健児の制(日本史)をわかりやすく簡単に解説【桓武天皇による兵制改革です】

この記事は約5分で読めます。

今回は、桓武天皇が創設した新しい軍隊制度「健児こんでいの制」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。

健児の制は、たんに「健児」ということもありますが、意味は同じです。この記事では「健児こんでい」で表記を統一しています。

健児の概要【教科書風】

一般民衆から徴発する兵士の質が低下したことを受けて、792年、東北・九州など一部の地域を除き旧来の軍団・兵士を廃止して、代わりに郡司ぐんじの子弟や有力農民の志願による少数精鋭の健児を採用した。

この記事を読んでわかること
  • 健児が登場した時代背景は?
  • なぜ健児は登場したの?
  • 健児によって日本の軍事制度はどう変わったの?
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税制度の大問題「兵役を課したら減収になる問題」

健児が登場した理由は、上にも書いたとおり「一般民衆から徴発する兵士の質が低下したから」です。

ここまでは参考書などにもよく書いてある話ですが、もう少し話を深掘りして、なぜ兵の質が低下してしまったのか?を解説しておきます。

話を深掘りすることによって、時代の流れがスッと理解できるようになります。

健児の制度が創設されるまで、軍事に動員される兵士たちは徴兵制によって無理やり集められていました。(これは大宝律令により定められています)

この徴兵制による兵役の最も有名なものが、九州北部を外国から守る防人です。

徴兵制はその兵役自体の負担が重いのはもちろんですが、もう1つ大きな問題となったのが「働き盛りの男が兵役で家から離れてしまうと、田畑を耕作することができない」という点です。

農民たちは、稲の収穫の一部を、各地の特産物などを調ちょうとして納税する必要があります。ところが、兵役などによって田畑を耕す人が減ることにより、租・調の税収が次第に減り始めてしまったのです。

当時の税の仕組みについて詳しく知りたい方は、以下の記事を合わせて読んでみてくださいね。

農民たちからすれば、兵役だけでも危険な仕事なのに、それに拍車をかけて人手不足により租・調などの納税の負担まで重くなるわけです。

中には重い税負担が逃れるために、農地を捨てて逃げ出す人も多くいました。しかも、兵役は税(義務)なので、頑張って働いてもほぼ無給です。

これでは、兵役に向かう人々のモチベーションが上がるわけがありません。兵の質が低い背景には、「兵役に行くと租・調を納めるのが難しくなる」という税制度上の大きな欠陥があったのです。

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桓武天皇「兵が弱すぎて蝦夷との戦争に使えないんだが」

健児が採用された792年当時、桓武天皇は東北地方で蝦夷との戦争真っ最中でした。

蝦夷との戦争は、780年に起こった伊治呰麻呂の乱を発端としたもので、鎮圧までの約30年を要した大戦争に発展します。(この蝦夷との戦いは三十年戦争と呼ばれることもあります)

当初は朝廷側が優勢でしたが、790年頃になると、蝦夷のボスだった阿弖流あてるい為が無双級の強さを発揮し、朝廷軍はボコボコにされてしまいます。

一気に形勢不利となったこの状況を打破するため、桓武天皇はこう考えます。

桓武天皇
桓武天皇

無理やり徴兵されて実力もモチベーションもない兵士を100人集めるより、少数精鋭で1人を選んだ方が強い軍団を作れるのでは?

こうすれば、兵力強化と農民負担軽減でまさに一石二鳥ではないか!

792年、こうして創設されたのが健児の制度でした。

古今東西、戦争というのは民に大きな負担を強いるものです。桓武天皇にとって、健児は、兵力強化と民の負担軽減を同時に行えるまさに妙案だったのです。(おまけに民の負担軽減によって租・調の増収も狙える・・・!!)

ちなみに、蝦夷との戦いは802年に坂上田村麻呂がアテルイを討ち取ることで朝廷側の勝利に終わりました。

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健児によって日本の軍事制度はどうなったのか

健児によって日本の軍事はどう変わったのか2つだけ説明しておきます。

農民「兵役を無くしてくれた桓武天皇が最高すぎるんだが」

健児のスローガンは「100人の弱兵よりも1人の強兵」というとてもシンプルなもの。

選ばれる1人は、訓練を積んでおり、かつ、訓練に専念する余力を持つ経済力がある者でなければいけません。

そう考えると、1人の強兵を選ぼうとすると、重い税負担に苦しむ多くの農民たちは自然と対象外になり、候補者は各地の有力者(郡司や金持ち農民)に絞られてきます。

こうして農民は兵役から解放されて、田畑の耕作に専念できるようになりました。農民視点で見れば、桓武天皇の兵制大改革は善政そのものだったのですね。

軍隊の縮小

少数精鋭といえども、兵の絶対的な数が減少するわけで、健児を採用することによって日本全体の軍隊規模は大きく縮小しました。

ただし、この規模の縮小は東アジアの国際事情を冷静に分析した上での決断でもあります。

飛鳥時代の663年、日本は友好国の百済を助けるためにとう新羅しらぎと戦い敗北した歴史があります。(白村江の戦い

そのため日本は、唐・新羅の報復攻撃を想定して、大規模な軍隊制度を採用し続けていました。

ところが、白村江の戦いから100年以上経過しても唐・新羅からの報復攻撃はなく、その気配すらありません。

唐にいたっては日本から頻繁に遣唐使を派遣できるほど、関係が回復しています。

桓武天皇
桓武天皇

軍隊の規模を縮小するのは確かにリスキーだが、今となっては唐・新羅が日本に攻めてくる可能性は0に等しい。

それならば、内政(民の負担軽減)を優先すべきだろう。

「国際情勢」「蝦夷との戦争」「民の税負担」など様々な政治的判断の上で、桓武天皇は兵制の大改革を断行したのです。

軍隊の縮小を意味する健児の採用ですが、健児が採用されなかった例外地域も存在します。

それが東北地方と九州北部です。この2つの地域に共通しているのは、どちらとも軍事的に大事な拠点で軍隊規模の縮小が望ましくないという点です。

  • 東北:蝦夷との戦争真っ最中
  • 九州北部:海賊対策and戦争時の最前線拠点

この2箇所では引き続き、徴兵制度が採用されました。

兵役が地方の有力者にのみ課せられるようになると、地方の有力者の中には職業軍人のような人物も登場します。そして彼らは、次第に各地の紛争などで頭角を現すようになり、後の武士へと成長していくことになります。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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