摂関政治を簡単にわかりやすく解説するよ【仕組み・全盛期までの流れの詳細を理解する】

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もぐたろう
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今回は、平安時代中期に行われた摂関政治せっかんせいじについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 摂関政治ってそもそもなに?
  • なぜ摂関政治が行われるようになったの?
  • 摂関政治はどんな政治だったの?
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摂関政治とは

摂関政治とは、藤原氏が摂政せっしょう関白かんぱくの官職を独占して、政治を支配し続けた政治スタイルのことを言います。

時代で言うと、10世紀後半〜11世紀(900年代後半〜1000年代)にかけて摂関政治が行われました。

日本は、701年に大宝律令が制定されて以降、律令に基づく国家造りを目指していました。

・・・が、800年代に入ると律令の内容が時代の変化に対応できなくなり、900年代に入ると次第に律令が機能しなくなってしまいました。

律令っていうのは、今でいう法律です。

少しだけ想像してみてください。法律がなくなった現代日本の様子を・・・。

そこには、金と暴力と権力だけがものをいう弱肉強食の世界が広がっていることでしょう。これと同じことが、900年代の日本で起こったわけです。

実際、900年代に入ると、朝廷では金と権力を持つものが政治を支配するようになり、地方の人々は自分を守るため武装化するようになりました。

そんな無秩序な時代の中、政治に新しい秩序をもたらしたのが摂関政治です。

藤原氏は摂政・関白の地位を利用して、政治の実権を握り、広大な荘園を手に入れ、官職をエサにして各地の武士たちを従えました。つまり、金・権力・軍事力を手に入れたのです。

そして、手に入れた金・権力・軍事力を利用し、律令に代わって日本の政治を支配したのが摂関政です。

もぐたろう
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この記事では、律令に代わって登場した摂関政治が一体どんな政治なのか、詳しく見ていくことにするよ!

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摂関政治が始まった時代背景【摂政・関白の登場】

摂関政治は10世紀後半(900年代後半)から始まりましたが、突然始まったわけではありません。

800年代の頃から藤原氏が少しずつ成長していった結果、完成した政治スタイルです。

というわけで、本題に入る前に、まずは摂関政治が始まるまでの流れを確認しましょう!

摂関政治が始まるきっかけは、858年にとある天皇が即位した頃までさかのぼります。

その天皇の名は、清和天皇せいわてんのう。父の文徳天皇もんとくてんのうが亡くなったことで、わずか9歳で即位することになりました。

清和天皇

天皇とはいえ、さすがに9歳では政治を行うことはできません・・・。

そこで朝廷は、幼い天皇を補佐する摂政を置くことにしました。この時、摂政に抜擢されたのが藤原良房ふじわらのよしふさという人物です。

摂政というのは、古来より皇族が担うべき仕事でした。それなのになぜ、摂政に藤原良房が選ばれたのかというと、藤原良房が清和天皇の外祖父がいそふ(母方のおじいちゃん)だったからです。

※過去の事例を挙げると、推古天皇の摂政に厩戸王、斉明天皇の摂政に中大兄皇子が選ばれていますが、どちらも皇族出身の人物です。

藤原良房が天皇の外祖父であることを確認しよう!

当時の人々は、子供が生まれると母親の一族が育てるという風習を持っていました。つまり、清和天皇は藤原良房の家で育ったわけです。

このような家庭の事情から、普段から清和天皇の私生活を世話をしている藤原良房が、政治の面でも天皇を支えるべきだろう・・・ということになったのです。

※当時の結婚・子育て事情は、以下の妻問婚の記事で詳しく紹介しているので、合わせて読んでみてくださいね!

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藤原良房は、政務能力に長け、朝廷内でも絶大な影響力を持っていて、誰が見ても申し分ないほどの実力者でした。

その実力に天皇家との血縁関係が+αされたことで、藤原良房は『摂政は皇族の人しかなれない』という前例を打ち破って、前代未聞の摂政に選ばれたんだ。

摂関政治の礎を築いた藤原良房

摂政になった藤原良房は、幼い天皇の代わって政治の実権を握りました。

こうして藤原良房は、摂関政治のきっかけを作ることに成功しましたが、実はこれだけでは摂関政治を行うことはできません。

なぜなら摂政は、幼い天皇や女性天皇の時にのみ置かれる限定的な役職だからです。成人した男性天皇が即位すれば、藤原氏の出番はあっという間になくなってしまうわけです。

この状況を打破したのが、良房の養子だった藤原基経ふじわらのもとつねです。

藤原基経

藤原基経は、天皇家の傍流ぼうりゅうで天皇になれる見込みのなかった光孝天皇こうこうてんのうの即位を支援することで、光孝天皇と交渉を行います。

藤原基経
藤原基経

私は今の天皇(陽成天皇ようぜいてんのう)が嫌いなんだ。だから陽成天皇を譲位に追い込んで、新しい天皇を即位させたいと思ってるんだけど、天皇になってくれない?

天皇になれるよう朝廷の根回しをしといてあげるからさ!

その見返りとして私を新しく「成人天皇を補佐する役職」に任命してくれよな!

この交渉は成功し、陽成天皇が譲位に追い込まれた後、光孝天皇が即位。そして藤原基経は、成人天皇の政治を補佐する関白という官職に就きました。

藤原良房が摂政に抜擢され、その息子(養子)の藤原基経が関白の官職を作り上げたことで、摂関政治の土台が築かれました。

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摂関政治が完成するまで

藤原良房・基経親子が開いた摂関政治への道。その道には、大きな障壁が立ちはだかります。

その障壁とは、藤原氏の力を恐れた天皇や皇族たちの存在です。

888年、藤原氏の力を象徴する事件が起こります。藤原基経が宇多天皇の決定にブチギレて、決定内容をくつがえしてしまう事件が起こったのです。(阿衡の紛議

その後891年に基経が亡くなると、藤原氏の力を警戒した宇多天皇は藤原氏の力を削ごうと考えます。

宇多天皇
宇多天皇

このまま藤原氏を放っておけば、天皇をも超越する発言力を持つことになりかねない。・・・が、藤原氏が政治を牛耳っているから、藤原氏を排除すれば政治が停滞する。

・・・そうだ!藤原氏に代わる側近を育て上げて、藤原氏に対抗させることにしよう!

こうして宇多天皇から重用されたのが菅原道真でした。・・・が、901年、菅原道真は藤原時平ふじわらのときひらの策略にハマり、太宰府へ左遷させられてしまいます。(昌泰の変

宇多天皇の後は、醍醐天皇だいごてんのう朱雀天皇すざくてんのう村上天皇むらかみてんのうと治世が続きますが、摂政・関白が置かれたり置かれなかったり、不安定な時代が続きます。

特に醍醐天皇・村上天皇の治世は、摂政・関白がほとんど置かれず、後世の人々から「藤原氏に支配されなかった天皇親政の理想の政治」との評価を受け、この二人の治世は延喜・天暦の治と呼ばれるようになりました。

この間、藤原氏の力に危機感を覚えた皇族たちの中には、自ら藤原氏の対抗馬となろうと、臣籍降下しんせきこうかする者も多くいました。

臣籍降下ってなに?

皇族の身分を捨てて一般人になること。

藤原氏に対抗するためになぜ臣籍降下したかというと、皇族の身分では官職に就くことができず、藤原氏と同じ戦場に立つことができなかったからです。

※官職というのは天皇の部下に与えられるものです。皇族は天皇の血を引く存在だったので天皇の部下にはなりえず、そのため官職も与えられなかったのです。

左大臣・右大臣など重要な官職に占める藤原氏の割合が増えていたことに危機感を覚えた皇族たちは、臣籍降下をした後、源氏の姓を名乗って、藤原氏と官職をめぐる政争に参戦していったのです。

967年に村上天皇が亡くなると、その2年後の969年、藤原氏と源氏の間で大きな政争が起こりました。(安和の変

安和の変の結果、左大臣だった源高明みなもとのたかあきらが失脚。この失脚によって藤原氏に対抗できる勢力はいなくなり、朝廷内は藤原氏の独壇場となります。

※左大臣は当時の太政官の中で最高の官職です。

ライバルさえ消えてしまえば、摂政・関白として政治の実権を握るのは簡単です。

あとは、天皇の母方の親戚(外戚)になって、子育てなどのプライベートを通じて天皇との信頼関係や親子関係を築けば、天皇から反対されることもなく、摂政・関白としてスムーズに政治の実権を支配することができます。

安和の変の後、摂政・関白は途切れなく置かれるようになり、紆余曲折を経てついに摂関政治が完成しました。

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摂関政治の全盛期

ライバルが消え去ったことで、本格的な摂関政治が始まりましたが、実はここで新しい問題が浮上します。

それは、藤原氏内で天皇の外戚の座をめぐる政争が起こるようになったことです。

摂政・関白に選ばれた者は、氏長者うじのちょうじゃと呼ばれる藤原氏全体を統率する役割も任されるようになり、絶大な力を持つようになったのです。

氏長者の役割

氏長者は、一族全体の荘園や氏寺の管理(※)を行い、一族内の人事権も持っていました。

朝廷で良い官職を得て出世するには氏長者からの推薦が必要だったので、氏長者に認められなければ出世することができませんでした。

※藤原氏の場合、氏寺は興福寺こうふくじで、他にも藤原氏専用の学校だった勧学院かんがくいんの管理も行われました。

摂政・関白+氏長者の地位をめぐる争いが激化する中、完膚なきまでの大勝利を収めて政争を終わらせたのが藤原道長でした。

藤原兼家(道長の父親)が、兄の藤原兼通との政争に勝利した後、藤原道長ふじわらのみちながが甥っ子の藤原伊周を失脚に追い込んだことでライバルにトドメを刺しました。

※具体的な争いの様子は以下の記事で紹介しています!

藤原道長

勝者となった藤原道長は、娘を次々と天皇に嫁がせ、摂政・関白+氏長者の地位を盤石なものにしていきます。

娘を4人も天皇に嫁がせている・・・!!

そして息子の藤原頼通も、父(道長)が築いた盤石な基盤を活かして、後一条天皇ごいちじょうてんのう後朱雀天皇ごすざくてんのう後冷泉天皇ごれいぜいてんのうと三代にわたる摂政・関白を歴任し、約50年にわたり摂関政治を行いました。

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摂関政治の終焉

しかし、摂関政治のピークは藤原道長・頼通親子の時代まででした。

ピークが終わってしまった理由は大きく2つあります。

1つ目の理由は、藤原頼通の娘で後冷泉天皇に嫁いでいた藤原寛子ふじわらのかんし男の子を出産できなかったためです。

摂関政治のポイントは、「娘の産んだ男の子は娘の実家で育てる」という風習を利用して、実家の長(家長)が将来天皇になる子供と公私ともに深い関係を結ぶことで成立していたという点です。

天皇候補の男の子が生まれず、実家が子育てに関与できないと、摂政・関白が権力を握るために必要な血縁関係や天皇との信頼関係を築くことができず、摂関政治は成立しません。

2つ目の理由は、「子育ては嫁の実家で行う」という風習そのものが変化し始めたことです。

どんな変化かというと、「子育ては夫の実家で行う」という風習に少しずつ変化していったのです。

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子育てを夫の実家でする結婚スタイルは嫁入婚よめいりこんと呼ばれていて、現代の結婚スタイルの基礎にもなっているよ。

夫の実家で子育てをされると、母方の親戚(外戚)が子育てに関与できなくなり、摂関政治の土台が破壊されてしまったのです。

後冷泉天皇が息子に恵まれなかったため、1068年、後三条天皇が約200年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇として登場しました。後三条天皇は摂関政治に頼らず自ら政治を行い、その治世は善政として高い評価を受けました。

後三条天皇の登場以降、摂関政治は衰退の一途を辿ります。

その衰退を横目に、「子育ては夫の実家で行う」という新しい子育てスタイルを利用して権力を握ったのが、天皇家の長でした。

天皇に子供が生まれると、夫の実家(天皇家)の長が公私ともに子供に深く関与し、子供が成人して天皇になっても、天皇に代わって政治の実権を握り続けるようになったのです。

1086年、白河上皇は、孫の堀河天皇ほりかわてんのうを裏から全面支配し、摂関政治の天皇家バージョンである院政という新しい政治スタイルを作り上げることになります。

摂関政治に引導を渡した白河上皇

摂関・関白という役職自体は形式上は存続したものの、院政の登場によって政治の主役舞台からは姿を消してしまいました。

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摂関政治の仕組み

ここまで摂関政治の歴史を話してきたので、最後に「摂関政治が具体的にどんな風に行われていたのか?」について触れておきます。

国政について何か問題が起こると、まずは太政官だじょうかん公卿くぎょうたちが陣定じんのさだめと呼ばれる会議を開いて、解決策について議論を行います。

※太政官:左右大臣を筆頭とする官僚組織のこと

陣定で出た意見は、摂政・関白(以下「摂関」と言います。)に報告され、内容に問題なければ天皇にも伝わります。そして、陣定の意見を参考にしながら、摂関と天皇が協議して対応策を決定します。

そして対応策が決まると、仕事が各省に振られて政策が実行に移される・・・という仕組みです

ここで重要なポイントになるのは、「陣定で出た意見は、摂関に報告される」って部分です。摂関には、日々大量に送られてくる天皇への意見や報告を、事前にチェックする権限を持っていました。

※この役割のことを歴史用語で内覧ないらんと言います。(教科書には登場しないので覚えなくてもOK)

この権限はめちゃくちゃ強力でした。なぜなら、摂関に不都合は話だったら、話を握りつぶしたり、自分の都合の良い部分だけを天皇に伝えたりできるからです。

摂関が持つもう1つの権限が人事権でした。

摂関は天皇に直接意見を言える立場などを利用して、役人たちの人事権を完全掌握しました。

すると、役人たちは出世をするため、藤原氏に服従するようになります。中・下級貴族たちは、藤原氏との血縁関係を結んだり賄賂わいろを送ったりすることで出世を目指したのです。

※朝廷の要職は藤原氏が独占してしまったので、中・下級貴族の多くは国司(受領)を目指していました。

摂関家は朝廷の人事権を握るだけではなく、氏長者として藤原氏内部の人事権も握っていました。

摂関がこの2つの人事権を利用して、朝廷に次々と親戚を送り込んだ結果、朝廷の要職が藤原氏だらけになってしまったのです。

内覧と人事権の2つの権限を持つ摂関には、基本的に誰も逆らえません。天皇に意見を言うこともできなし、逆らっていることがバレた瞬間、報復人事で左遷させられるからです。

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逆に言えば、摂関政治を行えたのは、摂関が内覧・人事権と言う強大な権限を持っていたから・・・ってことだね!

そして、摂関政治を支えた2つ権限(内覧と人事権)は、藤原良房から始まる天皇との外戚関係を通じて、藤原氏が長い年月をかけて勝ち取ったものだったのです。

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この記事を書いた人
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教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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