誰でもわかる源頼家!生涯などを簡単にわかりやすく【2代目将軍の悲劇の物語】

今回は2代目鎌倉幕府将軍である源頼家(みなもとのよりいえ)について紹介しようと思います。

 

 

鎌倉幕府といえばパッと頭に思い浮かぶのが源頼朝という人も多いと思います。源頼朝は新しい時代を切り開いた人物だし教科書にも大きく載る人物ですから、そりゃ有名ですよ。

 

 

 

そして、源頼朝が亡くなった後の話になると途端にマイナーになってしまうのですが、実は源頼朝が亡くなった後の鎌倉幕府の話って超面白いんですよ。

 

 

何が面白かというと、騙し騙され、殺し殺されドロドロで熾烈な人間ドラマが嫌というほど見ることができるところ。なんか性格悪い人みたいですけど、ほんと面白いんですよーw

 

 

鎌倉幕府を開いた源頼朝を初代とする源氏将軍。実は三代でその血は途絶えてしまいます。なぜかというと内ゲバが酷すぎて、みんな消えてしまったから(汗

 

 

そして、源平合戦を源頼朝と共に戦い抜いた有力御家人たちもそのほとんどが消えてしまいます。梶原景時・比企能員・畠山重忠・和田義盛などなど、みーんな人間関係のイザコザで消えてゆく。

 

 

ふと気づけば、鎌倉幕府を開いたはずの源氏の血が途絶え、源平合戦で活躍した御家人たちが次々と消えてゆく強烈なサスペンス劇!まさにリアル「そして誰もいなくなった」状態。

今回紹介する源頼家の話もそんなお話。

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源頼家の幼少期

源頼家は1182年に源頼朝と北条政子の間に生まれた念願の男の子。頼朝の後継者の誕生に皆が喜び祝福しました。

 

 

頼家は、源氏の御曹司として特に不自由することもなくスクスクと成長していきます。幼い頃から体を動かすのが得意だったようで、狩遊びのエピソードが有名だったり、武芸に長けた人物として紹介されることが多いです。

 

 

1193年5月、「富士の巻狩り」という大規模な狩が今でいう富士市近辺で行われました。そこでまだ12歳の頼家が鹿を射止めたことが記録に残っています。父の頼朝はこれに大層喜び、鎌倉に残っていた嫁の北条政子にすぐさま報告したけど、政子は「は?そんなこと幕府将軍の息子なら当然でしょう」と一蹴したなんてエピソードが残っています。

 

 

これぐらいのお話なら微笑ましい話で良いんですけど、実は富士の巻狩りの裏では非常に生々しい事件が起こっていました。1つは曾我兄弟の仇討ちという事件。ここでは詳細は省略しますが、曽我兄弟が父の仇討ちのために寝込んでいた工藤祐経を斬り殺しました。

 

 

事件を知った北条政子は、夫の頼朝が鎌倉になかなか戻ってこないので、「もしかして頼朝も殺されてしまったのでは・・・」と心配します。北条政子の心情を察した源範頼(みなもとののりより。頼朝の異母弟)は政子にこう言います。「頼朝に万が一のことがあっても、私がちゃんといますよ」

 

 

範頼はきっと「頼朝に何かあっても鎌倉幕府は俺がなんとかする!」って言いたかったんでしょうけど、政子はこれを「範頼が将軍の座を狙っている。この発言は謀反だな」と決めつけ、その後源範頼は伊豆にある修善寺に幽閉。後に謎の死を遂げます。

 

 

源頼家が、キャッキャと動物を狩っている間に裏ではいろんな人が亡くなっていたんです。カオスすぎワロタ。

2代目鎌倉幕府将軍、源頼家

1199年、偉大なる父頼朝がこの世を去ります。18歳になっていた源頼家は家督を継ぎ、2代目として鎌倉幕府のトップに立ち、1902年には征夷大将軍となり名実ともに2代目鎌倉幕府将軍に。

 

 

源頼朝は父のように全ての御家人の上に君臨する将軍として振る舞おうとしますが、これが全然うまくいかない!頼朝が全ての御家人らの上に君臨できたのは巧みな政治術・人望のおかげであり、若年の頼家では血気盛んな御家人たちをコントロールすることができません。

 

 

それでも上から目線で振る舞う頼家に御家人たちの不満が溜まっていきます。御家人たちは次第に頼家の言うことを素直に聞かなくなり、選ばれた13人の有力御家人らの話し合いによって政治を進めようと考えます。(これを13人の合議制と言ったりする)

 

 

要するに若いくせに偉そうな頼家を意思決定の過程から除外しようとしたわけ。(どの程度意思決定の過程から頼家が遠ざけられていたのかは諸説ある)

 

 

当然、源頼家は怒ります。怒った頼家は「俺の信頼できる5人以外は、俺とお目通りできないからな。それと選ばれた5人は何やっても無罪だからそこんとこよろしく」と言って、御家人たちを牽制。

 

 

こうして御家人と源頼家との関係がギクシャクし始め、1199年末に大事件が起こります。それが梶原景時の変という事件。

 

 

頼朝時代から信頼度抜群で、源頼家との関係も良好だった側近中の側近である梶原景時。源頼家の幕府運営を影から支えていた功労者でもあります。そんな梶原景時は、源頼家のことを良く思わない人からすれば邪魔な存在なわけで、反源頼家勢力の陰謀によって消されてしまいます。

 

梶原景時って戦国時代でいう石田三成的な存在。いろんな人に嫌われ、後世の人たちからもボロクソに言われ続けてるけど、頼朝や頼家にとっては幕府運営に欠かせない重要な存在でした。詳しくは以下の記事を!

梶原景時ってどんな人?簡単にわかりやすく紹介!【義経との関係、梶原景時の乱とその最期など】
今回は、源頼朝の側近中の側近で非業の死を遂げた梶原景時(かじわらかげとき)という人物について紹介します。 梶原景時の一世一代の大勝負、石橋山の戦い! 梶原景時が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、源平合戦初期に起こった石橋山の戦い。 北条時政らと協力して流刑地の伊豆を抜け出した源頼朝とそれを追ってきた平家軍との戦いで...

 

源頼家と源実朝、比企氏と北条氏

梶原景時の死によって政権運営における重要な頭脳を失った源頼家。梶原景時死後もしばらくは平穏な月日が流れますが1203年、突如として源頼家は将軍の座を追放され謎の死を遂げることになります・・・。

 

 

一体何が起こったのか。紹介する前に源頼家の家族事情についてちょっと補足説明しておこうと思います。

【鎌倉幕府将軍の系図】

 

当時の社会風習の1つに、「偉い人の妻は子育てを乳母に任せる!」っていうのがありました。この風習は鎌倉時代に限ったものではなくて、奈良・平安時代の皇族・貴族から始まり、江戸や明治時代までずーっとある風習。

 

 

源頼朝は、源頼家が生まれると比企(ひき)という一族の者に乳母の役割を託します。源頼朝は、平治の乱で源義朝が敗北した後、若くして伊豆へ流刑となりますが、その流刑地で長い間、乳母として生活を支援してくれたのが比企一族の比企尼(ひきのあま)という女性でした。

 

平治の乱については以下の記事をどぞ。

簡単にわかりやすく!誰でもわかる平治の乱【勝者は?源義朝はどうなった?】
平治の乱は、対立関係が超複雑であることで有名な1159年に起こった内乱です。この3年前に起こった保元の乱にも複雑な対立関係がありましたが、平治の乱はそれ以上に複雑です。 今回は、そんな平治(へいじ)の乱について、できる限りわかりやすくかつ詳しく紹介してみようと思います。ちなみに、以下の保元の乱の話を知っておくと理解がスムーズになるかもし...

 

源頼朝と比企氏の強い信頼関係で結ばれており、そんな縁もあり頼朝は息子である頼家の乳母に比企氏の者を抜擢します。乳母とは簡単に言えば「子供の養育係」。実は男でもなることができてその場合は乳母父なんて言います。

 

 

頼家の乳母父だった比企能員(ひきよしかず)は、娘を頼家に嫁がせ一幡(いちまん)という男子まで生まれています。一幡は頼家の後の将軍、つまり三代目将軍の最有力候補でした。

 

 

ところが、これをよく思わないのが北条一族。北条一族も比企氏と同じく頼朝の流刑人時代からの頼朝の支援者。長男の頼家の乳母が比企氏なら、次男である源実朝の乳母は北条氏の阿波局(あわのつぼね)でした。

 

 

頼家・実朝の実母である北条政子、それに政子の父である北条時政は頼家と比企氏の親密な関係を不安視するようになります。「このままだと比企氏が圧倒的な影響力を持つようになって北条氏は衰弱してしまう。ここはどんな手を使ってでも北条氏が育てた源実朝を次の将軍にしなければ・・・」

 

 

先ほど頼家の信頼できる忠臣だった梶原景時が消された話をしましたが、実は上記のように思った北条家が頼家の権力を骨抜きにして実朝を将軍に擁立しやすくするために仕掛けた謀略だった・・・という説もあります。というか、この説の方が説得力ありますよね。

 

 

比企氏の影響力が強まるにつれ、幕府内では頼家・比企氏VS実朝・北条氏という政治対立が明白になっていきます。ただし、源実朝は北条氏に担ぎ出された形であり、実朝自身がどんな心境だったかはわかりません。

源頼家と比企能員の変

1203年7月、体調を崩し気味だった頼家は病に伏し、8月には危篤状態に陥ります。

 

 

ここから先のお話は、「吾妻鏡」という歴史書の内容に沿って紹介していきます。なぜこんな前置きをするのかというと、残っている文献によって書いていることが違うから!

 

 

1203年9月1日、源頼家が危篤状態になるとまだ頼家が生きているにも関わらず家督相続の話が進められ、頼家の嫡男である一幡は東国28国、弟の実朝は西国38国の地頭になるという話が決定します。

 

地頭っていうのは、各国の税務総責任者みたいなもんです。朝廷にも同様の役職があるのですが、鎌倉幕府からも強引に人を送り込んだ感じです。詳細は以下の記事をどうぞ。

鎌倉幕府の守護・地頭を簡単にわかりやすく解説する!
今回は、鎌倉幕府に源頼朝によって配置された「守護」「地頭」という役職について紹介してみます。 教科書的に言えば、 地頭:各国の年貢徴収や土地管理の責任者。 守護:国の治安維持を行う軍事責任者 という感じでしょう。これだけだと無味乾燥で面白くありませんので、ここではもう少し掘り下げて守護地頭について解説してみ...

 

 

でも、これっておかしいと思いませんか?普通なら家督を継いだ一幡が頼家の所領を全部受け継ぐはずなのに、それを実朝と分ける、しかも実朝の方が所領が多い!

 

 

当事者の一幡はまだ4、5歳で意思がありませんでしたが、この所領相続に納得いかないのが一幡を孫に持つ比企能員。

 

 

 

1203年9月2日早朝、突然この知らせを受けた比企能員は驚くと同時に「これは実朝推しの北条氏の仕業だな」と察します。

 

 

比企能員は、病に伏していた頼家と枕元で密談。勝手に色々と話が進められていたことに驚いた源頼家は比企能員と共に北条氏を討つことを決意します。ところが、これを北条政子がこっそりと聞いており、政子の父である北条時政に報告。すると逆に北条氏が謀反を企てた比企氏を討ち取ろうと計画を練ります。

 

 

同じく9月2日、比企能員は北条時政に「頼家様の病気回復のために仏事をやるから晩に俺の屋敷に来ない?」と誘われます。比企能員はビビります。「これは罠で行ったら殺されるんじゃないか・・・」と。しかし、行かないと逆に怪しまれるし、朝に話した内容がその日の晩に北条に筒抜けになるはずがないと踏んだ比企能員は周囲の反対を押しのけ、北条時政の屋敷へと向かいます。

 

 

が、案の定、比企能員は北条時政の屋敷で討ち取られ、その後も謀反の嫌疑により比企一族は根絶やしにされ、幼い一幡も消されてしまいます。

 

 

9月5日、危篤状態から回復し比企氏が滅ぼされたことを知った頼家は激怒。北条氏を討ち取るよう御家人に命じますが、多くの御家人は北条支持派に回っていて北条氏を討つことはできません。

 

9月7日、源頼家は実母の北条政子に言われるがままに半強制的に出家。その後しばらくして伊豆の修善寺に幽閉され、1204年7月、源頼家は幽閉先で謎の死を遂げます。21歳という若くしての最期でした。

 

 

凄まじいです(;^ω^)

 

平安時代の貴族らの政争も確かに過酷でした。ただ貴族たちの政争って陰湿で精神を追い詰める感じの過酷さなんだけど、武家になるとなんかもう人の命をなんだと思ってるんだ!ってほどの世紀末感。

源頼家をひたすらディスる吾妻鏡

以上の話は吾妻鏡という資料に基づいて紹介しました。実は吾妻鏡って北条氏びいきの内容なので、北条氏に不利なことは伏せられていたり、逆に良いことは誇張されてたりします。

 

 

そして源頼家は北条氏から見れば邪魔な存在。なので吾妻鏡ではあることないこととにかく酷いことが書かれています。狩りばかりで仕事をしない・みんなを呼び捨てにして態度が横柄などなど。

 

 

例えば、源頼家が将軍になると13人の御家人が頼家を意思決定から除外した話。これも、除外したんじゃなくて13人で頼家の相談に乗ってあげてただけじゃね?って説があります。

 

 

それに最後の比企能員の話も、吾妻鏡だと「比企能員が隠謀を企んだから北条氏が返り討ちにした」ってなってるけど、比企氏の勢力拡大を恐れた北条氏が一方的に攻め滅ぼしたって話も残っていたり。ただ、それだと北条氏が悪者になっちゃうから、吾妻鏡では比企氏が先に手を出して北条氏は正当防衛でやったことにした・・・と。

 

 

うーん闇が深い。学校の教科書でこの辺りの話が触れられないのも、はっきりとしたことがあまりにもわからなさすぎる!!って事情がありそうです。

源頼家まとめ

源頼朝により上手く保たれていた御家人同士のパワーバランスは、頼朝死後に崩壊し、鎌倉幕府は凄惨な内ゲバ争いに突入。実は不遇の最期を遂げた源頼家ですら、そんな血みどろな政争の序章にすぎません。

 

 

梶原景時、比企氏が滅び頼家が謎の死を遂げた後、北条氏の目論見通り、三代目将軍として源実朝が選ばれます。そして源実朝時代も血みどろの政争は続きます。

 

 

次は、比企氏の代わりに権力を掌握した北条時政が周囲から疎まれ失脚。加えて権力争いで和田義盛などの御家人が滅亡。ラストは、頼家の息子の公暁(くぎょう)と言う人物が父の仇と言わんばかりに実朝を闇討ちするという同族争いでクライマックスを迎え、その後ラスボス的な感じでとして承久の乱が起こるわけです。

 

しかもその公暁を裏で操っていた真の黒幕がいるんじゃないか?って説もあったりしてもうめちゃくちゃ。

 

 

源頼家は鎌倉時代という修羅の時代の犠牲者の1人と言えそうですね。それにしても恐ろしい時代(;゚Д゚)

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