今回は、源頼朝の側近中の側近で非業の死を遂げた梶原景時(かじわらかげとき)という人物について紹介します。
梶原景時の一世一代の大勝負、石橋山の戦い!
梶原景時が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、源平合戦初期に起こった石橋山の戦い。 北条時政らと協力して流刑地の伊豆を抜け出した源頼朝とそれを追ってきた平家軍との戦いです。
石橋山の戦いをわかりやすく紹介!【源頼朝と梶原景時の出会い】
今回は、源平合戦の間に起こった石橋山の戦いという戦について紹介したいと思います。 石橋山の戦いは、「源氏よ!平氏を倒すために立ち上がれ!」という以仁王の令旨を受け源頼朝が蜂起した後、平氏と源頼朝が衝突した最初の戦となります。
梶原景時と後三年の役
梶原景時が裏で親頼朝派だった理由は、1083年に起こった後三年の役にあります。
後三年の役とは?場所・原因・誰 vs 誰・結果をわかりやすく解説
後三年の役(1083〜1087年)は東北・清原氏の内紛に源義家が介入した合戦。場所・原因・清衡 vs 家衡の対立・結果まで中学歴史レベルでわかりやすく解説します。

面白いほどわかる平治の乱!簡単にわかりやすく解説【誰と誰が戦った?きっかけ・結果まとめ】
1159年に起こった平治の乱をわかりやすく解説。きっかけ・誰と誰が戦ったか・保元の乱との違い・結果と影響まで、中学生〜大人向けに徹底解説します。
梶原景時と源頼朝
さて、石橋山の戦いで敗北したものの梶原景時のナイスフォローで命を繋いだ源頼朝。 房総半島の先っちょにある安房国(あわのくに)で体制を立て直すのですが、これがなんかもう凄くて、立て直すどころか2万超える圧倒的兵力を源頼朝は手に入れます。 梶原景時と同じく表面上は平家に従っていても心の中では源氏を主人と慕う人、そもそも平家と対立していた者らが頼朝に味方しました。 大量の兵を揃えた源頼朝は、平安京へ向けて進軍を開始します。1180年10月に富士川の戦いで平家軍に勝利。
富士川の戦いをわかりやすく紹介!【水鳥の羽音、頼朝と義経の感動の再会】
今回は、源平合戦の戦の1つである富士川の戦いについて紹介します。 石橋山の戦いで大敗北を喫した源頼朝は奇跡的に生き残り、海を渡り、安房国(房総半島の先っちょ)へ避難することになります。これが1180年8月29日の話。
梶原景時と上総広常
頼朝の側近No1として活躍する梶原景時にとって、おそらく最初の大仕事だったのが上総広常(かずさひろつね)の誅殺でした。 上総広常は頼朝軍の一員で、集まった武士たちの中でもダントツの軍事力を持っている人物。上総広常は頼朝の軍事力として重要な役割を担っていた一方で、頼朝を軽視するような発言や、関東での独立を示唆するような発言が目立っていました。 頼れる武将である反面、敵になれば最も厄介なのが上総広常だったわけです。源頼朝は、危険分子になりうる上総広常を消し去ろうと考えますが、大軍を率いて頼朝軍に味方してくれている上総広常を消すには大義名分がありません。それに関東武士団の総大将である源頼朝が表立って動くのも不都合が多い。そこで代わりに動いたのが梶原景時。 1183年12月、梶原景時は上総広常と双六をしていると、突如として双六盤を乗り越え、上総広常の首を切り落とします。謀反の嫌疑があった・・・というのがその理由。 しかし、事後調査により上総広常に謀反の企みはなかったことが判明。源頼朝は上総広常が死んだことをたいそう後悔したと言います。・・・うーん、なんか裏がありそうなオチですよねこれ。 上総広常誅殺事件は謎な点も多いのですが、限りなく源頼朝による陰謀の可能性が高いと思います。源頼朝が上総広常の死を後悔したというのも、政治パフォーマンスなんじゃないかと思う。 上総広常が謀反の計画など立てていないことを最初から知りつつ、「梶原景時が謀反の嫌疑で独断で上総広常を殺した!」という程にして頼朝自身に責任が及ばないようにして危険分子を消し去った・・・というのが真相な気がしている。(個人的意見)梶原景時と源平合戦
時は源平合戦真っ只中の1184年1月、木曽義仲を討ち取った宇治川の戦い。
宇治川の戦いって?わかりやすく紹介・解説するよ【宇治川の先陣争いなど!】
今回は、源平合戦の戦の1つである宇治川の戦いについて紹介します。中学生・高校生の歴史学習にもおすすめです。

一ノ谷の戦いを簡単にわかりやすく紹介!【鵯越の逆落としエピソードや平敦盛の最期など】
今回は、源平合戦の中でも特に有名な一ノ谷(いちのたに)の戦いについて紹介しようと思います! 一ノ谷の戦いは1184年2月、平家軍と源頼朝が派遣した源義経・範頼軍らが戦った源平合戦の花形とも言える戦いです。

屋島の戦いを簡単にわかりやすく紹介【那須与一の扇の的当てと源義経の活躍】
屋島の戦いとは?1185年、源義経が嵐の夜に150騎で奇襲した平安末期の合戦。那須与一が扇の的を射た有名なエピソードや、弓流しの逸話も詳しく解説します。

奥州合戦(討伐)を簡単にわかりやすく紹介!【奥州藤原氏が滅亡した理由】
今回は、1189年に起こった奥州藤原氏と源頼朝が戦った奥州合戦(奥州討伐)について紹介します。事前に以下の記事を読んでいただけると、良いかもしれません。
梶原景時の変
梶原景時は、源平合戦が終わった後も源頼朝の右腕として活躍し続けます。1192年、梶原景時は侍所と言う御家人の指揮、警察、罪人の取扱いなど担う組織のトップに選ばれます。 梶原景時の任務は、頼朝の御家人たちの動きを監視し不測の事態に備えること。御家人から見れば、常に梶原景時に監視されているわけであんまり良い気持ちはしません。 上総広常を誅殺した話もそうですが、梶原景時が徹底して頼朝の代わりに嫌われ役を引き受けているのは興味深いです。これは頼朝が景時を信頼している確固たる証拠なんですが、御家人の梶原景時に対する不満は次第に溜まっていき、最終的に梶原景時は命を落とすことになってしまいます・・・。 1199年、源頼朝が亡くなると、息子の源頼家(みなもとのよりいえ)が2代目の鎌倉幕府将軍に選ばれます。 源頼家は、頼朝と同じように将軍中心に関東を治めようとします。ところが、これが超難しい。 源頼朝が鎌倉幕府という新しい組織を築き上げ、権力を握り、幕府の運営を出来ていたのはズバ抜けた頼朝の政治スキルによるところが大きかったのです。複雑な利害関係の中に生きる武家たちの調整や幕府を嫌う朝廷との政治交渉を同時並行で行なうことは並大抵のことではありません。 息子の頼家は、優秀な若者として成長しますが父頼朝のような巧みな政治術は持ち合わせていませんでした。・・・というよりも頼朝が異常すぎたんですよきっと。それでも父のように将軍を中心に鎌倉幕府を運営したいという源頼家の想いは、御家人に対して「よくわからんけど、とにかく俺(将軍)の言うこと聞けや!」と強引な態度として現れてしまいました。 これに御家人たちは大激怒。 御家人一同「おい、若造のクセに何生意気なこと言ってんだ?鎌倉幕府は俺らがいて初めて成立するんだが?」 それでも、梶原景時は主君の頼家に仕え続けました。そして頼家も梶原景時を信頼していました。ただ、これによって梶原景時は御家人たちからますます嫌われることになります。 「なんで俺らみんなディスられてんのに、梶原景時だけ頼家とベッタリなの?コネかな?マジ許せん」みたいな感じ。 ある日、結城朝光という人物が亡くなった頼朝を回顧してこんなことを言います。 「『忠臣、二君に仕えず』というが、自分も出家してそうするべきだったと悔やまれる。なにやら今の世は薄氷を踏むような思いだ」 源頼家と御家人たちの関係がギクシャクしているのを見てこう言ったのでしょう。その数日後、周囲にこんな噂が広まります。 「結城朝光が『頼家に仕えなきゃ良かったー。』って言ったのを梶原景時が知って、これは頼家に対する謀反の意思表明だ!とか思ったらしく、今度結城朝光が消されるらしいよ」 と。噂を広めたのは阿波局(あわのつぼね)という女官。これにビビった結城朝光は、他の御家人に事情を相談すると、いよいよ御家人たちも景時の傲慢な振る舞いに我慢できなくなりブチギレ。なんとわずか一日で66人の著名を集め、頼家に「梶原景時のやっていることはおかしい!!」と直談判します。 ビックリした源頼家は、梶原景時に弁明を求めると景時は何も答えずに、その後、一族揃って関東を離れていきます。 梶原景時が何も答えなかった理由ははっきりとはわかりませんが、源頼家のことを考えてのことだったのではないかと個人的に思っています。御家人の直談判に屈してしまえば、頼家は梶原景時の処遇について責められるわけだし、逆に御家人の直談判を無下にすれば御家人の頼家に対する人望はますます薄れてゆく。 「頼家殿が何を答えても八方塞がりなら、俺が無言で消え去ることですべて俺の責任にしてしまおう・・・」 と考えたのだろうと思います。これまで嫌われ役を引き受け続けてきた梶原景時ならきっとこう考えるはず! 梶原景時は、自分の所領だった播磨(はりま。今の兵庫県あたり)を目指しますが、駿河で襲撃を受け命を落とすことになります。 ちなみに梶原景時が襲撃を受けた播磨は北条時政の所領。さらに結城朝光に噂を広めた阿波局も時政の娘。 表面上は梶原景時VS景時を嫌う御家人という対立構図ですが、裏では頼家を孤立させてみずから実権を握ろうとした北条時政の陰謀なんじゃないか?なんて説もあります。 そもそもたった1日で66人の著名を集められたことも不自然です。事前に誰かが裏工作をしていたと考えた方が自然だし、誰が発起人か?と考えてみるとやっぱり登場頻度の多い北条家の人間が有力候補なんじゃないか・・・という話になります。 それに、梶原景時のことが記録されている「吾妻鏡」という歴史書は露骨に北条びいきの内容。加えて梶原景時の死後、有力御家人たちが次々と北条家による謀略により消え去っていきます。 これらの話は憶測の域をでないのですが、それゆえに色々と考えてみるのも面白いかもしれません。梶原景時まとめ
以上、梶原景時についてハイライトでまとめてみました。 「梶原景時ってどんな人?」と聞かれたら、一番わかりやすい答えは「鎌倉時代版の石田三成だよ」って答えだと思います。 政権運営に必要不可欠な嫌われ役を一手に引き受け、周囲の人々から疎まれ、恨まれながらも立派に任務を全うするその様子は石田三成そのもの。 昔に大河ドラマ「女城主直虎」に登場していた但馬政次なんかもそんな感じですよね。なんていうか、政治の世界には陽を浴びることのない嫌われ役っていうが絶対に必要なんでしょうね。これは現代においても同じことが言える気がする。周囲の嫌われてる人の中には、きっと計画的に嫌われ役になっている人もいるはずです。 梶原景時って、みんなの人気者である源義経を追い詰めた人物として、悪者みたいに言われることも多いのですが、決してそんなことはありません。全ては幕府を円滑に運営するためであり、梶原景時はあえて泥臭くて人に恨まれ、光を浴びにくい仕事をこなし続け、政権を影からガッチリと支えていたのです。まさにTHE縁の下の力持ち!!⚔️ 源平合戦の流れを合戦・人物・年表でまとめて確認したい方は→ 源平合戦 完全ガイド
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