倶利伽羅峠の戦いとは?わかりやすく紹介!【木曽義仲や平家物語のエピソードを交えて】

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もぐたろう
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今回は1183年(寿永2年)に起きた倶利伽羅峠の戦いについて、わかりやすく丁寧に解説していくよ!木曽義仲がどうやって平家の大軍を打ち破ったのか、有名な「火牛の計」が本当にあったのかも、一緒に確かめていこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠

この記事を読んでわかること
  • 倶利伽羅峠の戦いとは何か(1183年・源平合戦の大きな転換点)
  • 木曽義仲の作戦(平家の大軍を峠に誘い込んで撃破した流れ)
  • 火牛の計は史実か伝説か(史料による検証と現在の学説)
  • 巴御前の活躍(義仲とともに戦った女武者の存在)
  • この戦いが源平合戦に与えた影響(平家の都落ちへの道)

倶利伽羅峠の戦いといえば、牛の角に松明をくくりつけて敵陣に突っ込ませた「火牛の計」が有名です。

ですが実は、この派手な作戦が本当にあったのかどうかは、歴史家の間で今も意見が分かれています。さらにこの戦いは、「地味な田舎武者」と思われがちな木曽義仲が、10万ともいわれる平家の大軍を一夜で壊滅させた、源平合戦きっての大逆転劇でもありました。



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倶利伽羅峠の戦いとは?

倶利伽羅峠の戦いくりからとうげのたたかいとは、1183年(寿永2年)に北陸の倶利伽羅峠で起きた、源氏方の木曽義仲きそよしなか軍と平家軍の合戦です。源平合戦(治承・寿永の乱)の流れを大きく変えた、重要な一戦として知られています。

3行でわかる!倶利伽羅峠の戦い
  • いつ・誰が:1183年、北陸で木曽義仲(源氏)と平維盛(平家)が激突
  • どうなった:義仲軍が平家の大軍を峠の谷へ追い落とし、夜襲で壊滅させた
  • その後:この敗北で平家は弱体化し、のちに京を追われる「都落ち」へ

「倶利伽羅」は「くりから」と読みます。難しい漢字なので「からくり峠」「くりがら峠」と誤って覚えている人も多いのですが、正しくはくりからとうげです。

この戦いは、戦場となった山の名前から砺波山の戦いとなみやまのたたかいとも呼ばれます。場所は、現在の富山県小矢部市石川県津幡町の県境にあたります。

ゆうき
ゆうき

倶利伽羅峠の戦いって、結局どっちが勝ったの?あと「火牛の計」ってどんな作戦だったの?

もぐたろう
もぐたろう

勝ったのは木曽義仲(源氏)の方だよ!しかも、軍記物語によると平家10万に対して義仲は5万。数で劣る義仲が、地形をうまく使って大軍をひっくり返したんだ。だからこそ「大逆転劇」として語り継がれているんだよ。

次の章では、そもそもなぜこの戦いが起きたのか、その背景から見ていきましょう。



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倶利伽羅峠の戦いが起きた背景

1180年ごろ、日本は平清盛たいらのきよもりを中心とした平家政権が全盛期を迎えていました。しかしその一方で、平家の独裁的な政治に不満を持つ勢力が各地で立ち上がり、源氏を中心とした反乱が次々と起こります。これが治承・寿永の乱(源平合戦)のはじまりです。

このとき源氏方には、関東の源頼朝、そして北陸の木曽義仲という、2人の有力な武将がいました。義仲は頼朝のいとこにあたる人物で、信濃国(現在の長野県)の木曽谷を拠点としていました。

義仲の幼少期——山育ちの源氏武将

義仲の父・源義賢みなもとのよしかたは1155年、源氏内の権力争いに巻き込まれて討ち死にしました。そのとき義仲はまだわずか2歳。乳母夫の中原兼遠なかはらかねとおに抱えられ、追っ手を逃れて信濃の木曽谷へ逃れました。深い山々に囲まれた辺境で弓馬の技を磨いた義仲は、のちに「木曽」の名を冠して呼ばれるようになりました。平家に敗れた源氏の残党として、26年間その力をひそかに蓄え続けたのです。

木曽義仲・源頼朝・源義経の系図

そんな背景を持つ義仲が、満を持して挙兵したのが1180年のことです。

義仲は信濃で挙兵すると、越後(新潟県)・越中(富山県)・加賀(石川県)と、北陸地方を次々に勢力下に置きながら南下していきます。京の都に近づく義仲の動きは、平家にとって見過ごせない脅威となっていきました。

📝 源平合戦ってどんな戦い?:1180年の以仁王の挙兵をきっかけに始まり、1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅びるまで、約5年間続いた源氏と平家の全国的な戦争のことです。倶利伽羅峠の戦いは、ちょうどその中盤にあたります。

もぐたろう
もぐたろう

義仲は頼朝より先に平家を倒して、一番手柄を立てたかったんだ。そこで選んだのが、日本海側の北陸ルートで京を目指すという作戦。平家もこれを止めようと、大軍を北陸へ送り込むことになるよ。

こうして平家は、総大将に平維盛たいらのこれもりを立て、北陸へと大軍を派遣します。両軍がぶつかったのが、倶利伽羅峠だったのです。次の章では、いよいよ合戦当日の流れを追っていきましょう。



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倶利伽羅峠の戦い・当日の流れ

倶利伽羅峠の戦いは、1183年5月11日(寿永2年)に決着がつきました。ただし、この決戦に至るまでには前哨戦があり、義仲はいくつもの巧みな作戦を重ねて勝利をつかんでいます。順番に見ていきましょう。

倶利伽羅合戦図(倶利伽羅峠の戦いを描いた絵)
倶利伽羅合戦図 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

■ 前哨戦:般若野の戦い(5月9日)

決戦の2日前、5月9日には般若野の戦いはんにゃののたたかいが起こりました。これは、平家の先発隊と義仲方の武将・今井兼平いまいかねひららがぶつかった前哨戦です。

この戦いで義仲方は平家の先発隊を退け、平家の本隊を倶利伽羅峠の方面へと誘い込む足がかりを作りました。前哨戦の勝利が、続く本戦の布石になったのです。

■ 倶利伽羅峠への誘引作戦

義仲は、まともにぶつかれば数で勝る平家に勝ち目が薄いと考えていました。そこで、峠という狭く険しい地形を最大限に利用する作戦を立てます。

まず義仲は、源氏の白旗をあちこちの山に立てさせ、自軍を実際より大きく見せかけました。さらに軍を複数に分け、平家軍を倶利伽羅峠へとじわじわ誘い込んでいきます。平家軍は峠の上で陣を張り、夜を迎えることになりました。

木曽義仲
木曽義仲

我が軍は数では劣る。ならば真正面からは戦わぬ。地の利を活かし、敵を峠の上へ追い詰めてから一気に攻めるのみよ。

■ 夜襲と火牛の計

そして夜——。義仲軍は四方から一斉に鬨の声をあげ、平家軍に夜襲をしかけました。暗闇の中で混乱した平家の大軍は、逃げ場を求めて峠の急な斜面へとなだれ込みます。

峠の谷は地獄谷じごくだにとも呼ばれる深い谷でした。後ろから味方に押され、前は崖。逃げ場を失った平家の兵たちは、次々と谷底へ転落していったと伝えられています。

このとき義仲が用いたとされるのが、有名な火牛の計かぎゅうのけいです。数百頭の牛の角に松明を結びつけて火を放ち、平家の陣へ突っ込ませて大混乱を引き起こした——と物語は伝えています。

ただし、この火牛の計が本当にあったのかどうかは、実は今も決着がついていません。次の章でくわしく検証してみましょう。



火牛の計は史実か?伝説か?

火牛の計は、倶利伽羅峠の戦いを語るうえで欠かせない名場面です。しかし歴史学の世界では、これは後世の創作(脚色)である可能性が高いと考えられています。その理由は、どの史料に書かれているかを比べるとはっきりしてきます。

「火牛の計」はどの史料に書かれている?
  • 源平盛衰記(南北朝〜室町期成立)…火牛の計を 詳しく描写している
  • 平家物語(鎌倉期成立)…夜襲と峠での転落は描くが、火牛の計の描写は基本的に見られない
  • 玉葉など同時代の記録…合戦の事実は伝えるが、火牛の計の記述は確認できない

つまり、火牛の計が登場するのは、戦いから100年以上あとに成立した『平家物語』系の軍記の中でも、特に『源平盛衰記』という比較的新しい本に限られているのです。古代中国の故事(斉の田単の火牛の計)をモデルにした、物語的な脚色だと考えられています。

ゆうき
ゆうき

えっ、火牛の計ってウソだったの?じゃあ実際のところ、本当はどんな作戦だったの?

もぐたろう
もぐたろう

「ウソ」と決めつけるより、「伝説として有名だけど、史実かどうかは確かではない」が正しい理解だよ。史実として確かなのは「夜襲と地形を活かした奇襲」。火牛の派手な演出は後から物語で付け加えられた可能性が高いんだ。それでも、義仲の作戦の巧みさは本物だよ!

火牛の計が脚色だとしても、夜襲と地形を活かして平家の大軍を打ち破った義仲の戦いぶりそのものは、れっきとした史実です。次の章では、その義仲と、ともに戦った巴御前について見ていきましょう。



木曽義仲と巴御前

倶利伽羅峠の戦いの主役・木曽義仲(源義仲)は、1154年に源義賢の子として生まれました。父を早くに亡くし、信濃国の木曽谷で育ったことから「木曽義仲」と呼ばれます。北陸を制覇したのち上洛を果たし、朝廷から朝日将軍あさひしょうぐん(旭将軍)の称号を与えられました。

巴御前(源義仲に仕えた女武者)
巴御前 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

その義仲とともに戦場を駆けたのが、巴御前ともえごぜんです。巴御前は『平家物語』に登場する女武者で、義仲の側近として常に戦いに同行したと描かれています。

『平家物語』は彼女を「一人当千の兵(ひとりで千人にも匹敵する強者)」と評し、その勇猛さと美しさを伝えています。義仲が最期を迎える粟津あわづの戦いの直前まで付き従ったとされ、義仲との深い絆を象徴する存在として、後世に語り継がれてきました。

📖 巴御前と義仲の別れ(平家物語より):義仲が最後の決戦・粟津の戦いを前にして、巴に「お前は早くどこかへ落ちのびよ。女を連れていては死に場所もない」と告げたと『平家物語』は伝えています。巴は涙をのんで離れ、ひとり生き延びたとされています。この場面は多くの文学作品・大河ドラマでも印象的に描かれており、義仲と巴の絆を象徴する名シーンとして語り継がれています。

次の章では、義仲が打ち破った相手——平家軍を率いた武将たちに目を向けてみましょう。

あゆみ
あゆみ

大河ドラマでも女武者の巴御前って印象的だったけど、彼女って本当に実在した人なの?

もぐたろう
もぐたろう

実は巴御前は、確かな史料には登場しなくて、主に『平家物語』の中で語られる人物なんだ。だから実在したかどうかははっきりしない、というのが正直なところ。それでも、現在の滋賀県大津市にある義仲寺には義仲と巴御前ゆかりの伝承が残っていて、今も多くの人に愛されているよ。

次の章では、義仲が打ち破った相手——平家軍を率いた武将たちに目を向けてみましょう。



平家軍の武将たち

倶利伽羅峠で大敗を喫した平家軍ですが、その顔ぶれは決して弱い武将ばかりではありませんでした。総大将をつとめたのは、平清盛の嫡孫にあたる平維盛です。

平維盛の肖像
平維盛 出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

倶利伽羅峠の戦いに参加した主な平家武将
  • 平維盛たいらのこれもり…総大将。清盛の孫。この敗戦で名声を落とし、のちに出家・入水したと伝わる
  • 平通盛たいらのみちもり…副将格。のちの一ノ谷の戦いで戦死
  • 平忠度たいらのただのり…清盛の弟。歌人としても知られ、一ノ谷の戦いで討たれた

総大将の平維盛は、清盛の嫡男・平重盛の子で、平家の貴公子として将来を期待された人物でした。しかし、その2年前の富士川ふじがわの戦いでも水鳥の羽音に驚いて敗走したと伝わるなど、武将としての評価は芳しくありません。倶利伽羅峠の大敗は、その評判を決定的なものにしてしまいました。

平維盛
平維盛

大軍を率いて北陸へ向かったというのに…まさか峠の闇の中で、これほどの兵を失うことになろうとは。これでは京に顔向けできぬ…。

こうして総崩れとなった平家軍は、北陸からの撤退を余儀なくされます。次の章では、この大敗が平家とその後の源平合戦にどんな影響を与えたのかを見ていきましょう。



倶利伽羅峠の戦いの結果と影響

倶利伽羅峠での大敗により、平家軍は壊滅的な打撃を受けました。夜の峠で総崩れとなった兵たちは、味方の同士討ちや谷底への転落で次々と命を落とし、生き残った者も武器を捨てて北陸の各地へと逃げ散っていきます。

総大将の平維盛たいらのこれもりはかろうじて戦場を脱出しましたが、率いてきた大軍はもはや組織だった軍隊の体をなしていませんでした。北陸を平定して義仲よしなかを討つはずだった遠征は、完全な失敗に終わったのです。

■ 篠原の戦いと斎藤実盛の最期

敗走する平家軍を、義仲は追撃しました。約20日後の6月1日(寿永2年・旧暦)、加賀国の篠原しのはら(現在の石川県加賀市付近)で再び両軍が衝突します。これが篠原の戦いしのはらのたたかいです。

この戦いで命を落としたのが、平家方として奮戦した老将斎藤実盛さいとうさねもりでした。実盛は白髪を隠すために髪と髭を黒く染めて出陣し、最後まで踏みとどまって討ち死にしたと伝えられています。討ち取られた首を洗わせたところ、墨が落ちて白髪が現れ、義仲が涙したという逸話は『平家物語』の名場面のひとつとして知られています。

📝 豆知識:斎藤実盛は、かつて幼い義仲の命を救った恩人だったとも伝えられます。敵味方に分かれて戦った因縁の相手の死に、義仲が涙したという逸話が生まれた背景には、こうした関係があったとされています。

■ 平家の都落ち

北陸での連敗は、京都の平家政権にとって致命的でした。倶利伽羅峠から約2か月後の1183年7月、義仲軍が京へ迫ると、平家は都を守りきれないと判断します。

平家は幼い安徳天皇あんとくてんのう三種の神器さんしゅのじんぎを奉じて京都を脱出し、西国(九州・瀬戸内方面)へと落ちのびていきました。平家はその後も屋島の戦いなど各地で奮戦しますが、勢いを取り戻すことはできませんでした。これが平家の都落ちへいけのみやこおちです。栄華を誇った平家が本拠地である京都を捨てた瞬間であり、源平合戦の流れが大きく源氏側へ傾いた決定的な転換点となりました。

■ 義仲の入京と新たな対立の火種

平家が去った京都へ、義仲は意気揚々と入城しました。倶利伽羅峠の勝者として、源氏のなかでいち早く京を制した英雄の凱旋です。

しかし、この栄光は長くは続きませんでした。

📝 「木曽の田舎武者」の洗礼:山深い木曽谷から出てきた義仲の兵士たちの多くは、大都市・京の暮らしを知りませんでした。食料調達のために民家を荒らし回ったため、京の人々は義仲軍を「木曽の山猿」と侮りました。栄光の入京からわずか半年余りで、義仲の評判は急速に地に落ちていきます。

京での義仲軍の乱暴狼藉や、皇位継承をめぐる後白河法皇ごしらかわほうおうとの対立、さらに鎌倉で力を蓄える源頼朝との緊張が一気に高まっていきます。倶利伽羅峠の戦いは義仲の絶頂であると同時に、その後の没落への第一歩でもあったのです。

あゆみ
あゆみ

たった一つの戦いが、その後の歴史にここまで影響したのね。倶利伽羅峠の戦いって、結局どんな意味を持っていたの?

もぐたろう
もぐたろう

ズバリ「平家を西国へ追い落とした決定打」だよ!この戦いがなければ平家の都落ちはもっと遅れていたはず。源氏が攻勢に転じるきっかけになった、源平合戦の大きな転換点なんだ。ちなみに源平合戦全体の流れは、治承・寿永の乱の記事でまとめてあるよ!

では、この激戦の舞台となった倶利伽羅峠は、現在どのような場所になっているのでしょうか。次の章で見ていきましょう。



倶利伽羅峠の場所と現在の様子

倶利伽羅峠は、現在の富山県小矢部市とやまけんおやべし石川県津幡町いしかわけんつばたまちの県境にある峠です。標高は約277メートルで、かつて北陸道が通る交通の要所でした。京都方面から北陸へ抜ける道がこの峠を越えていたため、平家軍と義仲軍の決戦の地となったのです。

峠の山頂付近には倶利伽羅不動寺くりからふどうじがあり、戦いにちなんだ火牛の像や古戦場を示す石碑が建てられています。角に松明を結びつけた牛をかたどった像は、この地が「火牛の計」の伝説の舞台であることを今に伝えています。

📍 倶利伽羅峠へのアクセス:最寄り駅はJR倶利伽羅駅(IRいしかわ鉄道・あいの風とやま鉄道)。古戦場跡や倶利伽羅不動寺へは駅から峠道を進みます。春は桜とツツジの名所としても知られています。

800年以上が経った今も、峠の地形そのものは大きく変わっていません。険しい山道を実際に歩いてみると、義仲がなぜこの地形を「決戦の場」に選んだのか、その狙いを肌で感じることができます。



よくある質問(FAQ)

1183年(寿永2年)5月11日に起きました。旧暦のため、現代の暦に直すとおおよそ6月初旬頃に相当します。源平合戦(治承・寿永の乱)の流れのなかで起きた合戦です。

源氏方の木曽義仲が勝利しました。平家の総大将・平維盛が率いる大軍を義仲軍が撃破し、平家軍は壊走しました。この敗北が、のちの平家の都落ちにつながっていきます。

現在の歴史学では「伝説・軍記物語的な脚色」とする見方が主流です。角に松明を結んだ牛を突入させたという描写は南北朝〜室町期成立の『源平盛衰記』に記されており、より古い『平家物語』の諸本には見られません。史実としては、夜襲と峠の地形を活かした奇襲作戦であったと考えられています。

木曽義仲(1154〜1184年)は源義賢の子で、信濃国木曽で育った源氏の武将です。源頼朝のいとこにあたります。倶利伽羅峠の戦いで平家を破り上洛を果たしましたが、その後は後白河法皇や源頼朝と対立し、1184年の粟津の戦いで源範頼・義経の軍勢に討たれました。「朝日将軍」の異名で知られます。詳しくは木曽義仲の生涯をまとめた記事もあわせてご覧ください。

富山県小矢部市と石川県津幡町にまたがる、標高約277メートルの峠です。最寄り駅はJR倶利伽羅駅です。山頂付近には倶利伽羅不動寺があり、火牛の像や古戦場碑が建てられていて、現在でも訪れることができます。

倶利伽羅峠の戦い・源平合戦についてもっと詳しく知りたい人へ

①「平家物語」を原文で楽しみたい人に|ルビ付きでスラスラ読める入門版

現代語訳と古文を並べて読める入門書。倶利伽羅峠の戦いが描かれた「木曽の最期」「都落ち」などの名場面も収録。読んでみると「平家物語って面白い!」と感じるはずです。

📎 こんな人には向かない:原典のすべての巻をじっくり読みたい人・学術的な注釈が必要な人


②木曽義仲の生涯を一冊で知りたい人に|「朝日将軍」の全貌がわかる

信濃の山里で育ち、倶利伽羅峠で平家を打ち破った義仲が、なぜ最後は頼朝に討たれたのか。その激動の生涯を物語形式でわかりやすく解説。義仲ファンの入門書として定評があります。

📎 こんな人には向かない:学術的な一次史料の分析を求める人・源頼朝側の視点で読みたい人


③源平合戦全体を学術的に理解したい人に|中公新書の定番

「なぜ義仲は頼朝に負けたのか?」を史料から徹底解明した中公新書。倶利伽羅峠の戦いを含む源平合戦の政治的背景・軍事的経緯が学術レベルでわかります。高校生〜大学生・歴史好きの大人に特におすすめ。

📎 こんな人には向かない:物語として楽しみたい人・源平合戦の基礎知識がまったくない人




まとめ

もぐたろう
もぐたろう

以上、倶利伽羅峠の戦いのまとめでした!1183年、木曽義仲が峠の地形を巧みに使って平家の大軍を打ち破ったこの一戦が、平家滅亡への大きな引き金になったことを覚えておこう。下の記事で、義仲のその後や源平合戦の全体像もあわせて読んでみてください!

倶利伽羅峠の戦い・関連年表
  • 1180年
    以仁王の令旨を受け、源頼朝・源義仲が挙兵
  • 1183年5月9日
    前哨戦・般若野の戦い
  • 1183年5月11日
    倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)。義仲が平維盛の大軍を撃破
  • 1183年6月1日
    篠原の戦い。斎藤実盛が討ち取られる
  • 1183年7月
    平家が安徳天皇を奉じて都落ち。義仲が入京
  • 1184年1月
    粟津の戦い。木曽義仲が源範頼・義経軍に討たれる
  • 1185年
    壇ノ浦の戦い。平家滅亡

📅 最終確認:2026年6月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』

参考文献

Wikipedia日本語版「倶利伽羅峠の戦い」「木曽義仲」「篠原の戦い」(2026年6月確認)
コトバンク「倶利伽羅峠の戦い」「木曽義仲」「平維盛」「斎藤実盛」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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