今回は、古代日本で流行った結婚スタイル「妻問婚」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
妻問婚とは
妻問婚とは、結婚しても夫婦一緒に暮らすのではなく、夫と妻は別居して、夫が定期的に妻に会いに行く、そんな結婚スタイルのことを言います。
一言に結婚と言っても、今と昔では夫婦生活は全然違ったんだね。
なぜ妻問婚が始まったの?
妻問婚が始まった理由を探るには、時代をずーっと昔の縄文時代までさかのぼる必要があります。
縄文時代の人々は、だいたい20〜30人程度の一族が集まって、集団で生活をしていました。男は狩に出かけて食料を集め、女は家にこもって家事全般を担います。
・・・しかし、20〜30人の血の繋がった人たちだけで生活していると、1つ大きな問題に直面します。それは、若い人たちが結婚相手を見つけることできないという問題です。
現代風に言うと、小さな町や村に住んでいる若者には出会いがないっていう事情ととても似ています。
そこで、若い男女を一族外の人たちと交流させることにしました。ただ、女性は仕事柄ずーっと家にこもっているし、外出するのは危険です。
なので、外部の男が女のところ訪れる形で、男女の愛を深めていくスタイルが確立するようになりました。
女のところにやってきた男は、やることを済ませたら、その女性とは一緒に暮らさず、元の一族のところ戻り、狩の仕事に励みました。
この縄文時代の結婚スタイルが、妻問婚の起源なんじゃないか?と言われています。
弥生時代になって稲作が始まると、20〜30人程度では人手が足りないため、人々はもっと大きな集落を作って暮らすようになります。
そうなると人口が増えるため、「男女の出会いがない・・・」という問題は少しずつ解決していきましたが、弥生時代以降もこの結婚スタイルが続くことになりました。
縄文時代は一万年も続いたから、その長い年月で人々に根付いた文化や価値観は、簡単には変わらなかったんだね。
この縄文時代の結婚スタイルが進化して、古代日本の結婚スタイルとして確立したのが妻問婚です。
※妻問婚の仕組みが完成したのは、古墳時代だろうと言われています。
妻問婚の仕組み
まずは男性が、好みの女性を見つけます。
道端で出会うこともあれば、何かイベントで出会うこともあったでしょう。中には、実際に会わなくても、知人から聞いた噂などを頼って、意中の女性を見つけることもありました。
竹取物語に登場するワシの娘、かぐや姫は、美貌の噂だけで多くの男性から求婚を受けておるぞ!!(自慢)
意中の女性を見つけたら、次は手紙(ラブレター)を送ります。
ラブレターは文章ではなく和歌で送ります。女性は、和歌の内容を見て、相手がどんな男性なのかを想像し、会っても良いと思えば、返信の和歌を送るのです。
このラブレターを送る手順はとても重要です。ラブレターで女性の心を惹かなければ、見向きもされないわけですからね。
当時の恋愛においては、和歌の上手さは、そのまま男のモテ具合に直結したわけです。
女性からの返信が来たら、交際開始です。数回の手紙をやり取りした後、夜に男性が女性の元を訪れ、男女の営みを行います。
男性は朝が来る前に自分の家に帰ります。結婚するまでは、女性の家の中を堂々と歩けないのです。
そして、男女ともに「この人となら結婚してもいいかな・・・」と思ったら、男性が三日続けて女性の元へ通い、三日目の朝に結婚の儀式を行います。
こうして正式に結婚が認められ、男性は堂々と女性の実家に足を運べるようになる・・・ってわけです。
妻問婚の子育て事情
妻問婚をした夫婦に子供が産まれると、育児は母親の実家で行われます。
※父親は子供に会うこともあれば、会わないこともありました。
母親だけのワンオペ育児は難しいので、実家の一族が協力して育児を行います。
そして、子育てに関して一番発言力を持っていたのが、母親の実家の長でした。家長には、子供から見た祖父や叔父がなることが多くて、子供の教育方針や生活環境に関して強い影響力を持っていました。
摂関政治のきっかけとなる
この妻問婚の子育て事情を利用して、藤原氏が天皇の母親の親戚(外戚)になって政治の実権を握ったのが摂関政治です。
なんで外戚が政治の実権を握れるようになるの?
藤原氏がどうやって政治の実権を握ったのか、さっそく実例をみていきましょう。
平安時代の858年、わずか9歳の天皇、清和天皇が即位しました。
しかし、9歳ではとても政務を行うことはできません。そこで、天皇を補佐する摂政を置くことが決まります。
摂政を置くことが決まれば、次は「誰を摂政にするか?」と言う話になります。そこで候補に挙がったのが、清和天皇の外祖父だった藤原良房という人物です。
※子供から見た母方の祖父のことを外祖父と言います。
当時は、「摂政になれるのは皇族のみ」という暗黙のルールがありました。しかし、当時の子育て事情を考えれば、乳飲児の頃から清和天皇の面倒を見てきた外祖父が、引き続き摂政として天皇を支えるのが自然な流れです。
これまでも清和天皇の世話は外祖父である私が見てきた。そして、これからも私は孫の清和天皇を支えなければならぬ。
摂政は皇族しかなれないというルールがあるのはわかる。しかし、家庭の事情を考えれば、じいちゃんの私が孫を支えるのが常識だし、私以外に摂政の適任者はいない!!
こうして藤原良房は、「摂政になれるのは皇族のみ」というルールを打ち破って、外祖父の立場を利用して摂政となり、幼い清和天皇に変わって政治の実権を握りました。
さらに、藤原良房の後を継いだ藤原基経は、天皇が成人後も引き続き補佐を行う関白というポジションを創設し、政治の実権を握り続けました。
藤原氏が天皇の外戚という立場から、天皇が幼かったら摂政、成人していたら関白として、政治の実権を握りつづけたこの仕組みのことを摂関政治と言います。
子供は母親の家で育てるという当時の習慣を利用して、藤原氏は政治権力を握ったんだね!
妻問婚の終わり
古墳時代から続いた妻問婚も、平安時代中期になると次第に変化が見られます。
まず1つに、結婚した後も別居をしていた夫が、妻の実家で同棲するようになりました。この結婚スタイルのことを婿取婚と言います。
さらに、夫婦が同じ家に住むのが当たり前になると、次第に夫婦は妻の実家ではなく、夫の実家で暮らすようになりました。この結婚スタイルのことを嫁入婚と言います。
現代の結婚は、女性が男性の苗字になることが多いことを考えると、嫁入婚と言うことができます。ただ、近年は夫婦別姓の議論もありますね。
鎌倉時代に入って武士の時代になると、世の中は完全に嫁入婚の時代となります。江戸時代の大河ドラマなんかで登場する大奥なんかがわかりやすい例ですね。将軍と結婚した女性は、実家を離れて生活基盤を江戸城の大奥に移しました。
嫁入婚が主流になると、子育ての場も父親の実家へと移り、外戚の立場を利用していた摂関政治も行えなくなってきます。
摂関政治に大きな変化が見られたのは、平安時代も後半戦に入った1073年、白河天皇が即位したころからでした。
白河天皇は1087年に譲位して上皇となりましたが、その後も天皇になった息子(堀河天皇)や孫(鳥羽天皇)を後見する立場から政治の実権を握り続けました。
※上皇が政治の実権を握る仕組みのことを院政と言います。
摂関政治の理屈で行けば、天皇を後見するのは母親の実家のはずです。しかし、この頃にはすでに嫁入婚が主流になりつつあり、天皇を後見するのは父親の実家(天皇家)になっていました。
そして、天皇家の実家の長は上皇です。
こうして、子育ての場が母親の実家→父親の実家に移るのに合わせて、政治の仕組みも摂関政治→院政へと移る変わっていくことになったのです
結婚制度の変化は、日本の政治にも大きな影響を与えていたんだ!
夫に会えない妻の気持ち(おまけ)
妻問婚は夫が妻に会いにいくスタイルなので、夫婦が会えるかどうかは、基本的に夫の意向で決まります。
妻が夫に会いたいと思っても、自分から会いにいくことはできないのです・・・。妻にできることは、夫が「また妻に会いたい!」と思ってくれるよう、一緒にいる時に気遣いをしたり手紙を送って自分の気持ちを伝えることだけでした。
しかも当時は一夫多妻制です。
いくら妻が夫に会いたいと思っても、夫が別の女性を愛するようになれば、自分のところにはやってきません。
※当時は離婚の仕組みが曖昧だったので、夫がしばらく妻のところに来なければ、夫婦関係が自然消滅してしまうこともありました。
当時の女性の複雑な気持ちは、女心のわからない私ですら察することができます・・・。
平安時代にブームになった女流文学の作品の中には、妻問婚で一喜一憂する女性たちの気持ちを、鮮やかに描いている作品もあります。
もし妻問婚の様子や恋愛観に興味がある方は、蜻蛉日記を読んでみることをオススメします。
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