今回は、1927年に日本を襲った金融恐慌について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
金融恐慌とは
金融恐慌とは、1927年3月に日本で起こった恐慌(景気の後退)のことを言います。
「銀行が潰れるのでは?」という人々の不安から取り付け騒ぎが起こったのが原因でした。
まずは、金融恐慌が起こるまでの簡単な流れを確認しておきます。
- 1915年〜1920年
第一次世界大戦の特需によって、日本の企業は大儲け。日本の景気が良くなる
- 1920年
大戦景気によって日本は実態とかけ離れたバブル景気に突入し、1920年にバブルが崩壊。
- 1923年関東大震災が日本経済にトドメを刺す
- 1927年金融恐慌←この記事はココ
大戦景気・戦後恐慌は別の記事でまとめているので、ここでは関東大震災→金融恐慌の部分を中心に解説をしていきます。
大戦景気・戦後恐慌の記事を合わせて読んでいただくのがオススメです↓
関東大震災
1923年9月1日、関東大震災が起こり、関東一帯が焼き野原となります。
ようやく戦後恐慌から立ち直ろうとしていた矢先、日本経済は大地震によってトドメの一撃を刺され、再起不能に陥ってしまいます。
金融恐慌の元凶「震災手形」
政府は、危機的状況に陥った企業を救うために「震災手形」と呼ばれる手形を発行して、企業の救済に全力を注ぎます。
震災手形は、1927年に起こる金融恐慌の元凶となる重要なものなので、詳しく説明をしていきます。
そもそも「手形」って何?
手形とは、仕事を相手に依頼する際、その場ですぐにお金を支払わず、「後で払うから仕事をよろしく!」と約束したいときに、その約束の事実を証明する書類(証書)のことを言います。
※手形にはいくつかの種類があって、上で説明した手形は厳密には「約束手形」と言います。
要するに手形とは、「お金が払えない時にツケ(後払い)で払うために必要な書類」ってことです。
なぜこんな紛らわしいことをするかというと、金額の大きい取引だと、企業がすぐにお金を用意できないことがあるからです。
1,000万円あれば、今すぐ最新の機械を導入できるのに、今は金がない・・・。
2ヶ月後には、取引先の「もぐもぐ社」から2,000万円が入るけど、新しい機械がないと2ヶ月間を無駄にしてしまう!
こんな時、約束手形を使って機械だけ先に導入できればいいのに!!
こんなケースが多々あるため、約束手形は企業間の取引で頻繁に利用されていました。(今でも稀に使われることがあります。)
割引手形
手形には、普通の金銭やりとりにはない面白い特徴があります。それは「手形を他の人に譲渡できる(売ることができる)こと」です。
どんな時に譲渡するかというと、こんな時です↓
B社から2ヶ月後に2000万円をもらう約束手形を受け取ったが、会社の経営状況が急に悪化して、借金返済のため今すぐ1,500万円が必要になってしまった・・・。
こうなったら、約束手形を「もぐたろう社」へ売ってしまおう!
どうやら、もぐもぐ社が困っているようだね。
わかった。1,700万円でその約束手形を買い取ろうじゃないか!
サンキュー!助かる!
もらえる金額が、2,000万円から1,700万円に300万円分減ってしまったけど、今すぐもらえる1,700万円の方が大事だからしょうがないな・・・。
このまま2ヶ月待てばA社から2,000万円が手に入る。
1,700万円で2,000万円の約束手形を買えたから、300万円の利益だな・・・!
買い手にメリットがないと、手形は売れません。そこで、手形を譲渡するときは本来の手形の価値よりも割引した価格で譲渡するのが基本でした。
この「割り引いて他の人に譲渡した(売った)手形」のことを割引手形と言います。
割引手形は売り手(上の例だともぐもぐ社)が損をする仕組みなので、「損をしてもいいから今すぐにお金が欲しい!」と企業がお金に困っているときに使われるのが一般的です。
そして、割引手形を引き受けたのは、そのほとんどが銀行でした。←ここ重要です。
震災手形
関東大震災で多くの企業が倒産の危機に陥ると、すぐに現金を用意する必要に迫られ、割引手形が盛んに発行されるようになります。
例えば、A社がB社に500万円を支払う約束手形を発行したとします。そしてB社は、関東大震災で経営難となり、すぐに現金が欲しいのでA社の約束手形をC銀行に2割引の割引手形400万円で売りました。
※割引手形を引き受けたのは主に銀行なので、Cは銀行になります。
ところが、A社が関東大震災の影響で倒産してしまうと、A社は500万円を支払うことができなくなり、C銀行の持っているA社の手形は紙クズになってしまいます。
もし、C銀行がたくさんの割引手形を持っていて、A社の手形のように多くの手形が紙クズになってしまうと、銀行は経営難に陥り、最悪の場合倒産してしまうかもしれません。
そして、銀行が倒産すると、その銀行からの融資はストップし、多くの企業が資金難によって連鎖的に倒産することになります。もし企業が倒産すると、次はその企業の割引手形を持っているD銀行が困るかもしれません。
困ったD銀行が破綻すれば、さらに企業が倒産して、次はE銀行が破綻・・・と負のループに陥りかねません。
このような最悪の事態を防ぐため、政府は、関東大震災が原因で発行された銀行が保有する割引手形をもう一回割り引いて(再割引)、日本銀行に手形を引き受けさせることにしました。
そして、発行元が倒産して支払不能(決済不能)になった場合に、その損失を割引手形を引き受けた各銀行に代わって日本銀行が被ることにして、政府は一億円を限度に日本銀行に補填を行うことにしたのです。これなら銀行の倒産を防いで、負のループに入るのを防ぐことができます。
要するに政府は、「企業の損失を税金で補填してやるよ!」ってことをしたわけです。この時に、再割引の対象となった約束手形のことを震災手形と言います。
ここまでの話を図解でまとめるとこんな感じです↓↓
震災手形の問題点
震災手形には1つ大きな問題がありました。
それは、「地震のドサクサに紛れて、戦後恐慌でもともと決済不能になりかけていた手形が、震災手形の中に隠されて、大量に日本銀行に持ち込まれたこと」です。
どうせバレないだろうし、戦後恐慌の頃から決済不能になりかけていた手形も全部日本銀行に売りつけてしまおーっとww
このように震災手形を悪用するケースが後を絶たなかったため、日本銀行が引き受けた震災手形は1924年3月までに4億円を超えてしまいます。政府は1億円の補填を限度と考えていたので、震災手形を4億と仮定すれば、1/4が決済不能になった時点で政府は企業を支えきれなくなる計算です。
台湾銀行と鈴木商店
日本銀行が引き受けた震災手形は、少しずつ支払が進み、1926年には2億円まで減りました。・・・が、この残り2億円の震災手形が金融恐慌の元凶となってしまいます。
というのも、2億円のうち、その半分の1億円が台湾銀行というたった1つの銀行による割引手形だったからです。
台湾銀行は台湾最大の銀行であり、政府にとっては絶対に潰させてはいけない銀行です。
台湾は日清戦争以降、日本の植民地となっていました。
さらにタチが悪かったのが、潰れそうだった鈴木商店という会社に台湾銀行が3億を超えるお金を貸し付けていたことです。つまり、鈴木商店が潰れると、「台湾銀行を救うには震災手形の1億円どころの補填では済まなくなる」ってことです。
おまけに台湾銀行の1億円の震災手形も、その内訳のほとんどが鈴木商店のものでした。しかも、鈴木商店関係の震災手形は、上で紹介したようなドサクサに紛れて、元から決済不能になりそうだった手形を日本銀行に押し付けたものです。
関東大震災による被害から企業を救うために出されたはずの震災手形の制度ですが、制度が悪用された結果、政府は、震災前から潰れそうだった鈴木商店の紙クズになるかもしれない手形を補填するハメになってしまったのです。(しかも、それを補填するお金の出どころは国民の税金です。)
震災手形
このような震災と無関係に発行された震災手形は、日本の経済に深刻な影響を与えました。
影響は多岐に渡りましたが、金融恐慌に関する部分で言えば、以下の2点が重要です。
それぞれ簡単に解説してきます。
日本企業の国際的な競争力の低下
偽りの震災手形が大量に発行された結果、震災とは無関係にもともと潰れそうだった企業を無理やり救ってしまうことになりました。
本来淘汰されるべき企業でも生き残れてしまったので、企業間の競争が起こりにくくなり、日本企業の製品の質が低下しました。
すると、日本製品は第一次世界大戦から完全復活したヨーロッパの輸入品も押され、あまり売れなくなってしまいました。
金本位制の復活が困難に・・・
1914年に第一次世界大戦が始まると、世界の主要国は、自国が保有する金が海外へ流出するのを防ぐため、金本位制を禁止しました。日本も1917年に金本位制を禁止しています。(金輸出禁止)
そして1918年に戦争が終わると、世界経済を戦前の状態に戻すため、アメリカやヨーロッパ各国は金本位制を解禁するようになります。
しかし、日本はもともと戦争に参加してないのに、なぜか金本位制を解禁すること(金輸出解禁)ができません。
・・・というのも、上で紹介したように、日本企業の競争力が低下してヨーロッパから輸入品が増え続けている状態で金本位制を復活させると、日本が保有する金が枯渇する可能性があったからです。
※輸入が増えた背景には、関東大震災からの復興物資の輸入が増えた・・・という事情もあります。
おまけに、国内の金や通貨のコントロールする日本銀行が、震災手形を引き受けたせいで巨額の負債を抱えている状態です。司令塔である日本銀行の財務状況が改善しない限り、安定した金本位制の運用はできません。
日本は第一次世界大戦で直接被害を受けなかったはずなのに、いざ戦争が終わってみると、日本経済は輸入品の抑えれて一人負け。おまけに、多くの国が金本位制を解禁する中、日本だけが大きく出遅れることになってしまったわけです。
震災手形の問題は、解決が困難であることから「財政のガン」とも呼ばれ、日本経済に暗い影を落とし続けました。
金融恐慌前夜
1927年1月、当時内閣総理大臣だった若槻禮次郎は、日本経済の回復と金輸出解禁を目指すため、震災手形の解決に動きます。
これまでの話を聞くと震災手形って、闇が深そうだし、簡単に解決できない気がするんだけど、若槻禮次郎は何をしようとしたの?
という疑問があるかもしれませんが、手法そのものは至ってシンプルです。若槻は、震災手形の巨額の負債を全て政府のお金(税金)で解決しようとしたのです。ゴリ押し戦法ですね。
先ほどお話ししたように震災手形の内訳の約半分が台湾銀行のもので、さらに台湾銀行の不良債権のほとんどが鈴木商店のものでした。
つまり、「政府が税金で震災手形の負債を賄う」≒「政府が税金で台湾銀行や鈴木商店の負債を賄う」ということであり、1つの銀行・企業の救済に税金が投じられることには、国民や政府内から強い反対もありました。
若槻は、税金で震災手形の負債を賄うために必要な法律を制定しようとします。しかし、帝国議会の衆議院では、憲政会と立憲政友会の2つの政党の勢力が拮抗し、両党が協力しなければ法律制定は困難な状況でした。
憲政会に所属していた若槻は、立憲政友会の幹部と交渉の末、「法律が制定すれば、若槻内閣を解散して政権を立憲政友会に譲るよ!」という話をまとめました。
・・・が、直前で立憲政友会が手のひらを返し、法律案は暗礁に乗り上げてしまいます。
すると、震災手形のあり方をめぐって憲政会と立憲政友会は争いを始め、震災手形の法律案は政争の具となってしまいました。
そして、震災手形の問題をめぐって両党が議会で争っている間に、事件が起こりました。・・・それがこの記事の本題である金融恐慌です。
金融恐慌
震災手形の問題をめぐって台湾銀行が注目される中、日本国内に本当に破綻しそうな銀行がいくつもありました。その1つが東京渡辺銀行と呼ばれる銀行でした。
1927年3月14日1時半頃、東京渡辺銀行の偉い人が大蔵省の高官にこう伝えます。
政府の支援がなければ、東京渡辺銀行は休業せざるを得ない状況だ・・・。(頼む支援してくれ!!)
これを聞いた大蔵省の高官は、「東京渡辺銀行はもうダメだ」と判断し、大蔵大臣だった片岡直温に「東京渡辺銀行が支払停止した(休業した)」と伝えてしまいます。
※東京渡辺銀行は「もうダメかも・・・」と政府に救いを求めただけで、まだ休業したわけではありません。
3月14日の昼、片岡直温は、帝国議会で野党(政敵)である立憲政友会からの質問に対応していました。その最中、「東京渡辺銀行が支払停止!」との報告を受けた片岡は次のような発言をします。
東京渡辺銀行がいよいよ破綻しました。
この片岡の発言が、金融恐慌の引き金を引いてしまいます。この発言を聞いた東京渡辺銀行の利用者はすぐさま銀行に押しかけ、取り付け騒ぎが起こってしまったのです・・・。
片岡は発言を撤回しようとするも、時すでに遅し。東京渡辺銀行も、「ほっといても破綻しそうだけど、片岡の取り付け騒ぎで破綻したことにして、政府に責任の一部を押し付けよう」と考え、これに便乗して3月15日に休業してしまいます。
震災手形を持っていた東京渡辺銀行が休業した!
もしかして、震災手形を持っている別の銀行も休業して預金を引き出せなくなるんじゃ・・・。休業する前に、預金を引き出しておかないと!!
こうして、取り付け騒ぎは他の銀行にまで波及し、まさに金融恐慌とも言えるパニックが起こりました。
【悲報】鈴木商店、破綻する
政府は「銀行は潰させない!」と強くアピールすることで、3月中になんとかパニックを収束させました。
・・・が、4月5日、次は「鈴木商店、破綻する!」という大ニュースが飛び込んできます。
こうなるとヤバいのは、台湾銀行です。鈴木商店の巨額の融資が全てパーになってしまい、台湾銀行は政府に救済を求めました。
この時点で台湾銀行の鈴木商店への融資額は3億5000万円にまで膨れ上がっていました。若槻は、震災手形に続いて、台湾銀行の負債までも税金で補填することを決断します。(1926年時点の震災手形が2億なので、それを超える額です・・・)
台湾銀行救済は一刻を争う事態であり、議会で議論する時間がないため、若槻は「天皇陛下にすぐに命令(勅令)を出してもらう」と考えました。
天皇(当時は昭和天皇)に勅令を出してもらうには、枢密院での了承が必要ですが、枢密院はこれを拒否します。
支援を拒否された台湾銀行は、4月18日には休業に追い込まれます。さらに、「政府が台湾銀行を見捨てた」という事実は、多くの銀行に衝撃を与え、国内の有名な銀行も次々と休業に追い込まれます。
日本中の銀行が破綻しかねない深刻な状況の中の4月20日、若槻禮次郎はその責任をとる形で、内閣を解散。政権を立憲政友会に譲りました。
モラトリアム(支払猶予令)
1927年4月21日、立憲政友会の田中義一という人物が内閣総理大臣となり、田中内閣が発足。
田中義一内閣は、すぐに震災手形や台湾銀行の問題解決に取り掛かります。・・・と言っても、実はやったことは若槻禮次郎と同じです。
田中義一が、震災手形と台湾銀行の負債を税金で補填するための勅令をもらうため、枢密院へ相談すると、これが認められ、田中義一はさっそく対策に乗り出します。
ん?枢密院は、若槻が同じ内容を提案した時は拒否したよね?
なぜ、手のひら返しで提案を認めたの?
理由は「枢密院が、憲政会の外交政策(幣原外交)を嫌っていて立憲政友会と裏で協力していたから」です。なので同じ内容でも、憲政会の意見は拒否するし、立憲政友会の意見には賛成したわけです。
田中義一内閣の大蔵大臣だった高橋是清は、銀行に対してモラトリアム(支払猶予令)を出します。具体的には、銀行に対して「500円以上の支払いなら、今は支払を猶予してもいいよ!」というものでした。
銀行がモラトリアムに基づいて500円以上の支払を中止して、取り付け騒ぎで銀行のお金が枯渇するのをなんとか防いでいる間、日本銀行では大至急で大量の紙幣が刷られます。
大量に刷られた紙幣は、すぐさま各銀行へと送られ、銀行はその大量の札束を店頭にドンっ!と置きました。預金を引き出そうとパニックになって銀行に押しかける人々を安心させるためです。
なんだ、銀行が潰れそうでヤバいっていうから来てみたけど、あんなにお金があれば大丈夫そうだな。
ひとまずは、安心安心
こうした迅速かつ的確な対応により、金融恐慌は大惨事になることなく終焉を迎えることができました。
金融恐慌が日本に与えた影響
高橋是清のナイスプレイで、日本は経済崩壊の危機を免れました。しかし、金融恐慌は特に銀行業に深い傷跡を残しました。
金融恐慌の経験を踏まえ、多くの人々が「財務基盤の弱い中小銀行は信用できない!」という強い不信感を持つようになり、銀行業界の統廃合が進みます。
その結果、財閥である三井・三菱・住友・安田・第一の5大銀行がさらに強大化し、日本の経済のみならず政界への影響力をも強める結果となりました。
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