知行国制とは?院政を支えた「受領任命権」の仕組みをわかりやすく解説

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知行国制

もぐたろう
もぐたろう

今回は知行国制について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!院政を支えた”受領任命権”の仕組みや、院宮分国制との違いまでしっかり押さえていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 知行国制の意味・定義(3行でスッキリ理解できる)
  • 知行国主・受領・目代の三層構造(誰が何をしていたのか)
  • 院宮分国制との違い(テスト頻出!公認 vs 非公認)
  • 院政と知行国制の関係(上皇が収益を得た仕組み)
  • 平清盛と知行国制(30カ国以上を独占した経済の秘密)

「院政」と聞くと、上皇が天皇をしのぐ強い権力をふるった時代——そんなイメージを持つ人が多いと思います。ですが、その権力をいったい何が支えていたのかと聞かれると、意外と答えにくいのではないでしょうか。

院政を可能にしたのは、武力でも権威でもありませんでした。実は、上皇が「自分の意のままに受領を任命できる仕組み」——知行国制ちぎょうこくせいという”収益システム”を手に入れたことこそが、院政の経済的な土台だったのです。

言いかえれば、院政の黒幕は「お金」と「人事権」でした。むずかしそうな名前ですが、知行国制は「国をまるごと”貸しビル”のように扱って、家賃(税)を受け取る仕組み」とイメージすると、すっと頭に入ってきます。この記事では、この”貸しビル”のたとえを軸に、誰でもイメージできる言葉に置きかえながら、一緒にていねいに見ていきましょう。

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知行国制とは?3行でわかるポイント

知行国制 3行まとめ
  • 知行国制とは、上皇や有力な公卿くぎょうが特定の国(知行国)の受領の推薦権と収益を手にした制度
  • ②国の実務は知行国主→受領→目代という三層構造で回っていた
  • ③10世紀の院宮分国制から発展し、11〜12世紀の院政期に全国へ拡大した

知行国制ちぎょうこくせいとは、上皇や有力な公卿が、特定の国の受領推薦権とその国から上がる収益を手にした制度のことです。受領推薦権というのは、ざっくり言えば「その国の長官を誰にするか決められる権利」のこと。
ここでいう「国の長官」とは、その国の税金を集めて、国を切り盛りする責任者のことです。つまり、その責任者に自分の子どもや家来を選んでおけば、国から上がるお金がそっくり自分のところに流れてくる——国ひとつをまるごと”自分の財布”にできる仕組みだったわけです。

このとき、収益と人事権を握った貴族のことを知行国主ちぎょうこくしゅと呼びます。そして、知行国主が受け取る対象になった国そのものを知行国ちぎょうこくと呼びました。

ここで一つ注意したいのは、知行国主は名前のうえでは「その国を支配している人」のように見えますが、実際に現地に乗りこんで政治をしていたわけではない、という点です。知行国主はあくまで都にいて、国の収益と人事権だけを握っていました。では、現地の仕事は誰がやっていたのか——それが受領ずりょう目代もくだいと呼ばれる人たちです(くわしくは「知行国制の仕組み」の章で見ていきます)。

ゆうき
ゆうき

「知行国制」ってなんだか難しそうな名前だけど、要は上皇が”お金をもらう仕組み”ってこと?

もぐたろう
もぐたろう

そう!ざっくり言うと「特定の国の税収と、その国の長官を選ぶ人事権をまとめてゲットする制度」だよ。不動産オーナーが、物件を任せる管理会社を好きに選べるイメージに近いんだ!

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院政と知行国制——なぜ上皇は”国の収益”を欲しがったのか

白河天皇(白河法皇)の肖像画
院政を始めた白河上皇。知行国制は院政の経済的な土台となった

知行国制を理解するには、まず院政がどんな仕組みだったのかを押さえる必要があります。院政とは、天皇の位を譲った上皇(=いん)が、天皇に代わって政治の実権を握る政治のかたちです。1086年に白河上皇しらかわじょうこうが始めたのが最初とされています。

では、なぜ上皇はわざわざ天皇を譲ってまで実権を握ろうとしたのでしょうか。その背景には、長く続いた摂関政治がありました。摂関政治の時代、政治の実権は天皇の外戚(母方の親戚)である藤原氏が握っていました。天皇であっても、藤原氏の意向を無視しては政治を動かせない——そんな状態が続いていたのです。

そこで上皇は考えました。「天皇という立場のままでは藤原氏に縛られる。ならば天皇を譲り、藤原氏のしがらみから自由な”上皇”という立場で政治を動かそう」と。これが院政が生まれた理由のひとつです。

ただし、藤原氏から政治の実権を奪うには、もう一つどうしても必要なものがありました。それが経済力です。いくら立場を変えても、自由に使えるお金や、自分の言うことを聞く家来がいなければ、藤原氏に対抗することはできません。そこで上皇が経済基盤として目をつけたのが、荘園と、そしてこの知行国でした。

📌 荘園と知行国の違い:荘園は土地そのものを私有する仕組み。これに対して知行国は、国(令制国)の徴税権・人事権を握る仕組みです。「土地のオーナー」と「国の経営権を任された人」の違い、とイメージするとわかりやすいです。上皇はこの二つの収入源を組み合わせて、強大な経済力を手にしました。

上皇にとって知行国がうれしかったのは、ただお金が入ってくるからだけではありません。知行国主になれば、その国の受領(国の長官)を自分の子どもや、近くで仕える近臣きんしんに任命できます。つまり、知行国を与えることによって自分の手足となって働く人を増やせるわけです。お金と人手を同時に確保できる——これが知行国制の最大の魅力でした。

📌 白河上皇「天下三不如意(てんかさんふにょい)」:白河上皇は「天下に意のままにならぬものが三つある」と語ったとされています。①賀茂川の水(洪水は防げない)②双六の采(サイコロの目は操れない)③山法師(延暦寺の僧兵が神輿を担いで強訴してくる)——これほどの絶対権力者でさえ手を焼く存在が実在した時代です。そのなかにあって、知行国制は上皇が自分の力でほぼ完全にコントロールできる数少ない”武器”のひとつだったのです。

あゆみ
あゆみ

院政って上皇が政治をする仕組みだと思っていたけど、その裏にこんな”お金と人事の仕組み”があったんですね。ちょっと生々しくて面白いです。

もぐたろう
もぐたろう

そうなんだよ!「院政=政治の話」と思いがちだけど、実は”経済基盤づくり”が先にあるんだ。知行国制がなかったら、上皇は藤原氏に対抗できず、院政はそもそも成り立たなかったともいえるんだよね。

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院宮分国制との違いをわかりやすく整理

知行国制とよく一緒に出てくるのが院宮分国制いんぐうぶんこくせいという制度です。名前が似ているうえに内容も重なる部分が多いので、テストでも「両者の違いを答えなさい」という形でよく問われます。ここでしっかり区別しておきましょう。

むずかしく構える必要はありません。ひとことで言えば、院宮分国制は「知行国制の”先輩”にあたる、朝廷公認バージョン」です。この公認の仕組みが、やがて公認なしでどんどん広まっていったものが知行国制——とまず大づかみしておけば十分です。

院宮分国制とは、10世紀ごろから始まった制度で、上皇(院)や三宮さんぐう(太皇太后・皇太后・皇后などの有力な皇族)に対して、特定の国の収益を朝廷が公式に与えたものです。ポイントは「朝廷が公認していた」という点。皇族に経済的な手当てを与える、いわば朝廷お墨つきの仕組みでした。

院宮分国制(10世紀〜):朝廷が公認した制度。院・宮(皇族)に特定の国の収益を与える

知行国制(11〜12世紀〜):朝廷の公認なしに広がった慣行。上皇だけでなく公卿まで、受領推薦権と収益を私的に独占

では、知行国制とどこが違うのでしょうか。大きな違いは次の3点です。

1つ目は「公認かどうか」。院宮分国制が朝廷の公認制度だったのに対し、知行国制は朝廷の正式な制度ではなく、慣行として自然に広まっていったものです。いわば「いつのまにか当たり前になっていた」仕組みでした。

2つ目は「時期」。院宮分国制が10世紀ごろに始まったのに対し、知行国制が本格的に広がるのは院政が始まる11世紀後半から12世紀にかけてです。流れとしては「院宮分国制が先にあり、それが院政期に知行国制へと発展していった」と覚えると整理しやすくなります。

3つ目は「対象の広がり」。院宮分国制は院や皇族といった限られた人たちが対象でしたが、知行国制では上皇だけでなく、有力な公卿や寺社、のちには武士まで知行国主になっていきました。受益者がぐっと広がったのが知行国制の特徴です。

📌 テスト直前まとめ:院宮分国制=10世紀・朝廷公認・院や皇族が対象 / 知行国制=11〜12世紀・非公認の慣行・上皇から公卿・寺社・武士へ拡大。「公認の院宮分国制」→「慣行の知行国制」という発展の流れで覚えると混同しません。

知行国制の仕組み——知行国主・受領・目代の三層構造

ここからは、知行国制が実際にどう回っていたのかを見ていきましょう。知行国制を理解するカギは、知行国主・受領・目代という3つの役割です。この三層構造を押さえれば、知行国制の仕組みはほぼ理解できたと言ってもいいくらい重要です。

知行国主(上皇・公卿):受領推薦権と国の収益を持つ。都にいて現地には行かない

受領(国守・守):名目上の国の長官。知行国主に推薦されて任命される

目代もくだい:受領が現地に送りこんだ代理人。実際に現地で実務を担う

まず①の知行国主ちぎょうこくしゅは、すでに見たとおり、その国の収益と受領推薦権を握る上皇や公卿です。一番おいしいところを持っていく立場ですが、自分では現地に行きません。都にいながらお金を受け取るオーナーのような存在です。

次に②の受領です。受領とは、もともと現地に赴任して実際に国を治めた国司(国の長官)のことを指します。知行国制のもとでは、この受領は知行国主に推薦されて任命される立場になりました。つまり「知行国主が選んだ国の長官」が受領というわけです。受領自身もしっかり収入を得ましたが、その任命権は知行国主が握っていました。

そして③の目代もくだいです。受領は任命されても、必ずしも自分で現地に行くとはかぎりませんでした。都での仕事が忙しかったり、複数の国を任されていたりすると、現地に行くひまがありません。そこで受領は、自分の代理として信頼できる人物を現地へ送りこみました。これが目代です。目代は現地に常駐し、徴税や行政の実務を仕切る”現場リーダー”の役割を果たしました。

もぐたろう
もぐたろう

今でいうなら——不動産オーナー(知行国主)が物件を管理会社(受領)に任せて、管理会社は現地に管理人(目代)を置くイメージだよ!オーナーは家賃を受け取るだけで現場には行かない。実際に部屋の掃除やトラブル対応をするのは現地の管理人……っていう関係に近いんだ。

【ちょっと発展】史料が語る受領のリアル

※ここは少し細かい話なので、むずかしければ読み飛ばしてもOKです。

988年(永延2年)、尾張国おわりのくに(現・愛知県)の郡司や百姓たちが、国守・藤原元命ふじわらのもとながの悪政を朝廷に訴えた文書、「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげもん)」を提出しました。訴えの内容は31条にわたり、「田畑を勝手に荒らした」「私腹を肥やすために税を横流しした」「役所の資材を着服した」など、具体的な不正が次々と並べられていました。元命は、この訴えを受けて翌989年(永祚元年)に国守を解任されました。

受領には国内の徴税権をほぼ自由に使える強い権限があったため、なかにはこのような”強欲な受領”も現れたのです。この文書は、受領が知行国主に代わって国を搾り取る立場にいた実態を、生々しく伝える一級史料として今も残っています。

📌 【ちょっと発展】お金で官職が買えた——成功と重任
受領の地位には、もう一つ知っておきたい慣行がありました。それが成功じょうごうです。成功とは、朝廷の儀式や寺社の建築などにかかる費用を自分のお金で負担する代わりに、官職(とくに実入りのよい受領の地位)を手に入れる仕組みのこと。さらに、いったん受領になった人が同じ手で任期を延長してもらうこともありました。これを重任ちょうにんといいます。受領の地位が「お金を出せば手に入るもの」になっていた、というわけですね。(用語までは中学生は余裕があれば、でOK)

平清盛が知行国制をフル活用した話

平清盛の肖像画
知行国制を最大限に活用した平清盛

知行国制を語るうえで欠かせないのが平清盛です。清盛は、この知行国制を最大限に利用して、平氏の天下を経済の面から支えました。

平清盛
平清盛

知行国制のおかげで、わしは全国の30余りの国の受領を、思いのままに選べるようになった。これこそが平氏の天下を支えた経済の秘密よ。

平氏が権力の頂点にあった全盛期、平氏一門が知行国としていた国はおよそ30か国にのぼったとされています。当時の日本の国の数はおよそ66か国。つまり、全国のほぼ半分を平氏が知行国として押さえていた計算になります。これに加えて、平氏は500か所をこえる荘園も持っていたといわれます。知行国と荘園の両方を握ることで、平氏は他をよせつけない経済力を手にしていたのです。

では、なぜ清盛はこれほど多くの知行国を持てたのでしょうか。それは、平氏が院や朝廷の中で要職を独占し、政治の実権を握っていたからです。知行国主の地位は、政治の力を持つ者にこそ集まってきます。清盛は娘の徳子とくこを天皇の后にし、生まれた子を天皇に立てるなどして、天皇家と深く結びつきました。こうして手にした政治力を背景に、平氏は知行国を次々と自分たちのものにしていったのです。

あゆみ
あゆみ

「平氏にあらずんば人にあらず」なんて言葉も聞いたことがありますが、その自信の裏には、こういう経済的な強さがあったんですね。

もぐたろう
もぐたろう

まさにそこなんだよ!平氏の強さは武力だけじゃなく、知行国と荘園という”安定した収入源”に支えられていたんだ。だから「院政の経済基盤=知行国制」と「平氏政権の経済基盤=知行国制」はセットで覚えておくと、テストでも超強いよ!

知行国制の拡大と最盛期——66カ国中34カ国以上が知行国化

知行国制は、院政が始まった11世紀末から13世紀にかけて、坂道を転がるように広がっていきました。最初は上皇とごく一部の近臣だけが知行国を持つ程度でしたが、やがて摂関家や有力な公卿、さらには大きな寺社までもが知行国を握るようになります。

こうして「収益のおいしい国は誰かの知行国になっている」という状態が当たり前になっていきました。とりわけ12世紀後半、平氏が権力を握った時期には、知行国制は最盛期を迎えます。

その広がりを示す有名なデータが、1215年時点で全国66カ国のうち34カ国以上が知行国だったという記録です。当時の日本にあった令制国(行政区分としての国)のおよそ半分以上が、誰かの私的な収入源として握られていたことになります。

つまり、表向きは「朝廷が全国を治める」という建前があったものの、実際には国の半分以上が特定の上皇・公卿・寺社の”取り分”として組み込まれていたのです。これは、律令制が定めた「国は天皇のもの」という原則が大きく崩れていたことを意味します。

📌 鎌倉幕府も知行国を持っていた:鎌倉時代に入ると、武家政権である鎌倉幕府も約9カ国を知行国(関東知行国・関東御分国と呼ばれます)として保有しました。朝廷の制度だったはずの知行国制を武家も利用した点は、テストでも問われやすいポイントです。

もぐたろう
もぐたろう

全国の半分以上が知行国になってたなんて、もうほとんど”私物化”に近い状態だよね!これだけ広まったのに、なぜ知行国制はやがて消えていったのか……。次の章では、その「終わり」の理由を見ていこう!

知行国制はなぜ消滅したのか

これほど全国に広がった知行国制ですが、鎌倉時代から室町時代にかけて少しずつ力を失い、最終的には消滅していきます。その背景には、武家社会の発展がありました。

大きな転機となったのが、1185年の守護しゅご地頭じとうの設置です。源頼朝が全国に守護・地頭を置く権利を得たことで、それまで知行国主や受領が握っていた地方の支配権が、少しずつ武士の手に移っていきました。

知行国制は、受領を通して国から年貢(税)を吸い上げる仕組みです。ところが、地頭が現地で力を持ち、年貢を横取りしたり納めなかったりするようになると、知行国主のもとに入ってくる収入はどんどん減っていきました。「国の収益を得る権利」を持っていても、肝心の収益が現地から上がってこなければ意味がありません。

衰退の要因①:守護・地頭の設置で地方支配権が武士に移った

衰退の要因②:荘園公領制の崩壊で年貢が知行国主に届かなくなった

衰退の要因③:朝廷・公家の経済力低下で制度を維持する力そのものが失われた

知行国制は、もともと寄進地系荘園とともに、平安後期の「荘園公領制」と呼ばれる土地制度を支える柱でした。当時の土地は、貴族や寺社の私有地である荘園と、国が管理する公領こうりょう(=国衙領こくがりょう。国の役所が治める土地のこと)の2種類に大きく分かれていました。

このうち知行国主が収益を得たのは、公領(国衙領)の部分です。「知行国」という言葉は国まるごとを指しますが、その取り分の中身は、あくまで公領から上がってくる税でした。つまり知行国制は、荘園公領制でいう”公領サイド”の収益を、中央の貴族が私的に取り込む仕組みだったのです。荘園(私有地)と公領(国の土地)、この2つの収入源がセットで院政や公家の暮らしを支えていたわけですね。

しかし、鎌倉時代を通じて武士の力が強まり、室町時代に入って守護が一国を丸ごと支配する「守護大名」へと成長すると、荘園も公領も実質的に武士のものになっていきました。こうして知行国制は支える土台ごと崩れ、室町期にはその役割をほぼ終えて消滅したのです。

あゆみ
あゆみ

権利の紙だけ持っていても、現地からお金が上がってこなければ意味がない……ということなんですね。なんだか現代のビジネスにも通じる話に聞こえます。

もぐたろう
もぐたろう

まさにそこなんだ!知行国制って「国の収益をもらう権利」だから、現場を実際に支配している武士が強くなると一気に弱くなる。武士の時代の到来とともに消えていったのは、ある意味で必然だったんだよね。次の章では、ここまでの内容をテスト対策として整理していくよ!

テストに出るポイント

ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。

テストに出やすいポイント
  • 知行国制の定義:上皇・公卿が特定の国の受領推薦権と収益を得た制度(記述・説明問題に頻出)
  • 三層構造のセット:知行国主 → 受領 → 目代(3語セットで穴埋め出題される)
  • 院宮分国制との違い:院宮分国制=朝廷公認・10世紀/知行国制=非公認の慣行・11〜12世紀
  • 院政との関係:知行国制が院政の経済的基盤を支えたという因果関係
  • 平氏と知行国制:平清盛が30余国を知行国として独占(平氏政権の経済力の根拠として出る)

📌 暗記のコツ:「院宮分国制 → 知行国制」の順番をまず押さえましょう。院宮分国制を知行国制の「前身」として関連づけて覚えると混同しにくくなります。三層構造は「行国主・領・代」の頭をとって「知・受・目(ち・じゅ・もく)」とまとめると、3語をセットで思い出しやすくなります。

ゆうき
ゆうき

院宮分国制と知行国制、どっちが先で何が違うのか、ちゃんと整理できた気がする!「公認か非公認か」がポイントなんだね。

もぐたろう
もぐたろう

そこが一番テストに出る!「院宮分国制 → 知行国制 → 院政期・平氏政権での拡大」の流れを時系列でセットにして覚えよう。院政の問題で知行国制が出てきたら、必ず三層構造(知行国主・受領・目代)もセットで答えられるようにしておいてね!

よくある質問(FAQ)

荘園制は、貴族や寺社が土地そのものを私有する仕組みで、不輸不入の権利によって税や立ち入りを免れた私有地(荘園)が中心です。一方、知行国制は土地を所有するのではなく、国(令制国)の徴税権と受領の人事権を握る仕組みです。荘園が「土地の私有」、知行国が「国の行政・収益権の掌握」と整理すると違いがはっきりします。実際にはこの2つがセットで院政期の公家の経済を支えていました。

院宮分国制は10世紀頃に成立した、朝廷が公認して院(上皇)や宮(皇族)に特定の国の収益を与えた制度です。これに対し知行国制は、11〜12世紀の院政期に、朝廷の公認なしに慣行として広がった仕組みで、対象も上皇から摂関家・公卿・大寺社へと広がりました。「成立時期」「公認か非公認か」「対象者の広がり」の3点で区別すると整理しやすくなります。院宮分国制は知行国制の前身にあたると理解しておきましょう。

今でいう不動産にたとえるとわかりやすくなります。知行国主は、国の収益を受け取り受領を推薦できる「不動産オーナー」のような存在で、現地には行きません。受領は、名目上の国の長官(国守)として実際に赴任し、徴税を担う「管理会社」のような立場です。目代は、その受領が現地に派遣した代理人で、実務を取り仕切る「現場の管理人」にあたります。上から下へ収益が吸い上げられる三層構造になっていました。

平清盛が朝廷の中で太政大臣にまで上りつめ、平氏一門が朝廷の要職を独占したことが大きな理由です。院政期は、上皇に近い有力者が知行国を獲得できる仕組みだったため、権力の頂点に立った平氏は次々と知行国を手にしていきました。その結果、平氏は30余国を知行国として独占し、これが平氏政権の経済的な土台になりました。

はっきりした「廃止」の年があるわけではなく、鎌倉時代を通じて徐々に衰退し、室町時代にかけて事実上消滅したと考えられています。1185年の守護・地頭の設置以降、地方の支配権が武士に移り、年貢が知行国主のもとに届きにくくなったことが衰退の引き金でした。守護大名が一国を丸ごと支配するようになった室町期には、知行国制はその役割をほぼ終えていました。

国司とは、朝廷から地方の国に派遣された役人全体(守・介・掾・目の四等官)を指す言葉です。そのうち、実際に任国へ赴任して徴税や行政の実務を取り仕切った最上席の国司を「受領」と呼びました。つまり受領は国司の一部であり、国の責任者として現地に下って実権を握った存在です。くわしくは国司と受領の記事もあわせて読んでみてください。

まとめ

知行国制は、上皇や公卿が特定の国の受領推薦権と収益を握った、院政期を象徴する収益システムでした。知行国主・受領・目代の三層構造を通じて国の富を吸い上げる仕組みは、武力や権威だけでは説明できない院政の経済的な土台を作り上げたのです。

10世紀の院宮分国制を前身とし、院政の開始とともに全国へ拡大、12世紀には平清盛が30余国を独占して最盛期を迎えます。しかし鎌倉時代以降の武家社会の発展とともに支える土台を失い、室町期には消滅しました。「院政の黒幕は受領任命権だった」という視点を持っておくと、平安後期から鎌倉時代への大きな流れがすっきりつながります。

知行国制の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
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知行国制をもっと深く理解したい人に、おすすめの本を1冊紹介するよ!院政全体の仕組みが丁寧に解説されていて、知行国制の背景も一気につかめるよ!

①院政・知行国制を体系的に学びたい人なら|中公新書の決定版

知行国制 年表
  • 10世紀
    院宮分国制の成立(知行国制の前身)
  • 11世紀
    知行国制の成立・拡大(院政の開始と連動)
  • 12世紀
    平清盛が30余国を独占(平氏政権の経済的基盤となる)
  • 1185年
    鎌倉幕府の成立・守護地頭の設置
  • 1215年頃
    知行国制の最盛期(全国66国中34国以上が知行国化)
  • 13〜14世紀
    武家社会の発展により知行国制が衰退
  • 室町期
    知行国制の消滅(朝廷の経済的基盤の喪失)

もぐたろう
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以上、知行国制のまとめでした!「院政の黒幕は”受領任命権”だった」という視点で覚えると、院政・平氏政権・鎌倉時代への流れが一気につながるよ。下の記事もあわせて読んでみてください!

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「知行国」(2026年6月確認)
コトバンク「知行国」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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