

今回は平将門の乱について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!誰と誰が戦ったのか、なぜ起きたのか、誰が鎮圧したのかまで一気に解説するね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト)に対応
平将門といえば「反乱者」「謀反人」として知られています。しかし実は、平将門は単なる悪人ではなく、朝廷に見捨てられた東国の民衆から熱狂的に支持された“英雄”でした。
京都の朝廷から見れば「逆賊」。けれど坂東(関東)の農民や武士から見れば、自分たちを守ってくれる「救世主」だったのです。この二面性こそが、1000年以上経った今も将門が神田明神や将門塚で祀られ続けている理由でもあります。
この記事では「誰と誰が戦ったのか」「なぜ反乱が起きたのか」「誰が将門を鎮圧したのか」というテスト頻出ポイントから、将門の人物像・死因・歴史的影響まで、中学生にもわかりやすく解説していきます。
平将門の乱とは?(939年・940年)
① 939年、平将門が関東8か国を制圧し、「新皇」を名乗って朝廷に反旗を翻した
② 940年、藤原秀郷・平貞盛の軍に敗れ、将門は討ち死にした
③ この乱は武士が歴史の表舞台に立つきっかけとなり、のちの鎌倉幕府成立へとつながっていく
平将門の乱とは、平安時代中期の承平天慶の乱のうち、東国(関東地方)で起きた反乱のことです。
承平天慶の乱は、東で平将門・西で藤原純友がほぼ同時期に朝廷へ反旗を翻した「2つの乱」のセットを指します。朝廷から見れば、東西から同時に攻め込まれるような前代未聞の大事件でした。
将門の乱は939年に本格化し、940年にわずか3か月ほどで鎮圧されました。短い乱でしたが、武士の存在感を朝廷に強く印象づけ、のちの武家政権誕生への流れを決定づけた重要な事件です。それでは次の章では、テストでよく聞かれる「年号の覚え方」を見ていきましょう。

テストで「平将門の乱は何年?」って聞かれたとき、939年と940年どっちを答えればいいの?

結論からいうと「939〜940年」とセットで覚えるのが正解だよ!939年に将門が「新皇」を宣言して反乱が本格化、940年に討ち取られて終結。教科書では「939年」が乱の開始年として強調されるけど、入試では年号を1つだけ答える形式の問題は少なくて、「939〜940年」「平安時代中期」などざっくり書ければOKな問題が多いんだ!
平将門って誰?— 生い立ちと坂東武者ばんどうむしゃの時代

平将門は平安時代中期(10世紀前半)の武士で、関東地方を本拠地にしていた人物です。生年は不明ですが、903年ごろの生まれと推定されています。
父は平良将。鎮守府将軍として東北・関東で勢力を持っていた武人で、将門もその子として下総国(現在の茨城県南西部・千葉県北部)で育ちました。
家柄は桓武平氏。桓武天皇のひ孫にあたる高望王が「平」の姓を賜って臣下に下り、その子孫が東国に土着して武士団となった一族です。将門はこの桓武平氏の本流に近い血筋でした。


俺はただ、父から受け継いだ土地を守りたかっただけだ…。なのに叔父たちは俺の領地を奪おうとした。
若き日の将門は、京に上って摂政・藤原忠平に仕えたとされています。中央貴族の世界を間近で見ながら役職を求めましたが、思うようなポストには就けず、やがて関東に戻ることになりました。
東国に戻った将門が直面したのは、父・良将の死後に親族に奪われていた自分の所領でした。土地を取り戻そうとする将門と、それを認めない叔父たち(国香・良兼・良正)との対立。これが、のちの大乱の火種となっていきます。次の章では、その一族争いを詳しく見ていきましょう。


桓武平氏って何かしら?天皇の子孫が武士になったってこと?

そう、その通り!桓武天皇のひ孫の代に「これ以上皇族を増やすと国が困る」って理由で、「平」の姓をもらって貴族に格下げになった一族のことだよ。これを臣籍降下って言うんだ。彼らはもう皇族じゃないから、自分の食い扶持を稼ぐ必要があって、地方の国司に任命されて関東に下って土着したんだよ。そこで土地を開拓して武装集団に育っていったのが、桓武平氏=坂東平氏のルーツなんだ!
臣籍降下というのは、天皇の子どもや孫など皇族の身分を持つ人が、正式に皇族をやめて「普通の貴族(臣下)」になること。このとき「源」「平」「橘」といった氏(名字のようなもの)が天皇から贈られる。
なぜそうするかというと、皇族が増えすぎると国の財政が追いつかなくなるし、皇位継承をめぐる争いの種にもなる。だから、皇位に直接関係しない皇子や皇孫は臣下に格下げして朝廷の官僚として働いてもらう——それが当時の慣習だったのです。
誰と誰が戦った?— 一族争いから始まった(935年〜939年)
「平将門の乱=最初から朝廷への反乱」と思いがちですが、実はもともとは平氏一族同士のプライベートな土地争いでした。それが少しずつ拡大し、最後には朝廷と戦う大乱になっていったのです。
発端は935年。将門は、おじにあたる平国香と土地をめぐって衝突します。背景には、国香の妻の父である源護との女性関係のもつれもあったと伝えられています。同年、将門は源護の子らと常陸国野本で戦い、勝利した勢いのまま伯父・国香の館を焼き払い、国香を討ち取ってしまうのです。

争い① 将門 vs 伯父・国香+源護一族(935年):土地と女性関係のもつれが発端。野本の戦いで源護の子らを破り、伯父の平国香を討ち取る
争い② 将門 vs 平貞盛・平良兼ら(936〜939年):父・国香を討たれた平貞盛、もう一人の叔父・良兼が連合。一族間の復讐戦に発展する
父を討たれた国香の子・平貞盛は、当然のように復讐に動きます。もう一人の叔父・平良兼も巻き込み、936年から939年にかけて将門と何度も戦いを繰り広げました。

朝廷も無関心ではいられず、源護らの訴えを受けて将門を都に呼び出して尋問しています。しかし、おりよく恩赦が出て将門は許され、東国に戻ってくることに。和解の機会はあったものの、結局は再び抗争が燃え上がり、将門は私戦の枠を越えて「東国全体を相手に戦う武人」へと変貌していくのです。次の章では、なぜここまで事態がエスカレートしたのか、原因と背景を見ていきましょう。
恩赦とは、天皇・朝廷が罪人の刑罰を免除・軽減する制度のことです。天皇の即位・節会・天変地異などの機会に合わせて定期的に発令されており、平安時代には珍しいことではありませんでした。将門が都で尋問されたタイミングでちょうど恩赦が出たため、罰を受けることなく東国へ戻ることができたのです。

なんで身内同士で殺し合うところまでいったの?普通は止めない?

当時の関東はね、今みたいに「警察に通報すれば解決」っていう仕組みがなかったんだ。朝廷の力は京都の周りまでしか及ばなくて、東国の土地争いは「自分で武力で守る」しかなかったんだよ。だから一度争いが起きると、武装した親族同士のガチンコ勝負になっちゃう。将門の戦いはまさに、東国の現実そのものだったんだね!
将門の乱の原因と背景
承平・天慶という2つの年号の時期(931〜947年)に起きた2つの大乱の総称。東=平将門の乱(939〜940年)と西=藤原純友の乱(939〜941年)がほぼ同時期に起きたため、セットで「承平天慶の乱」と呼ばれます。朝廷から見ると、東西から同時に揺さぶられた前代未聞の大事件でした。
では、なぜ一族の私闘が「日本史に残る大乱」にまで発展したのでしょうか。背景には大きく3つの理由があります。
1つ目は朝廷の東国軽視。当時の朝廷は京都の貴族政治が中心で、遠い関東の土地争いはほとんど放置されていました。将門が国香を討ったあとも、朝廷の処分は形だけで実効性がなく、結局「東国のことは東国の武士で解決するしかない」状況だったのです。
2つ目は受領(国司)の横暴。地方に派遣される受領が、税の取り立てや裁定で農民・在地武士をいじめる事件が頻発していました。とくに武蔵国では、新任の武蔵権守が地元有力者と対立し、将門が仲裁に入ったことで朝廷側から「将門が国司に敵対している」と見なされる事件も起きています。
3つ目は武士という新しい階層の台頭。10世紀には地方で武装した在地領主が増え、京都の貴族には太刀打ちできない実力を蓄え始めていました。将門の乱は、まさにその「武士の力」が朝廷の権威を上回った最初の象徴的事件だったのです。なお、この頃の朝廷は延喜・天暦の治による安定期の直後であり、摂関政治への移行期にあたります。次の章では、その武士の力がついに頂点に達した「新皇」宣言を見ていきましょう。

朝廷はなんで将門の動きを早めに止められなかったのかしら?

当時の朝廷は、自前で動かせる強い軍隊を持っていなかったんだよ。蝦夷との戦いが終わってから、律令制の軍団はほぼ機能停止していて、いざ反乱が起きても「現地の武士に頼んで鎮圧してもらう」しか手がなかったんだ。だから関東で将門が暴れていても、最初は遠い京都から見れば「親族のケンカでしょ」くらいの感覚で、本気で動き出したのは新皇宣言の後だったんだよ!
関東8国の制圧と「新皇」宣言(939年)
939年、将門の私闘はついに「朝廷への反乱」へと変質します。きっかけは、武蔵国・常陸国で起きた国司との対立に将門が介入し、結果的に常陸国府を襲撃して国司を追放してしまったことでした。
これは事実上、朝廷の役人を武力で排除した行為であり、もう後戻りはできません。将門はそのまま破竹の勢いで進軍し、関東8か国(常陸・下野・上野・武蔵・相模・下総・安房・上総)の国府を次々に制圧しました。
各国を現代の都府県に置き換えると、常陸=茨城県・下野=栃木県・上野=群馬県・武蔵=東京都+埼玉県+神奈川県の一部・相模=神奈川県・下総=千葉県北部+茨城県南部・安房=千葉県南部・上総=千葉県中部となります。つまり、関東一円という広大な地域が、将門の支配下に入ったのです。

そして同じ939年の年末、将門は驚くべき行動に出ます。下総国の本拠地で、自らを新皇と宣言し、独自の国家体制を整え始めたのです。これは「平安京の天皇とは別の、東国の天皇になる」という事実上の独立宣言でした。
📌 新皇とは?:「新しい天皇」を意味する将門の自称。日本史上、地方で「新皇」を名乗ったケースはほぼこの将門だけと言われています。臣下が朝廷の天皇とは別に「皇」を名乗ること自体が前代未聞であり、朝廷から見れば最大級の反逆行為でした。

朝廷は俺たち東国の民を見捨てた。なら俺が、この東国の民を守ってみせる!俺が新しい王となる!
将門は独自の官位(除目)を発表し、家臣たちに国司の役職を割り当てました。朝廷の制度をそのまま模倣しつつ、東国独自の政権を作ろうとしたのです。しかしこの行為は朝廷を激怒させ、ついに「将門追討令」が発せられることになります。次の章では、その鎮圧の主役となった2人を紹介していきましょう。

「新皇」って名乗るのって、どれくらいヤバい(すごい)ことなの?テストに出る?

めちゃくちゃヤバいよ!日本史で「新皇」を名乗ったのは将門ぐらいで、これは「天皇に成り代わる」っていう最大級の反逆行為なんだ。テストでは「平将門が939年に名乗ったもの=新皇」「関東8か国を制圧した」って形でよく聞かれるよ。漢字も「新王」じゃなくて「新皇」だから注意してね!
平将門を鎮圧したのは誰?(940年)
新皇宣言を知った朝廷は、ついに本気を出します。摂政・藤原忠平を中心に、将門追討の宣旨(命令)を発し、東国の武士たちに「将門を討てば恩賞を与える」と呼びかけました。
これに応じて挙兵したのが、次の2人の武将です。彼らこそ平将門の乱を鎮圧した最大の功労者で、テストでも「将門の乱を鎮圧した人物は?」と聞かれたら、この2人を答えればOKです。
鎮圧① 藤原秀郷(俵藤太):下野国の押領使。秀郷流藤原氏の祖で、のちに伝説化する弓の名手

押領使とは、平安時代に置かれた地方の治安維持を担う役職です。今でいう「地方の警察署長」に近いイメージ。律令制の軍団(国軍)が機能しなくなった9〜10世紀ごろ、朝廷は各地の有力武士に押領使の肩書きを与えて代わりに治安維持を任せるようになりました。藤原秀郷は下野国(現在の栃木県)の押領使として、地域の武力と影響力を一手に担うトップだったのです。
鎮圧② 平貞盛:将門に父・国香を討たれた従兄弟。復讐の機をうかがい続けていた

940年2月、藤原秀郷と平貞盛の連合軍は、下総国・北山(現在の茨城県坂東市付近)で将門軍と最終決戦を繰り広げ、将門はここで討ち取られました。新皇宣言からわずか2か月半。決戦の詳しいエピソードは、次の章で見ていきましょう。

藤原秀郷って「俵藤太(たわらのとうた)」って書いてあるけど、何者なの?

俵藤太は藤原秀郷のあだ名で、近江の三上山の大ムカデを退治したっていう伝説で有名な武将だよ。もちろん大ムカデの話は伝承だけど、現実の秀郷は下野国(栃木)に勢力を持っていた強力な武士で、藤原北家の流れをくむ家柄なんだ。彼の子孫からは奥州藤原氏や小山氏など、関東・東北の有力武士団がたくさん出ているよ!「将門を討った武士の祖」って覚えておくと、後の鎌倉時代を学ぶときにもつながるよ!
伝説によれば、藤原秀郷は近江国(現在の滋賀県)の三上山に住む巨大な百足(むかで)に頼まれ、その天敵である龍神を退治しました。その褒美として龍神から「米が尽きない俵」「絹が尽きない巻物」などを授かったとされ、これが「俵藤太」というあだ名の由来です。将門を討ったという実績と、この龍神伝説が結びつき、秀郷は中世武士の理想像として長く語り継がれてきました(※これは伝説であり史実ではありません)。
平将門の最期と死因
940年2月14日(旧暦)、平将門は下総国・北山(現在の茨城県坂東市付近)で藤原秀郷・平貞盛の追討軍と最後の決戦に挑みました。新皇宣言からわずか2か月半。将門の手元に集まった兵はわずか400ほど、対する追討軍は4,000余。将門の主力はすでに各地に分散しており、精鋭だけで圧倒的な兵力差に立ち向かう決戦でした。
戦闘の序盤は、将門軍が優位に進めます。北風が吹き荒れる中、将門軍は風上から矢を放ち次々と追討軍を圧倒。その猛攻は凄まじく、追討軍のうち約2,900人が戦場から逃げ散るほどでした。「もはや勝てた」——そう確信した将門が引き返そうとした、そのときです。風が急に南へ変わったのです。
風下に立たされた将門軍に対し、辛うじて踏みとどまっていた秀郷・貞盛の精鋭約300が一気に反撃に転じます。劣勢を挽回しようと将門自ら馬を駆って陣頭に立ちましたが、そこへ一本の矢が飛んできて額(ひたい)を貫きました。落馬した将門はそのまま討ち取られ、享年は推定38歳前後(903年頃生まれ)とされています。誰が射たのか——『将門記』はその射手を明記せず、「神矢が降った」とも読める表現で記しています。
討ち取られた将門の首は京都に運ばれ、京の七条河原で晒し首(さらしくび)にされました。武士の首が公式に晒されたのは、これが日本史上ほぼ初の記録とされています。将門の死をもって乱は鎮圧され、東国にはふたたび朝廷の支配が戻りました。しかし、将門の名は消えるどころか、伝説となって人々の記憶に深く刻まれていくのです。

…風が、止んだか。東国のために戦った、それだけで十分だ。我が首は京へ運ばれようと、魂は東国の地に残る。
📌 伝説では…:京で晒された将門の首は、3か月たっても腐らず目を見開き「我が体はどこだ」と叫び、ついには関東を目指して空を飛んだと伝えられています。落ちた場所が東京都千代田区大手町の将門塚とされ、現在もオフィス街のど真ん中に静かに祀られています。戦後の区画整理や工事で塚を動かそうとするたびに事故や祟りが続いたと言われ、「動かしてはいけない首塚」として有名です。

死因が「額に矢が刺さった」って本当なのかしら?ちょっとピンポイントすぎる気がするけれど…

「額への矢」は、当時の戦記『将門記』に書かれている記述なんだよ。後の時代には「将門は身体が鉄でできていて、額だけが弱点だった」っていう伝説まで生まれたんだけど、それは完全にファンタジー。史実としては「兜と兜の間の隙間(額)に矢が当たって落馬した」くらいの理解でOK。ちなみに合戦中の流れ矢で大将が討たれることは決して珍しくなくて、戦国時代の今川義元も似たような形で討ち取られているんだよ!
将門の怨霊おんりょう伝説と将門塚まさかどづか(大手町)

将門の死後、彼の名は単なる「反乱のリーダー」を超え、怨霊として語り継がれるようになります。平安時代には、政争に敗れた人物が怨霊となって祟りをもたらすという御霊信仰が広まっており、将門はその代表的な存在となっていきました。
そして1000年以上が経った今も、将門は東京・大手町の将門塚に祀られています。三菱UFJ銀行や大手町フィナンシャルシティなど超高層ビルが立ち並ぶオフィス街のど真ん中に、江戸時代から変わらぬ姿で鎮座し続けているのです。
将門塚には数々の「祟り」のエピソードが語り継がれています。中でも有名なのが戦後の出来事です。1940年代、大蔵省(現・財務省)が庁舎拡張のために将門塚の撤去を計画したところ、関係者が次々と謎の死・重病・落馬事故に見舞われ、工事が中断されました。その後も再開発のたびに「塚に手を加えると祟りがある」と伝えられ、地元の財界・氏子が塚の保存に尽力してきた歴史があります。
2020〜2021年には大手町再開発に合わせて将門塚の大規模な整備工事も実施されました。石垣・玉垣が刷新され、より参拝しやすい形に整えられた現在の将門塚は、通勤途中のビジネスマンたちが立ち寄る「パワースポット」としても親しまれています。

現代のオフィス街ど真ん中に首塚があるって、なんか不思議ね。神田明神とも関係があるの?

深いつながりがあるんだよ!神田明神(千代田区外神田)は将門を三柱の祭神の一柱として祀っていて、神田・日本橋・大手町・秋葉原など旧江戸城下108町の総鎮守として今も続いてる。「怖れられる怨霊をそのまま神として祀ってしまう」のは日本独特の信仰文化で、菅原道真(天神様)と並ぶ代表例だよ。将門塚と神田明神、どちらも「畏れられ、かつ崇められる」将門の二面性を象徴する場所なんだ!
平将門の人物像・性格
朝廷からは「逆賊」と呼ばれた将門ですが、関東の農民や在地武士からは絶大な支持を集めていました。理由ははっきりしていて、身分にこだわらず誰とでも気さくに接する性格だったからです。源護や叔父たちとの抗争でも、自分のもとに身を寄せてきた敗者や流民を分け隔てなく受け入れたという記録が『将門記』に残されています。
関東を制圧した後の統治にも、その性格は表れています。新皇を宣言した将門は、独自に国司を任命して関東8国の行政を整え、戦乱で荒れた田畑の復興にも取り組みました。京の貴族が決して足を踏み入れない東国で、農民の声を聞きながら統治しようとした姿勢が、後世まで「東国の守護神」として慕われる土台になったのです。

俺は、京の貴族のために生まれたのではない。田を耕す者、馬を駆る者、その者たちが安心して生きられる東国を作る——それが俺の戦いの理由だ。
📌 史実 vs 通説:将門は悪人か英雄か:朝廷側の公式記録(『日本紀略』など)では「逆賊・朝敵」として徹底的に悪く書かれています。一方で、東国の民衆伝承や『将門記』では「東国を守ろうとした英雄」として描かれます。どちらかが正解というよりも、立場によって評価が真逆になる稀有な人物——というのが現代の歴史学の見方です。

将門ってどんな性格だったの?乱を起こすくらいだから、やっぱり野心家タイプだったのかしら?

実はね、『将門記』を読むと意外と「優しすぎる」性格として描かれているんだ。叔父の良兼を捕らえても殺さずに逃がしたり、敗れた相手の家族をかばったり——そのお人好しが命取りになった場面も多いんだよ。野心家というよりは、「身内のトラブルに巻き込まれているうちに、引き返せないところまで来てしまった東国の親分」って感じが近いかな。だから現代でも、神田明神(東京・千代田区)で「庶民の守り神」として親しまれているんだよ!
平将門の乱が日本に与えた影響
将門は鎮圧されましたが、この乱が日本史に残した影響は計り知れないほど大きいものでした。なぜなら、これまで朝廷の下で「使われる側」だった武士が、ついに「歴史を動かす側」へと立ち上がった最初の事件だったからです。詳しくは武士の台頭まとめもご覧ください。
影響は大きく3つにまとめられます。
1つ目は武士の社会的地位の上昇。将門を討った藤原秀郷と平貞盛は朝廷から大きな恩賞を受け、武士が「朝廷の力では制圧できない反乱を、武士の力で抑えた」事実が広く認知されました。
2つ目は朝廷の軍事力の限界の露呈。律令制の軍団はすでに機能していないことが明白となり、以後の朝廷は地方の武士に頼らざるをえなくなります。
3つ目は武士団形成の加速。秀郷流藤原氏・桓武平氏・清和源氏といった武家の祖が、この乱をきっかけに地方で力を蓄えていきました。
この流れは止まることなく、前九年の役(1051〜1062年)・後三年の役(1083〜1087年)を経て武士の力はさらに強まり、ついに1185年の鎌倉幕府成立で武家政権が誕生します。つまり、将門の乱は「武士の時代の始まり」を告げる号砲だったのです。
もし将門が朝廷を打ち破り、東国独立政権が成立していたら、日本史はどう変わっていたでしょうか。考えられるのは、第一に「東西2つの国家」が並び立つ朝鮮半島型・分裂国家への道。第二に、武家政権の誕生が250年早まる可能性です。実際の鎌倉幕府成立は1185年ですが、将門が勝てば10世紀のうちに武士による独立政権が完成していたかもしれません。もちろん、東西で争乱が長期化し日本全体が混乱に陥った可能性もあります。歴史にIFはありませんが、想像するだけで「武士の時代がいかに重い意味を持っていたか」が見えてきますね。

武士ってこの乱で強くなったの?鎌倉幕府まで遠い気がするんだけど…

そう、ここから武士の長〜い助走が始まるんだよ!将門の乱(939年)→ 平忠常の乱(1028年)→ 前九年の役(1051年)→ 後三年の役(1083年)→ 保元・平治の乱(1156・1159年)→ 源平合戦(1180〜85年)→ 鎌倉幕府(1185年)って流れで、武士は約250年かけてゆっくり政治の主役になっていくんだ。「将門の乱は武士の時代の最初のスタート地点」って覚えておくと、鎌倉時代の勉強がグッと楽になるよ!
平将門についてもっと知りたい方へ(おすすめ本)

平将門についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!入門書から歴史小説まで、レベル別に選んだよ。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:承平天慶の乱 = 将門(東)+純友(西)のセットで覚える!年号は939年に将門が新皇宣言 → 940年に討死と連番で並ぶので、「9・3・9 → 9・4・0」とリズムで唱えるとスッと入ります。鎮圧したのは「ふじわらのひでさと+たいらのさだもり」=「ひさ」コンビとセットで暗記。「新皇」は「新王」と書き間違える人多数なので漢字に注意!

テストで一番出やすいパターンってどんな感じ?選択肢にひっかけが多そう…

定番パターンは「939年、関東で( )の乱が起き、( )は新皇を称した」っていう穴埋めだよ!答えは「平将門」。あと「将門を討ったのは誰か?」で「藤原秀郷と平貞盛」をセットで答えさせる問題も超頻出。ひっかけポイントは「鎮圧したのは源頼信」(←これは平忠常の乱)や「源義家」(←これは後三年の役)が混ざってくるパターン。10世紀の反乱と11世紀以降の戦いを混同しないように気をつけてね!
よくある質問(FAQ)
A. 939〜940年に関東で起きた、平将門が朝廷に対して起こした反乱です。将門は関東8か国(常陸・下野・上野・武蔵・相模・下総・安房・上総)を制圧し、自らを「新皇」と宣言。日本史上、武士が朝廷に公然と反抗した初めての大乱で、ほぼ同時期に西で起きた藤原純友の乱と合わせて「承平天慶の乱」とも呼ばれます。
A. 当初は平氏一族の内部抗争で、将門 vs 叔父・平国香、その後は将門 vs 平貞盛(国香の子)・平良兼(もう一人の叔父)の戦いでした。939年に将門が国府を襲撃して朝廷との対立構造へ発展し、最終的には朝廷の追討令を受けた藤原秀郷・平貞盛の連合軍 vs 平将門軍の決戦となって終結しました。
A. 直接のきっかけは935年に起きた一族同士の土地争いでしたが、根本原因は①朝廷の東国軽視、②受領(国司)の横暴に対する東国武士の不満、③10世紀の武士の台頭という3つです。中央政治が貴族中心で地方が放置された結果、東国の在地武士が自前の武力で問題を解決するしかなく、その代表として将門の力が突出しました。
A. 藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛の2人です。下野国の押領使だった藤原秀郷と、将門に父・国香を討たれた平貞盛が連合し、940年2月、下総国・北山(現在の茨城県坂東市付近)で将門を討ち取りました。両者は朝廷から大きな恩賞を受け、武士の社会的地位が大きく上昇するきっかけとなりました。
A. 940年2月14日(旧暦)、下総国・北山での決戦中に額に矢を受けて落馬し、討ち取られたと『将門記』に記されています。「身体が鉄でできていて額だけが弱点だった」というのは後世の伝説で、実際は兜の隙間に矢が当たって致命傷となったと考えられます。享年は推定38歳前後(903年頃の生まれと推定)です。
A. 武士が歴史の表舞台に登場した最初の大事件でした。①朝廷の軍事力の限界が露呈し、地方の武士に頼らざるを得なくなったこと、②藤原秀郷流・桓武平氏・清和源氏といった武家の祖が力を蓄え始めたこと、③この流れが前九年の役・後三年の役・源平合戦を経て、1185年の鎌倉幕府成立につながったことが主な影響です。「武士の時代の幕開け」を告げた号砲と評価されています。
まとめ:平将門の乱と武士の台頭
ここまで、平将門の生涯と「平将門の乱」の流れを見てきました。最後に重要な出来事を年表で振り返り、関連記事も紹介しておきます。
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935年平将門、叔父・平国香を討つ(将門の乱の始まり)
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939年将門、関東8か国を制圧し「新皇」を宣言
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940年藤原秀郷・平貞盛が将門を討ち、乱が終結
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941年藤原純友の乱も鎮圧され、承平天慶の乱が終結
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1185年武士が政治の表舞台へ。源頼朝が鎌倉幕府を成立させる

以上、平将門の乱のまとめでした!平安時代に「武士の時代の幕が開いた瞬間」、面白かったよね。下の関連記事で、同じ時代の藤原純友の乱や、その後の武士の活躍についてもあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「平将門」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「承平天慶の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「平将門」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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