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戦後恐慌を簡単にわかりやすく解説するよ【原因・対応・様子をバッチリ確認しよう!】

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もぐたろう
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今回は、第一次世界大戦後に日本を襲った大きな不景気「戦後恐慌せんごきょうこう」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ

この記事を読んでわかること
  • 戦後恐慌ってそもそも何?
  • なぜ戦後恐慌は起こったの?
  • 戦後恐慌の日本はどんな様子だったの?
  • 戦後恐慌が日本経済に与えた影響は?
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戦後恐慌とは

戦後恐慌とは、第一次世界大戦による好景気「大戦景気」が終わった後に、訪れた不景気時代のことを言います。戦後恐慌が始まったのは1920年3月とされています。

・・・というのは、どこにでも書かれているよくある説明。ただ、大戦景気→戦後恐慌の流れには1つの疑問が生まれます。

大戦景気って景気が良かったんでしょ?

それなのに、なぜ急に不景気になってしまったの?日本に一体何が起こったの?

というわけで、今回は「なぜ大戦景気から一変して戦後恐慌になったのか?」という点を詳しく解説していきます!!

合わせて、以下の大戦景気の記事も読んでいただくと理解が深まると思います↓

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戦後恐慌が起こる前の日本

戦後恐慌が起こる前の日本は、第一次世界大戦の特需による大戦景気で大いに賑わっていました。

ただ、この大戦景気、少し変なんです。

第一次世界大戦が起こったのは1914年〜1918年の期間。そして、大戦景気の期間が1915年〜1920年で、その後に戦後恐慌がやってきます。

・・・何か違和感を感じませんか?

大戦景気は戦争特需によって起こったんだよね?

終戦した1918年で特需は終わっているはずなのに、なぜ大戦景気だけが1920年まで続いたの?

この疑問はとても重要な疑問でして、この答えを知ると「なぜ戦後恐慌が起こったのか・・・?」がバッチリと理解できるようになります。

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第一次世界大戦後も続く好景気

1918年11月、ドイツが休戦協定を結び、第一次世界大戦が終結。そして戦争が終わると戦争特需は失われ、日本の輸出量も減少。貿易支出は赤字となりました。

あくまで特需だったので、こうなることは日本政府も含め多くの人たちが予想していたことです。

事態を想定していた日本政府は、景気の冷え込みを緩やかにするため、内需拡大・積極的な輸出振興などイケイケな政策を次々と実施していきました。

・・・ところが!蓋を開けてみれば、日本の景気はほとんど落ち込みませんでした。

景気が落ち込まないのに景気を良くする政策を行った結果、むしろ戦時中を上回る好景気に突入します。特需が無くなったのに景気はうなぎ登り・・・、この矛盾した経済現象(バブル景気)こそが、戦後恐慌を起こす元凶となります。

日本政府による景気悪化の想定が大きく外れてしまったは、経営者たちが政府が思っていた以上に楽観的な考えを持っていたからです。

戦争は終わったけど、荒廃したヨーロッパでは戦後復興の需要が生まれるはず!

ドンドン製品を大量生産して、がっぽり儲けてやるぞ!

さらにタチが悪かったのが、戦争が終わった直後だけは本当に好景気だったことです。

終戦直後は、世界的な船舶不足により造船業は盛んだったし、アメリカや中国向けの輸出も順調でした。多くの経営者が、この状況がもうしばらく続くはず・・・と考えたとしても不思議ではないでしょう。

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バブル景気に突入・・・

戦争特需によって、日本の多くの企業は輸出によってガッポリ大儲けをしました。一発当てて大金持ちになる成金も登場し、日本は好景気を謳歌します。

輸出で儲けたお金は日本国内に流れ込むと、国内の通貨供給量は増え続け、日本は急激な物価上昇(インフレーション)に見舞われました

急激なインフレは、国民の生活に大打撃(値上げで商品を買えなくなる!)を与え、1918年には米騒動と呼ばれる全国的な大暴動まで起こりました。

戦争が終わると、なぜかさらにインフレが加速します。なぜなら、先ほど紹介したように、景気後退を懸念して政府が内需拡大などのインフレに繋がる政策をドンドン行ったからです。

1919年には、「物価が上がり続けるなら、今のうちに米や土地、株式を買っておけば値上がりしたときに大儲けできるんじゃね?」と考えた人々が、土地、株式を買い漁り始めこれらの価格が高騰。日本は、実態経済を無視したバブル景気に突入していきます。

田畑の土地価格は1913年→1920年で倍。日本橋の土地は1坪1000円→3000円。卸売物価は大戦景気前の1913年から1920年の間に2.6倍。消費者物価は2倍になりました。

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戦後恐慌の始まり

インフレによる物価の高騰は国民の生活を圧迫しましたが、実はもう一つ深刻な問題を引き起こしました。それは日本の製品が値上がりしすぎて、輸出しても売れなくなってしまったことです。

価格高騰で日本の製品が売れなくなったところに、1919年末になると戦後復興を遂げたヨーロッパ諸国が輸出を本格的に再開したことで、日本の製品は全く売れなくなってしまいました。(インフレで値上がりした日本製品を買うよりも、ヨーロッパ製品を買った方がお得ですからね)

1920年に入ると、物が売れなくなって多くの企業が利益を出せないにもかかわらず、株価だけが高騰し続け、次第に株価が実態とかけ離れていきました。

なぜこんなことが起こるかというと、インフレで株価が上がり続けていたので、多くの人たちが「株価は絶対に上がる!」と盲信してしまったからです。

物が売れない?そんなの関係ねえ!

株価はこれまで上がり続けたんだ。だから今後も絶対に上がる!

この盲信が間違いだと多くの人が気付いた時、株価は大暴落し実体経済に見合った価格に戻ることになります。

1920年3月15日、ついにそのエックスデーがやってきました。

3月15日、株価が突如として大暴落。株式市場は大パニックとなり、16・17日は株式の取引が中止に。

この株価大暴落によって、多くの人たちが「日本の企業が利益を出せず、経営的にやばい状況だ!」ということに気付き始めます。

さらに4月6日、大阪増田ビルブローカー銀行という銀行の資金が枯渇し、お金の貸し出し(融資)ができなくなったことにより、業務停止に追い込まれました。

貸し出しがストップしたら、大阪増田ビルブローカー銀行からの融資をあてにしていた会社は、経営破綻してしまうのでは?

というか、俺が預金している銀行は大丈夫なのか!?ヤバい雰囲気だし、今のうちに預金を引き出しておかないと大変なことになるかもしれん・・・。

4月12日、パニックになった人々が銀行に押し寄せ、取付騒ぎ(預金を引き出そうとすること)が始まります。同日、株式市場が大暴落し、再び取引停止へ。

さらに5月24日には、人々の不安が的中し、七十四銀行と呼ばれる大手銀行が経営破綻してしまいました・・・。

こうして、3月15日の株価大暴落をきっかけとして、日本は不景気の時代へと突入していきます。

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戦後恐慌の様子

株価だけではなく、生糸や綿糸といった原材料の価格も大暴落

株価の暴落や銀行の破綻によって、企業が全く利益を出せていないことが明確になると、生糸や綿糸といった原材料の価格も暴落しました。

暴落の具合はなかなか凄まじく、戦後恐慌前と比べて、生糸は約75%、綿糸は約63%も価格が下落します。そのため、好景気を予想して生糸・綿糸を買っていた人々は、大きな損失をこうむりました。

大企業・成金の没落

戦後恐慌は、銀行の破綻のみならず、多くの企業や成金たちを没落へと追い込みます。代表例を3つほど紹介しておきます。(教科書には載っていない話なので覚える必要はありません)

山本唯三郎やまもとゆいさぶろう

山本唯三郎は、船舶事業で財を成した船成金です。最盛期の資産は4千万(現在価値で1200億円)でしたが、ヨーロッパの船舶業が復興すると共に没落しました。

「ほら、明るくなったろう」で有名な以下の画像のモデルとなった人物でもあります。

茂木商店

茂木商店は、生糸の輸出で財を成した会社です。先ほど紹介した生糸価格の大暴落の影響を受けて、5月24日に破綻。

茂木商店は、同日に破綻した七十四銀行とも取引を行っており、生糸価格暴落と取引先銀行破綻というダブルパンチに耐えることができませんでした。

鈴木商店

鈴木商店は鉄・砂糖・小麦等の貿易商社。

鈴木商店は、第一次世界大戦が勃発した際、いち早く大戦景気を予想し、鉄・佐藤・小麦などを限界まで仕入れました。そして、大戦景気が到来して商品需要が増すと、それらを高値で売り捌き、巨額の富を築きます。

鈴木商店の勢いは凄まじく、1919〜1920年の売上は1200億円で当時の日本のGPNの1割に相当しました。

しかし、鈴木商店は銀行からの借り入れに大きく依存した経営体質だったため、七十四銀行を筆頭とする銀行の破綻・経営難によって、資金調達が困難となり、戦後恐慌によって没落。

鈴木商店自体はかろうじて生き残りますが、1923年に起こった関東大震災によってトドメを刺され、1927年に倒産することになります。

ここに挙げた以外にも、銀行の破綻に巻き込まれたり、利益を出せずに倒産する企業が続出しました。

カルテル・財閥の台頭

一方で、戦後恐慌を乗り越えた企業もあります。

在華紡ざいかぼうで生き残りを図る

紡績業の企業は、日本の不景気を受けて、中国に活路を見出します。

賃金の安い中国で製品を作るため、大手紡績企業は次々と中国に会社を設立し、資本を日本から中国へと移していきました。

※日本企業が中国に設立した紡績企業の総称を「在華紡」と呼びます。

さらに紡績業では商品価格の下落を食い止めるため、カルテルが盛んに行われるようになりました。

カルテルとは

価格競争を嫌う企業たちが話し合って、価格や生産量などを決めてしまうこと。

大企業同士のカルテルは、商品価格を歪めるため、多くの国で禁止となっています。(今の日本でも禁止されています!)

財閥が漁夫の利を得る

戦後恐慌によって、4大財閥(三井・三菱・住友・安田)が台頭します。

財閥とは

財閥とは、「同一の事業者が複数の事業を運営する形態をとること」を言います。事業者は同じ一族で構成され、圧倒的な資本を持っていました。

多角経営をする財閥の強みは、「どこかの事業が不振でも、他の事業でカバー出来る点」です。財閥はこの強みを活かして、戦後恐慌を生き残り、それだけではなく経営不振の中小企業を次々と傘下に組み込むことで、むしろ勢力の拡大を狙いました。

まさに「ピンチはチャンスなり」ですね。

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治安の悪化【原敬の暗殺事件】

財閥は経済分野のみならず、政党へも強い影響力を持つようになります。そして、財閥の言いなりになる政党に対して、多くの国民が不満を持つようになりました。

その犠牲となったのが、原敬はらたかしです。

1921年、内閣総理大臣だった原敬が東京駅で暗殺されました。

もともと原敬は低い身分の出自だったため、国民から人気がありました。しかし、原敬の政策は財閥を優遇する政策ばかり。これに不満を爆発させたとある人物によって原敬は殺されました。

多くの国民は、大戦景気の恩恵を受けることができず、苦しい生活をしていました。1918年には、不満を爆発させ、米騒動が起こっています。

そこに戦後恐慌が更なる追い討ちをかけているのに、財閥だけが漁夫の利を得て、しかも民意を反映させるはずの政党も財閥の言いなりです。そりゃ国民だってブチギレます。

そんな事情もあって、社会情勢は不穏な空気に包まれました。

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戦後恐慌のその後

戦後恐慌自体は、実は1921年春頃に収束しました。一年ほどで収束できたのは、日本銀行が潰れそうな企業を救うため、緊急融資を行ったからです。

しかし、日本銀行の救済措置は、本来淘汰されるべき回復の見込みがない企業まで延命治療してしまいました。

未来のない企業にいくら融資しても、いずれ企業は倒産してしまいます。そうなると、融資したお金は返済されることなく不良債権になってしまいます。

しかし、企業側は粉飾決算で利益があるように見せかけ、銀行側では不良債権を隠して利益を計上するなど、あの手この手で企業を支えました。(ちなみに粉飾決算も不良債権の隠蔽も今なら完全アウトです)

多くの企業・銀行は、粉飾決算や不良債権隠蔽で、なんとか戦後恐慌を乗り切りました。しかし、1923年、再び日本に悪夢がやってきます。

1923年9月1日、関東一帯で大地震が発生。(関東大震災)

関東大震災が日本経済に与えた影響は凄まじく、かろうじて生き残った企業も地震の影響で次々と息の根を止められてしまいました。

さらに、企業の倒産が増えると隠蔽していた銀行の不良債権も明るみに出るようになり、再び銀行の破綻や取付騒ぎが起こり、金融恐慌と呼ばれる新たな不景気時代へと時代は移り変わっていきます。

【おまけ】

実は、①大戦景気(バブル)→②大地震(関東大震災)→③金融恐慌という流れは、平成時代の不況の様子ととてもよく似ています。

平成時代は、①バブル景気→②大地震(阪神・淡路大震災)→③平成不況という流れでした。

粉飾決算や不良債権の隠蔽が行われたり、大手銀行が破綻する点も共通しています。世の中には「歴史は繰り返す」という名言もあります。

この記事を書いている時点では、今なお新型コロナで多くの企業が打撃を受けています。もしニュースなどで「粉飾決算」「不良債権」「銀行の経営が危ない」みたいなワードが頻繁に登場するようになれば、今の日本でも同じようなことが起こるかもしれません・・・。

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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