうき
ゆうき

テストで「公文所が政所になったのは何年?」って出たら、何て答えればいいの?

もぐたろう
もぐたろう

1191年」が正解!「頼朝が権大納言・右近衛大将(=従二位の公卿)になったから、公文所を政所へ格上げした」って理由までセットで言えると、記述問題でも満点が狙えるよ!

初代別当3名の覚え方:語呂合わせと設置年の整理

3機関の初代別当はテストの定番ですが、名前を覚えるのが苦手な人も多いはず。ここでは、定番の語呂合わせと、機能と人物を結びつけて覚えるコツを紹介します。

初代別当まとめ:侍所=和田義盛(1180年)/公文所・政所=大江広元(1184年→1191年)/問注所=三善康信(1184年)

機関役割タイプ初代別当その人の出自
侍所武力(軍事・警察)和田義盛東国の有力武士
政所行政(財政・文書)大江広元京都出身の実務官人
問注所司法(訴訟・裁判)三善康信京都出身の法律専門家

つまり、武士の機関には武士(和田義盛)文書と司法の機関には京都の実務官人(大江広元・三善康信)が抜擢された、という構図です。「武士=和田」「文書=大江」「裁判=三善」とイメージを結びつけると、3人の名前がごちゃつかずに頭に入ります。

ゆうき
ゆうき

設置年も全部覚えなきゃダメ?1180・1184・1184・1191…ややこしい!

もぐたろう
もぐたろう

3つのストーリーで覚えるとラクだよ!「1180年=挙兵直後に武士まとめが必要→侍所」「1184年=京都の実務官人を呼んで行政と裁判を整備→公文所・問注所」「1191年=頼朝が出世したから公文所を格上げ→政所」。流れで覚えれば年号も自然に頭に入るよ!

3機関はなぜ必要だったのか:源頼朝の統治戦略

ここまで侍所・政所・問注所それぞれの役割を見てきましたが、そもそも頼朝はなぜ「3つの機関」に分けて統治したのでしょうか。実はその裏には、武家政権を初めて作る男の周到な計算がありました。

キーワードは「分業」「裁判権の掌握」「文人と武人のバランス」の3つです。1つずつ見ていきましょう。

① 仕事量が爆発した:1人では幕府を回せない

1180年に挙兵した頼朝は、東国の御家人を次々と従えていきます。御家人が増えれば、その恩賞の分配・領地の管理・もめごとの仲裁もすべて頼朝の元に持ち込まれます。

当初は頼朝自身がすべてを取り仕切っていましたが、御家人が数百人規模に膨れ上がると、もはや1人ではさばききれません。そこで「軍事は侍所」「行政は政所(公文所)」「裁判は問注所」と分業体制を作ったのです。

源頼朝
源頼朝

仕事が多すぎて1人ではとても回らぬ…。軍事・行政・裁判、それぞれに信頼できる別当を置く。これが新しい武家政権のかたちだ。

② 裁判権を握ることが権力確立の鍵

頼朝にとって特に重要だったのが「裁判権」です。当時の御家人同士のもめごとの大半は「土地」をめぐる争いでした。誰がどの土地を支配するかは、武士にとっての生命線です。

もし御家人たちが京都の朝廷に裁判を持ち込めば、彼らは結局「朝廷の家来」のままです。逆に頼朝のもとで裁判が決着すれば、御家人たちは自然と「頼朝が主人」と認識します。裁判権を握ることは、御家人を支配することと同じだったのです。

源頼朝
源頼朝

裁判権を握った者が、この地を制する。問注所こそが幕府の礎だ。御家人たちのもめごとは、すべて鎌倉で決着させる。

あゆみ
あゆみ

つまり、頼朝にとって問注所は単なる裁判機関じゃなくて、御家人たちを「家来」として束ねるための装置だったってことですか?

もぐたろう
もぐたろう

その通り!「土地のもめごとは鎌倉で決める」というルールを作っただけで、御家人たちは自然と頼朝に従う形になるんだ。問注所は地味だけど、実は幕府の中で一番重要な機関だったって言えるよ。

③ 文人と武人のバランス:頼朝のスカウト力

3機関の初代別当の顔ぶれを見ると、頼朝の人選センスが光ります。

3機関 初代別当の顔ぶれ
  • 侍所:和田義盛(武人)…関東の武士団のリーダー。御家人の信頼が厚い
  • 政所:大江広元(文人)…京都から来た朝廷の元官人。文書行政のプロ
  • 問注所:三善康信(文人)…京都の明法家(みょうぼうけ)出身。法律の専門家

軍事は武士の和田義盛にまかせる一方で、行政と裁判という「頭を使う仕事」は京都出身の文人に任せています。武士だけでは国は治められない、という頼朝のリアリストぶりがよく分かります。

なぜ京都から文人を呼んだのか?

当時の関東の武士たちの多くは、文書の読み書きや法律の知識を持っていませんでした。土地のもめごとを公平に裁いたり、朝廷との外交文書をやり取りするには、どうしても朝廷で実務経験を積んだ文人の力が必要だったのです。大江広元と三善康信は、頼朝の挙兵に共鳴して京都から鎌倉に下ってきた、いわば「ヘッドハンティング」された幹部社員でした。

ゆうき
ゆうき

テストでよく出るのが「頼朝が3つの機関を作った理由」なんだけど、これって一言で言うと何になるの?

もぐたろう
もぐたろう

「武家政権を効率よく運営するための分業化」だね!テストでは「軍事・行政・裁判の3つに役割を分けた」と答えればOK。発展問題で「なぜ裁判権を独自に持ったのか」と聞かれたら「御家人を朝廷ではなく幕府に従わせるため」が答えだよ。

執権政治への変化:3機関のその後

頼朝が作り上げた侍所・政所・問注所の3機関体制は、頼朝の死後に大きく変化していきます。実はこの3機関の変化こそが、鎌倉幕府の権力構造の縮図なのです。

1199年:源頼朝の死去と将軍親政の終わり

1199年、頼朝が急死します。あとを継いだのは源頼家(18歳)でしたが、若く経験も浅いため、頼朝のようにすべてを一人で取り仕切ることはできませんでした。

頼朝の後を継いだ2代将軍・源頼家と3代将軍・源実朝
頼朝のあとを継いだ2代将軍・源頼家と3代将軍・源実朝。若い将軍のもとで、3機関の実権はしだいに北条氏へ移っていく

そこで御家人たちは「13人の合議制」と呼ばれる集団指導体制を作り、若い将軍を補佐することにしました。3機関の別当もこの合議に名を連ねます(大江広元・三善康信・和田義盛ら)。

📝 13人の合議制とは、1199年に源頼家を補佐するために設けられた集団指導体制のこと。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のタイトルにもなった。北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・和田義盛・梶原景時など、頼朝に仕えた有力御家人と文人官僚で構成された。

ゆうき
ゆうき

13人の合議制って、3機関とは別の組織なの?それとも3機関のメンバーが集まったもの?

もぐたろう
もぐたろう

3機関のトップたちが「合議メンバー」として集まったイメージだね!3機関は組織として残ったまま、その上に「みんなで相談して決めよう」という13人の話し合いの場ができたんだ。今でいうと「役員会議」みたいな感じかな。

1203年:北条時政が政所別当に就任

13人の合議制の中で、急速に頭角を現したのが頼朝の妻・北条政子の父である北条時政です。時政は1203年、源頼家を伊豆に幽閉して源実朝を新しい将軍に立てました。

そして時政自身は政所別当に就任します。この役職こそが、のちに「執権(しっけん)」と呼ばれる武家政権の事実上のトップとなるポストです。

つまり、頼朝の時代には「将軍が3機関を従える」構造だったのが、北条時政以降は「政所別当(執権)が将軍を補佐するふりをして実権を握る」構造に変わったのです。

「執権」の名前の由来

「執権」とは「権(けん)を執(と)る」つまり「権力を握る」という意味の役職名です。もとは政所の長官(別当)が複数になったときの筆頭別当を指す呼び名でしたが、北条氏が代々この職を独占したことで「北条氏のトップ=執権」という意味に固定されていきました。のちに侍所別当も執権が兼任するようになり、3機関の頂点に立つ役職に成長します。

1221年以降:執権政治の完成と評定衆の登場

1221年の承久の乱で、幕府は朝廷に対する優位を確立します。3代執権・北条泰時の時代には、3機関の運営も大きく変わりました。

じつはこの承久の乱の直前には、鎌倉幕府最大の名場面ともいわれるドラマがありました。朝廷が北条義時の追討命令を出すと、御家人たちの間には「朝敵になるのか」と動揺が走ります。そのとき、頼朝の妻・北条政子が御家人を前に「頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と頼朝以来の恩を説き、結束を訴えたとされます(『吾妻鏡』に伝わる名演説。実際は政子本人ではなく側近が代読したとも言われています)。バラバラになりかけた御家人たちはこの訴えで再び一つにまとまり、幕府は朝廷との戦いに踏み切りました。3機関を生み出した頼朝の「御恩と奉公」のつながりが、最大の危機を救ったのです。

承久の乱で朝廷に勝利した鎌倉幕府
承久の乱(1221年)。この勝利で幕府は朝廷を上回る力を確立し、3機関は執権・評定衆のもとで運営されるようになる

1225年、北条泰時は評定衆(ひょうじょうしゅう)という新しい合議制の組織を作ります。評定衆は政所・侍所・問注所の3機関を統括する形で、幕府の重要事項を決めるようになりました。

つまり3機関は「将軍の補佐機関」から「執権・評定衆の実務機関」へと性格を変えていったのです。役割そのものは残りますが、トップが将軍ではなく北条氏に変わったのが大きな違いです。

あゆみ
あゆみ

3機関は「箱」としてはずっと残っていたけど、トップが将軍から執権に変わっただけ、ということですか?

もぐたろう
もぐたろう

まさにその通り!会社でたとえると、3機関は「営業部・経理部・法務部」っていう部署のままで、社長(将軍)が形だけになって副社長(執権・北条氏)が実権を握る、みたいな感じだよ。鎌倉幕府の権力構造の変化は、3機関の上に誰がいるかを見れば一目瞭然なんだ。

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 侍所の初代別当(1180年設置):和田義盛
  • 政所の初代別当(1184年公文所→1191年政所):大江広元
  • 問注所の初代別当(1184年設置):三善康信
  • 政所の役割:政務・財政の文書作成、行政の中枢(今でいう内閣府・財務省)
  • 侍所の役割:御家人の統率・軍事・警察(今でいう警察庁・防衛省)
  • 問注所の役割:訴訟の取り調べ・記録(今でいう裁判所の事務局)
  • 公文所と政所の関係:1184年「公文所」として設置 → 1191年「政所」に名称変更(頼朝の右近衛大将・権大納言就任に伴う)
  • 3機関の上位機関:のちに執権(北条氏)が政所別当・侍所別当を兼任、評定衆が3機関を統括

💡 混同注意:政所と問注所はどちらも「文書」を扱う機関ですが、政所は行政文書、問注所は訴訟文書と役割が異なります。初代別当の名前(大江広元 vs 三善康信)とセットで覚えるのがコツです。「政(まつりごと)の所→大江」「問い注(ちゅう)の所→三善」と機関名と頭文字をセットで音読するとミスが減ります。

ゆうき
ゆうき

初代別当3人の名前が混ざる…!何かいい覚え方ないの?

もぐたろう
もぐたろう

役割と名前を「武人か文人か」で分けるとラクだよ!「侍(武人)→和田義盛(武士)」「政所・問注所(文人)→大江・三善(京都の官人)」って覚えるんだ。3人のうち武人は1人だけって覚えれば、迷わなくなるよ!

よくある質問(FAQ)

侍所・政所・問注所について、検索で多い質問にまとめてお答えします。

A. 侍所は「軍事・警察」、政所は「行政・文書作成」、問注所は「裁判手続き」を担当する機関です。現代でたとえると、侍所=警察・自衛隊、政所=内閣府・財務省、問注所=裁判所の事務局のイメージです。

A. 政所の初代別当は大江広元(おおえのひろもと)です。もともとは1184年に設置された公文所(くもんじょ)の別当を務めていましたが、1191年に公文所が政所へ改称されたあともそのまま別当を継続しました。京都の朝廷で実務経験を積んだ文人官僚で、頼朝に招かれて鎌倉に下りました。

A. 侍所は「さむらいどころ」と読みます。「さむらい」は本来「さぶらう(仕える)」が語源で「主君に仕える者の詰め所」という意味です。鎌倉幕府の侍所は1180年に設置され、初代別当は和田義盛(わだよしもり)でした。

A. 公文所は政所の前身です。1184年に源頼朝が一般政務を扱う機関として「公文所」を設置し、1191年に「政所」へ改称されました。役割と初代別当(大江広元)はそのまま受け継がれています。改称の理由は、1190年に頼朝が右近衛大将・権大納言に任じられ、公卿(くぎょう・三位以上の貴族)となったため。当時の制度では公卿は自らの家政機関として「政所」を開設する権利があったため、それに合わせて呼び名が格上げされました。

A. 御家人が増えて頼朝1人ではすべての仕事をさばききれなくなったため、「軍事=侍所」「行政=政所(公文所)」「裁判=問注所」と役割を分業したのが直接の理由です。特に裁判権を独自に握ることは、御家人を朝廷ではなく幕府に従わせる権力基盤として重要でした。武人(和田義盛)と文人(大江広元・三善康信)をバランスよく配置した点も、頼朝の統治戦略の特徴です。

A. 「問注」とは「問い注(しる)す」つまり「訴訟の当事者から事情を問い、その内容を書き留めて記録する」という意味です。問注所は訴訟の当事者を呼んで主張を聞き取り、記録(注進状)を作成するのが本来の業務でした。最終的な判決は将軍(のち執権・評定衆)が下しましたが、その判断材料を整える重要な事務機関だったのです。

まとめ:侍所・政所・問注所と初代別当3名

鎌倉幕府の3機関「侍所・政所・問注所」と初代別当3名についてまとめます。テスト前の確認や、復習にお使いください。

もぐたろう
もぐたろう

以上、侍所・政所・問注所のまとめでした!初代別当3名(和田義盛・大江広元・三善康信)の名前と役割はテストの大定番なので、ぜひ覚えておいてね。鎌倉時代の政治の流れをもっと深く知りたい方は、下の関連記事もあわせて読んでみてください!

侍所・政所・問注所の成立年表
  • 1180年
    侍所の設置

    初代別当:和田義盛。源平合戦のさなか、御家人を統率するための機関として鎌倉で創設された。

  • 1184年
    公文所・問注所の設置

    公文所別当:大江広元。問注所別当:三善康信。京都から招かれた文人官僚が一般政務と訴訟事務を担当する体制が整った。

  • 1190年
    源頼朝、権大納言・右近衛大将に任官

    公卿となった頼朝に「政所」開設の資格が生まれ、公文所の「政所」改称へとつながる。

  • 1191年
    公文所が「政所」へ改称

    大江広元が引き続き別当を務める。鎌倉幕府の3機関体制(侍所・政所・問注所)が正式に成立。

  • 1199年
    源頼朝の死去・13人の合議制発足

    将軍親政の時代が終わり、有力御家人と文人官僚による集団指導体制へ移行。

  • 1203年
    北条時政が政所別当に就任

    のちの「執権」職の始まり。3機関のトップが将軍から北条氏へ移っていく転換点となる。

  • 1225年
    評定衆の設置

    3代執権・北条泰時が3機関を統括する合議制を新設。執権政治が制度的に完成し、3機関は執権・評定衆の実務機関となる。

鎌倉幕府の仕組みをもっと深く知りたい人へ:おすすめの一冊

侍所・政所・問注所の仕組みをさらに深く学びたい人に、わかりやすい入門書を1冊紹介します。

📚 鎌倉幕府の全体像を通史でつかみたい中高生・社会人向け

石井進による『日本の歴史(7) 鎌倉幕府』(中公文庫)は、源頼朝による幕府創設から北条氏の執権政治まで、鎌倉幕府の仕組みと政治の流れを丁寧に解説した定番の一冊です。侍所・政所・問注所がどのように機能し、なぜ執権政治へと移行していったのかが、この一冊でしっかり理解できます。

日本の歴史(7) 鎌倉幕府

石井進 著|中央公論新社


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📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「侍所」「政所」「問注所」「和田義盛」「大江広元」「三善康信」(2026年6月確認)
コトバンク「侍所」「政所」「問注所」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

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この記事を書いた人
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