

今回は、鎌倉幕府が滅びるその瞬間に立ち会った北条高時について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
闘犬と田楽に明け暮れ、幕府を滅ぼした愚かな指導者——。北条高時は、長くそんなイメージで語られてきました。ですが実は、その人物像の大部分は、幕府が滅んだあとに書かれた軍記物語『太平記』が広めたものです。
同じ時代を生きた側近が残した書状を読むと、まったく別の横顔も見えてきます。この記事では、北条高時の生涯と最期、そして「暗君」と呼ばれるようになった理由を順番に解説していきます。
- 北条氏本家(得宗家)の跡取りとして生まれ、1316年に数え14歳で鎌倉幕府第14代執権に就いた
- 実権は内管領の長崎円喜・高資父子が握り、高時自身は闘犬や田楽にのめり込んだと伝えられている
- 1333年、新田義貞の鎌倉攻めによって東勝寺で自害し、鎌倉幕府はここで滅亡した
北条高時とは?
北条高時は、鎌倉時代の終わりを生きた武士で、鎌倉幕府の第14代執権をつとめた人物です。生まれたのは嘉元元年(1303年)。父は元寇のあとの幕府を率いた第9代執権・北条貞時で、高時は北条氏の本家である得宗家の跡取りとして育ちました。


テスト前なんだけど、北条高時って結局どんな人なの?名前は教科書に出てくるのに、何をした人なのかがよくわからなくて…

まず「得宗家」を押さえると一気にわかりやすくなるよ。得宗家っていうのは、北条氏のなかの本家のこと。会社でいえば創業家の直系、ってイメージに近いよ!鎌倉時代の後半は、この得宗家の当主が幕府の実質的なトップだったんだ。
高時はその得宗家の当主として幕府の頂点に立ちながら、実際の政治はほとんど自分で動かせませんでした。そして1333年、鎌倉幕府は高時の代であっけなく崩れ去ります。
💡 高時は「鎌倉幕府最後の執権」と紹介されることがありますが、正確ではありません。高時が退いたあとも執権は交代しており、最後の執権は第16代の北条守時です。高時は最後の得宗(北条氏本家の当主)にあたります。

ここだけ聞くと「やっぱりダメな人じゃん」って思うよね。でも高時が何もできなかったのには、本人の性格だけでは説明しきれない事情があったんだ。まずは、彼がどうやって幕府のトップになったのかから見ていこう。
得宗家の跡継ぎ、そして14歳での執権就任
高時が執権に就いたのは、1316年(正和5年)のことでした。数えで14歳。今でいえば中学2〜3年生ほどの年齢です。
執権はもともと、将軍を補佐して幕府の政務を統括する役職として置かれ、北条氏が代々受け継いできたものです。その役職がどう生まれ、どのように性格を変えていったのかは執権政治の記事で整理しています。

14歳で幕府のトップって…実際に政治をしていたの?

正直にいうと、ほとんど動かせなかったと考えられているよ。この頃の幕府では、執権という肩書きと実際の決定権が、すっかり別々のものになっていてね。高時のまわりには外戚の安達時顕と、家臣団を束ねる長崎円喜という後見役がいて、政務は事実上その人たちが回していたんだ。
高時は生まれつき体が弱かったとも伝えられています。1326年(嘉暦元年)には病を理由に出家し、崇鑑と号して執権の職を退きました。数えで24歳のことです。
ただし、それで高時が政治の舞台から消えたわけではありません。得宗家の当主であることに変わりはなく、幕府の重要な決定は、その後も高時の名のもとに下され続けていきます。

執権の座についたのは、元服して間もない頃のことじゃ。まわりは父の代からの重臣ばかり。座らされた椅子に、どれほどの意味があったのか——。
得宗専制と長崎円喜の専横ー実権なき執権
高時の時代の政治のかたちを、ひとことで表す言葉があります。得宗専制です。
得宗専制とは、北条氏本家=得宗の当主に権力が集中していく政治のしくみのことをいいます。幕府の公式な会議である評定よりも、得宗の私邸で開かれる寄合のほうが実質的な決定の場になっていきました。
ところが、その寄合を実際に仕切っていたのは高時ではありませんでした。得宗家の家臣団を束ねる内管領・長崎円喜と、その子の高資です。政治の実権は、主君ではなく家臣の側へ流れ込んでいたのです。

あれ?得宗専制ってテストによく出るけど、「得宗に権力が集まる」ならトップの高時が一番えらいはずじゃないの?

そこがこの時代のややこしいところなんだ。権力が一点に集まる仕組みって、その一点にいる人が幼かったり病気がちだったりすると、そっくり側近に流れ込んじゃうんだよ。今でいうと、社長の名前でハンコは押されるけど、実際に書類を通しているのは秘書室長…みたいな状態だね。仕組みそのものは得宗専制政治の記事でくわしく整理しているよ。
それを象徴するのが、1326年の出家にともなって起きた騒動です。高時の後継をめぐり、長崎氏は高時の子・邦時が成長するまでの中継ぎとして北条氏一門の金沢貞顕を執権に推し、外戚の安達時顕らは高時の弟・泰家を推して対立。幕府を揺るがす争いに発展しました(嘉暦の騒動)。
自分の跡継ぎも、次の執権も、高時の意思だけでは決められなかった——。この一件は、そんな立場をはっきり示す出来事だったといえます。権力の集まる椅子に座らされながら、その権力を自分では使えない。ここを押さえておくと、次の章の「闘犬と田楽」の話がまるで違って見えてきます。
田楽・闘犬にのめり込んだ「暗君」の日々
北条高時といえば、やはり闘犬と田楽です。

『太平記』によれば、高時は闘犬に夢中になるあまり諸国から犬を集めさせ、錦を着せた犬を輿に乗せて運ばせ、魚や鳥の肉を与えたといいます。その数は鎌倉に四、五千匹あふれたとまで描かれています。田楽の芸能者を屋敷に招いては、自ら舞い狂ったとも記されています。

田楽っていうのは、田植えの芸能から発展した当時の流行エンタメのこと。今でいえば、大人気のライブアーティストを毎晩自宅に呼んでいた、ってイメージに近いよ!しかも本人は幕府のトップ。周りからしたら、たまったもんじゃないよね。
では、これは『太平記』の作り話にすぎないのでしょうか。実は当時の記録にも、田楽の流行をうかがわせるものがあります。高時に近い立場にいた金沢貞顕が書き送った手紙に、「田楽の外、他事無く候」という一節が残されているのです。
この一節は長いあいだ、「高時は田楽のほかに何の関心も持たなかった」ことを示す証拠として引用されてきました。
ところが近年では、「鎌倉では田楽が流行しているくらいで、ほかにこれといった変わりごともなく平穏です」という近況報告として読むべきだ、という指摘もあります。手紙全体の文脈から見ると、高時個人を非難した言葉とは限らないという見方です。
同じ一行でも、どこで切り取るかによって人物像が正反対になってしまう。史料を読むことのおもしろさと、こわさが同時に表れている例といえます。
いっぽうで、幕府が滅んだ翌年の建武元年(1334年)、京都の二条河原に掲げられたと伝わる落書(『二条河原の落書』)には、「犬田楽ハ関東ノホロフル物ト云ナカラ」という一節が見えます。ここでいう「犬田楽」は高時が好んだ闘犬と田楽を指すと解されており、当時からすでに、この2つが幕府を滅ぼした象徴として語られていたことがうかがえます。
考古学の面でも、鎌倉市内の遺跡から犬の骨が埋葬された状態で見つかっており、闘犬の流行と結びつけて語られることがあります。ただし、これらが高時個人の趣味を直接裏づける証拠だというわけではありません。

犬を愛で、田楽に酔うたことは否まぬ。だが——あの座敷で、わしに決められることが、ほかに何かあったか。

そこまで政治に興味が持てなかったのは、なぜだったのかしら?

もちろん本人の資質もあったと思う。でもさ、何を言っても側近に握りつぶされる立場が10年以上続いたら、人ってどうなるだろう?逃げ場になった趣味だけが記録に残ってしまった——そういう見方だってできるんだ。
そして高時が幕府の実権から遠ざかっていたちょうどその頃、京都では幕府そのものを倒そうとする動きが始まっていました。
正中の変・元弘の乱ー後醍醐天皇の倒幕運動
1324年(正中元年)、後醍醐天皇による倒幕の計画が事前に発覚します。正中の変です。
幕府は計画に加わった側近の日野資朝らを処罰しましたが、天皇自身は関与を否定し、この時は罪に問われませんでした。
それから7年後の1331年(元弘元年)、後醍醐天皇はふたたび挙兵に踏み切ります。元弘の乱の始まりでした。天皇は笠置山に立てこもり、河内では楠木正成が兵を挙げます。
幕府は大軍を送ってこれを鎮圧し、翌年、後醍醐天皇を隠岐へ流しました。ところが各地の反幕勢力は消えず、戦いはずるずると長期化していきます。

正中の変と元弘の乱って何が違うの?どっちも後醍醐天皇の倒幕計画で、頭のなかでごちゃごちゃになる…

いちばんの違いは「実際に戦になったかどうか」だよ。正中の変(1324年)は計画がバレた段階で終わった未遂事件。いっぽう1331年から始まったほうは本当に兵が挙がって、最終的に幕府滅亡までつながった。「未遂が正中、本番が元弘」って覚えると混ざりにくいよ!全体の流れは元弘の乱の記事でも解説しているよ。
そしてこの戦いの最終局面で、幕府の本拠地・鎌倉に決定的な一撃が加えられることになります。
新田義貞の鎌倉攻めと東勝寺での最期
1333年(元弘3年/正慶2年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇に呼応する勢力が各地で立ち上がりました。5月には上野国の御家人・新田義貞が挙兵し、一気に鎌倉へ攻め寄せます。
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた、守りに徹して造られた都市です。出入口も切通しに限られており、本来なら攻め落とすのは容易ではありませんでした。

『太平記』だと、義貞が稲村ヶ崎で剣を海に投げ入れて祈ったら潮が引いて、そこから軍勢がなだれ込んだ——って語られているんだ。かっこいい場面だけど、これは物語としての脚色を含む伝承とされているよ。攻防の細かい流れは新田義貞の鎌倉攻めの記事にまとめてあるよ。
それでも鎌倉は、ごく短期間で陥落したと伝えられています。すでに幕府に味方する武士が、ほとんど残っていなかったのです。
追い詰められた高時は、北条氏の菩提寺である東勝寺に一族とともに立てこもり、火を放って自害しました。元弘3年/正慶2年(1333年)5月22日のことと伝えられています。日付は旧暦で、いまの暦では7月4日にあたります。数えで31歳でした。


最後は、一族みんなで自害してしまったの…?

そう伝えられているよ。『太平記』では、北条一門と家臣、あとに続いた兵をあわせて870人あまりが東勝寺で命を絶ったと書かれている。ただ、この人数は軍記物語の記述だから、どこまで正確かはわからないんだ。31歳での最期——14歳で椅子に座らされて、31歳で一族もろとも滅びる。自分で選べた場面が、いったいどれくらいあったんだろうね…。
こうして、源頼朝の挙兵からおよそ150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
それにしても、なぜ高時はこれほどまでに「暗君」として語り継がれることになったのでしょうか。次の章では、その評価がどこから生まれたのかを、史料そのものにさかのぼって確かめていきます。
「暗君」北条高時、実像はどうだったのか
高時に貼られた「暗君」というレッテルは、どこから来たのでしょうか。もっとも大きな源とされているのが、南北朝時代に成立した軍記物語『太平記』です。
『太平記』は、後醍醐天皇の倒幕から南北朝の動乱までを描いた全40巻の大作です。成立の時期や作者には諸説ありますが、14世紀の後半までにはおおよそ現在の形になっていたと考えられています。
ここで気をつけたいのが、「いつ書かれたか」という点です。『太平記』が書かれたのは、鎌倉幕府が滅びたあとのこと。つまり、滅亡という結末をすでに知っている側から、その滅亡を語り直した物語だということになります。
物語は、結末に説得力を持たせようとします。滅びる側には、滅びるだけの理由が用意されるのです。天狗が舞い、犬が輿に乗る——そうした場面が積み重なることで、「こんな主君だったから幕府は倒れたのだ」という筋書きができあがっていきます。
『太平記』は、日記や書状のように出来事をその場で書きとめた記録ではありません。合戦や人物の言動を、読み物として面白く語り直した軍記物語です。
そのため、実際にあった出来事と、後から加えられた脚色とが入り混じっています。歴史の研究では、『太平記』の記述をそのまま事実とは扱わず、当時の書状や公家の日記など、別の史料と突き合わせながら使うのが一般的です。
逆にいえば、『太平記』にしか出てこない逸話は、それだけでは事実と断定できません。高時の闘犬・田楽の話も、この線引きの上に立って読む必要があります。
同じことは、もう一つの根拠とされる『保暦間記』にもあてはまります。こちらも南北朝期に書かれたとされる歴史書で、高時を政治への関心が薄い人物として辛口に描いています。

じゃあ北条高時は、本当は暗君じゃなかったってこと?

そこは「名君だった!」ってひっくり返せる話でもないんだ。高時をほめる同時代の記録も、ほとんど残っていないからね。ただ、「無能だったから幕府が滅んだ」で終わらせると、見えなくなるものがある。決められる権限が最初から手元になかった人に、決断力を求めても仕方ないよね?そこを差し引いて考えるのが、今の見方に近いよ。
📖 「暗君」像はこうして広まった:江戸時代には『太平記』を語り聞かせる太平記読みが人気を集め、物語としての高時像が庶民にまで浸透しました。さらに明治以降は、後醍醐天皇を正統とする歴史観のもとで幕府側が「討たれて当然の存在」として描かれ、暗君イメージがいっそう固まっていったと指摘されています。
■なぜ高時は、最後まで動こうとしなかったのか
倒幕の動きが表面化してから幕府が滅ぶまで、およそ9年の時間がありました。その間、高時が自ら政局を動かした形跡は、ほとんど伝わっていません。
背景として指摘されるのが、健康の問題です。高時は1326年(嘉暦元年)、数えで24歳のときに病を理由として執権の座を退き、出家しています。以後の7年間は、幕府の役職に就かないまま得宗として過ごしました。
もう一つは、これまで見てきた権力構造です。10代で椅子に座らされ、重要な決定は内管領の側で進んでいく。自分の跡継ぎさえ自由に決められない。そうした日々が続けば、「動く」という発想そのものが育ちにくかったとしても不思議ではありません。

でも、幕府が倒れそうなときくらいは、本人も何かしようと思わなかったのかしら?

思ったかもしれないね。ただ、そのときにはもう、命令を聞いてくれる御家人のほうが減っていたんだ。長い年月をかけて信頼を失った組織って、トップが急にがんばっても止まらない。幕府の滅亡は、高時ひとりの資質というより、何十年もかけて積み上がった問題の結果——そう見るほうが、教科書の流れともつながるよ。
「愚かな主君がいたから滅びた」のか、「滅びたから愚かな主君にされた」のか。北条高時という人物は、その二つのあいだで今も揺れています。
北条高時についてもっと詳しく知りたい人へ

北条高時や鎌倉幕府滅亡についてもっと深く知りたい人に、おすすめの本を2冊紹介するよ!
本記事でも触れた「『太平記』が広めた暗君イメージ」と「金沢貞顕の書状などから見える実像」の違いを、高時研究を専門とする著者がコンパクトにまとめた一冊です。85ページほどの薄い日本史リブレットなので、高時と得宗専制、鎌倉幕府滅亡までの流れを短時間で押さえたい人に向いています。
「太平記の暗君イメージ」と「同時代史料から見える高時像」の違いを、短時間で整理したい人。
鎌倉幕府滅亡そのものを、御家人制など幕府の仕組み全体からじっくり読みたい人(②の方が向いています)。
高時個人の資質だけでなく、鎌倉幕府を支えた御家人制がどのように変質していったかに注目し、幕府滅亡の背景を掘り下げた一冊です。「無能な主君がいたから滅びた」という見方から一歩踏み込みたい人に向いています。
幕府滅亡を高時個人の資質だけでなく、御家人制という仕組みの変化から理解したい人。
まずは高時個人にしぼって手短に知りたい人(①の方が向いています)。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:鎌倉幕府の滅亡は「一味散々(1333)」で覚えるのが定番です。混同注意は2つ。①正中の変は未遂、元弘の乱は実際の挙兵。②高時は第14代執権であって「最後の執権」ではありません(最後の執権は第16代・北条守時)。記述問題では「最後の得宗」と書き分けられると強いです。

結局、この範囲で一番出るのはどこ?

断然1333年と得宗専制だよ!「1333年に何が起きた?」「誰が鎌倉を攻めた?」はほぼ定番。あとは記述で「高時のとき実権を握った内管領は誰か」と聞かれたら、答えは高時じゃなくて長崎高資。父の円喜とセットで長崎氏が実権を握った、と押さえておけば大丈夫だよ◎
よくある質問(FAQ)
1303年に生まれ、1333年に亡くなった鎌倉時代末期の武士で、鎌倉幕府の第14代執権をつとめた人物です。北条氏本家である得宗家の当主でもありました。ただし政治の実権は内管領の長崎氏が握っており、高時自身が幕政を主導した記録はほとんど残っていません。
よくある誤解ですが、正確ではありません。高時は第14代執権で、1326年に執権を退いたあとも執権職は交代しており、幕府滅亡時の執権は第16代の北条守時です。高時が「最後」にあたるのは執権ではなく、北条氏本家の当主である得宗のほうです。
闘犬や田楽への傾倒は主に『太平記』が伝える話で、どこまでが事実かは断定できません。ただし当時の書状にも鎌倉での田楽の流行がうかがえるため、まったくの作り話とも考えにくいところです。理由としては、得宗専制のもとで政治の実権を持てない立場が長く続いたことが背景にあったとする見方があります。
『太平記』『保暦間記』が、政治を顧みず遊興にふけった人物として高時を描いたためです。どちらも鎌倉幕府が滅んだあとに書かれたもので、とくに『太平記』は軍記物語のため脚色を含みます。近年は、実権を持てなかった立場を差し引いて評価すべきだという見方も示されています。
1333年、新田義貞の軍勢によって鎌倉が攻め落とされると、高時は北条氏の菩提寺である東勝寺に一族とともに立てこもり、火を放って自害したと伝えられています。数えで31歳でした。『太平記』は一門・家臣らあわせて870人あまりが命を絶ったと記していますが、この人数は軍記物語の記述であり、正確な数はわかっていません。
倒幕運動が起きた時期の得宗=北条氏本家の当主が高時でした。そのため滅亡時の幕府を象徴する人物として語られます。ただし政策を主導したのは内管領を中心とする側近層で、御家人の不満の蓄積など幕府が抱えていた構造的な問題も大きく、高時個人の責任だけで説明できるものではありません。
まとめ
北条高時は、権力の頂点にある家に生まれながら、その権力をほとんど自分では使えないまま生涯を終えた人物でした。闘犬と田楽の逸話も、「暗君」という評価も、その立場を抜きにしては読み解けません。
なお、北条氏の物語は1333年で完全に終わったわけではありません。高時の遺児・北条時行が2年後に鎌倉奪還の兵を挙げた中先代の乱へと、その血筋は続いていきます。
-
1303年北条貞時の子として誕生
-
1316年数え14歳で第14代執権に就任
-
1324年正中の変ー後醍醐天皇の倒幕計画が発覚
-
1331年元弘の乱が始まる
-
1333年新田義貞の鎌倉攻め。東勝寺で自害し鎌倉幕府滅亡

以上、北条高時のまとめでした。「暗君」の一言で片づけないで読むと、鎌倉時代の終わりってぐっと立体的に見えてくるんだ。下の記事で、幕府が倒れたあとに始まった新しい政治や、得宗専制が形づくられた時代についてもあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年7月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
山川出版社『詳説日本史』
Historist(山川出版社)「北条高時」「長崎高資」「内管領」(2026年7月確認)
コトバンク「北条高時」「二条河原落書」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・世界大百科事典ほか)(2026年7月確認)
Wikipedia日本語版「北条高時」「嘉暦の騒動」「東勝寺合戦」「二条河原の落書」「太平記」「保暦間記」(2026年7月確認)
『太平記』巻第五「相模入道田楽並闘犬事」(ウィキソース所収本文・2026年7月確認)
永井晋『北条高時と金沢貞顕』(山川出版社・日本史リブレット人)/細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館)
※闘犬・田楽の逸話、東勝寺での最期の人数など、本記事で「〜と伝えられています」と記した内容は『太平記』『保暦間記』など後世の記述にもとづく伝承を含みます。
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
📚 鎌倉時代の記事をもっと読む → 鎌倉時代の記事一覧を見る
Amazonのアソシエイトとして、まなれきドットコムは適格販売により収入を得ています。


