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平城太上天皇の変(薬子の変)を簡単にわかりやすく解説するよ【嵯峨天皇が蔵人頭を設置する】

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もぐたろう
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今回は、810年に起こった平城太上天皇へいぜいだいじょうてんのうの変(別名:薬子くすこの変)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ。

この記事を読んでわかること
  • 平城太上天皇の変ってそもそも何?
  • 平城太上天皇の変はなぜ起こったの?
  • 平城太上天皇の変の経過を知りたい
  • なぜ別名が薬子の変なの?
  • 平城太上天皇の変で日本の政治はどう変わったの?
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平生太上天皇の変(別名:薬子の変)とは

平城太上天皇の変とは、810年に平城太上天皇が嵯峨天皇さがてんのう反旗はんきひるがえした事件です。

※太上天皇:譲位した(引退した)後の元天皇のこと。「上皇」とか「院」とも呼ばれることがあります。

当時の日本は、天皇が最高権力者でした。それにも関わらず、天皇を引退したはずの太上天皇が天皇と同等の力を持ち、しかも、反乱を起こそうとした・・・という点で、平城太上天皇の変は日本史上の大事件となりました。

平安時代の後期になると、上皇が朝廷の実権を握った院政いんせいが行われるようになりました。

しかし、当時はまだ太上天皇(上皇)が実権を持つことなんて想定されていません。

平城太上天皇の変は、太上天皇でも権力を実権を握れること、つまり将来起こりうる院政の可能性を示唆しています。

※示唆:それとなく教えること。また、暗にそそのかすこと。

もぐたろう
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平城太上天皇の背後には、藤原薬子ふじわらのくすこという女性が暗躍していたので、変のことを薬子の変と呼ぶこともあります。

事件のことは、「平城太上天皇の変」でも「薬子の変」でもどちらで呼んでもOKです。

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平城太上天皇の変が起こった時代背景

平城太上天皇の変について、バッチリ理解するには平城天皇について知っておく必要があります。

806年、桓武天皇かんむてんのうが亡くなると、その後を継いで天皇即位したのが平城天皇へいぜいてんのうです。

この平城天皇、実は大きな女性問題を抱えていました。

問題のきっかけになったのは、平城天皇が皇太子の頃に、平城天皇に嫁ぐことになった1人の娘。

※当時は天皇は、一夫多妻制でした!

その娘はまだ幼く、藤原薬子の娘でした。

もしかして、その幼い娘と何かあったのかしら・・・?

・・・と思うかもしれませんが、ちがいます。

問題の女性というのは嫁いだ娘・・・ではなく、実はその母の藤原薬子の方でした。幼い娘が平城天皇に嫁ぐと、藤原薬子も娘をサポートするため、平城天皇の住む場所(東宮)に入ります。

すると、事もあろうに、平城天皇は藤原薬子と不倫関係を持ってしまったのです。

・・・えっ!?つまり、藤原薬子は娘の旦那さんとイケナイ関係になったってこと・・・?

もぐたろう
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実は、その通りなんだ・・・。

平城天皇の藤原薬子とのアブナイ関係が桓武天皇の耳に入ると、桓武天皇は大激怒。藤原薬子を東宮から追放してしまいます。

・・・が、806年に平城天皇が即位すると、平城天皇はすぐに藤原薬子を呼び戻してしまいます。

もぐたろう
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桓武天皇に一度引き離されてしまったことで、再開した時の二人は、それまで以上に気持ちが燃え上がったのではないか思います・・・!

このアブナイ関係が恋愛話だけに留まっていれば、この話は単なるゴシップネタで終わっているはずでした。

しかし、こともあろうに藤原薬子は、平城天皇とのアブナイ関係を利用して政治にまで介入するようになったのです。

藤原薬子は、女官の最高ポジションであり、天皇に仕える尚侍ないしのかみという役職に就任。さらに、藤原薬子の兄である藤原仲成ふじわらのなかなりが朝廷の中でどんどん出世していきました。

藤原一族の政治争い

藤原氏は、飛鳥時代末期〜奈良時代初期に活躍した藤原不比等の功績により、歴史の表舞台へ登場することになりました。

藤原不比等ふじわらのふひと亡き後は、4人の息子たちの血筋により一族が分かれ、それぞれ北家ほっけ南家なんけ式家しきけ京家きょうけと呼ばれるようになりました。

朝廷では、奈良時代後期以降、この4家による藤原氏同士の権力争いが激しくなります。

南家・京家は、奈良時代後期に没落し、平城天皇の時代には、北家と式家の一騎打ちの状況でした。

そして、藤原薬子・仲成は、式家出身の人間でした。藤原薬子は、平城天皇とのアブナイ色恋関係を利用して、式家によって政治の実権を握り、一族の繁栄を図ろうとしたのです。

しかし、平城天皇の治世は長くは続きません。809年4月、平城天皇は病に倒れると、これを怨霊の仕業だと恐れ始め、突如として譲位してしまったのです。

怨霊の正体

桓武・平城親子が天皇になれたのは、天皇の座めぐる皇族同士の熾烈な政治争いがあって、その勝者になったからです。

平城天皇が恐れた怨霊というのは、この政治争いに敗北して命を落とした、早良親王さわらしんのう伊予親王いよしんのうという2人の皇族のことでした。

早良親王は、長岡京遷都をめぐるトラブルで命を奪われ、伊予親王は、謀反の疑いをかけられ平城天皇の時代に命を落としています。

当時は、天災や病など人間の力で抗うことのできない事象を「恨みを持って亡くなった人物の怨霊の仕業だ!」と人々は考えました。平城天皇は病の原因を、自分が天皇の座に立つために犠牲となった早良親王・伊予親王の仕業と考えたのです。

愛人の藤原薬子は、平城天皇が譲位すると自分の政治力も無くなってしまうため、譲位に反対しましたが、平城天皇の決意が変わることはありませんでした。

こうして、平城天皇の弟に当たる嵯峨天皇が即位することになります。

※桓武天皇は、兄の平城天皇が病弱であったことを考慮して、兄の後継者を弟の嵯峨天皇にするよう遺言を残していました。平城天皇は、その遺言に従ったのです。

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二所朝廷

嵯峨天皇

嵯峨天皇は即位すると、平城天皇の息子である高岳親王たかおかしんのうを皇太子に指名します。

嵯峨天皇は、あくまで天皇の血筋は兄の平城天皇である・・・と考えていたようで、この時点では、嵯峨天皇と平城太上天皇の対立は表向きは見られませんでした。

・・・が、嵯峨天皇の治世が始まると、この二人の仲が急速に悪化していきます。

原因ははっきりとはわかりませんが、1つ言えることは、平城天皇が創設した『観察使かんさつし』という仕事を、即位後まもなく嵯峨天皇が縮小・廃止しようとして、両者の意見が対立していたらしい・・・ということです。

※平城天皇は、怨霊を恐れてわずか3年で譲位したものの、しっかりとした政治理念を持っていました。そのため、自らの功績をないがしろにする嵯峨天皇をこころよく思わなかった・・・と言われています。

809年12月になると、平城太上天皇は平安京を離れ、平城京を拠点に生活をするようになります。

もぐたろう
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809年12月時点で、二人の関係は崩壊していて、平城太上天皇は将来起こりうる嵯峨天皇との争いを想定して、平安京を離れた・・・と考えられています。しかし、平安京を離れたはっきりとした理由は今もなお、わかっていません。

この時の様子を、まるで朝廷が平城京と平安京の2つにあるようだったので、二所朝廷と言います。

810年6月には、嵯峨天皇が観察使の廃止を決定。

すると、これに対抗するかのように810年9月6日、平城太上天皇が大きな動きを見せます。嵯峨天皇の意向を無視して、平城京還都かんとの命令を朝廷に出したのです。

※還都:みやこを前の場所に戻すこと

平城太上天皇は、都を平城京に戻して、嵯峨天皇に代わって再び政治の実権を握ろうと考えたのです。嵯峨天皇から見れば、これは完全なる反逆行為です。

嵯峨天皇
嵯峨天皇

ついに、強引に私の権力を奪いにきたか・・・。

しかし、兄が平城京に移った時点で、こうなることは想定済であるし準備もしている。兄が私と戦おうというのなら、私もしかるべき行動を採ろうではないか。

平城太上天皇が平城京へ還都して、嵯峨天皇の実権を奪おうとしたこの事件こそが、今回紹介する平城太上天皇の変(薬子の変)となります。

平城京還都を計画した首謀者は、平城太上天皇の藤原薬子どちらかだと言われています。しかし、どちらかまでは断定できません。

平城太上天皇が首謀者だと考える場合は平城太上天皇の変藤原薬子が首謀者だと考える場合は薬子の変と呼びます。なので、教科書ではカッコ書きで(薬子の変)と併記しているのです。

天皇と太上天皇の権力について

当時は、天皇と太上天皇の権力に明確な優劣はありませんでした。

ただ、太上天皇は、天皇が治める朝廷のような組織を持っていなかったり、命令を出すのに必要な天皇の印(御璽ぎょじ)を持っていなかったりと、実務上は天皇の方が有利な立場でした。

※逆に言えば、恵美押勝の乱(764年)の時のように、太上天皇(上皇)が御璽を天皇から奪うことに成功すれば、立場が逆転することもあります。

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平城太上天皇の変

平城太上天皇のクーデターを知った嵯峨天皇の行動は、実に冷静で狡猾なものでした。

嵯峨天皇は平城太上天皇に抵抗する姿勢を見せず、平城京還都の命令が出された9月6日当日、すぐさま平城京の再建に必要な人材を送り込みます。送り込まれたのは、嵯峨天皇が信頼する坂上田村麻呂藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐなどでした。

これは、いわゆるスパイです。嵯峨天皇は、平城京再建を建前にスパイを送り込んで、平城京の様子を探ろうとしたのです。

もぐたろう
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嵯峨天皇の寵臣がやってくるのですから、平城太上天皇も当然、スパイであることには気付いていたはず。

あえて寵臣を送り込んだのは、スパイ活動と同時に、平城太上天皇に抵抗の意思を示し、平城太上天皇を牽制する狙いもあったものと思われます。

いずれにせよ、敵地にスパイとして乗り込むというのは、命懸けの行為です。坂上田村麻呂や藤原冬嗣が、嵯峨天皇から相当深い信任を得ていたことがわかります。

※実際、平城太上天皇の乱の後、藤原冬嗣は嵯峨天皇の側近として教科書にも登場することになります。

さらに数日後、嵯峨天皇は、畿内から東国に向かうための3箇所のルートを封鎖します。平城太上天皇が東国に逃げて味方を集めるのを防ぐためです。

東国は、朝廷支配が強く及ばない未開の地であるため、一度東国に逃げられると、とても厄介だったのです。

さらには、壬申の乱(672年)の際に、大海人皇子おおあまのみこ(後の天武天皇)が東国に逃げ込んでクーデターを成功させた実例もあったため、東国への逃亡ルートはなんとしても塞ぐ必要があったのです。

同じ頃、朝廷で参議の要職となり平城太上天皇の息がかかっていた藤原仲成を監禁。

ここまで、平城京還都の命令が出てからわずか数日です。

スパイ活動、逃亡ルート封鎖、朝廷の危険人物の排除・・・、早すぎる嵯峨天皇の行動に対応しきれなくなった平城太上天皇は、9月11日、東国に逃げて体制を立て直すことを決断。

平城京を抜け出し、東国を目指して動き出します。

この情報を察知した嵯峨天皇は、すぐさま軍を派遣し、これを阻止します。

嵯峨天皇
嵯峨天皇

勝敗は既に決している。

兄は追い込まれれば、東国に逃げるしかないが、逃亡ルートはすでに封鎖済だ。

兵の量でも私が勝る。負けの確定した兄に味方するものは少ないだろう。

あとはいさぎよく降伏することだ。

9月12日、逃亡途中の平城太上天皇は、嵯峨天皇の軍に遭遇し、そのまま降伏。共に行動していた藤原薬子は毒を飲んで自害しました。

おまけに、薬子の兄の藤原仲成も死罪となり、藤原式家の没落が確定します。

こうして、平城太上天皇の変は、わずか一週間ほどで、事態が大きくなる前に鎮圧されてしまいました。

ちなみに、平城太上天皇はその後出家し、余生をひっそりと暮らしました。

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平城太上天皇の変(薬子の変)の影響

平城太上天皇の変は、日本の政治に大きく2つの変化をもたらしました。

藤原北家が最強の藤原氏になる

式家が没落したことで、北家・南家・式家・京家による長年の権力争いは、北家の勝利が確定しました。

先ほど嵯峨天皇の信頼できる寵臣として藤原冬嗣という人物の名を挙げましたが、この冬嗣こそが北家のエース的存在でした。

藤原冬嗣は、嵯峨天皇の下で着実に実力をつけ、藤原北家の繁栄を確実なものにしました。後の摂関政治の実力者として登場する藤原良房・藤原基経・藤原道長などはすべて北家に属しています。

平安時代中期の藤原氏による政治は、藤原冬嗣から始まった・・・と言っても過言ではないかもしれません。

蔵人頭が設置される

平城太上天皇と嵯峨天皇が対立している真っ最中だった810年3月、嵯峨天皇は蔵人頭くろうどのとうという役職を新たに設けました。

蔵人頭は、天皇直属の護衛軍and秘書的なポジションで、天皇の手足となって各地を走り回りました。

嵯峨天皇は、朝廷の各省に平城太上天皇の息のかかった貴族が紛れ込んでいることを強く警戒していたので、天皇直属の側近部隊として蔵人頭を設置したのです。

※女官トップの立場を利用して朝廷を暗躍できた藤原薬子は、嵯峨天皇にとって特に脅威でした・・・。

蔵人頭は、平城太上天皇の変の後も残り続け、天皇の政務を支える側近として、重要なポジションを担うことになります。

この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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コメント

  1. より:

    今の教科書は既に
    平城大上天皇の変になってます
    このサイトでいつも日本史勉強してます
    ありがとうございます

    • もぐたろうmogutaro より:

      このブログをお読みいただいでありがとうございます!
      既に変わっているんですね。という事は、黒幕はやはり平城上皇だったというのが国の公式見解なんですね( ..)φカキカキ