延喜・延久の荘園整理令を簡単にわかりやすく解説!【醍醐天皇と後三条天皇】

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前回は、不輸・不入の権について話をしました。

不輸・不入権を簡単にわかりやすく解説【官省符荘と国免荘】
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寄進地系荘園が増え、荘園が不輸・不入の権を掲げるようになると、朝廷は税収減や権利の乱用に悩まされるようになります。朝廷を牛耳っていた藤原氏などの有力貴族は、不輸・不入の権によって利益を享受していたので、強い危機感は抱かなかったようですが、特に天皇が強い危機感を抱きました。税収減や経済基盤を盤石にした貴族の権力拡大を恐れたのです。

 

そこで900年以降、歴代の天皇は定期的に「荘園整理令」という命令を発令し、荘園の適正化を図ろうとします。荘園整理令は数多く発令されましたが、その中でも特に有名な902年、醍醐天皇による「延喜の荘園整理令」と1069年、後三条天皇による「延久の荘園整理令」について紹介したいと思います。

 

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醍醐天皇による延喜の荘園整理令

902年(延喜2年)、税収問題を解決するため醍醐天皇は荘園整理令を発令します。延喜という年号の時に発令されたので、これを「延喜の荘園整理令」と言います。

 

醍醐天皇は延喜の荘園整理令を発令し、以後の脱税目的の寄進を禁止しました。さらに醍醐天皇が即位した897年以降に新たに設立された荘園についてその土地の権利状況を確認し、脱税目的の不正な寄進と判断した場合、その土地の不輸の権を取り消しました。全国の土地全てを天皇が管理することはできないので、国司を実務者として荘園整理令が進められます。

 

延喜の荘園整理令の特徴は大きく2つあると考えます。

 

1つは、897年以前に設立された荘園についてはその存在を公式に認めたことです。897年以後に設立された荘園を取り締まるということは、それ以前に設立された荘園については基本的にその存在を認めるということです。荘園の整理は利権が絡むとても複雑な問題であり、過去に遡って土地のあり方を正すのはもはや不可能でした。醍醐天皇は、自らが即位した897年を起点として、これ以上の不正な寄進を防ごうとしたわけです。

 

このため、延喜の荘園整理令は寄進の在り方などを抜本的に見直すものではありません。897年以前の荘園は認める代わりにこれ以上不正荘園が増えるのを防ごうという、どちらかいえばネガティブというか保守的な政策だったのです。

 

 

2つ目は、延喜の荘園整理令は「寄進を禁止する」のではなく「不正な寄進を禁止する」というものでした。ルールに則った土地の寄進であれば朝廷は寄進を認めたということです。この点も、荘園整理令の実効性を非常に弱める要因となりました。

 

荘園整理令の実務は国司を中心に行われました。そして、その国司は朝廷の有力貴族たちによって任命されるため、有力貴族たちとの癒着が常態化していました。さらに土地の寄進などなどが合法か否かを判断するのも最終的には朝廷内の有力貴族たちでした。

 

つまり、朝廷の有力貴族たちからすればちょっとした圧力やコネを使ってしまえば、思いのままに合法的な寄進を行うことができたわけです。なので「不正な寄進に限り禁止する」という延喜の荘園整理令は字面だけ見れば正当に感じますが、実効性は非常に乏しいものでした。

 

現に国司は有力貴族と癒着し、国免荘という荘園を認め、利益を貪っていたという話を前回の記事でもしているところです。

 

 

そんな国司と有力貴族が、潔く荘園整理令などに従うはずはないし、おそらく「不正な寄進に限り禁止する」という荘園整理令の内容自体、既得権益を犯されたくない藤原氏などの有力貴族の圧力により規定されたものと個人的には思っています。

 

こんな感じで、なんとも実効性に乏しかったのが延喜の荘園整理令ですが、それでも税収減の問題に正面から向き合い、なんとかしたいという天皇の想いが法律として形となったという意味では延喜の荘園整理令は画期的な出来事でした。醍醐天皇は善政を行った天皇として有名ですが、税収対策の新たな一歩を踏み出したという意味で延喜の荘園整理令は評価されて然るべき政策だったのではないかぁと思っています。

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後三条天皇による延久の荘園整理令

延喜の荘園整理令以後も定期的に荘園整理令が発令されましたが、延喜の荘園整理令同様、効果の方はイマイチでした。しかし、1069年(延久元年)、後三条天皇が発令した延久の荘園整理令はそれまでの荘園整理令とは一味違いました。

 

延久の荘園整理令は、寄進地系荘園や不輸・不入の権で既得権益を獲得していた藤原氏などの有力貴族や大寺院の荘園に大きくメスを入れた本格的な荘園整理令となります。

 

延久の荘園整理令以前の荘園整理令は、荘園整理令の制定自体に既得権益を享受していた藤原氏を筆頭とする有力貴族が関与していたため、効果的な荘園整理など行えるはずがありませんでした。しかし、後三条天皇の時は、それまでとは状況が少し変わっていました。

衰退する摂関藤原氏

後三条天皇は約170年ぶりの藤原氏を外戚(主に母方の祖父)としない天皇でした。久しぶりに藤原氏の影響を大きく受けない天皇が生まれたのです。

 

背景には、藤原道長の息子である藤原頼通の後宮政策の失敗がありました。詳しくは以下の記事をどうぞ。

平等院を建てた道長の息子、藤原頼通をわかりやすく紹介するよ【その1】
今回は、平安時代中期に栄華を誇った藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)のお話をしようと思います。 藤原頼通は、世間一般には、1...

 

そんなしがらみの少ない後三条天皇だからこそ、延久の荘園整理令はこれまでにない大胆さで行われることになります。

記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)

延久の荘園整理令の実務は、後三条天皇の直属の部署である記録荘園券契所という部署で行いました。それまでの荘園整理令は国司が主体となって行われましたが、国司は有力貴族と癒着しており、荘園整理令が効果を上げられない1つの要因となっていました。これを知っている後三条天皇は、荘園整理令の実施を国司に任せるのではなく、直轄部署である記録荘園券契所で行うことにしたのです。

 

記録荘園券契所は荘園の審査を行う部署で、そこで働く人々も摂関藤原氏などとあまり縁のない官僚たちが抜擢されるなど配慮がされていました。

 

この時の荘園整理令、実はやっていることは延喜の荘園整理令とは変わらず主に次の2点でした。

・1045年以前に設立された荘園は認めるが、それ以後の荘園について審査を行う。

・不正な荘園、国務に妨害する可能性のある荘園のみを廃止・禁止の対象とする。

 

しかし、同じ内容でも記録荘園券契所という本格的な部署を設けて行われた延久の荘園整理令はそれなりの成果をあげることに成功します。記録荘園券契所の成立によって有力貴族や国司などの介入を排除できたのが大きな要因です。

 

特に、これまで既得権益の甘い蜜を吸っていた有力貴族や大寺院は延久の荘園整理令により財政基盤に大きなダメージを受けることになりました。

 

天皇領の形成

後三条天皇は、荘園整理令と同時並行で勅旨田(ちょくしでん)という皇室が保有する領地の拡大にも尽力しました。

 

藤原氏などの有力貴族が寄進地系荘園を増やす一方、皇族たちの経済的基盤が弱体化していたのを改善するためでした。後三条天皇は、藤原氏を外戚としないことで政治的に藤原氏に依存しないことに成功しましたが、経済的にも藤原氏などの有力貴族に依存しなくて済むよう、皇室の経済基盤を強化したのです。

 

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まとめ

後三条天皇の延久の荘園整理令により藤原氏の力は衰え、天皇権力の強化が図られます。後三条天皇の治世はわずか4年でしたが、摂関藤原氏の力を衰えさせ、天皇権力を強化することで、次代の白河天皇が行うことになる院政の下地を作り上げました。

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