得宗専制政治を簡単にわかりやすく解説するよ【始まったきっかけと執権政治との違い】

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もぐたろう
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今回は、鎌倉時代末期に始まった得宗専制政治とくそうせんせいせいじについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ

この記事を読んでわかること
  • 得宗専制政治ってなに?
  • なぜ得宗専制政治が始まったの?
  • 得宗専制政治ってどんな政治だったの?
  • 得宗専制政治が始まって、日本はどうなったの?
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得宗専制政治とは

北条氏一門の長(得宗とくそう)が、鎌倉幕府の実権を支配した政治のことを得宗専制政治と言います。

得宗ってなに?

当時は、一族の長を惣領家督と呼んでいました。

しかし、鎌倉幕府最強の一族だった北条氏に限っては、惣領・家督のことを特別に得宗と呼びました。

※普通なら「◯◯一族の家督(惣領)」って表現をしますが、権力を持つ北条氏に限っては、得宗と呼ぶだけでOKってことです。

「得宗」の名前の由来は、2代目執権の北条義時が徳宗とくそうと命名したのが、次第に得宗に変わったため・・・と言われています。

得宗専制政治が始まる前の鎌倉幕府は、執権政治という仕組みを採用していました。

しかし、5代目執権の北条時頼の頃から、得宗が政策を決定することが増えるようになり、9代目執権の北条貞時の時代に起きた霜月騒動という事件をきっかけに、得宗専制政治が完成したと言われています。

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執権政治がどのようにして、得宗専制政治に変化していったのか、詳しく見ていくよ!

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得宗専制政治が始まった時代背景

話は5代目執権の北条時頼の時代にさかのぼります。

北条時頼

時は1256年。北条時頼は働き盛りの30歳。執権としてバリバリ働いていましたが、病に倒れてしまいます。北条時頼は、自分が亡くなったときに備えて執権の職を引退。

※時頼の病は、麻疹だったと言われています。当時は、麻疹で命を落とす人が多くいたので、北条時頼も自らの死を覚悟したのです。

そして、執権の職を、義理の兄である北条長時ほうじょうながときに託しました。

北条時頼は、本当なら息子の北条時宗に、執権の職を託したいと考えていました。

しかし、1256年当時、北条時宗はまだ6歳。これでは執権の仕事は務まりません。

そこで北条時頼は、時宗が成長するまでの執権の中継ぎとして、信頼できる北条長時に任せた・・・と言われています。

うぅ・・・、30歳という若さで亡くなるなんて、可哀想に・・・

と思った人は少し待ってください。まだ北条時頼は亡くなっていません・・・、というよりも、むしろ病から回復して元気になってしまいました。

こうなると、執権をやめた北条時頼は、無職(ニート)なわけですが、時頼はただのニートにはなりませんでした。

北条時頼は、鎌倉幕府の役職こそありませんが、得宗(北条一門の惣領)でした。北条時頼は、この得宗の地位を利用して、鎌倉幕府を裏から支配することを考えます。

北条時頼
北条時頼

私は得宗として北条一門を束ねる立場にある。

それならば、得宗として執権の北条長時に対して必要な指示・命令を行えば、私が鎌倉幕府の実質的な最高権力者ということになるだろう。

得宗の立場にある限り、幕府の役職がなくとも、私が権力を握ることができるのだ・・・!

2~5代目の執権(義時泰時経時時頼)はみんな、得宗の立場で執権に就任していました。つまり、得宗=執権だったのです。

それが6代目執権の時代から、執権は北条長時で、得宗は北条時頼・・・と、得宗と執権がバラバラになってしまいました。この時に、「得宗と執権なら、もちろん得宗の方が偉いよな!」と考えたのが北条時頼なのです。

この北条時頼の時代に生じた「得宗が裏で鎌倉幕府の実権を握っている状況」が、時代が進むにつれて「得宗が正々堂々と鎌倉幕府を完全支配して、執権や評定衆が無力化した状況」へと進化していったのが、今回紹介する得宗専制政治です。

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得宗専制政治が始まったきっかけ【霜月騒動】

得宗が裏で幕府の実権を握るようになると、得宗に仕える人々もまた、強い発言力や権力を持つようになります。

得宗に仕える人々は御内人みうちびとと呼ばれ、御内人の中でNo1の人物のことを内管領うちかんれいと呼びました。

1285年、この内管領が起こしたとある事件が、得宗専制政治のきっかけとなります。

1284年、元寇から日本を守った得宗&執権でもあった北条時宗が死亡。その息子の北条貞時ほうじょうさだときが得宗&執権を継ぐことになりました。

しかし、北条時貞は当時まだ13歳、実権を振るうにはあまりにも幼すぎます。

そこで、北条貞時を補佐して代わりに実権を握ろうとした人物が二人いました。それが、内管領の平頼綱たいらのよりつなと、北条氏に次ぐ実力を持つ御家人、安達泰盛あだちやすもりでした。

この二人の政治思想は真っ向から反対するものであり、両者は激しく対立するようになります。

平頼綱
平頼綱

得宗が権力を手に入れれば入れるほど、得宗の家臣No1である私の影響力も増すのだから、得宗は今まで以上に幕政に口出しして、どんどん権力を手中に収めるべきだ。

安達泰盛
安達泰盛

鎌倉幕府は、北条一門のだめだけに存在しているのではない。現地で活躍する御家人たちの支えがあって初めて幕府は成り立つのだ。

であるから、得宗の過度な政治介入を改め、昔(北条泰時の時代)のように御家人たちの意見もしっかりと幕政に反映させるべきだ!

最終的に実権を持ったのは、安達泰盛の方でした。

安達泰盛は、北条貞時の(母方の)祖父という立場から、父を失った貞時をサポートすることになりました。

当然、これに納得いかないのが、平頼綱です。

平頼綱
平頼綱

得宗を支えるのは、我らが御内人の仕事だ。御家人風情がでしゃばることではない!

北条一門は強くなった。安達泰盛の考える御家人同士が協力する時代は終わり、得宗が全てを支配する時代なのだ。

この時代の流れを邪魔するというのなら、力づくで安達のやつを消してやんよww

1285年11月、平頼綱は、安達泰盛の謀反疑惑をでっち上げ、安達泰盛を襲撃。その命を奪いました。(霜月騒動

おまけに平頼綱は、霜月騒動の騒ぎを利用して、安達泰盛に味方していた御家人たちを根こそぎ倒しまくり、対抗勢力を消し去ってしまいます。

こうして、平頼綱は安達泰盛に代わり、得宗を補佐する立場から、幕政の実権をにぎりました。

幕政の実権を握った平頼綱は、とにかく得宗に権力が集中させます。まだ幼い得宗の権力が大きくなれば、それを補佐する内管領の権力も同時に大きくなるからです。

権力欲の強かった平頼綱は、まるで独裁者のように振る舞うようになり、人々から恐れられる存在にまでなっていきます。

しかし、成長した北条貞時は、次第にやりたい放題の平頼綱を邪魔と感じるようになります。

北条貞時
北条貞時

偉いのは、お前(平頼綱)じゃなくて俺だぞ。

私ももう大人だ。これ以上好き勝手やるのなら、私もそれなりの対応をさせてもらう。

1293年4月、鎌倉で大地震が起こると、北条貞時は、この混乱に乗じて平頼綱を討ち取ってしまいます。

平頼綱が消えると、次は得宗の北条貞時本人が政治の実権を握ることになります。

ここで大事なポイントになるのが、平頼綱が霜月騒動で安達泰盛を消し去り、得宗に権力が集中するよう仕向けてくれていた・・・という点です。

このおかげで、北条貞時は得宗として絶大な権力を誇る存在になることができました。

北条時頼の時代から徐々に始まっていた得宗専制政治が、霜月騒動と平頼綱の死によってついに完成することになったのです。

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得宗専制政治の仕組み

得宗専制政治の仕組み

得宗専制政治が完成すると、幕政を得宗が指揮するようになったため、鎌倉幕府の最高職だった執権は形だけの役職に変わり、実権を失いました。

執権が、形だけの役職になるのに合わせて、評定衆も形骸化。

幕政は、得宗が任命した寄合衆よりあいしゅうと呼ばれる人々によって話し合われるようになり、最終決定を得宗が行いました。

寄合衆は、鎌倉幕府の役職ではなく、その話し合いも得宗の私邸で行われました。おまけに寄合衆のメンバーの多くは、北条一門や御内人で占められていたため、幕政は鎌倉幕府を無視して得宗の意向のみで行われるようになります。

この状況こそが、まさに先ほど紹介した「得宗が正々堂々と鎌倉幕府を完全支配して、執権や評定衆が無力化した状況」となります。

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得宗専制政治と鎌倉幕府の最期

北条貞時は暴走する内管領の平頼綱を倒し、実権を得宗へ取り戻しました。

しかし、晩年になると酒に溺れるようになり、政務を内管領や寄合衆に任せるようになってしまいます。

つまり、せっかく平頼綱から取り返した幕政の実権が、内管領・寄合衆に移ってしまったということです。

北条貞時の後を継いで得宗になった北条高時ほうじょうたかときの時代になっても、内管領・寄合衆が実権を握る状況は変わりません。

さらに内管領・寄合衆は、身内贔屓びいきの政策を進め、全国の守護の半分以上を北条一門が占めるようになり、地頭もその多くを北条氏が独占するようになりました。

この状況に、北条一門でない全国各地の御家人たちが強い不満を持つようになると、この不満分子たちを利用して、鎌倉幕府と得宗をぶっ倒してしまおうと、軍事行動を起こす人物がいました。

・・・それが、後醍醐天皇です。

後醍醐天皇は、1324年の正中の変を起こすも失敗、その後、1331年に改めて挙兵し、最後は得宗専制政治に不安を持っていた足利尊氏新田義貞の協力を得て、鎌倉を攻撃。(元弘の乱

鎌倉は火の海と化し、得宗の北条高時も命を落とし、1333年、鎌倉幕府は滅亡することになります・・・。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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