鎌倉時代
KAMAKURA PERIOD / 1185〜1333年(武家政権の誕生と滅亡)
なぜ鎌倉時代は「武家政権の出発点」なのか
鎌倉時代は、日本に初めて「武士が支配する政権」を誕生させた148年間である
1185年の源頼朝による守護・地頭設置から1333年の鎌倉滅亡まで、約148年。御恩と奉公という双務的な主従関係、執権北条氏による摂家将軍擁立、2度のモンゴル来襲(元寇)、そして後醍醐天皇による倒幕——この特集では、源頼朝の挙兵から幕府滅亡までの流れを「時系列」で、制度・社会・仏教・文化を「テーマ」で読み解けるよう、51本の記事をひとつのページに編みました。学びの目的に合ったタブを選んでお使いください。
平氏を壇ノ浦で滅ぼした源頼朝は、1185年、弟・義経の追討を名目に、朝廷から守護・地頭を任命する権利を認めさせました。全国の軍事・警察権と土地の管理権を握ったこの瞬間こそ、武士による全国政権——鎌倉幕府の実質的なスタートとされています。
1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられました。鎌倉を拠点に侍所・政所・問注所を整え、御家人を統率する独自の政治機構をつくり上げます。京都の朝廷と並び立つ「武家の府」がここに誕生しました。
鎌倉幕府を支えたのは、将軍と御家人が結んだ「御恩」と「奉公」の双務的な関係でした。将軍は御家人の領地を保障し(本領安堵)、手柄に応じて新たな土地を与える(新恩給与)。御家人はその見返りに軍役や警備を務めます。土地を介したこの結びつきが、中世の封建社会の土台となりました。
初代執権・北条時政の跡を継いだ義時は、将軍を補佐する「執権」の地位を確立しました。三代将軍・実朝が暗殺されて源氏の将軍が絶えると、頼朝の妻・北条政子が「尼将軍」として御家人をまとめ、北条氏が幕府の実権を握っていきます。
1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発し、討幕の兵を挙げました。しかし政子の演説で結束した幕府軍が圧勝。上皇は隠岐へ流され、朝廷を監視する六波羅探題が京都に置かれます。武家が朝廷を上回る力を持つことを天下に示した、大きな転換点でした。
承久の乱のあと執権となった北条泰時は、執権を補佐する連署を置き、有力御家人による評定衆の合議で政治を進めました。独裁ではなく合議による公平な統治をめざした泰時は、のちに「名執権」と讃えられます。
1232年、泰時は武家社会の慣習(道理)と頼朝以来の先例をもとに、51か条からなる御成敗式目を定めました。律令とは別に、武士が自分たちの裁判の基準を初めて成文化したもので、後の武家法の手本となります。
五代執権・北条時頼は、1247年の宝治合戦で最後の有力御家人だった三浦氏を滅ぼしました。これにより北条氏の嫡流(得宗)への権力集中が一気に進みます。時頼は訴訟を専門に扱う引付を設け、裁判の迅速化も図りました。
8代執権・北条時宗が18歳で就任したころ、ユーラシアを席巻したモンゴル帝国(元)が日本に服属を迫ってきました。時宗はこれを拒否し、御家人を九州北部に動員して、来るべき侵攻に備えます。
1274年、元と高麗の連合軍が対馬・壱岐を経て博多湾に襲来しました。「てつはう」と呼ばれる火器や集団戦法に日本軍は苦戦しましたが、元軍は一夜のうちに撤退。一騎打ちを基本とする日本の戦い方を、大きく見直すきっかけとなりました。
1281年、元は14万ともいわれる大軍で再び来襲しました。しかし博多湾岸に築かれた石塁(防塁)に阻まれて上陸できず、暴風雨で艦隊は壊滅します。日本は二度の侵攻を退けましたが、防衛戦のため恩賞となる新しい土地は得られず、御家人の不満が募っていきました。
元寇のあと、幕府の実権は執権の地位を超えて、北条氏嫡流の当主=得宗と、その家臣(御内人)に集中していきます。1285年の霜月騒動では、御内人の平頼綱が有力御家人・安達泰盛を滅ぼし、得宗専制が決定的となりました。
元寇後、恩賞を得られず、所領を質に入れて困窮する御家人が増えました。幕府は1297年、永仁の徳政令で売却した土地をただで取り戻させようとしますが、かえって御家人は金を借りられなくなり混乱を招きます。幕府への信頼は大きく揺らぎました。
鎌倉後期、天皇家は持明院統と大覚寺統の二つに分かれ、皇位を交互に継ぐ「両統迭立」が続きました。1317年の文保の和談で幕府が調停に乗り出しますが、対立はくすぶり続け、やがて後醍醐天皇の倒幕運動の火種となっていきます。
1331年、後醍醐天皇は再び挙兵しますが、笠置山で捕らえられ隠岐へ流されました(元弘の乱)。しかし天皇に呼応した楠木正成らが各地で抵抗を続け、倒幕の火は消えませんでした。
1333年、幕府が討伐に送った足利尊氏が寝返って六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を攻めて北条氏を滅ぼしました。約150年続いた鎌倉幕府はここに滅亡し、歴史は後醍醐天皇の建武の新政へと移っていきます。
武家政治のしくみ
守護・地頭から得宗専制まで——鎌倉幕府の権力構造
鎌倉幕府の組織
侍所・政所・問注所——幕府を動かした三つの役所と、中央・地方の支配機構。
守護・地頭
国ごとの守護と荘園ごとの地頭。全国支配を可能にした二つの役職の違い。
大番催促・大犯三カ条
守護の基本的な職務。京都大番役の催促と、謀反・殺害人の取り締まり。
六波羅探題
承久の乱後に京都へ置かれた、朝廷監視と西国統治の拠点。
西面の武士
後鳥羽上皇が新設した院の軍事力。承久の乱で幕府に挑んだ。
執権政治
将軍を補佐する執権を北条氏が独占し、合議で幕府を主導した体制。
御成敗式目
1232年、北条泰時が定めた武家最初の成文法。全51か条。
連署
執権を補佐し、政務に連名で署名した役職。多くは北条一門が務めた。
評定衆
幕府の最高政務と裁判を合議で決めた、有力御家人による会議。
引付
訴訟・裁判を専門に扱った機関。裁判の迅速化と公正化をめざした。
得宗専制
北条氏嫡流(得宗)と御内人に権力が集中した、鎌倉後期の政治。
御家人と封建社会
御恩と奉公・地頭請——武家社会の経済と社会構造
鎌倉新仏教
法然・親鸞・一遍・日蓮・栄西・道元——六宗派の誕生
鎌倉文化
運慶・新古今集・方丈記——武家と貴族が融合した文化
TIMELINE
鎌倉史のハイライト年表
鎌倉史でよく出る疑問