今回は、8代目執権の北条時宗(ほうじょうときむね)について解説していきます。
いきなりですが、北条時宗の生涯は元寇の話なしには語れません。
北条時宗が活躍した時代と元寇でヤバかった時代が見事なほどに重なっています・・・。
というわけで、この記事では元寇の話もしながら、北条時宗の生涯についてわかりやすく紹介していきたいと思います。
若きスーパーエリート北条時宗
北条時宗は1251年、5代目執権の北条時頼(ときより)の息子として生まれます。
1256年、父の北条時頼が執権を辞任。この時、北条時宗はまだ5歳。本来なら、北条時宗は次期執権の最有力候補でしたが、流石にこの若さでは執権が勤まるわけがありません。
6代目・7代目は北条時宗が成長するまでつなぎ役(北条長時と北条政村)が執権を歴任し、1268年、北条時宗は17歳で8代目執権に就任します。
北条時宗は執権になるまでの間、次世代のエースとして鎌倉幕府内の出世コースを歩み続け、そこで北条実時(ほうじょうさねとき)という非常に優れた人物と一緒に仕事をする機会を得ることができました。
北条実時はとても博識で禅の教えにも帰依していた人徳者。金沢文庫という武家で初めての図書文庫を作った人物としても有名な人物です。
そのおかげで北条時宗は様々なことを学び、禅の心得も習得する機会も得て、有能なリーダーとして成長することができました。人に恵まれていたのです。
北条時宗を支えた重鎮たち
北条時宗が執権となった1268年は、元からの初めての使節団が日本にやってきた年でもあります。
使節団の目的は日本に降伏してもらうこと。「大人しく俺(元)に従ってくれれば、痛い目みないで済むよ^^」という脅し文書を持って日本へやってきたのです。
1268年以降も何度か元から使者がやってきますが、日本はこの使者からの降伏を促す文書を全て無視。
今も昔も、外交文書に返事をしないというのは非常に失礼な行為です。そして、この失礼な日本の態度を受けて、元は日本に侵略戦争をふっかけることを決定。
こうして起こったのが1274年の文永の役(ぶんえいのえき)です。
この時、文書を無視して元との全面戦争を決意したのは幕府の強い意向だったと言われています。そして当時の幕府のトップは北条時宗。これは北条時宗の決定だったのでしょうか。北条時宗はまだ二十歳前後の若造。もし、これが若き北条時宗の英断だったとすれば、時宗は日本どころか世界トップレベルのバケモノです。
「いやいや、北条時宗は何も知らなかっただけ。無知ゆえの決断であり、それは英断ではなく愚かな決断と言う。」という意見はここではなしです。
というのも、当時の日本は南宋と活発な交流があり、北条時宗の身近にも南宋からやってきた禅宗の僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)がいました。情報の真偽はともかく、外国からの情報は幕府にたくさん入っていたはずで、無知というのは考えにくいのです。
しかし、「じゃあ、北条時宗はバケモノなんだな!」と言われるとそうでもないような気もします。「どっちだよ!!」って感じですが、この判断の背景には北条時宗を支えていた重鎮達が大きい関与していたと思われます。
当時、北条時宗には3人の重鎮達がいました。
この3人についてサラッと紹介しておきます。
北条時宗の重鎮その1:安達泰盛
北条家嫡流(得宗家)と強い血縁関係で結ばれた時宗の義理の兄。後に弘安徳政(こうあんとくせい)という鎌倉時代にしては珍しい?善政を行ったことで有名。あまり悪い噂のないいいヤツ。晩年は政争に敗れ、下で紹介している平頼綱によって命を奪わる。
北条時宗の重鎮その2:北条実時
北条時宗の重鎮その3:平頼綱
文永の役の後も、日本は元の国書を無視するどころか使者を斬るという非常に野蛮な行為を続けます。これには、もちろん北条時宗の意向もあったでしょうが、重鎮たちの意見も大きかったはずです。
ちなみに、当時のモンゴル帝国の最大領地はこんな感じでした。(元寇当時は少し小さくなってたけど)北条時宗が決めたにしろ重鎮が決めたにしろ、この決断は英断であり、非常に重たい決断でした。
北条時宗の元寇対策
北条時宗はこの強大な国に立ち向かうため、大きく3つの対策を行いました。
1つずつ簡単に説明していきます。
一番最初の異国警固番役っていうのは、九州北部の警備隊みたいなもんです。
次の「国内の反乱分子」っていうのは主に北条氏庶流(名越流北条氏)のこと。1272年2月、北条時宗はこの反乱分子を一掃します。(この時の一連の事件のことを二月騒動って言います。)
そして、幕府と朝廷がおそらく最も力を入れたのは、意外にも神仏に対する祈願・祈祷でした。教科書なんかでは元寇対策には異国警固番役の話がよく出てきますが、実は当時の人々の関心は軍事よりも神仏の方にありました。
日蓮「世が乱れるのは法華経を信じない幕府のせい」
多くの人々が神や仏の力にすがる中、にわかに存在感を増していた人物がいます。それが日蓮(にちれん)という僧侶。日蓮宗の開祖です。
日蓮の教えは簡単に言うとこうです。
仏教において信じるべきものは法華経のみで良い。法華経を信じなければ人々は救われないのだ!!
法華経は天台宗では重要な経典の1つでしたが、日蓮はそれをさらに昇華させて、「法華経以外は信じる者は邪道」と考えたのです。
そして、法華経こそが全てであると考える日蓮は、こう言って各地で布教活動をします。
飢饉や疫病、他国の侵略など全ての社会不安の原因は、多くの人が法華経を信じず邪法(浄土宗とか禅宗とか)を信じたせいだ!
北条時宗は、自らが信仰する禅宗を邪法と罵り、人々の不安を煽る日蓮を危険分子と考え、佐渡へ流罪とします。
北条時宗とそれを取り巻く重鎮達の政治スタイルは、とにかく敵対する者を徹底的に排除するスタイルで一貫しています。
元寇、二月騒動、そして日蓮追放。全てそうです。ここまで露骨でわかりやすい強行政治も珍しい。
天皇家分裂〜両統迭立〜
北条時宗は、後の南北朝時代の始まりとなる天皇家の分裂のきっかけを作った人物でもありました。両統迭立(りょうとうてつりつ)というやつです。
事の発端は、1272年の後嵯峨上皇という上皇の崩御でした。後嵯峨上皇は、次の天皇家の家督について「みんな!あとは幕府の言うことに従ってくれ!!」と自らの意思を示さずに崩御してしまったのです。
こうして、北条時宗は元寇の対応に追われながら、皇位継承問題に介入する必要にまで迫られます。
上の天皇家の系図を見ると、後嵯峨天皇から次が2つの血統に別れてますよね。実はこれ、北条時宗率いる鎌倉幕府の決定によるものなんです。
と言っても、その経過は超グダグダ。
後嵯峨上皇の遺言「うーん、天皇家の家督は幕府の意向で決めてOK!」
朝廷「北条時宗殿!どうか後嵯峨上皇の遺言どおり、天皇家の家督を決めてくだされ」
うーん、後嵯峨上皇は崩御前どんなこと言ってたの?(クッソ忙しいのに、変な仕事押し付けんなや・・・)
朝廷「えーっと、亀山天皇のことを寵愛している感じはあったなぁ・・・」
ふーんじゃあ、亀山天皇でいいんじゃない(ハナクソホジー
かなり端折ってますがこんな感じ。
外からは元寇の対処に追われ、内では天皇家が争いの仲裁をしなければならず、北条時宗は尋常でないストレスを抱えていたと言われています・・・。
まとめ
北条時宗は、弘安の役で元寇を追い払った3年後の1284年に32歳という若さで亡くなってしまいます。死因は、はっきりとわからず心臓病とか結核とか言われています。
直接の死因ではないにせよ、元寇への対応、反乱分子の排除、皇位継承への介入・・・度重なる激務とそのストレスが北条時宗の寿命を縮めたことは間違いないでしょう
三代目執権だった北条泰時も承久の乱と皇位継承という重責のストレスにより早死にしたと言われています。しかも、北条泰時も北条時宗も権力者らしい豪華絢爛な生活はせず、非常に質素な生活を送ったとされています。幕府のトップは決して楽な仕事ではなかったことがわかります。
北条時宗亡き後
北条時宗は、9代目執権を13歳の息子である北条貞時に託し亡くなりますが、貞時はまだ若い!
というわけで、その後の幕府運営は、先ほど紹介した北条時宗の重鎮たちによって行われます。中心となったのは先ほど登場した安達泰盛。
1284年〜1285年と安達泰盛が主導となって幕府の運営を担うことになりましたが、とにかく安達泰盛はいいヤツ!この2年間の治世は弘安徳政(こうあんとくせい)と呼ばれ、善政として後世に名を残すことになります。
そして1285年、安達泰盛を邪魔に思った平頼綱によって泰盛は命を奪われ(この事件を霜月騒動という)、その後平頼綱による恐怖政治が始まります。
さらに1293年、その平頼綱も命を奪われ、幕府運営は再び北条得宗家の手によって行われるようになり、鎌倉幕府は衰退の道を辿っていくのです。
元寇に熾烈な内ゲバ争い、それに天皇家の分断と本当に鎌倉時代は問題だらけの混沌とした時代であり、その中でも最も混迷を極めていたタイミングに北条時宗は生まれ、活躍したのでした。
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