誰でもわかる和田義盛!簡単にわかりやすく紹介【和田合戦

今回は、源平合戦〜鎌倉時代初期に活躍した名武将、和田義盛(わだよしもり)について紹介します。

 

 

和田義盛と言えば、北条氏との権力争いに敗れた和田合戦という戦いが有名なので、そのあたりの話を中心に紹介してみようと思います。

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和田義盛と源頼朝

1180年、以仁王が平家に対して挙兵したことで源平合戦が始まります。

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伊豆から脱走した源頼朝は、まず三浦半島に勢力を保っている三浦一族と合流しようと試みますが、石橋山の戦いでの敗北で実現ならず。源頼朝と三浦一族は平家軍から逃亡し、房総半島で合流することになります。

 

 

和田義盛は、そんな三浦一族の中の一人で、源平合戦初期の頃から源頼朝に尽くした功臣でした。

 

 

平家軍にフルボッコにされた源頼朝や三浦一族は意気消沈。どんよりした空気の中、和田義盛だけは良い意味で空気の読めないヤツでした。

 

 

和田義盛「頼朝様が勝った暁には、どうか私を侍所の別当にしてください。私はずっと侍所別当になることを望んでいたのです」

 

 

いやいや、それフルボッコにされた直後に言うことじゃないだろwみたいなツッコミが入って場が和んだとか言われています。何この天然系癒しキャラ。

 

 

同じ1180年、富士川の戦いで平家軍に大勝利すると源頼朝は一度鎌倉に戻り、関東一帯を平定することに力を注ぎます。この時、和田義盛は待ち望んでいた侍所別当に見事選ばれます。

 

 

 

侍所(さむらいどころ)とは、関東一帯の御家人たちを必要に応じ招集したり、武士らを統率する機関。ざっくりと言えば幕府内での武士たちの人事管理をする機関です。

 

 

別当っていうのは、最高責任者っていう意味なので、和田義盛は侍所の最高責任者になったということです。和田義盛が歓喜している様子が頭の中に浮かんできます。

和田義盛と源平合戦

1184年になると源頼朝は、四国の屋島に逃げ込んだ平家を包囲し袋の鼠状態に追い込むため、源範頼(みなもとののりより。頼朝の異母弟)を総大将として九州平定を目指します。

 

 

和田義盛もこの時、源範頼と共に九州平定に参加しました。

 

 

この九州平定っていうのが実に大変で、鎌倉からの食料供給が途中から途絶え、兵士たちの士気はダダ下がり。不安に駆られた兵士たちの中には逃亡しようとする者まで現れます。
軍崩壊の危機に直面した源範頼軍。そんな中、真っ先に諦めて内緒で鎌倉に戻ろうとしたのが、なんと!侍所別当で猛将と呼ばれていた和田義盛でした。

 

 

・・・( ゚д゚)ポカーン

 

 

武士たちを統率する立場の人間が何やってんだよ!!って感じですが、和田義盛って良くも悪くも自分の気持ちに正直な人物だったようです。(悪く言えば短絡的とも・・・)

 

 

 

汚名返上・・・というわけじゃないかもしれませんが、平家を滅ぼした1185年の壇ノ浦の戦いでは獅子奮迅の活躍をします。

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和田義盛は持ち前の豪腕でとんでもない飛距離で矢を飛ばします。弓の腕に自信のある和田義盛は矢に自分の名前を書き、「それ俺の矢だからちょっとこっちに飛ばしてくれない?どうせこっちまで届かないだろうけどww」と敵兵を挑発。

 

 

平家側も、弓の名手を探しますが中々見つかりません。和田義盛は自慢げです。

 

 

ところが、少し経って平家側は弓の名手を発見。矢を和田義盛以上に遠く放って、和田義盛の出鼻を挫きました。

 

 

これに笑ったのが和田義盛と共に戦う味方たち。「『俺ほどの弓の名手はいない(キリッ』とか言ってたのにこれじゃあ恥をかいただけだなw」と和田義盛をイジると和田義盛はブチギレ。

 

 

自らの武勇を示さんと敵に近づき、弓矢で次々と敵兵を射抜き大活躍します。

 

 

なんだかヘンテコな武勇伝ですよねw和田義盛はきっといじられキャラというか、愛されキャラだったんだと思います。

 

 

このほか、その後の奥州合戦でも先陣を切り大活躍しています。

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北条時政がいなくなると、源実朝の補佐役を時政の息子・娘の北条政子と北条時政が担うようになり、政治の実権はこの2人が握るようになりました。

 

 

それから月日は流れ1213年。権力を盤石にしたい北条義時は、強大な力を持つ和田一族を滅ぼそうと謀略を企みます。

 

 

源平合戦が終わってから1213年までの間、源平合戦で活躍した多くの一族が鎌倉幕府内での権力争いで滅びていきました。例えば、畠山重忠とか。

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和田義盛も鎌倉時代初期の壮大な内ゲバ争いの犠牲者になろうとしていたのです・・・。

和田合戦のきっかけとは?

きっかけは、泉親衡(いずみちかひら)という人物が源実朝を将軍位から引きずり下ろし、亡き源頼家の遺児を担いで将軍にしようとクーデターを企んだこと。
泉親衡のクーデターは、源実朝自身の失脚を狙ったものではありません。源実朝の後ろで政治を支配する北条氏を失脚させよようとしたのがクーデターの目的。しかし、この計画は事前に露呈し、泉親衡は捕らえられることに。

 

 

泉親衡を捕らえてみると、このクーデター計画には和田義盛の息子や甥っ子も関与していたことが判明。

 

 

これを知った和田義盛は、息子らを解放するよう源実朝に懇願します。これを受けた源実朝は和田義盛に同情し、義盛のこれまで功績も評価して、息子らを解放します。元々、源実朝と和田義盛の関係は良好で、お互いに信頼しあう仲だったことも幸いしました。

 

 

 

しかし、甥っ子の和田胤長(わだたねなが)だけは許されません。なぜかというと、和田義盛の息子らは計画に参加しただけだったけど、甥っ子の和田胤長はクーデター計画の首謀者の1人だったから。和田義盛を擁護する源実朝も、流石に首謀者を無罪!と言い切ることはできなかったのです。

 

 

これだけならまだしも、和田胤長は囚人のように縛られた状態で和田義盛の目の前に晒されます。こんなことをされたら、懇願しにきた和田義盛の面目は丸つぶれ。和田義盛はこれに激怒します。

 

 

和田義盛の怒りの矛先は、北条義時へと向かいました。なぜかと言うと、和田胤長を和田義盛の前で縛り上げるように命令したのは北条義時だったから。こうして北条義時と和田義盛の関係は一触触発の状態に。そして、ここまでは北条義時の計画通り。北条義時は和田義盛を挑発し、謀反を起こしたところでそれを叩き潰そうと考えていたのです。

 

 

さらに、北条義時の挑発はこれだけでは終わりません。捕まった胤長の残した領地を巡っても和田義盛と北条義時は対立します。

 

 

当初、胤長の領地は和田義盛の強い願いによって和田義盛に与えられます。和田義盛はこれをたいそう喜びましたが、北条義時はその決定を勝手に変更し、自分の部下に領地を分け与えてしまいます。権力を振りかざしての失礼千万なやり口に和田義盛はブチギレ。

 

 

頭に血が上った和田義盛はまんまと北条義時の思惑に乗せられ、遂に北条義時に対して挙兵してしまいます。和田義盛がバカ正直で、あまりにもうまく事が運ぶのできっと北条義時はニヤニヤしていたことでしょう!

和田合戦と和田義盛

1213年四月末頃から、鎌倉では「なんか和田義盛が館で不穏な動きをしているらしい」と噂が広がり、鎌倉は慌ただしくなります。こーゆーのって機密情報だと思うんですけど、めっちゃ機密情報が漏れています。

 

 

1213年5月2日、遂に和田義盛は挙兵。ところが、直前に和田氏の親戚だった三浦一族が裏切り北条側へ寝返ってしまいます。三浦氏の力は大きく、この裏切りは和田義盛にとって致命的でした。おそらくは、北条氏と三浦氏が裏で繋がっていて、三浦氏の裏切りは事前に計画されていたことだったのでしょう。

 

 

少ない兵力で戦わざるを得なくなった和田義盛の挙兵ですが、意外と上手く成功し、鎌倉の市街地で和田軍と北条軍は激戦を繰り広げます。特に活躍したのが和田義盛の三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)

 

こいつが超強くて、対峙した者で死なない者はいないと言われたほど。鬼神の如き活躍をします。

 

 

朝比奈義秀も含め、和田軍は獅子奮迅の活躍をしますが、大局的には多勢に無勢。時間が経てば経つほど和田軍は不利な状況に追い込まれ、夕方になると由比ヶ浜への撤退を余儀なくされます。

 

 

由比ヶ浜で体制を立て直していると、武蔵国から援軍が到着。5月3日早朝、再び和田と北条は激戦を繰り広げますが、北条側は次から次へと増援が駆けつけ、和田軍の不利は変わらず。

 

 

そんな中、和田義盛の息子である和田義直(わだよしなお)が敵に討たれたことで戦局が大きく動きます。>溺愛する息子を失った和田義盛は「もはやこれ以上戦う意味なし」と戦意を喪失。戦場をふらふら歩いていたところを敵に討たれます。

 

 

こうして和田軍は崩壊。和田義盛が討ち死にしたこの戦いのことを和田合戦と呼びます。

和田義盛・和田合戦まとめ

以上、和田義盛と和田合戦についてまとめてみました!

 

 

和田合戦で和田義盛が滅びると、和田義盛が担っていた侍所別当に北条義時が就任。

 

北条義時は政所という財務・一般政務を統括する部門の最高責任者でもあったので、侍所・政所という両部門の最高責任者になったことになります。鎌倉幕府の要職を牛耳った北条義時の権勢はさらに高まり、北条氏による政治支配は一層進むことになります。

 

 

歴史の大きな流れの中で「和田合戦の歴史的意義は何か?」と問われれば、それは「和田義盛が消えたことで北条義時が侍所・政所を抑え、北条氏独裁の政治(執権政治)の体制が完成するきっかけとなった」と言う答えになるんじゃないかなと思います。

 

北条氏による執権政治の礎を築いたのが北条時政なら、執権政治を確立した人物こそ北条義時と言うわけです

 

 

和田義盛は弓の名手であり、武勇の面では武士たちの憧れの存在でした。しかしながら感情的になりやすく、思慮に欠ける一面もあり、その単純な性格を北条義時に利用され、和田合戦で命を落とすことになります。実直で感情的な性格は、和田義盛を人々に頼られる憧れの存在とする一方、その性格ゆえに北条義時に滅ぼされてしまったのです。

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