前九年の役を簡単にわかりやすく紹介!【理由や経過など!】

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2記事に渡り、前九年の役と後三年の役について解説しようと思います。この記事では前九年の役について解説します。

前九年の役・後三年の役とは、簡単に言えば東北地方で起きた戦いです。なぜ、前九年の役・後三年の役が教科書に載るほど有名なのか?(歴史的意義は何か?)というと、概ね次の2つの理由にあろうと思います。

戦いを通じて、源氏と関東武士との強い主従関係が築かれ、源氏の関東支配がより盤石なものになった。(将来、鎌倉に幕府が築かれる基礎となった。)

世界遺産となった平泉で有名な奥州藤原氏の登場のきっかけとなった

これは裏を返せば、鎌倉幕府や奥州藤原氏のことをちゃんと知ろうとすれば、前九年の役・後三年の役のことを知っている必要がある・・・ということです。だから、学校で習うのだと思います。多分!

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前九年の役の「役」とは

具体的な内容に入る前に知っておいてほしいことが1つ。「役」と「乱」の違いです。簡単にいうと、「役」は外国との戦い、「乱」は国内の内乱を言います。

当時の東北の状況は「蝦夷地といえば蝦夷地だし、日本といえば日本だし・・・」という微妙な状況にありました。どっちが正しいかはなかなか判断が難しいところですが、少なくとも当時の朝廷は前九年の役・後三年の役の相手を「異国の敵」と捉えていたのは間違い無いでしょう。

前九年の役・後三年の役は東北地方の反乱なので、これらについてちゃんと理解するには、まずは時の東北地方の状況を知る必要があります。

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前九年の役当時の東北事情

前九年の役は1051年に起きました。この当時の東北地方の状況について説明しましょう。

中途半端な東北支配 〜東北地方の歴史〜

平安時代初期(800年頃)、桓武天皇は領土拡大のため東北地方に遠征軍を送りました。遠征軍のトップ(征夷大将軍)は坂上田村麻呂と言う人物。坂上田村麻呂は、東北地方の征服に成功しましたが、その成功というのがなんとも微妙な成功でした。

坂上田村麻呂の東北遠征の話は以下の記事で紹介していますので、参考にどうぞ。

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何が微妙かというと、蝦夷たちの想定以上の強さや朝廷の財政難などの事情により、蝦夷を完全降伏させるには至らず、朝廷と蝦夷による和平交渉によって東北征服を成し遂げた点です。

朝廷と蝦夷の和平交渉とは、つまりは「蝦夷が東北征服を受け入れる代わりに、朝廷は現地の統治をそのまま蝦夷に任せる」という内容です。朝廷は実より名を、蝦夷は名より実を取った形です。

前九年の役当時の東北も、日本なのか蝦夷地なのよくわからない微妙な状況なのでした。

奥六郡を支配する安倍氏

前九年の役の舞台は、奥六郡と呼ばれる一帯でした。(今でいう岩手県)具体的な地理関係は上の図を参考にしてください。かなり雑ですけど・・・(汗

奥六郡より北は日本の統治が及ばない蝦夷たちが住む地域でした。つまり、奥六郡は日本と蝦夷地の緩衝地帯であり、まさに日本なのか蝦夷地なのかよくわからない微妙な一帯そのものでした。

そんな事情もあるので陸奥国には鎮守府という組織が置かれました。要するに軍隊です。鎮守府のトップは鎮守府将軍と呼ばれ武勇に優れた人物が就任します。

1020年頃、どうやら当時の鎮守府将軍が奥六郡に対して略奪行為を繰り返していたそうです。これに困ったのが陸奥国の国司。奥六郡を荒らされると税収は減るわ、反乱のリスクは高まるわで全く良いことはありません。朝廷も「鎮守府将軍を置くことで、逆に東北の反乱を助長してしまう!」と考えたのか、しばらく鎮守府将軍は任命されなくなってしまいました。

そして、その後に奥六郡の統治を任されたのが、奥六郡の中でも強い力を持っていた安倍氏と言う人物でした。この安倍氏は、前九年の役のキーパーソンになります。以下に安倍氏の系図を用意しました。

年代的に奥六郡の統治を任されたのは安倍忠良であり、前九年の役はその息子である安倍頼良の時代に起こりました。

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前九年の役と「鬼切部の戦い」

安倍氏は、奥六郡の統治を任されると国の言うことを全く無視するようになります。奥六郡の外側に柵を設け、受領への納税も怠るようになり、最終的には奥六郡以南の地域にまで支配地域を拡大する有様。

当時の奥六郡は、もはや安倍氏の独立国家と呼んでも過言でないほどに安倍氏の強力な支配体制が築かれていたのです。奥六郡周辺はただならぬ緊張感が漂っていたことでしょう。

陸奥守の藤原登任

奥六郡以南にも進出し始めた安倍頼良の傍若無人な振る舞いを無視できなかったのが、陸奥守の藤原登任(ふじわらのなりとう)という人物。

詳しい経緯は不明ですが、1051年、藤原登任は、隣国の出羽国と共同で安倍頼良に対して兵を派遣します。陸奥守は、陸奥国の受領であり主な仕事は徴税業務です。おそらく、納税の義務を果たさない安倍頼良との何らかのトラブルが武力闘争へと発展していったものと思います。

朝廷からの追討命令があった訳でないので、何らかのプライベートな理由がトラブルの発端になったことは間違いなさそうです。

強すぎる安倍頼良

鬼切部という地域(今でいう宮城県鳴子町)で藤原登任軍と安倍頼良軍がぶつかります。ここで一つ気になるのが、鬼切部の場所。鬼切部は奥六郡の南に位置しており、安倍頼良が奥六郡を南下し支配地域を拡大していたことを如実に物語っています。

藤原登任軍は出羽国の援軍も含め数千、安倍頼良軍の兵数は不明。安倍頼良がどんな風に戦ったのかは不明ですが、鬼切部での戦は安倍頼良の圧倒的勝利に終わります。藤原登任軍は惨敗。膨大な死者を出し、登任も命からがら逃げ切る始末でした。

繰り返しますが、戦場となった鬼切部は奥六郡の南に位置し、支配地域を南に拡大していたとはいえ、安倍頼良にとってはアウェイになります。そんなアウェイの地で圧倒的勝利を納めたのですから、安倍頼良の強さは相当なものだったと言えるでしょう

こんな感じで東北の治安は悪化しており、前九年の役のような戦乱が勃発する下地が整えられていました。

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前九年の役と源頼義の登場

朝廷は藤原登任の大敗北を重く受け止め、藤原登任を交代させ陸奥守を源頼義(みなもとのよりよし)としました。関東地方では少し前に平忠常の乱が発生したばかりであり、朝廷もこのようなトラブル事には神経質になっていたのでしょう。

この源頼義は、安倍頼良と並ぶ前九年の役のキーパーソンとなります。

源頼義は平忠常の乱を平定した英雄、源頼信の息子

源頼義は1028年に起きた平忠常の乱を平定した関東地方の英雄、源頼信の息子であり、平忠常の乱の際には父の頼信と共にその才気煥発の活躍により、瞬く間に有名な存在となりました。(だからこそ、荒れた陸奥守に抜擢された!)

平忠常の乱については以下の記事で紹介いています。

平忠常の乱を簡単にわかりやすく紹介【平定・鎮圧と歴史的意義】
今回は1028年に起きた関東地方の大規模反乱、平忠常の乱について解説してみようと思います。 当時の関東地方は、朝廷の力が強く及ばない無法地帯...

服従の意を示す安倍頼良

源頼義の陸奥守就任を知った安倍頼良は、突如としてこれまでの徹底抗戦の態度を一変し、源頼義に対して低頭平身の服従姿勢を示すようになりました。もちろん、安倍頼良も源頼義の武勇伝は知っていたので、「源頼義とは迂闊に戦わない方が良い」と判断したのでしょう。どうやら安倍頼良は、冷静で状況判断能力にも長けた男だったようです。

こうして安倍頼良と陸奥国との戦はひとまず落ち着くことになります。そして、平安京ではこれを後押しするような事件も起こります。

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前九年の役と安倍頼良の大赦(たいしゃ)

1052年、陸奥国に平和をもたらす良いニュースがありました。朝廷は藤原彰子の病気快癒祈願のため、大赦(たいしゃ)を行ったのです。

大赦とは?

大赦とは、国にとって何か良いことがあったり、不吉なことがあって何かを願う時(例えば、災害とか病気治癒とか)に罪人の罪を許すことを言います。この時は、国母(天皇の母)だった藤原彰子の病気快癒祈願のため、罪人の罪が許されることになったのです。

安倍頼良は、陸奥守に逆らったため罪人とされていましたが、偶然にもその罪が晴れることとなったのです。

「頼義」と「頼良」

罪の許された安倍頼良ですが、その後も源頼義に対しては徹底した服従姿勢を示します。安倍頼良は、自分の名前が豪傑である源頼義と同じ名前であることを配慮し、自らの名前を「頼時」と改めます。安倍氏の徹底ぶりがわかります。

安倍頼時の徹底した服従姿勢と朝廷の大赦により、東北地方で戦闘が起こる理由はなくなります。

これじゃあ、前九年の役なんて起こりようないなじゃないか!!と思いますが、ここからさらに一悶着あります。

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前九年の役の前哨戦、阿久利川事件

源頼義は1052年に陸奥守に就任しましたが、平穏に任務を終え1056年に任期を終えることになります。1053年には鎮守府将軍も兼任し、奥六郡の支配にも努めました。

その間、安倍頼時は税をしっかりと納めるようになり、必要があれば頼義に贈り物をするなど頼義と対立する姿勢は一切見せなかったようです。ここまでは前九年の役など起こる気配すらありません。

しかし源頼義の陸奥守の任期が満了する1056年、事件は起こりました。

源頼義の部下が襲撃される

源頼義の部下だった藤原光貞と元貞という人物が阿久利川という川で野営をしていると突如として何者かに襲撃を受けます。

この襲撃の犯人について、藤原光貞は源頼義に次のように述べたと言われています。

「犯人は安倍貞任(さだとう)(安倍頼時の息子)の仕業に違いない。この前、安倍貞任が私の娘をくれないかと申し出たので、私は『安倍氏のような卑しい一族に私の娘を渡すことなどできない』と追い返してしまった。きっとその仕返しに私を襲撃したのだ」

この話を聞いた源頼義は激怒。ちゃんとした事実確認もしないまま、源頼義は安倍貞任に出頭するよう命じますが、安倍貞任の父である頼時は次のように言って拒否します。

「たとえ息子(貞任)がバカなやつだったとしても、私と貞任は親子だ。息子を渡すことはできない。それに一度罪を認め服従しているのになぜそのようなことをしようか。源頼義がもし攻め入ってくるようなら、私たちは死を覚悟で徹底抗戦するだろう。」

安倍頼時は、これまでずーっと源頼義に服従の姿勢を示してきましたが息子の命に危険が及んだこの事件をきっかけとして、源頼義との徹底抗戦の構えをとります。命令に逆らう安倍頼時に対し源頼義は、兵を派遣します。こうして再び戦いが起こるのでした。

ところで、この一連のやりとり、なんだか強引な感じがしませんか?実はこの一連のやりとりは全て芝居で、前九年の役を起こしたい源頼義が強引に安倍頼時を挑発するための陰謀だったのでは!?なんて言われています。

不可解な源頼義の行動

そもそも、奥六郡を4年間平穏無事に治めてきた頼義がなぜこんな短絡的な行動を取ってしまったのか?なぜ、せっかく平穏に陸奥を治めきった後なのにわざわざトラブルの種を蒔くようなことをするのか?なぜ事実確認もしないまま光貞の言い分のみで兵を派遣するにまで至ったのか?

これらの疑問の答えとして考えられたのが源頼義陰謀説です。

確かに源頼義からしてみれば、「せっかく東北地方へ勢力を拡大するチャンスだったのに安倍頼時のヤツ、俺が陸奥守になった途端従順になったせいで全然戦が起こる気配なんてないじゃねーか!!」と思っていたかもしれません。

源頼義は平忠常の乱の後、父の頼信と共に関東地方一帯に強い影響力を持つようになりました。そんな頼義が次の目標としたのが未開の東北地方だったとしてもなんら不思議はないのです。

事実かどうかわかりませんが、限りなくきな臭い匂いのする事件が、阿久利川事件なのでした。この事件の後、東北地方は本格的に前九年の役へと突入していきます。

東北地方の地勢的魅力

東北地方は、蝦夷地との交易に関わる要所であり、金も良馬もたくさん生産できるとても旨味のある土地でした。なので、源頼義が多少強引な方法を使ってでも東北地方を支配したい!と思うのはむしろ当然とも考えられます。と考えるとなおさら阿久利川事件からは陰謀の匂いがプンプンしてきます・・・。

安倍頼時に寝返る藤原経清(ふじわらのつねきよ)

同じく1056年、藤原経清(ふじわらのつねきよ)という人物が、身内である平永衡(親戚関係は上の安倍氏系図を参考)が源頼義に殺されたことに恐怖を覚え、源頼義軍から安倍頼時軍へと寝返ります。上の系図からもわかるように、源頼義からみれば藤原経清は敵の安倍頼良の娘婿であり、そもそも最初から2人の関係は微妙なものだったのかもしれません。

この人物、実は奥州藤原氏の祖となる人物で前九年の役の超重要人物です。安倍頼時に寝返った後は安倍軍の最有力武将として朝廷軍を苦しめることになります。また、藤原経清は平将門の乱の際、将門の首を打ち取った藤原秀郷の子孫でもあります。

そんなこんなで、1056年に源頼義の陸奥守の任期が終わりますが、このような一触触発の状態では、もはや武勇で名高い源頼義以外の者の命令は誰も従わない様子だったので、再び陸奥守に任命されました。

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前九年の役と安倍頼時の死

前九年の役は、源頼義と安倍頼時の一進一退の攻防が続き、両者決定打がありません。そこで先手を打ったのが、源頼義。年が明けて1057年、安倍頼時の本拠地、奥六郡のさらに北に住む中立の立場の蝦夷を買収し、南と北の両方から奥六郡を挟み撃ちにしようとしました。

もちろん、この情報は安倍頼時の元にも届きます。

安倍頼時は、北方の蝦夷が源頼義側につかないよう説得するため、蝦夷たちの元へ向かいますが、その途中で襲撃に会い、戦死します。1057年7月でした。

安倍頼時の死は、安倍氏の力を削ぐどころか安倍軍の団結をより一層強固にしただけでした。息子の安倍貞任が後継者となり、源頼義に対して徹底抗戦の構えを見せます。

全く衰える気配のない安倍氏を相手に、前九年の役は長期戦となってゆきます。

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前九年の役初戦は源頼義の大敗!

1057年7月に安倍頼時が死に、次の敵軍大将はその息子の安倍貞任。1057年9月になると朝廷から安倍貞任の追討命令が発令されます。こうして再び戦争の大義名分を得た源頼義は貞任追討のための兵を整え始めました。

そして1057年の11月、源頼義は2000程度の兵率いて奥六郡へと進軍を開始します。季節は冬、寒さと雪が行軍の邪魔をし、食料も十分でない状態での進軍でした。

さらに、地の利のある安倍貞任軍は巧みにその進軍を妨害し、源頼義軍に大打撃を与えることに成功します。貞任軍は4000程度だったと言われています

源頼義自身、命からがらで逃げるので精一杯だったほどの大敗北でした。時期から考えるに源頼義は、功を焦りすぎたのかもしれません・・・。

前九年の役初戦の源頼義の大敗はその再起に数年を要するほどの甚大なものでした。源頼義が手を出せない間、安倍貞任の東北地方支配はより一層強力なものとなり、もはや朝廷の命令など余裕のガン無視状態となります。安倍氏強すぎ。

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前九年の役と藤原経清

源頼義の大敗から2年後の1059年、大敗して動けない源頼義軍を横目に藤原経清は奥六郡以南の地域に対して「国の徴収命令書は無視しろ。そして俺(藤原経清)の徴収命令書にだけ従うように」と命令し、税金の徴収を始めます。まさにやりたい放題。

藤原経清は源頼義から見れば裏切り者。その裏切り者に傍若無人な振る舞いをされた源頼義は大いに悔しがり、藤原経清を強く憎んだそうです。

藤原経清は前九年の役終了後に源頼義よって処刑されますが、「藤原経清憎し!」だった源頼義は藤原経清をとても残虐な方法で処刑することになります。逆にいえば、それほど藤原経清が厄介な人物だったということです。

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前九年の役と清原氏の参戦

1057年の前九年の役初戦の大敗により、源頼義は窮地に追い込まれていました。人々は皆「あの武勇で有名な源頼義が惨敗した。そんな相手に勝てるわけがない・・・」なんて考えていたので、兵の補充が思うようにできなかったんです。

「このままでは父の源頼信が平忠常の乱で築き上げた関東地方での源氏の地位が失墜してしまう・・・」と危機感を覚えた源頼義は、1062年、再起し安倍貞任と一戦交えることにしました。

大敗により兵をまともに補充できない源頼義は、出羽国の蝦夷たちのボス的な存在だった清原氏という一族に貢物を送り続けたりしながら、援軍要請について執拗に説得を繰り返しました。強い力を持つ清原氏の援軍は、万策尽きた源頼義の最後の切り札であり、何としても中立の立場を守っている清原氏を味方につける必要がありました。

必死の説得の甲斐もあり、ついに清原氏は源頼義の説得に応じ援軍を派遣することとなります。1062年の7月の出来事でした。

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前九年の役、源頼義の大逆転勝利!!

強大な力を持つ清原氏を味方につけたことで、これまでの安倍氏圧倒的有利の状況が一気に変わります。なんと、清原氏が源頼義の味方についた途端、たった1ヶ月で安倍氏は滅亡します。それほどに清原氏のインパクトは絶大だったわけです。

安倍貞任軍は激しい攻防戦の末、源頼義・清原氏連合軍の圧倒的な力によって奥六郡の最北端まで追い込まれ、最後の最後まで激しい抵抗を続けました。

結果、安倍貞任は戦死。藤原経清は源頼義に捕らえられ、処刑されます。すでに説明しましたが藤原経清は、源頼義を裏切り安倍軍で力を振るった人物で源頼義は藤原経清のことをとても憎んでいました。そのため、処刑は藤原経清に長く苦痛を味わせるため、錆びた刃でゆっくりと首を切ったそうです。恐ろしや恐ろしや・・・。

ちなみに清原・源連合軍の戦力は、清原氏10000兵、源氏3000兵と言われており、実質的に清原軍と言っても良いものでした。

前九年の役は1051年から1062年の長期戦となりました。それほどに安倍氏が強かったのです。ですが、清原氏の参戦により前九年の役はそれまでの長期戦が嘘であるかのように衝撃的な結末を迎えたのです。

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前九年の役のその後

源頼義は、伊予国(今でいう愛媛県)の受領になります。伊予国は、気候が温暖で作物もよく育ち、高収入が見込める国でした。受領にとってとても人気のある国であり、源頼義が伊予国の受領に選ばれたということは、12年の長い年月がかかりましたが、朝廷も源頼義の安倍氏討伐を相当強く評価していた・・・ということになります。この当時、源頼義はすでに70歳近い高齢となっていました。

朝廷にとっても安倍氏討伐は大ニュースで、源頼義の凱旋の際には多くの人が集まったそうです。

築かれる源氏の主従関係

前九年の役の後、源頼義とその部下たちの間で強い主従関係が生まれます。そもそも源頼義の軍隊は、朝廷の追討令を受けて集まった他人同士の集団なので、そこまで強い連帯感はありませんでした。

前九年の役は、これまでに日本国内で起こっていた紛争とは明らかに異質なものです。遠地への遠征、寒さと飢え、長期に渡る戦闘とその規模の大きさ、敵地を平定するための攻城戦などなど、多くの人が命をかけ協力し合わなければ絶対に成し得ないことの連続でした。

この戦いの中で、源頼義は共に戦う人々と強い絆で結ばれるようになります。強い団結力がなければ、勝ち抜けない状況では必然の出来事でした。(とはいえ、それ以上に強い団結力を持つ安倍氏には敵いませんでしたが・・・)

このような強い絆は、前九年の役の後の源頼義の行動からもわかります。

部下の勲功

伊予国受領に任命された源頼義ですが、実はすぐに任地へは赴きませんでした。自分のために活躍してくれた部下たちにも勲功を与えてあげたい!と平安京内でプロモーション活動をしていたのです。

結局、せっかく裕福な伊予国受領となったのに、国に赴いたのは受領となった2年後、しかも、その間の朝廷への納税義務が果たせなかったのでその分を全て自費で支払ったなんて話も残っています。源頼義がどれだけ部下想いかがわかるエピソードです。

前九年の役の軍記物「陸奥話記」

前九年の役は「陸奥話記」と呼ばれる軍記物が残されています。この軍記物には、安倍氏と源頼義の主従関係にまつわる話が多く残されています。

例えば、源頼義が大敗し命からがら逃げ切った時、一方では「源頼義、戦死!」という誤報を聞き、悲嘆に暮れる武士の様子が描かれています。そして「主君亡き今、私が生きる理由はもはやない」と言わんばかりに死を覚悟で敵陣へ切り込み戦死してしまった・・・という感動エピソードも描かれています。

武士といえば、「忠義に厚く命を賭して戦う」というイメージがありますが、その原型が前九年の役の中で垣間見ることができます。

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前九年の役のまとめ

前九年の役によって源頼義は関東地方の武士と強い主従関係で結ばれ、これが源氏が関東で力をつける大きな原動力となります。

一方、東北地方は、安倍氏が清原氏に変わっただけで相変わらず蝦夷が統治をすることに変わりはありませんでした。清原氏は前九年の役のラスト1ヶ月の間、ちょっとだけ参戦しただけにも関わらず、出羽と陸奥という広大な地域を支配するまでになりました。多分、前九年の役で一番得をしたのが清原氏です。

しかし、前九年の役が終わってから約20年後、出羽と奥羽の支配権をめぐり清原氏の内部で対立関係が生まれます。要するに家族喧嘩です。この内部対立が、後三年の役へと繋がっていきます。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. Miki より:

    歴史の出来事を分かりやすく説明していただいて、本当に助かります。フランス在住で、スーパーでの仕事の傍ら日本語を教えています。子どもが成人するので、通信教育で国文学を勉強する予定です。なので日本史をやり直しています。高校と大学は理系だったので全て忘れてます。。。大変ですが、頑張ります。