最澄とはどんな人?簡単にわかりやすく徹底解説【大乗仏教の礎を築き、天台宗の密教化・戒壇設置に生涯を捧げる】

この記事は約9分で読めます。

今回は、(日本の)天台宗の開祖である最澄さいちょうについて、わかりやすく丁寧に解説していきます。

この記事を読んでわかること
  • 最澄はどんな生涯を生きたの?
  • 最澄はなぜ天台宗てんだいしゅうを開いたの?
  • 天台宗ってどんな宗派なの?
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最澄の幼少〜青年期

最澄は767年、近江国(現在の滋賀県)の坂本という場所で生まれました。名を三津首広野みつのおびとひろのと言いました。父は三津首百枝みつのおびとももえと言います。

両親の仏教信仰の影響で、12歳(13歳との説もあり)の時から近江国の国分寺で学び、14歳で得度(出家)。この時に名を最澄と名乗りました。

その後も学問と修行に打ち込み、785年に奈良の東大寺で戒律かいりつを授かり、国家に認められる僧侶となりました。

戒律と僧侶

当時の僧侶たちは、戒律を守る僧侶と認められること(戒律を授かること)で、国家公認の僧侶になることができました。今で言う公務員ですね。(そして、国家非公認の僧侶は私度僧しどそうと呼ばれ、基本的にはNGでした)

戒律というのは、僧侶が守るべき正式なルールのこと。唐からやってきた鑑真が、日本の本格的な戒律制度を整えました。

当時、戒律を授かることができる寺院は、

・東大寺

太宰府だざいふ観世音寺かんぜおんじ

下野国しもつけのくに薬師寺やくしじ

の3寺院。この3つの寺院にだけ、戒壇と呼ばれる戒律を授ける儀式の場があったのです。戒壇の話は後でまた登場するので、この話を少しだけ覚えておいてくださいね。

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比叡山に籠もって山岳修行

国公認の僧侶となった最澄は、仏教界での出世栄達を求めることなく、比叡山ひえいざんに籠もってひたすらに修行を続けます。

当時、京(平城京)の仏教は腐敗しきっていました。769年、平城京では、道鏡という僧侶が女帝の称徳天皇を愛の力でメロメロにして、皇位を奪おうとした大事件が起こっています。(宇佐八幡宮神託事件)

道鏡の事件は、日本史の中でも屈指のゴシップネタですので、気になる方は以下の記事も合わせて読んでみてくださいね。

そして、京の仏教腐敗に嫌気がさした僧侶たちが、新しい修行の場として注目したのが、京周辺の山々(比叡山や高野山、熊野の山々)でした。

山岳修行を通じて、京を離れて純粋な仏教信仰を目指そうとしたのです。最澄もそんな僧侶の1人でした。

最澄は比叡山でストイックな修行・勉学を続ける中で、鑑真が唐から持ち帰ってきた書物に書いてあった天台宗の教えに強い興味を持ちます。

最澄
最澄

いつか唐で天台宗を学び、俺は必ず天台宗マスターになる!!!!

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最澄、大乗仏教に目覚める

なぜ最澄が天台宗に強い興味を持ったのかというと、天台宗の教えは、当時の日本仏教にはない革新的な教えだったからです。

何が革新的だったかというと、「悟りを開ける人の条件」がそれまでの日本仏教と大きく違っていました。

大乗仏教という考え方

当時、日本で流行っていたのは南都六宗なんとろくしゅうと呼ばれる六つの考え方です。具体的には、三論さんろん宗・成実じょうじつ宗・法相ほっそう宗・倶舎くしゃ宗・華厳けごん宗・りつ宗の6つがありました。

これら南都六宗は、それぞれに考え方の違いはあれどザックリと「悟りを開いたお釈迦様(ブッダ)の修行方法を参考にして、自らの修行・鍛錬を積み悟りを開く!」という点で共通していました。

一方の天台宗は、お釈迦様の修行そのものだけではなく、お釈迦様の信念である「全ての民たちを救いたい(悟りを開かせたい)」という想いを大事にしました。

つまり、「修行・学問を極めた者が悟りを開ける」と考えた旧来の日本仏教に対して、天台宗は「誰でも(天台宗の教えを信じれば)悟りが開ける」と考えました。

このような「全ての人(一切衆生)が悟りを開ける」と考える仏教思想のことを大乗仏教だいじょうぶっきょうと言います。

比叡山に入った最澄は、この大乗仏教の教えに目覚めます。

788年、大乗仏教に目覚めた最澄は、比叡山に一乗止観院いちじょうしかんいんという小さなお寺を建てました。この一乗止観院が、後の延暦寺となります。(今も現存する延暦寺の根本中堂こんぽうちゅうどうの場所にありました)

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最澄、唐で本場の天台宗を会得する

大乗仏教に目覚めた最澄の噂は、当時の天皇である桓武天皇の耳にも入りました。

桓武天皇は、仏教に関して大きな悩みを持っていたと言われています。

桓武天皇
桓武天皇

旧来の仏教勢力は、政治との癒着が強すぎて、すっかり腐敗してしまった。

なんとかして、仏教界を刷新できないものか・・・。

そして、新しい教えに目覚めた最澄の存在は、悩める桓武天皇にとってまさに希望の光でした。

797年、最澄は、国家の安泰や皇族の健康を祈る天皇直属の僧侶である内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんじに任命されます。

一方、比叡山の長年の修行で最澄は唐への留学を望むようになります。

最澄
最澄

書物だけではなく、天台宗の本場である唐でさらに天台宗を極めたいものだ・・・。

桓武天皇の支援を受けた最澄は、804年、ついに念願の唐への留学を実現します。桓武天皇としても、日本に新しい仏教の風を吹き込む絶好のチャンスであり、両者の利が一致したのです。

ちなみに、この時、唐へ出向する船には若き空海くうかいの姿もありました。

最澄は唐の天台山という場所を訪れ、そこで天台宗の教えをマスターし、805年に日本に帰国しました。

そして、その翌年(806年)、天台宗が国家公認の宗派として認められました。この806年が、日本で天台宗を開かれた年とされています。

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天台宗の教え

さて、最澄が唐で学び、日本で開宗した天台宗とはどんな教えなのでしょうか。少しだけ紹介しておこうと思います。

天台宗は、6世紀の中国(ずい)で智顗ちぎという人物が開いた宗派。「全ての人は菩薩であり、将来仏になれる」と説く法華経の教えを中心とした宗派です。

最澄は、その天台宗にアレンジを加え、日本独自の天台宗へと進化させました。

最澄のアレンジで特徴的なのは、四宗融合ししゅうゆうごうと呼ばれる思想にあります。

四宗融合

天台宗の中心にある法華経の教えを中心として、

えん(法華経の教え)

みつ(密教)

ぜん(坐禅)

かい(戒律)

の4つを融合させた天台宗こそが、最澄流の天台宗となります。

四宗融合によって、天台宗は幅広い教えを網羅した総合仏教として日本で布教されるようになりました。

「法華経を学び、第六感を鍛え(密教)、禅の境地を知り、戒律を守る」そんなオールラウンドな能力が試されるのが、天台宗なのです。

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戒壇をめぐる戦い

806年に天台宗が開かれましたが、天台宗を布教するにあたって、1つの大きな問題がありました。

それは、国家公認の僧侶になるために必要な戒壇がないという問題です。

さっき、日本には3つの戒壇があるって言ってなかったけ?

確かに戒壇そのものはありました。しかし、最澄は旧来の南都六宗の教えは不十分だと考え、南都六宗向けの戒壇を使うことを望まず、天台宗用の新しい戒壇の設置を朝廷に求めました。

これに強い反発を示したのが南都六宗の勢力です。南都六宗を不十分と考える最澄の仏教思想そのものや、戒壇をめぐる利権(南都六宗からすれば、天台宗の公務員僧侶を増やしたくない)がその大きな要因です。

特に法相宗と激しく対立し、法相宗の徳一という僧侶と、激しい論戦を交わしました。天台宗の布教活動は、南都六宗(旧仏教勢力)との戦いでもあったのですね。

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東密と台密

桓武天皇の支援を受けていた最澄ですが、806年に桓武天皇が崩御。その後平城天皇が即位したあと、809年に嵯峨天皇が即位すると、嵯峨天皇は同じ大乗仏教である真言宗しんごんしゅうに関心を持つようになりました。

つまり、桓武天皇の頃のような手厚い支援を受けられなくなったわけです。(戒壇設置がうまくいかなかった理由の1つにも、桓武天皇の崩御がその背景にあったはずです。)

空海の開いた真言宗と、最澄の開いた天台宗は、大乗仏教という共通点はあるものの、「密教の質」が決定的に違いました。

密教とは、「仏教の教えは人間の理解を超えたものだから、理解するのではなく感じるものだ」と考えて、呪文を唱えたり厳しい修行で精神を鍛える教えのことを言います。

真言宗が密教に特化した宗派であるのに対して、天台宗では四宗融合の1要素でしかありません。

しかも、最澄は密教のことを深く理解していませんでした。唐への留学も天台宗をマスターすることが目的であり、密教をマスターすることが目的ではなかったからです。

しかし、密教の神秘的なイメージが、嵯峨天皇を含めた多くの人を魅了しました。

最澄もこの世間の雰囲気を敏感に感じ取ります。

最澄
最澄

世には、密教ブームが到来しつつある。天台宗の不完全な密教では、その人気をすべて真言宗に持っていかれてしまう(汗

私自身、密教を極めて天台宗をさらに進化させなければ・・・!

こう考えた最澄は密教を本格的に取り入れるため、天台宗の改革を推し進めます。時には、日本一密教に詳しい空海に書を借りることもあったと言います。

このように、同じ密教でも天台宗と真言宗ではその質が大きく違うため、

・真言宗の密教のことを東密とうみつ

・天台宗の密教のことを台密たいみつ

とそれぞれ区別して表現することもあります。

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最澄の晩年

唐から帰国し天台宗を開いた最澄は、その生涯の全てを天台宗の布教、そして戒壇の設立に費やします。

密教色の濃い真言宗が天台宗の人気を奪うと、天台宗に本格的な密教を取り入れるようと努め、南都六宗が天台宗の戒壇設置に反対すれば、最澄はこれと戦いました。

しかし、最澄の願いはわずか叶いませんでした。822年6月、戒壇設立も密教による天台宗改革も道半ばで、命を落としてしまいました・・・。

しかし、最澄死後7日後、天台宗の階段設置がようやく認められ、翌年には比叡山の寺院に「延暦寺」という寺号が嵯峨天皇によって与えられました。

そして、密教による天台宗改革も、弟子たちが最澄の意思を受け継ぎます。最澄の弟子だった円仁えんにん、そしてその次の世代の円珍えんちんによって、天台宗流の密教(台密)が完成することになります。

最澄本人は目標道半ばで生涯を終えましたが、最澄の願いは次世代へと受け継がれ、見事に達成されたのです。

天台宗は平安時代に隆盛を極め、鎌倉時代になると勢いが衰えるものの、法然親鸞日蓮栄西道元など天台宗を学んだ僧侶の中から鎌倉仏教の開祖たちが次々と誕生し、現代まで続く日本仏教の強い原動力となりました。

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最澄の生涯まとめ【年表付】

最澄の生涯まとめ
  • 767年
    最澄、生まれる
  • 778頃
    近江国の国分寺で仏教を学ぶ
  • 780年
    出家する
  • 785年
    戒律を授かり、国家公認の僧侶になる

    この頃から、比叡山にこもって修行を始める。

  • 788年
    比叡山に小さなお寺(一乗止観院)を建てる
  • 797年
    桓武天皇の内供奉十禅師の1人に選ばれる
  • 804年
    桓武天皇の支援を受けて、唐へ留学

    翌年(805年)に帰国する。

  • 806年
    天台宗が正式な宗派として朝廷に認められる。

    この806年が、天台宗の開宗の年とされています。

  • 822
    最澄、亡くなる

    天台宗発展の道半ばで命を落としますが、死後7日後に天台宗のための戒壇設立が認められ、弟子たちが最澄の意思を受け継ぎ、天台宗を発展させていくことになります。

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この記事を書いた人
もぐたろう

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