誰でもわかる源実朝!その生涯を簡単にわかりやすく【3代目将軍の悲劇の物語】

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今回は、鎌倉幕府の三代目将軍である源実朝(みなもとのさねとも)について紹介します。

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源実朝が将軍になるまで

源実朝は1192年に源頼朝と北条政子の間に生まれます。次男であり、兄は2代目将軍となった源頼家。

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長男の源頼家は武芸に長けた人物でしたが、源実朝は兄とは正反対で和歌や蹴鞠など朝廷貴族の文化を好む人物でした。

 

 

そんな文化系男子、源実朝が鎌倉幕府の三代目将軍になったのは1203年。頼家の将軍在位を望む比企氏と実朝を新たに将軍にしようとする北条氏が争い、比企一族が敗北し滅亡。これによって兄の頼家は鎌倉から追放され出家。その後北条氏に担ぎ出される形で源実朝が三代目将軍となりました。

 

 

当時の源実朝の年齢はわずか11歳!政治の実権は幼い将軍ではなく、将軍を補佐すると言う名目のもとで北条時政が握ります。

 

 

北条時政は、源実朝の乳母である阿波の局(あわのつぼね)の父。北条時政と源実朝の関係は、祖父と孫みたいなイメージです。

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源実朝と北条時政

北条時政は、所領裁判など本来将軍が判断すべき決定権限を全て自身の署名で行うようになり、権力を掌握します。(これが後の執権政治の始まりとも言われてる)

 

 

ところが1205年、北条時政はその実朝を排除して娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)という人物を将軍にしようと企みます。

 

 

「え?」って思いますよね。だって実朝のおかげで北条時政は権力者になれたんだから。なぜ時政がこんな支離滅裂な行動をしたかというと、牧の方という女性にたぶらかされたから!!!!(軽蔑の眼差し)

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北条時政失脚後は、時政の娘・息子の北条政子・義時が政治の実権を握るようになります。

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源実朝と和歌

源実朝が青年になっても北条義時・政子は政治権力を握り続けます。もはや北条氏抜きには御家人たちを統率できないほどに北条義時・政子の影響力は強くなっていたからです。

 

 

成人後も政治の実権を握れず、傀儡のままだった源実朝。しかし、決して政治に無関心だったわけではありません。

 

 

北条義時に「実朝様、俺の功績に免じて部下の地位を上げてくれ!」って、頼まれても「家柄的に無理。ここでそいつらの地位あげちゃうと、将来の災いになる気がするんだ。」と義時の要望を拒否したなんてエピソードがあったり。

 

 

この他、吾妻鏡なんかでも随所随所で源実朝が意見しているシーンが描かれています。

 

 

しかしながら、総体的に見ればやはり政治の実権を握っているのは北条義時。将軍であるにも関わらず、源実朝は政治の主導権を握ることはできません。そして、そんな鬱憤を晴らすかのように源実朝は和歌の世界に熱中するようになります。

 

 

当時随一の名歌人である藤原定家(ふじわらのていか)とも交友があり、定家から万葉集を貰って歓喜したり、後鳥羽上皇が編纂した新古今和歌集を京から運ばせたり、さらには自ら金槐和歌集という和歌集の編纂までしています。

 

これだけに止まらず、源実朝は和歌の上手い武士を贔屓(ひいき)することもあり、恩賞や所領を与えたり、罪を軽くすることもありました。

 

 

しかし、源実朝の和歌趣味は「将軍のくせに何を朝廷かぶれの軟弱なことをやってんだ!」と御家人たちの評判はすこぶる悪く、将軍としての人望を失う一因にもなっています。

 

 

実朝が人望を失うと、みんなが頼りにするのは北条義時・政子なわけで、北条氏の影響力はますます強くなっていきます。悪循環ですね。

 

 

源実朝にとって和歌は単なる趣味ではなくて、おそらくは政治の実権を奪われた鬱憤を晴らすための心の支えだったのだろうと思います。少し時代を遡って、和歌を愛した崇徳天皇と似た心境だったんじゃないかと思う。

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源実朝と渡宋計画

自らの無力さを痛感した源実朝は、次第に現実逃避をしがちになります。和歌に没頭したのもその一貫です。1216年、そんな現実から逃げ出そうとする実朝を象徴するかのような出来事が起こります。

 

 

それが突如として発表された源実朝発案による宋への渡航計画!

 

 

事の発端は陳和卿(ちんなけい)という僧侶との出会いでした。陳和卿は、源平合戦で全勝した東大寺の大仏を再建した人物。以下の記事でもサラッと登場してます。

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陳和卿は、「源実朝様は、仏の化身だから是非とも顔を拝みたい!」と実朝との対面を望みます。両者の対面は実現し、陳和卿は源実朝にこんなことを言います。

 

 

 

陳和卿「実朝様は、前世において医王山の長老でした。その時は私も医王山で修行の身であり、長老様の弟子だったのです。長い時を経てこうして師に会うことができたことは無上の喜びでございます」

 

 

源実朝(あれ・・・これ6年前に夢で見たお告げと一緒や!!陳和卿マジ凄い!!)

 

 

こうして源実朝は陳和卿を言うことを信じるようになります。これだけなら、素敵な話だねーって感じで終わるんですが、源実朝は前世の自分がいた宋の医王山に実際に行こうと考え、造船を人々に命じます。

 

 

これを聞いて北条義時や側近の大江広元はビックリ仰天。必死に実朝に止めるよう言いますが、源実朝の意思は固く鎌倉では船造りが始まりました。ほんと周りの人からすれば「なに言ってんだこいつ?」状態だったことでしょうね。

 

 

翌年の1217年の4月、念願の船が完成。ところが、砂浜から海へ運ぼうとしても船がビクともしません。最終的には諦めてしまい、船は砂浜に放置され朽ち果ててしまいます。

 

 

・・・どんなオチだよ!!って感じですww実はこれ、実朝の思い付きの意見に反対する北条義時ら御家人がワザと海に浮かばせないようにしたのでは?なんて言われています。もし真面目に造船してこのザマならそのほうが不自然だし、おそらくは仕組まれたことだったのでしょう!

 

 

「源実朝は将軍のくせに何を馬鹿なことをやってるんだ」と思うかもしれませんが、実は私もそう思います。しかし、源実朝からすれば自らの境遇をなんとか変えたい!と必死で望んだことなんだろうな・・・とも思ったり。

 

 

さらに言えば、必死にもがく実朝の姿からは、空回りこそしているものの「政治を行いたい!」という強い意思みたいなものを感じたりもする。

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源実朝と朝廷

源実朝は朝廷文化の1つである和歌を愛したと言う話をしましたが、朝廷から貰える官位にも関心を持っていました。

 

 

源頼朝、源頼家の歴代将軍たちは必要最低限の官位だけは貰ってますが、「官位を上げたい!」なんて気持ちは持っていません。鎌倉幕府って朝廷に依存しない独立した東国統治システムとして源頼朝が創ったものなので、「朝廷から何かを与えられる行為」というのはそもそも避けるべき行為なんです。

 

 

ところが、源実朝はなぜか官位にこだわります。朝廷との結びつきを強め、1218年末には武士として史上初の右大臣にまで登りつめています。

 

 

1216年には側近の大江広元からこんなことまで言われています。

 

 

大江広元「もし子孫の繁栄を望まれるのなら、今は征夷大将軍の官位だけで満足し、もっと年配者になってから大将を兼務したらいかがでしょうかね」

 

 

オブラートに包んで「最近、実朝様の官位の昇進が速すぎる。鎌倉幕府の将軍なら朝廷に媚び売ったりしないで官位など気にせず堂々としなさい!」って警告しているわけです。コレに対して源実朝はこう答えます。

 

 

源実朝「言っていることはよーくわかる。でも、源氏の血統は私で途絶えてしまうんじゃないかと思っているんだ。どうせ滅びるのなら、その前に源氏の身分を高めておきたいのです」

 

 

解釈によっては自らの死をも予感しているような意味深な発言です。大江広元は何も答えることができず、その場を後にしました。

 

 

なぜ源実朝が官位にこだわったのかは本当のところは実ははっきりとはわかっていません。ただの都かぶれっていう話もあれば、「実朝は実子に恵まれなかったため、朝廷(特に後鳥羽上皇)と結びつきを強め、将来的に皇族出身の将軍を擁立しようとした」とも言われています。後者なら、実朝の意味深発言とも繋がります。

 

 

さらに言えば、将軍が北条氏の傀儡となった今、もはや源氏が将軍になる必要はないのでは?と実朝自身考えていたのだと思います。

 

将軍を傀儡にしようと思うのなら、東国武士の崇拝対象となっている源氏を将軍にするよりも、高貴な血筋だけど武士たちのよく知らない人物を将軍にした方が北条氏にとってはやりやすいですしね。

 

 

現に実朝は殺され、次期将軍は藤原氏の者が選ばれているので、実朝の言ってることも一理あるというわけです。

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源実朝と公暁

さて、1218年末に右大臣になった源実朝。

 

 

1219年1月、鎌倉にしては珍しい大雪の降る中、実朝の昇任祝いが鶴岡八幡宮で行われます。

 

 

その式の途中でした。源実朝が歩いていると突如として「親の敵はかく討つぞ」という男の叫び声が聞こえ、実朝は斬りつけられ命を落とします。

 

 

源実朝を切りつけた犯人は、鶴岡八幡宮の別当(責任者)だった公暁(くぎょう)という人物。

 

 

超展開すぎて「は?」って感じですが、公暁についてちょっと紹介してみましょう。

 

 

上の系図を見てわかるように、公暁は源頼家の息子です。ということは「親のかたき」の親とは源頼家のことを言っていることになります。

 

 

ちなみに源頼家がどんな死に方をしたのかと言うと、

 

1203年、頼家推しだった比企氏と実朝推しの北条氏が争い、比企氏が敗北。これに併せて、頼家は将軍の位を追放され、伊豆の修善寺に幽閉。1204年にお寺で謎の死を遂げました・・・っていう感じです。

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この「謎の死」って言うのがキーポイント。その死因は、北条氏によって編纂された「吾妻鏡」と言う史料では詳しく触れられていない一方、「北条氏によって殺された!」って書いている史料もあったり情報が錯綜しています。公暁が親のかたきと考えたのは、おそらくはその北条氏。今となっては真実は闇の中ですが、高い確率で頼家は北条氏によって暗殺されたのだと思われます。

 

 

公暁にとっての親の仇とは北条氏とその北条氏によって将軍に担ぎ出された源実朝だったわけです。実朝に関してはトバッチリな感じも否めませんが(汗

 

 

同日、その公暁も追っ手に殺されてしまうのですが、この事件、実は鎌倉時代屈指の闇がとても深〜い事件なんです。

 

 

そもそも、公暁が一番憎むべき敵は北条義時なはずです。その北条義時、普段なら実朝に近侍するはずなのに、この時だけは「ちょっと体調悪いんで、無理っすわ・・・」とたまたま儀式には参加していません。

 

 

 

公暁の直接憎むべき人物は北条義時であり、義時によって担ぎ出されている実朝は直接の憎しみの対象にはなりません。

 

 

仮に公暁に実朝を殺す強い動機があったとすれば、それは次期将軍の座を狙ってのことでしょう。しかし、もしそうだとすれば、自分が生き残らなければ意味がない。それなのに公暁は同日にあっさりと消されていますので、犯行があまりにも軽率・無計画すぎます。

 

 

こうやって後世の人々によって様々な憶測がされた結果、「公暁の実朝暗殺事件の裏には真犯人がいて、公暁は真犯人の口車に乗せられていただけ。そして公暁が同日に速攻で消されたのは口封じのためで、公暁を操り・殺すことで何者かが完全犯罪を成し遂げた」説がよく語られます。

 

 

ただ、肝心の真犯人が誰なのかは未だ謎のままです。なんとなく、儀式の場に偶然居合わせなかった北条義時が怪しい気がしますけどね・・・。

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源実朝まとめ

以上、源実朝についてハイライトで整理してみました。源頼家に引き続き、なかなかハードな生涯を送っています。

 

 

源実朝にとっての不幸は、鎌倉幕府の政治実権が源氏から北条氏に移る過渡期に将軍になったことでした。そして、源実朝は自分の不幸な境遇を、実に冷静かつ客観的に見つめていたような節があります。

 

 

それがわかるのが、すでに紹介した1216年当時のこの発言

源実朝「言っていることはよーくわかる。でも、源氏の血統は私で途絶えてしまうんじゃないかと思っているんだ。どうせ滅びるのなら、その前に源氏の身分を高めておきたいのです」

 

源実朝が和歌にハマったり、無謀な造船計画を立てたりしたのも、根底には冷静に自分自身を見つめ、自らの運命に対して諦めの気持ちがあってのことでしょう。

 

 

そして実朝自身、「将軍を傀儡にしたい北条氏にとって、東国武士の崇拝対象である源氏の血を引く私はもはや邪魔な存在かもしれない」と考えていたとすれば、自分自身が殺されることすら予見していたかもしれません。

 

 

源実朝の死によって、源頼家時代から続いた鎌倉幕府の混沌とした血みどろの内ゲバ争いにひとまずの終止符が打たれます。

 

 

そして、東国武士たちの目は、とある事件によって朝廷へと向くようになり、実朝が亡くなった2年後の1221年、後鳥羽上皇VS鎌倉幕府の承久の乱へと繋がっていきます。

 

 

凄まじい時代ですよね鎌倉時代って。調べれば調べるほど、鎌倉時代の混沌ぶりには惹かれるものがあります。そんな混沌とした時代の真っ只中に生きた源実朝。世間的には地味な人物かもしれませんが、当時の時代背景も相まって、その人柄や生涯にはとても興味深いものがあります。

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この記事を書いた人
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