今回は、939年に起こった藤原純友の乱についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
藤原純友という男
最初にこの記事の主役になる藤原純友という人物について簡単に紹介しておきます。
藤原純友は「藤原」の姓のとおり貴族の出身の高貴な血筋。しかし、純友の一族は平安京での出世競争に挫折。
純友の父は太宰府の高官(大宰少弐)となり、地方で栄転の活路を模索します。
しかし、その父も純友が若い頃に亡くなってしまいます。父の早世によって藤原純友は出世に必要な人脈を失い、貴族としては没落した生涯を歩むことになります。
そして、没落した純友をヘッドハンティングしたのが、伊予国の代表(伊予守)で純友の親戚でもあった藤原元名という男でした。
藤原元名が純友に期待したのは、その高い戦闘能力。当時、伊予国に接する瀬戸内海では海賊が横行し、大きな社会問題となっていました。この海賊問題を解決するため、藤原純友が抜擢されたのです。
藤原純友は、父と太宰府にいた頃に海賊退治で活躍していた経歴がありました。その経歴が没落した後、役に立ったわけです。
藤原純友の海賊退治
藤原純友は、伊予国で掾と呼ばれる身分の役人となります。時代ははっきりしませんが、932年頃の話だと言われています。
藤原純友は完璧に仕事をこなし、瀬戸内海の海賊たちを平定することに成功します。
この活躍により藤原純友は、一躍有名人へ。掾の任期が終わった後も京に戻って新しい仕事を探すことなく、その武勇と知名度を活かして伊予国に定住することになります。
【悲報】藤原純友、海賊になる
936年、藤原純友は突如として海賊団のボスになります。
急展開ですが、海賊を退治する役人だった人間が、わずか数年でその海賊団のボスになってしまったのです。
海賊に転身した理由は諸説あり、はっきりとわかっていません。1つ言えるのは、海賊団のメンバーには藤原純友のように没落した元貴族の人たちが多くいたことでした。
もしかすると、海賊と戦っていた藤原純友はこんなことを考えたのかもしれません。
海賊たちだってやりたくて海賊をやっているわけじゃない。
退治した海賊の多くは、俺みたいに良い家柄に生まれながら没落していった人たちだった。
じゃあ、俺たちが没落した理由はなんだ?すべて朝廷のせいではないか?もしそうだとすれば、俺には海賊と戦う理由はないではないか!
理由がどうあれ、藤原氏という高貴な血筋に加え、海賊退治で名を馳せたその武勇に多くの人々が集まり、巨大な海賊集団が結成されたのです。
実は936年に瀬戸内海の海賊たちが再び暴れ始めた・・・という記録が残されています。
この海賊たちは朝廷が送り込んだ紀淑人に降伏したのですが、この時の藤原純友の状況について、2つの説があります。
説その1この海賊のボスが藤原純友だった説
説その2紀淑人と海賊の間を仲介したのは藤原純友で、海賊平定に活躍したけど、与えられた恩賞が理不尽だったため、海賊になった説
この記事では後者を採用しています。
藤原純友は、九州と四国の間にある日振島を拠点として海賊行為を繰り返します。
藤原純友の乱、起こる
939年12月、藤原純友と関係の深かった藤原文元という人物が、備前国の役人だった藤原子高とトラブルになります。
トラブルの原因はわかりません。当時は役人の税金に関する悪行(不正・着服)へのトラブルが各地で多発していたため、同様のトラブルだったのだと思われます。
これを知った藤原純友は藤原文元を支援しようとします。・・・が、紀淑人が必死の説得で藤原純友を制止します。
紀淑人「藤原純友よ、落ち着いてくれ!役人に手を出したら、次はお前が朝敵となるのだぞ。」
そんなこと知るか!
みんな、役人たちの理不尽な要求や課された重税に、不満が爆発する寸前なんだ。自業自得だろ。
俺は行くぞ。
紀淑人「藤原純友が敵となったか・・・。止むを得ない。一刻も早くこの事態を朝廷に報告せねば!」
12月21日、報告を受けた朝廷は、藤原純友へ「朝廷に来るように」との命令文書を送ります。そして、これを知った藤原子高はビビります。
藤原子高「まさかあの藤原純友が動くとは。純友と言えば、瀬戸内海でその名を知らない者はいないほどの武者だぞ。勝てるわけがないし、逃げるぞ・・・!」
・・・が、12月26日、摂津国で藤原子高は捕らえられ、藤原文元にリンチにされた上で殺されてしまいます。
この事件で役人を襲撃したことで、藤原純友は朝廷から反逆者扱いされ、この事件をもっていよいよ藤原純友の乱が始まりました。
藤原純友の乱と平将門の乱
こうして、藤原純友VS朝廷で戦いが・・・!と思いきや、状況は意外な展開へと進んでいきます。
役人を殺されたにもかかわらず、朝廷は藤原純友に対して大きく譲歩することにしたのです。
940年1月、朝廷は、藤原子高に直接手を下した藤原文元に官職を与え、藤原純友とその仲間に対しては過去の海賊退治に対する褒美を与えることを決定します。
これでは朝廷のメンツが丸潰れですが、この朝廷の超弱腰姿勢には大きな理由がありました。それは、当時関東地方で起こっていた平将門の乱です。
朝廷は平将門の乱の鎮圧に手一杯であり、藤原純友にかまっている余裕がなかったのです。そして、苦肉の策として朝廷が考えたのが、藤原純友の懐柔だったのです。
朝廷軍、反撃開始!
940年2月、藤原純友は朝廷の提案を受け入れることを決意。褒美をもらうため平安京へと向かいます。
・・・ところが、このわずかな間で情勢が大きく変わってしまいます。2月中旬、関東で起こっていた平将門の乱が平定されてしまったのです。
朝廷「これで瀬戸内海の海賊どもに譲歩する必要もなくなった。次は西の反乱を鎮圧するぞ!」
こうして同じ940年2月、朝廷は小野好古を総大将とした海賊討伐軍を派遣します。
しかし、朝廷は「海賊討伐」と命じながらも藤原純友の名前を具体的に挙げることはしませんでした。
理由はわかりませんが、藤原純友との間で何らかの政治的駆け引きがあったことが考えられます。
朝廷のターゲットに俺は入っていないのか。
このまま上洛すれば、褒美も貰えてハッピーエンドかもしれない。ただ、それは海賊仲間を裏切って見殺しにすることになる。
どうする・・・。
朝廷は、藤原純友との正面衝突を避け、純友の心を揺さぶろうとしたのかもしれません。
藤原純友、討たれる
しかし940年6月、朝廷は遂に藤原純友の名を出します。
「藤原純友を討伐せよ!」
このタイミングで朝廷が藤原純友に対して宣戦布告したのは、平将門の乱の戦後処理も終わり、朝廷軍の準備が万端になったからだと思われます。
そうだとすれば、最初に藤原純友を討伐対象としなかったのは、純友を動揺させて時間を稼ぐ朝廷の策略だったことになります。
940年8月、朝廷軍は讃岐にいた藤原文元へ攻撃を開始。この朝廷軍の攻撃に、藤原純友は大きな決断をします。
決めた。俺は仲間と共に朝廷と戦うぞ!!!
迷いを振り払った藤原純友は、その勢いで讃岐の朝廷軍を攻撃。これを蹴散らし、讃岐国を占領しました。
藤原純友は、讃岐国から西へ西へと移動し、その間、瀬戸内海で大小の局地戦が繰り広げられます。
瀬戸内海は藤原純友の庭のようなもの。純友は破竹の勢いで朝廷軍を次々と蹴散らしますが、純友の勢いはここまで。
朝廷軍の圧倒的兵力に加えて、それを見た純友の部下たちが朝廷へ寝返ったことにより、純友の海賊軍団は次第に弱体化。
941年2月には、朝廷側に寝返った元海賊幹部の藤原恒利によって、拠点の日振島が落とされてしまいます。
藤原恒利め、裏切りやがって・・・。
あいつも、朝廷の恩賞に釣られたか。ここはいったん逃げるぞ。
日振島を脱出して行方をくらました純友は、941年5月、突如として太宰府を奇襲。これにより太宰府は藤原純友の手に落ちました。
太宰府は、西国最重要拠点です。「太宰府陥落!」の報告を知った朝廷には、計り知れない激震が走ったことでしょう。この報告を受けて、朝廷はすぐさま太宰府奪還作戦を開始。
941年5月20日、朝廷軍は太宰府に総攻撃を仕掛けます。
朝廷の動きが早いのは、それだけ太宰府が朝廷にとって重要な場所だったからでしょう。
これまでの戦いは、神出鬼没な海賊を相手とする局地戦でした。しかし、太宰府をめぐるこの時の戦いは両者の正面衝突です。両者ともに総力戦となります。
朝廷軍の総大将は、先ほど登場した小野好古。陸と海の2方面から太宰府に迫ります。
東からは陸路で小野好古が、北からは海路で大蔵春実という人物が太宰府を攻撃します。
小野好古「藤原純友のホームである瀬戸内海では敗北したが、今の純友に地の利はない。おまけに純友は長期戦で弱っている。次は絶対に勝つぞ・・・!!」
こうして、両者は大激突。藤原純友の必死の抵抗に朝廷軍は大きな損害を受けますが、この抵抗を突破し、純友の海賊軍を壊滅状態に追い込みました。
・・・勝負ありです。
再起不能となった藤原純友率いる海賊たちは、散り散りになって逃亡。藤原純友も伊予国への逃亡に成功しますが、伊予国にて朝廷軍に捕らえられ、941年6月、京へ送られる途中で命を落とします。(死因は不明)
地方で行われている過酷な搾取・暴力に対してはっきりと反対の意思を示せたのだ。我が人生に悔いなし・・・!
・・・と思ったかどうかはわかりませんが、こうして藤原純友の乱は鎮圧されることになります。
藤原純友は何がしたかったのか?
ここまで記事を読んでわからないのは、「結局、藤原純友って何がしたかったんだ?」ってところです。
いきなり結論を言うと、はっきりとしたことはわかりません。
ただ1つ言えそうなのは、「反乱を起こして朝廷を追い込むことで、朝廷から何らかの譲渡を引き出したかったのだろう」ってことです。
何を引き出したかったのかはわかりません。正義感から減税や国司の横暴を止めるよう求めたのかもしれないし、海賊退治の自分への恩賞が少ないからこの不満を朝廷にぶつけたのかもしれません。
藤原純友は、平将門が関東で暴れているおかげで、朝廷から譲歩を引き出す直前のところまで迫ることができました。
・・・が、940年2月に平将門の乱が鎮圧されると状況が一変。一度朝廷に牙を向いた藤原純友は引くに引けず、泥沼の反乱へと繋がってしまったのです。
藤原純友の乱の後、
藤原純友の乱が鎮圧されると、しばらくは大きな反乱は起こらなくなります。
しかし、藤原純友の乱・平将門の乱(合わせて天慶の乱とも言う)の平定に活躍した人々は名誉と恩賞を得て、少しずつ地方で力を蓄えはじめます。
などなど、後に有名となる人々のご先祖様もこの頃にようやく力を付け始めました。
次に大反乱が起きるのは、1028年に起こった平忠常の乱となります。
藤原純友の乱まとめ【年表付】
- 932年頃藤原純友、伊予国で海賊退治を始める
没落した藤原純友を、親戚の藤原元名がヘッドハンティング!
- 936年藤原純友、海賊のボスになる。
唐突な転身の理由は不明
- 939年12月藤原純友、讃岐国を攻め落とす
- 940年1月朝廷、藤原純友の懐柔を試みる
- 940年2月朝廷、一転して海賊討伐を宣言
背景には、関東の平将門の乱の鎮圧がある
- 940年8月藤原純友と朝廷の間で、本格的な戦いが開始
- 941年2月純友の拠点、日振島が陥落
純友海賊団の幹部だった藤原恒利の裏切りが効いた?
- 941年5月太宰府をめぐる戦い
藤原純友は奇襲により太宰府を占領。これを奪い返そうとする朝廷軍と総力戦となるが、これに敗北
- 941年6月藤原純友、亡くなる
敗戦後、伊予国へ逃亡するも捕まり、謎の死を遂げる。
参考文献
藤原純友の乱の詳細な経過は、史料少ないためわかっていないことも多く、本によってその内容が微妙に異なっています。
というわけで、この記事を書くにあたって参考にした文献を載せておきます。
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