

今回は承久の乱について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!日本史で初めて「天皇 vs 武士」が正面からぶつかった大事件なんだ。
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は、後鳥羽上皇は和歌・武芸・書・音楽と何でもこなす、文武両道の聡明な君主でした。なぜこの聡明な天皇が幕府への反乱という「無謀な賭け」に打って出たのでしょうか?
そしてなぜ全国の武士たちは、天皇の命令である院宣よりも、東国の小さな幕府の側についたのでしょうか?この記事ではその答えを、人間ドラマも交えながら最初から最後まで丁寧にたどっていきます。
承久の乱とは?3行でわかりやすく簡単に解説
- 1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発し、朝廷 vs 鎌倉幕府の戦いが起きた
- 幕府軍が圧勝し、後鳥羽上皇は隠岐(島根県)に配流された
- この乱をきっかけに幕府は朝廷より強い存在となり、武家政権の優位が確立された
承久の乱は、1221年(承久3年)に起きた朝廷と鎌倉幕府の戦いです。仕掛けたのは京都の朝廷側、つまり後鳥羽上皇。受けて立ったのは鎌倉の幕府を仕切っていた執権・北条義時です。
結果はまさかの幕府の圧勝。後鳥羽上皇はわずか1か月あまりで敗北し、隠岐の島へと流されてしまいました。「天皇の命令には誰も逆らえない」という常識が、この瞬間にひっくり返ったのです。

承久の乱って、後鳥羽上皇が幕府に戦いを挑んだってことだよね?なんでそんな無謀なことをしたの?

後鳥羽上皇は決して無謀なギャンブラーじゃなかったんだ。「天皇の命令」という最強カードがあれば、東国の武士たちもこっちに寝返るはず——そう本気で計算してたんだよ。ところがそのカードが、思ったほど効かなかった。それがこの乱の面白いところなんだ!
次の章では、その後鳥羽上皇がどんな人物だったのか、どんな野望を抱いて幕府に挑んだのかを見ていきましょう。
後鳥羽上皇とはどんな人物か?承久の乱の背景

後鳥羽上皇は、1180年に高倉天皇の第四皇子として誕生しました。即位したのはわずか4歳のとき。源平合戦のさなか、平家が安徳天皇を連れて西国へ落ちのびた直後の、まさに混乱の真っただ中での即位でした。
1198年、19歳のときに息子の土御門天皇に位を譲り、自らは院政を開始します。ここから20年以上にわたって、京都の政治を実質的に動かし続けることになります。
■和歌も武芸も超一流——「文武両道のスーパー天皇」
後鳥羽上皇は、ただ政治を動かしただけの人物ではありません。和歌の世界では、藤原定家らに命じて『新古今和歌集』を編纂させた歌人として有名です。自身も小倉百人一首に「人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は」という名歌を残しています。
さらに驚くべきは、武芸への執着です。みずから刀鍛冶を呼び寄せて作刀を学び、「菊の御紋」を彫った刀(菊御作)を打ったとも伝えられています。流鏑馬・蹴鞠・笠懸といった武芸にも熱中し、文字どおり「文武両道」を体現する天皇でした。

朝廷の権威があれば、武士など怖くない。北条義時を討てば、諸国の武士は必ず私の元に集まるはずだ。
■なぜ幕府と対立したのか?——朝廷の権威を取り戻したい
後鳥羽上皇が幕府との対決に向かった背景には、いくつもの不満が積み重なっていました。最大の問題は、源頼朝以降に増えすぎた地頭たちが、朝廷の荘園にどんどん入り込んできていたことです。
朝廷から見れば、地頭は「東国の田舎武士が、京都の貴族や寺社の土地を勝手に取り上げる存在」でした。荘園の上がりは公家の生活費そのものですから、これを奪われることは死活問題だったのです。
さらに1219年、3代将軍・源実朝が暗殺され、源氏将軍の血筋がついに途絶えてしまいます。これを機に幕府は皇族から将軍を迎えようとしますが、後鳥羽上皇はこれを拒否。「いよいよ幕府の力を削ぐ好機だ」と判断したと考えられています。

後鳥羽上皇の頭の中ではね、「源氏将軍も途絶えたし、幕府を仕切ってるのは北条義時って一人の家臣にすぎない。天皇である自分が『義時を討て』と命じれば、武士たちは寝返るはずだ」って計算があったんだ。理屈としては筋が通ってたんだよ。
では、この自信満々の後鳥羽上皇は、どんなきっかけでついに挙兵に踏み切ったのでしょうか。次の章でくわしく見ていきましょう。
承久の乱のきっかけ——流鏑馬揃えと院宣
承久の乱の直接のきっかけになったのは、1221年に京都で開かれた流鏑馬揃えでした。なんとも華やかな名前ですが、その裏では水面下で兵を集めるための作戦が進められていたのです。

「流鏑馬揃え」って何なの?どうしてそれがきっかけになったの?

流鏑馬揃えっていうのは、馬に乗って弓で的を射る武芸の練習会みたいなものだよ!後鳥羽上皇は「武芸イベントですよ〜」って名目で、こっそり全国の武士を京都に集めて「兵力チェック」をしてたんだ。
■1221年5月——「北条義時を討て」の院宣が発せられる
兵をある程度集めた後鳥羽上皇は、1221年5月15日についに動きます。鎌倉幕府の京都警護役だった御家人・伊賀光季を急襲して殺害。同日に「北条義時を討て」という院宣を発令しました。
院宣とは、上皇が出す命令書のこと。当時の感覚では、これは絶対的な権威を持つ文書でした。「天皇の代理人である上皇が、ある人物を朝敵だと宣言した」——その一言で、その人物は本来なら一瞬で孤立するはずだったのです。
📌 院宣(いんぜん):上皇が側近を通じて出す命令書のこと。形式上は私的な文書だが、上皇個人の意思を直接伝える強力な命令として機能した。承久の乱では「義時追討」が院宣で命じられ、上皇本人の意志であることが明確に示された
注目すべきは、院宣の対象が「鎌倉幕府」全体ではなく、あくまで「北条義時」一人だったことです。後鳥羽上皇の狙いは、「幕府を解体すること」ではなく「北条義時という一人の家臣を排除すること」にありました。

後鳥羽上皇は「義時さえ消えれば、残りの御家人はわしの味方になる」って読んでたんだ。だから幕府全体は敵に回さない作戦だったんだよ。でもこの「分断作戦」は、まさかの大誤算に終わるんだ……。
京都から早馬で「義時追討」の知らせが鎌倉に届いたのは、5月19日。次の章では、この知らせを受けた鎌倉幕府がどう動いたのか——あの有名な北条政子の演説の場面へと向かいます。
幕府の反撃——北条政子の演説と怒涛の進撃
「天皇の代理人である上皇が、わざわざ義時一人を名指しで討てと命じた」——この知らせは、鎌倉の御家人たちを大きく動揺させました。「朝敵」と呼ばれることへの恐怖は、現代人の想像以上に大きかったのです。
このままでは御家人たちが院宣に従って分裂しかねない——そんな空気の中で立ち上がったのが、源頼朝の妻であり「尼将軍」と呼ばれていた北条政子でした。

■北条政子の演説——「故頼朝公の恩は山より高く海より深い」

北条政子の演説ってどんな内容だったの?大河ドラマでも見たことあるけど、実際は何を言ったの?

『吾妻鏡』(あづまかがみ)という鎌倉幕府の歴史書に記録されてるよ!政子が御家人たちを集めて、源頼朝への恩を全力で訴えかける、めちゃくちゃ熱い演説なんだ。要点を意訳で紹介するね。
「皆、心を一つにして聞きなさい。これが最後の言葉です。亡き頼朝公が朝敵を倒して鎌倉幕府を開いてからというもの、官位といい俸禄といい、あなた方が受けてきた恩は山よりも高く、海よりも深いはずです。報恩の志はけっして浅くないはずでしょう。それなのに今、悪臣たちの讒言によって、道理に外れた院宣が下されました。名を惜しむ者は早く秀康・胤義(後鳥羽方の武士)を討ち取り、三代将軍が遺された遺跡を守りなさい。ただし、もし院宣に従いたい者がいるならば、今すぐここで申し出てこの場を立ち去りなさい」(『吾妻鏡』より意訳)
「あなたたちが今あるのは誰のおかげか思い出せ」「頼朝公の恩を裏切るのか」——これは武士たちの心を見事に揺さぶる演説でした。実際には政子本人ではなく、御家人・安達景盛が代読したという説もありますが(『吾妻鏡』の記録)、その言葉が御家人たちを震わせたことは確かです。

武士たちが幕府に仕えてたのは「御恩と奉公」っていう契約があったからなんだ。御恩=ご褒美の土地や役職、奉公=戦場で命をかけて働くこと。政子はこの「貸し借りの記憶」を全力で呼び覚ましたんだよ。だから演説は心理戦としても大成功だったんだ!
■幕府軍の三方面進撃——わずか1ヶ月で勝負が決まった
御家人の結束を固めた幕府は、すぐに京都への進軍を決定します。総大将は執権・北条義時の息子である北条泰時、副将は弟の北条時房。動員された兵力は史料によって幅がありますが、19万騎ともいわれる大軍勢でした。
幕府軍は三方向に分かれて京都を目指します。東海道・東山道・北陸道の三方面から、まるで巨大な腕で京都を包み込むように進軍したのです。出発からわずか1か月足らずで、京都の入口にあたる宇治川・瀬田の防衛線に到達しました。


……まさか、これほど早く包囲されるとは。義時さえ討てば、武士たちは皆こちらに付くと信じていたのに。私の計算は、いったいどこで誤ったのだろうか。
■宇治川の決戦——橋板を外しても止まらなかった幕府軍
政子の演説に奮い立った幕府軍は、矢のような速さで西へ向かいました。北条泰時・北条時房を大将とする軍勢が三方向から京都を圧迫します。出発からわずか1か月足らず——その行手を阻んだのが、京都南郊に流れる宇治川でした。
朝廷側の将・藤原秀康は、ここを天然の要害として幕府軍を足止めしようとします。彼が最初に命じたのは、大胆な一手でした——宇治橋の橋板をすべて外すことです。
橋の骨格(橋桁)だけが残り、もはや歩いて渡ることはできません。川幅は広く、流れも速い。向こう岸には弓を構えた朝廷方の武士が並んでいる。秀康の計算では、これで幕府軍の進軍を十分に遅らせられるはずでした。

橋板を外しても渡ってきたの?馬で川を泳ぐって……そんな無茶ができるの?

できるんだよ、それが!中世の武士は馬を泳がせて川を渡ること自体は珍しくなかった。でも向こう岸から矢が飛んでくる中を泳ぎ切るのは命がけだよ。それでも進んだのは、政子の演説で「ここで退いたら全てが終わる」という覚悟が固まっていたからなんだ。
1221年(承久3年)5月下旬、北条泰時率いる先陣が宇治川の東岸に到達しました。対岸には朝廷方の弓兵が整列し、矢を雨あられと射かけてくる。足を踏み入れれば溺れるかもしれない急流。それでも幕府軍の武士たちは——「頼朝公の御恩に報いる、今この時だ」——と叫びながら、馬ごと濁流へと身を投じました。
川面に矢が刺さり、馬が水しぶきをあげ、武士たちが声をあげる。宇治川は一気に修羅場と化しました。
さらにこの戦いには、胸を打つ兄弟の物語がありました。幕府の有力御家人・三浦氏の一族、三浦胤義です。兄の三浦義村が鎌倉幕府側についていたにもかかわらず、弟・胤義は後鳥羽上皇の側に立って宇治川を守る道を選んでいました。兄弟が敵味方に分かれて矢を交える——承久の乱が生んだ、悲しき人間ドラマの一幕です。
【幕府側(攻める)】
・北条泰時……東海道軍の総大将。北条義時の長男
・北条時房……泰時の叔父。副将として並んで進軍
【朝廷側(守る)】
・藤原秀康……朝廷方の主力将。橋板を外す作戦を指揮。敗走後、捕縛・処刑
・三浦胤義……三浦義村の弟。兄と別れ朝廷側で奮戦→敗北後、自害
数で圧倒する幕府軍は、幾多の犠牲を出しながらついに対岸へ渡り切りました。同時に瀬田(滋賀県)の防衛線も突破されると、朝廷方の組織的な抵抗はあっという間に崩壊します。
藤原秀康は京都から九州へ逃走しますが、ほどなく捕らえられ処刑されました。三浦胤義は戦いに敗れた後、自らの命を絶っています。後鳥羽上皇の側で最後まで刃を交え続けた武士たちの、それが末路でした。
■なぜ幕府が勝てたのか?——院宣より「御恩と奉公」の絆が勝った
後鳥羽上皇の最大の誤算は、東国の武士たちが「天皇の命令」よりも「御恩と奉公の絆」を優先したことでした。源頼朝が築いた「御家人と幕府の信頼関係」は、上皇が想像していたよりも、ずっと強固だったのです。
幕府が勝てた理由をまとめると、おもに4つあります。①北条政子の演説によって御家人の動揺が抑え込まれたこと。②「義時を討て」の院宣に応えた武士が、上皇の予想よりはるかに少なかったこと。③北条義時が「幕府を守れ=頼朝公以来の秩序を守れ」というシンプルな大義名分を打ち出せたこと。④幕府が短期間で19万騎ともいわれる大軍勢を編成できたこと。この4つです。

天皇の命令より、頼朝公以来の御恩のほうが武士には重い。鎌倉の秩序を守ることこそ、武士の本義だ。
1221年6月、宇治川・瀬田の戦いで朝廷軍は壊滅。京都はあっという間に幕府軍に占領されました。挙兵からわずか1か月、後鳥羽上皇の壮大な計画は、あっけない終焉を迎えたのです。
では、敗れた後鳥羽上皇と朝廷には、どんな処分が下されたのでしょうか。次の章では、三上皇の配流先と乱の結果を見ていきます。
承久の乱の結果——三上皇はどこへ配流されたか?
幕府の完全勝利によって、後鳥羽上皇の側についた朝廷勢力は徹底的に処分されました。それまで日本史上、上皇が島流しになることは前代未聞。「天皇の代わりに政治を行う最高権威」が、武士に裁かれて流罪になったのです。
■三上皇の配流先——後鳥羽・順徳・土御門の運命
後鳥羽上皇→ 隠岐(現:島根県)に配流 / 土御門上皇→ 土佐(現:高知県)→のちに阿波(現:徳島県)に配流 / 順徳上皇→ 佐渡(現:新潟県)に配流
主犯格である後鳥羽上皇は、本州から離れた絶海の孤島・隠岐へと流されました。隠岐は現在の島根県に属する離島で、当時の感覚では「ほぼ二度と都に戻れない場所」だったのです。
後鳥羽上皇の息子である順徳上皇も、父と一緒に挙兵に積極的に関わったため、北の離島である佐渡(現在の新潟県)に配流。歌人としての才能でも知られた順徳上皇は、ここで生涯を終えることになります。
一方、長男の土御門上皇は、実は挙兵に消極的だったと伝えられています。そのため幕府は処分対象から外そうとしたのですが、土御門上皇本人が「父だけが流されるのは忍びない」と申し出て、自ら土佐(現在の高知県)への配流を願い出ました。のちに都に近い阿波(現在の徳島県)へ移されています。

■仲恭天皇の廃位と「幕府が天皇を選ぶ時代」のはじまり
処分されたのは三上皇だけではありません。当時わずか4歳だった仲恭天皇もまた、即位後わずか78日で廃位されました。歴代天皇の中でも、もっとも在位の短い天皇の一人として記録されています。
代わりに即位したのは、幕府が指名した後堀河天皇でした。「誰を天皇にするか」を幕府が決める——この前例は、その後の鎌倉時代を通じて朝廷の地位を大きく低下させていきます。
さらに、後鳥羽上皇方についた武士たちが持っていた西国の領地3,000か所以上が没収され、幕府の御家人たちに恩賞として配り直されました。これによって、それまで東国中心だった幕府の支配が、一気に西国まで広がることになります。
もし承久の乱で後鳥羽上皇側が勝っていたら、日本史はまったく違う姿になっていたかもしれません。鎌倉幕府は解体され、朝廷を中心とした旧来の統治体制が復活していたはずです。武家政権が本格的に成熟するのも数百年遅れ、室町幕府・江戸幕府といった後の武家政権そのものが存在しなかった可能性もあります。
逆にいえば、承久の乱で幕府が勝ったからこそ、「武士が政治を担う」という日本独自のスタイルが約650年間続くことになったのです。この戦いの結果がいかに大きな分岐点だったかが分かりますね。
次の章では、乱後に幕府が設置した「六波羅探題」と「新補地頭」について、その仕組みと意味をくわしく見ていきます。
六波羅探題と新補地頭——承久の乱後の幕府の支配強化
承久の乱に圧勝した鎌倉幕府は、二度と朝廷が反乱を起こせないように、京都と西国の支配体制を一気に強化していきます。その中心となったのが、京都に新設された六波羅探題と、西国に大量に配置された新補地頭でした。
この2つの仕組みは、鎌倉幕府が東国の地方政権から「全国を統治する政権」へと変身していくうえで、決定的な役割を果たします。順番に見ていきましょう。
■六波羅探題とは?——幕府が京都に置いた「監視と支配」の出先機関
六波羅探題は、承久の乱の直後(1221年)に幕府が京都の六波羅という場所に設置した出先機関のことです。京都を制圧した北条泰時・北条時房がそのまま京都に駐留し、朝廷の監視・西国御家人の統率・西日本での裁判(訴訟処理)を担当するようになりました。

六波羅探題っていうのは、今でいう「幕府の京都出張所+監視拠点」のイメージに近いよ!朝廷が変なことを企んでないか目を光らせて、西日本の御家人に何かあったらここで裁判する。鎌倉から京都までは早馬でも何日もかかるから、現地に駐在する事務所がどうしても必要だったんだ。
六波羅探題には常に北条一族から2名が派遣され、「南方(みなみかた)」「北方(きたかた)」と呼ばれて職務を分担しました。初代の北方が北条義時の息子(長男)・北条泰時、初代の南方が義時の弟・北条時房です。
📌 六波羅探題のおもな役割:①朝廷・公家の監視 ②西国御家人の統率と動員 ③西日本で起きた訴訟の処理(裁判) ④京都の治安維持。承久の乱以前は京都守護という役職がこの役割の一部を担っていたが、乱後は権限が大幅に拡大された
この六波羅探題は、その後の鎌倉幕府が滅亡するまで(1333年に足利尊氏らに攻め落とされるまで)約110年間にわたって、京都に常駐し続けます。鎌倉幕府の「もう一つの首都機能」とも言える、それほど重要な拠点だったわけです。
■新補地頭とは?——西国に増設された「ご褒美ポスト」
新補地頭とは、承久の乱の後に新たに任命された地頭のことです。乱で後鳥羽上皇方に味方した武士・公家から没収した西日本3,000か所以上の土地に、幕府は東国の御家人を新しく地頭として送り込みました。これが新補地頭です。

もともと地頭は源頼朝の時代に置かれてたのよね?新補地頭は何が「新しい」の?

頼朝の時代に置かれた古いほうの地頭は「本補地頭(ほんぽじとう)」って呼ぶんだ。承久の乱の後にできた新しい地頭が「新補地頭」。違うのは2つ。①設置場所が西日本中心になったこと、②土地からの取り分(収益のルール)が法律で明確に決められたこと、だよ。
📌 新補率法(しんぽりっぽう):1223年に幕府が定めた、新補地頭の取り分を決めるルールのこと。「田畑11町ごとに1町を地頭の領地(給田)にしてよい」「田1反につき米5升を税として徴収してよい」と細かく規定された。地頭の権限が初めて法的に保証された画期的な法令
この新補地頭の配置によって、それまで「東日本中心」だった幕府の支配は、一気に西日本まで広がりました。鎌倉幕府が名実ともに「全国政権」になったのは、まさに承久の乱の後のこのタイミングだったのです。
一方で、新補地頭が西国にやってくることは、現地の荘園領主(公家や寺社)にとっては大きな脅威でもありました。地頭の権限が法律で守られたため、荘園からの収入をめぐる紛争が全国で激増し、これが後の鎌倉時代の主要な訴訟テーマになっていきます。
承久の乱の歴史的意義——武家政権の優位が決まった瞬間
承久の乱は、単なる「朝廷と幕府のケンカ」で終わる事件ではありませんでした。日本の政治の重心が「公家(朝廷)」から「武家(幕府)」へと、はっきりと移った歴史的な転換点だったのです。具体的な意義を整理してみましょう。
■承久の乱がもたらした4つの大きな変化
意義①:朝廷の権威が大幅に低下した
これ以降、天皇や上皇が幕府に対して軍事行動を起こすことは、約650年後の幕末まで二度とありませんでした。「朝廷は権威の象徴」「武士が政治を実際に動かす」という日本独自の二元的な政治体制が、ここで確定したのです。
意義②:幕府が天皇を決める時代の到来
仲恭天皇の廃位と後堀河天皇の即位以降、新しい天皇を選ぶときには幕府の意向を確認するのが慣例になります。「皇位継承」という朝廷にとっての最重要事項ですら、武家政権の同意が必要になったわけです。
意義③:幕府の支配が西日本まで拡大した
新補地頭の配置と六波羅探題の設置によって、鎌倉幕府は名実ともに「全国を統治する政権」へと変身しました。それまでの幕府は実質的に「東日本の武家政権」でしたが、承久の乱の勝利で支配領域が日本全土に広がったのです。
意義④:「武士の時代」の本格的なスタート
承久の乱の勝利によって、鎌倉幕府の後に続く室町幕府・江戸幕府という「武家政権の系譜」が成立する土台ができあがりました。約650年間続いた「武士が政治を担う日本」は、この瞬間から本格的に動き出したと言ってよいでしょう。
🌏 現代とのつながり:承久の乱で確立した「武家政権が朝廷より上」という構図は、その後の室町幕府・江戸幕府まで一貫して維持された。明治維新で再び「天皇を中心とした政治」が復活したのは、承久の乱から実に648年後のこと。現代の「天皇=象徴」「政治の実権は内閣」という二元構造のルーツは、この承久の乱までさかのぼることができる

「天皇でさえも武士には逆らえない」っていう時代が、まさに承久の乱から始まったんだ。日本史全体で見ても、この乱は「公家政治の終わり」「武家政治の本格化」を決定づけた、超ビッグイベントなんだよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:幕府が勝てた最大の理由は「御恩と奉公」の御家人ネットワーク。院宣(天皇の命令)より、頼朝以来の恩給の絆のほうが武士には重かった——この論点は論述で頻出。三上皇の配流先は「後鳥羽=隠岐(西の離島)/順徳=佐渡(北の離島)/土御門=土佐(四国南端)」と地図でセット暗記すると混同しにくい

5つも覚えること多いよ……。中学のテストで一番出るのはどれなの?

中学なら絶対外せないのは「1221年・後鳥羽上皇・北条義時・隠岐」の4セット!高校日本史だと、これに加えて「六波羅探題」「新補地頭」「北条政子の演説」が頻出だよ。論述問題では「乱の意義(武家政権の優位確立)」を必ず聞かれるから、ここまで押さえておけば完璧だね!
よくある質問(FAQ)
1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時を討つために挙兵した戦いです。日本史上初めて朝廷と武家政権が正面から軍事衝突しましたが、わずか約1ヶ月で幕府軍が圧勝。後鳥羽上皇は隠岐に流され、武家政権の優位が確立しました。
東国の武士たちが院宣(天皇の命令)よりも「御恩と奉公」という幕府との絆を優先したためです。後鳥羽上皇は「義時さえ討てば武士は味方になる」と読んでいましたが、北条政子の演説で結束した幕府軍19万騎が三方面から京都へ進撃し、わずか1ヶ月で勝負が決まりました。
「亡き頼朝公の恩は山より高く海より深い。今こそその恩に報いるとき。院宣に従いたい者は今すぐ申し出てこの場を去りなさい」という内容です。御家人に「御恩と奉公」の絆を全力で思い出させ、幕府側に結集させることに成功しました。『吾妻鏡』に記録されており、実際には安達景盛が代読したとする説もあります。
保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)はいずれも「朝廷の内部抗争に武士が動員された戦い」で、戦いの主体は皇族や貴族でした。一方、承久の乱(1221年)は「朝廷(後鳥羽上皇) vs 武家政権(鎌倉幕府)」の構図で、日本史上初めて朝廷と武家政権が正面衝突した戦いです。結果も全く異なり、承久の乱で武家政権が朝廷より上の存在になりました。
承久の乱の直後(1221年)に幕府が京都に設置した出先機関です。朝廷の監視・西国御家人の統率・西日本での訴訟処理を担当しました。北条一族から南方・北方2名が常駐し、初代は北条時房(南方)と北条泰時(北方)。鎌倉幕府が滅亡する1333年まで約110年間、京都に置かれ続けました。
承久の乱についてもっと詳しく知りたい人へ

承久の乱をもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
まとめ——承久の乱は武家政権確立の転換点

以上、承久の乱のまとめでした!この乱をきっかけに「武士の時代」が本格的に始まったんだ。下の記事で北条政子や鎌倉幕府の執権政治、元寇についてもあわせて読んでみてください!
- 1183年後鳥羽上皇、天皇に即位(4歳)
- 1185年守護・地頭の設置(鎌倉幕府による全国支配の始まり)
- 1203年北条時政が初代執権に就任、北条氏の台頭
- 1219年3代将軍源実朝が暗殺、将軍の権威低下
- 1221年5月後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を発令
- 1221年6月北条政子の演説、幕府軍が三方面から京へ進撃
- 1221年7月幕府軍が京を制圧、承久の乱が終結
- 1221年(乱後)三上皇配流・六波羅探題設置・新補地頭増設
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📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「承久の乱」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「後鳥羽天皇」「北条義時」「北条時房」「北条泰時」「六波羅探題」「新補率法」(2026年5月確認)
コトバンク「承久の乱」「新補率法」「新補地頭」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
Historist「新補率法」(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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