二月騒動とは?わかりやすく紹介【北条時宗こそが北条氏嫡流なり!】

今回は1272年2月に起こった二月騒動(にがつそうどう)という事件について紹介します。

 

 

二月騒動は、簡単に言っちゃうと北条氏の家督争い騒ぎで多くの者が命を落とした内ゲバ事件。

 

 

自らを北条氏嫡流と自負する8代目執権政の北条時宗が、嫡流の座を狙い不穏な動きをする名越流という北条一族を滅ぼしてしまいます。

 

 

 

二月騒動自体は、戦乱の世にありがちなよくある家督争いです。ただそれだけを見ているとなんとも無味乾燥な事件なんですが、当時の時代背景を含めて広い視野で事件を見つめてみると、実に奥が深い複雑な事件であることがわかってきます。

 

 

 

今回はそんな二月騒動について紹介したいと思います。

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二月騒動と元寇(文永の役)

まず最初に話しておきたいのが、1272年という年は日本にとって国運を左右する超重要な時期であったということです。

 

 

アジア一帯を侵略戦争で征服した超大国である元。その矛先は日本にも迫り、1268年、日本に降伏を促す第1回目の使者が派遣されました。

 

 

その後も何度か元から「日本よ、早く降伏しろ。」と使節団が元から派遣されます。そして1271年9月、元は降伏する気配のない日本に最後通牒を言い渡します。

 

 

元の使者「11月まで待ってやる。それまでに返事がなければ戦争だ。」

 

 

鎌倉幕府はこの最後通牒をガン無視。徹底抗戦の構えをしたことで、日本はいつ元が攻めてきてもおかしくない超危険な状況に陥ります。

 

 

 

2月騒動は、そんな日本オワタ\(^o^)/状態の時に起こった北条氏の内ゲバ争いということになります。

 

 

もしかするとこう思う人もいるかもしれません。

 

 

「空前の規模の超大国が攻めてくるのに、こんな時に日本人同士で血を流してどうするんだよ!!」

 

 

と。

 

 

 

しかし、「危険な状況だからこそ、体内の膿(うみ)を一刻も早く取り除き、万全の状態で敵に立ち向かわなければならない!」という逆転の発想もあります。

 

 

古今東西、戦争前に国内の反乱分子を潰すのはある意味常套手段とすら言えます。

 

 

おそらく、北条時宗もこれに似たようなことを考えていました。

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二月騒動の経過

上の北条氏の系図を見てください。赤いのが歴代の執権。青で囲っているのが二月騒動で北条時宗の手によって命を落とした人たちです。

 

 

 

当時は北条義時→北条泰時・・・と繋がる血統が北条氏の嫡流でした。

 

 

それをよく思わないのが上の系図で言う右側の名越流という北条一族。名越流は昔から嫡流北条氏とは対立する関係にあって、1246年には名越流の北条光時がクーデターを起こそうと宮騒動という事件を起こしています。

詳細は以下の記事をどうぞ!

地味すぎる!4代目執権の北条経時についてわかりやすく紹介
今回は、4代目執権の北条経時(ほうじょうつねとき)について紹介しようと思います。 北条経時は、鎌倉幕府の4代目執権なんですが、超地味なんですよね。存在を知っている人は一体どれぐらいいるのだろうか? ...

 

 

そして1272年2月、名越流の北条教時・時章と時宗の異母兄である北条時輔が北条時宗に対して謀反を企んだのです。

 

 

しかし、この情報を察知した北条時宗によって先に襲撃され北条教時・時章は誅殺。そして北条時宗の異母兄である北条時輔もこの謀反に加担した疑いで討ち取られます。

 

 

この事件、終わってみれば北条時宗の一人勝ちでした。前々から邪魔だった名越流は力を失い、家督争いの際に最大のライバルとなりうる自分の兄である北条時輔ももうこの世にはいません。

 

 

さらに、アンチ北条氏である有力御家人も、以下の記事で紹介している宝治合戦を最後に全て滅んでいます。

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こうして二月騒動をきっかけに、北条時宗は政治の独裁化を進め、反乱分子を一掃した盤石な状態で、元との戦いを迎えることになるのです。(1274年に実際に元軍が日本に上陸する)

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二月騒動の闇

二月騒動によって元を迎え撃つ体制がようやく整ったわけですが、どうもこの事件は胡散臭い。というのも、タイミングが北条時宗にとって都合が良すぎるのです。

 

 

1271年に元からの最後通牒を受けた幕府は、ちょうど異国警固番役(いこくけいごばんやく)という九州北部の警備隊を編成を急いでいました。

 

 

異国警固番役を設置するには当然、現地の九州御家人たちの協力が不可欠だったのですが、なんと!二月騒動で誅殺された北条時章は、九州の筑後・大隅・肥後の3国の守護でもありました。

 

 

しかもです。北条時章は名越流の中でも嫡流北条氏との協調を目指していた貴重な人物。なので、北条時章が積極的に時宗に牙を剥いたとは考えにくいのです。

 

 

つまり、こんな風に考えられるわけなんです。

 

北条時宗「長年嫡流北条氏に反発する名越流の北条時章が九州で影響力を持っているのは、異国警護番役を置くにあたって非常に不安である。なんとか失脚させたいが、北条時章は嫡流と協調派だし、その理由もない。困った・・・。

 

 

あっ!でもあいつの兄(北条教時)は、結構オラついて嫡流の俺にも敵意むき出しやん。

 

 

 

・・・ピコーン(ひらめきの音)

 

 

せや、教時が謀反を起こしたことにして、名越流を一掃したろ。そしてドサクサ紛れて異母兄で将来邪魔になりそうな時輔も消したろ!!!!」

 

 

ってな感じの謀略説が考えられるわけです。

 

 

しかも、北条時章が誅殺された後、時章が無実だったことが明らかとなり、時章を誅殺した5人の人物が逆に処罰を受ける事件まで起きています。もうめっちゃ胡散臭いですよね。

 

 

北条時章が無実だったのはもちろん、もっと言ってしまえば謀反をしようと企んだ・・・って話すら本当かどうか怪しいものです。この手の事件は、日本の歴史上だけでも山ほどありますからね。

 

 

鎌倉時代だけでも、梶原景時とか畠山重忠とかいくらでも前例があります。

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二月騒動まとめ

二月騒動は、こんな感じで元軍襲来の直前に起こった非常にきな臭い事件なのでした。

 

 

この時、日本の政治の中心にいた8代目執権の北条時宗はわずか20代前半の若者。仮に二月騒動が、元との戦争前に邪魔者を一掃したい北条時宗の陰謀だったとすれば、この若者(北条時宗)は超大物だったに違いありません。

 

 

そして日本は、二月騒動による内ゲバ騒動を経て1274年、元寇の初戦である文永の役が始まるのです。



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