今回は、護憲三派と、護憲三派によって結成された(第一次)加藤高明内閣について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
護憲三派とは
護憲三派とは、1924年に政党内閣の復活を目指して第二次護憲運動を起こした3つの政党、『立憲政友会』『憲政会』『革新倶楽部』の3党の総称のことを言います。
護憲三派が具体的に何をしたのかというと、1924年1月に結成された清浦内閣を倒そうとしました。
清浦内閣は、選挙で選ばれた衆議院議員(政党員)が0人の超然内閣だったため、これを民意軽視・政党軽視だとして護憲三派が異論を唱えたのです。
護憲三派は、清浦内閣を倒すため、国の予算や政策が、衆議院の過半数以上の賛成がなければ決められないことを利用します。3党が結束して『政党内閣を認めなければ、お前(清浦内閣)の予算や政策を全否定するからな!』という暗黙の脅しをかけたのです。
清浦奎吾首相は、護憲三派の脅しに対抗するため、衆議院議員を解散し、選挙に臨みます。
当時は、政友本党という政党が清浦内閣を支援していたため、選挙で政友本党の議席数を増やすことで、護憲三派に対抗しようと考えたのです。
選挙は、1924年5月に行われましたが、結果は護憲三派の圧勝。護憲三派の反対によって、予算や政策を決められないことが確定すると、清浦内閣は総辞職となりました。つまり、第二次護憲運動は成功したということです。
そして、清浦内閣が倒れた後、原内閣以来の悲願の政党内閣となったのが、加藤高明内閣(別名:護憲三派内閣)でした。
護憲三派の力で取り戻した政党内閣は、一体どんな内閣だったのか、続きを見ていきます。ここまでのお話に不安のある方は、まずは以下の第二次護憲運動の記事から読んでみてくださいね。
加藤高明内閣(護憲三派内閣)の登場
運命の選挙の結果は、以下のような感じでした↓↓
政党名 | 選挙後の議席数 | 選挙前の議席数 | 議席の増減 |
---|---|---|---|
憲政党 | 151 | 103 | +48 |
政友本党 | 116 | 149 | −33 |
立憲政友会 | 100 | 129 | −29 |
革新倶楽部 | 30 | 43 | −13 |
※上記4党以外の議席は省略しています。
※議席数は、資料によって若干数字が異なるため、正確な数値を追い切れませんでした。あくまで目安としてご覧ください。(もちろん、受験勉強で議席数まで覚える必要はありませんよ)
選挙の結果を受け、元老たちは次の内閣を一番議席を取った憲政党の党首である加藤高明に託すことにします。こうして結成されたのが加藤高明を首相(内閣総理大臣)とする加藤高明内閣です。
ちなみに加藤高明の首相就任は、明治憲法(大日本帝国憲法)下で唯一の、選挙で第一党に選ばれた党の党首が内閣総理大臣になった事例となりました。
※現在の日本国憲法下では、内閣総理大臣は国会の議決で指名するので、議席数の一番多い第一党(2021年時点は自民党)の党首が内閣総理大臣に自然と選ばれるようになっています。第一党の党首が内閣総理大臣になることで、政治の安定化と民意反映を図ることができるメリットがあります。
首相になった加藤高明は、各国務大臣の人選を始めますが、ここで1つ大きな問題が起こります。それは、憲政党は与党とは言っても、単独で衆議院の過半数の議席を得ることができなかった・・・という問題です。
もし、憲政党単独で過半数を占めていれば、憲政党のみで予算や政策を自由に決めることができますが、151議席では他の政党の協力がなければ、予算・政策を決めることができません。
※当時の衆議院は464議席だったので、過半数の232議席には残り81議席が不足していることになります。
本来なら、国務大臣を憲政党で独占したいところですが、他政党との協力も考えると、そんなわけにもいきません。
そこで加藤高明首相は、清浦内閣を倒すために共に戦った立憲政友会・革新倶楽部との連合内閣を考案します。
つまり、国務大臣を憲政党で独占するのではなく、護憲三派それぞれから選ぶことにしたのです。
しかし、もともと護憲三派の3政党は、選挙で議席を争うライバル同士です。共通の敵(清浦内閣)がいたからこそ結束できたのであって、敵のいない今、護憲三派が連携するのは至難の業です。
国務大臣の人選は、難航し、さまざま交渉・駆け引きの末にようやく内閣の組閣が決まりました。
内務省・大蔵省などの重要なポストは憲政党が占め、その他の大臣は憲政党と立憲政友会で分け合いました。
革新倶楽部は30議席しかなく、立場が弱かったため1人しか大臣に選ばれませんでした。
加藤高明内閣(護憲三派内閣)の政策
護憲三派の連合政権となった加藤高明内閣は、協力関係が破綻すれば内閣が崩壊する可能性もあるため、複雑な舵取りを強いられました。
次は、そんな加藤高明内閣が、どのような政策を行なってきたのか見ていきましょう。
普通選挙法
加藤高明内閣の一番のビックイベントは、普通選挙法の制定です。
護憲三派は、第二次護憲運動の際に普通選挙の実現を公約の1つに掲げていました。
普通選挙の実現は、大正政変の頃からの国民の悲願であったため、この公約は国民からの強い支持を得ていました。
加藤首相は、さっそく普通選挙の実施に向けた準備に着手。1925年5月には、ついに普通選挙法が公布されます。
これまでの選挙権の条件である「3円以上納税する25歳以上の男子」のうち、納税条件が撤廃。25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられるようになりました。
これによって、有権者(選挙権を持っている人)が約307万人から約1,241万人まで約4倍に拡大。人口比率で言うと、5.5%から20%にまで増加し、今まで以上に国民の意見が政治に反映されるようになりました。
治安維持法
納税条件の撤廃と有権者の増加は、中・低所得者である労働者たちの意見が国政により一層反映されることを意味します。
そして、労働者の意見が反映されるということは、選挙で社会主義者が選ばれる可能性があることも意味していました。
普通選挙が、国民の昔からの悲願だったにもかかわらず、ずーっと実施を見送られていたのも、社会主義者の議員が登場し、国の政治に社会主義が入り込むことを政府や元老が強く恐れていたためでした。
社会主義というのは、労働者を中心とした社会を目指す思想であり、天皇を中心とする当時の日本の政治を真っ向から否定しかねない思想でした。
もし、議会が社会主義者だらけになれば、天皇主権が否定されロシア革命のような国家転覆の危機が訪れるかもしれないのです。
それなのに、このタイミングで普通選挙を認めたのはなぜか。
それは、普通選挙を認めるのと同時(1925年)に、治安維持法を制定したからです。
治安維持法は、日本の国体(天皇制)を脅かしたり、私有財産を否定する思想を持つ人々を弾圧できる法律。普通選挙によって社会主義者の勢いが増してた場合でも、これを封殺することを可能にするために制定された法律です。
治安維持法が制定された背景には、普通選挙法だけではなく、次に紹介する幣原外交によって、ソ連と国交を持つようになった(日ソ基本条約)こともありました。
社会主義国家のソ連と国交を持つことで、ソ連から社会主義思想が日本に入り込むことを危険視したのです。
※治安維持法は、後に社会主義者のみならず国に逆らう者なら誰でも弾圧できる法律へと変わってしまい、太平洋戦争で日本が敗北して法律が廃止されるまでの間、多くの民衆を苦しめた悪魔の法律となってしまいます。
幣原外交
加藤内閣では、多くの国務大臣が護憲三派から選ばれた・・・と言う話をしました。
しかし、3大臣だけ政党とは無関係な人物が選ばれています。
陸・海軍大臣と外務大臣です。
陸軍・海軍の大臣は、現役の陸海軍出なければ就任することのできないルール(軍部大臣現役武官制)があったので、仕方がありません。
しかし、外務大臣は、陸海軍のようなルールがないにもかかわらず、護憲三派とは無関係な幣原喜重郎という人物が選ばれました。
政党内閣を目指していた加藤内閣が、なぜ政党員ではない幣原喜重郎を外務大臣に選んだのか。
それは、当時の外務大臣には、ワシントン会議(1921-1922年)で決められた新しい国際秩序に向けて、様々な外交政策を行わなければならなかったからです。
幣原喜重郎は、ワシントン会議の参加者であり、加藤高明と外交政策の考え方も似ていたことから、政党外から外務大臣に抜擢されたのでした。
※加藤は、幣原の義理の兄でもありました。
これまでの外交は、日本が持っている中国の権益を他の列強国から守るため、諸外国に対して強硬な態度で行われていました。
幣原はこのような外交姿勢を大転換。多少のことなら譲歩し、諸外国との協調関係を最重要しました。全てを守ろうと思って国際的に孤立するよりも、譲歩できる部分は譲歩して、他国との友好関係を大事にする方が国益になる・・・と考えたのです。
幣原喜重郎が打ち出したこの協調外交のことを、日本史では幣原外交と呼びます。
憲政の常道へ・・・
加藤内閣は、護憲三派の連携の上に成り立っていた内閣ですが、1925年に入ると次第にその連携が乱れていきます。
革新倶楽部の解散
まず、1925年5月、小政党だった革新倶楽部が無くなりました。
革新倶楽部内で、治安維持法に賛成する派閥と反対する派閥の争いが起こり、賛成派が立憲政友会に合流。反対派が革新倶楽部の存続を諦めたため、解散することになりました。
立憲政友会VS憲政会
革新倶楽部の合流によって、立憲政友会は政友本党の議席数を抜き、130議席を超えるNo.2の政党に成長。(No.1は憲政党)
立憲政友会の勢いが増すと、立憲政友会と憲政会の協力関係にも暗雲が立ち込めてきます。
立憲政友会が、憲政会から政権を奪取すべく、憲政会と対立の姿勢を次第に強めていったのです。
1925年7月、憲政党所属の濱口雄幸大蔵大臣が税制改正案を出すと、立憲政友会の司法大臣・農林大臣がこれに反対。
内閣内で意見の不一致が起こり、7月31日、加藤内閣は解散に追い込まれます。
大日本帝国憲法の下では、各大臣は天皇に対して助言する(輔弼する)責任を負っていました。
そのため、内閣で政策を決めるときにも、基本的に全ての大臣がこれに賛成する必要がある・・・という暗黙のルールがあったのです。(もし、ある政策について反対する大臣がいたら、大臣はその政策について輔弼の責任を負っていないことになるのでNGという理屈です。)
そして、内閣内での意見の不一致があった場合は、内閣を一度解散し、新たに天皇を輔弼する責任を全うできる人物を選び直すこととされていました。
立憲政友会は、この仕組みを利用して内閣を解散に追い込み、次期政権を奪取してやろう!と計画したわけです。
※当時の立憲政友会は、単独過半数の議席を持っていないので、政友本党と組んで、憲政会抜きの政党内閣を結成しようと目論んでいました。
・・・しかし、これは全くの逆効果。国のためではなく、党の利益のために内閣を解散した立憲政友会に、元老の西園寺公望が激怒したのです。
党利のために国を乱す政党などに、内閣を任せることなどできぬ!
次の内閣も、首相は加藤高明だ。そして、立憲政友会の大臣は認めず、憲政会のみの政党内閣とする。
こうして、護憲三派による第一次加藤高明内閣は解散。
新たに憲政会単独による第二次加藤高明内閣が成立しました。護憲三派は、「政党内閣を取り戻す!!」という当初の目的を達成し、その役目を終えることになったのです。
憲政会単独の内閣(第二次加藤高明内閣)が結成された後しばらくの間、2大政党である憲政会(1927年に立憲民政党)と立憲政友会が交互に政党内閣を行う、歴史上「憲政の常道」と呼ばれる政治が続くことになります。
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