政所、侍所、問注所とは?鎌倉幕府初期の政治体制を簡単にわかりやすく紹介!

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【政所の初代別当となった大江広元】

今回は、鎌倉幕府初期の政治体制について紹介します。

 

 

鎌倉幕府と一言に言っても、その政治の在り方は時代によって大きく異なっています。一般的には鎌倉時代を3つに分けて次のように考えます。

 

1:鎌倉幕府創設当初の源氏将軍が権力を持っていた時代
2:北条氏が執権として実質的権力を握った執権政治の時代
3:同じ北条氏でも特に宗家が権力を一挙に掌握した時代

 

今回お話しするのは、1の鎌倉幕府初期についてとなります。

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鎌倉幕府創設の歴史

鎌倉幕府は源頼朝が源平合戦の際に挙兵し、その本陣として鎌倉を拠点としたことがその始まりです。

 

 

源頼朝は鎌倉どっしりと腰を構え、各地から戦況報告を受けたり指示を飛ばしたりしながら、朝廷との政治交渉まで行なっていました。

 

 

当然、これらの膨大な仕事を源頼朝が一人で行えるわけがなく、そこには源頼朝を補佐するため優秀な人物たちが集められました。今でいう秘書官みたいなイメージ。

 

 

そして、増え続ける仕事を適切に処理するため、分業化が図られていった結果、3つの機関が鎌倉幕府内の設けられることになります。

 

 

それが、侍所・問注所・政所という機関です。それぞれ具体的に紹介してみます。

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侍所(さむらいどころ)とは?

侍所は、戦時・平時の御家人たちの統率、そして何かあった際の警察・護衛の役割を担う組織です。

 

 

1180年に創設され、初代別当(代表者)は和田義盛(わだよしもり)という男でした。

 

 

和田義盛は生粋の関東武士。小難しい話とか細かなしきたりの話とかはわからないですが、とにかく熱血系で多くの人から好かれる人望の厚い男でした。戦でも活躍し、その成果が源頼朝に認められ侍所に就任しました。

 

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そして、源平合戦が終わり平時になると冷静沈着で内政向きだった梶原景時が2代目別当として就任します。

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侍所の設置された1180年と言えば、源平合戦が始まった最初の年ですから、各々自由に振舞っている関東武士たちを一刻も早く統率するためにも侍所のような専門機関が必要だったのです。

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政所(まんどころ)とは?

政所は、諸々の政務に必要な文書作成を担う機関。将軍からの各種命令は、基本文章で発令されます。なので政所は政務の中枢とも言える重要な役割を担う機関でした。

 

 

政所って鎌倉幕府特有の組織ではなくて、実は平安時代からあった組織なんです。というのも、ある一定の身分以上の偉い貴族たちの家政を司る機関だったんです。貴族たちのプライベート秘書官みたいなもん。

 

 

源頼朝も1185年に朝廷から従三位という身分を与えられたのきっかけに私用機関としての政所を設置。そして、鎌倉幕府将軍の私的機関としての政所が公的な政務機関へと変わっていったのが鎌倉幕府の政所なんです。

 

 

政所の初代別当は、大江広元(おおえのひろもと)という人物。実は政所が創設されるまでの間、鎌倉には公文所(くもんじょ)という私的機関がありました。これは主に一族の文書管理を担う機関で、源頼朝も公文所を設けていたんです。

 

 

大江広元はその公文所の代表であり、1185年にその機能が政所に引き継がれるとそのまま政所のトップになったというわけ。

 

 

大江広元については、いずれ記事として紹介できればと考えているのですが、「大江広元なくして鎌倉幕府は成立せず!」と言っても良いほど、幕府に貢献した重鎮中の重鎮です。源頼朝・頼家・実朝と三代将軍に仕え、1221年に起こった承久の乱を経て1225年に亡くなりました。

 

 

 

源頼朝の政策立案におけるブレーン役であり、朝廷との複雑な交渉任務や守護・地頭の設置という重要な政策にも関与しています。あまり歴史上の表舞台には登場しませんが、鎌倉幕府を知る上で欠かすことのできない超重要人物です。というわけで、記事のトップ画を大江広元にしてみたのです。

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問注所(もんちゅうじょ)とは?

問注所は主に裁判を司る機関です。1184年に設置されます。

 

 

1184年と言えば、源平合戦の真っ最中。この戦乱に乗じてなのか、種々の訴訟依頼が鎌倉幕府にたくさん舞い込んできました。そしてその膨大な訴訟案件に対応するため、専門機関として立ち上げられたのが問注所でした。

 

 

問注所で注意したいのは、訴訟の裁判を下すのはあくまで源頼朝であって、問注所はあくまで「訴訟に必要な文書作成をして手続を進める部署」だよってこと。

 

 

当時の関東地方は、何か争い事が起こると現代日本の裁判所のようなものは存在せず、基本的には一族同士のガチンコ勝負でした。もちろん武力行使に発展することもしばしばです。ですから、関東一帯の武士が一致団結するなど、源平合戦以前では想像すらできないことだったはずです。

 

 

父の源義朝の背中から虐げられてきた武士の歴史を学んだ源頼朝は、そんな混沌とした関東地方になんとかして秩序を与え、朝廷に負けない組織を作りげたいと考えます。そして、関東武士たちの秩序を保つのにおそらく最も重要であったのが裁判権の掌握でした。

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日本の三権分立の仕組みからもわかるように裁判権というのは、まさに権力そのものです。鎌倉幕府創設初期の喫緊の課題は「訴訟を皆が納得するような形で捌き、『鎌倉幕府なら安心やわ〜』と確固たる地位を築き上げること」だったのです。

 

 

源頼朝は、人間関係や人の性格・癖を見抜くのが非常に上手い人物で政治家としては超一流の才能を持っていました。そんな源頼朝の的確な判断と源氏という権威(ネームバリュー)の2段構えで、鎌倉幕府はたちまちのうちに関東武士たちからの信頼を得ることができます。

 

 

・・・というような背景があるので、問注所はあくまで源頼朝の補助機関ということになるのです。

 

問注所の初代別当は三善康信(みよしやすのぶ)。伊豆に幽閉されていた当時、京都から定期的に頼朝に情報提供を行なっていた人物です。

 

 

鎌倉幕府って武士のイメージが強いかもしれませんが、実は政所別当の大江広元、問注所別当の三善康信はいずれも下級貴族で、朝廷の風習・文化に精通した人物です。政治は軍事力のみによって行うにあらず。知識・教養などを持つ文人がいなくては政治を行うことはできないわけです。

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源頼朝「政所・侍所・問注所はあくまで補佐するだけな」

鎌倉時代初期の政所・侍所・問注所はあくまで源頼朝を補佐する機関。その多くは元々、側近にやらせていた仕事が肥大化して新しく組織化されたものです。

 

 

ただ、このような関係が成り立っていたのは、源頼朝が超一流のカリスマ政治家だったからです。1199年にそんな源頼朝は亡くなると、将軍主導の政治は次第に行われなくなり、政所・侍所・問注所は「補佐する機関」からそれぞれ権限を持った機関へと少しずつではありますが変貌してしまいます。

 

 

2代目将軍の源頼家、3代目将軍の源実朝と時代が進むにつれ将軍の存在がただの置物になってしまった経過を知っていると、この辺の話は納得しやすいかもしれません。

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特に政所は、政治の中枢を担う機関です。初代執権とも言われる北条時政は、この政所の別当の地位を利用して権力を振るうようになり、これが鎌倉時代の北条氏による執権政治へと繋がっていきます。

 

 

というのが、鎌倉時代初期の話です。年代で言うと1185〜1224年ぐらい。約40年の間で、将軍は政治権限を失った傀儡となり、北条氏が政所と侍所の別当を兼任するようになり、政治の実権を握るようになってしまいます。

 

 

さらに鎌倉時代中期(北条氏による本格的な執権政治が行われた時代)になると、評定衆(ひょうじょうしゅう)という合議制の機関が創設され、幕府の政治機関の在り方も変わって行きます。評定衆については、いずれまた紹介する予定です。

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