
今回はゴローウニン事件(ゴローニン事件)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!1811年に国後島でロシアの艦長が捕まった事件で、高田屋嘉兵衛の活躍と日本幽囚記のエピソードが見どころだよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
1811年、ゴローウニンというロシア海軍の艦長が、現在の北海道・国後島で日本側に捕まり、2年3か月にわたって松前に幽閉されました。
敵国の武将として捕らえられた彼ですが——実は、釈放されたあとにこんな言葉を残しています。
「日本人は世界で最も礼儀正しい民族だ」
自分を監禁した相手に、そこまで言わせてしまった日本人とは、いったいどんな人たちだったのでしょうか?ゴローウニン事件は、外交的な緊張が生んだ事件でありながら、人と人の誠実な向き合いがやがて和解を生んだ、江戸後期を代表するドラマです。
同一人物です。ロシア語の原音に近い表記は「ゴロヴニン(Golovnin)」。日本語では時代・文献によって「ゴローニン」「ゴローウニン」「ゴロウニン」と複数の表記が使われています。この記事では読みやすさを優先して「ゴローウニン」に統一し、「ゴローニン」は別表記として適宜紹介します。
ゴローウニン事件(ゴローニン事件)とは?
① 1811年、ロシア海軍艦長ゴローウニンが国後島上陸中に幕府に捕縛された
② 廻船商人・高田屋嘉兵衛が仲介役となり、1813年に解放が実現した
③ ゴローウニンは帰国後に「日本幽囚記」を著し、鎖国下の日本の姿をヨーロッパに伝えた
ゴローウニン事件とは、1811年(文化8年)7月に起きた日露間の外交事件です。ロシア帝国海軍の艦長ヴァシーリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン(日本ではゴローウニン・ゴローニンと呼ばれた)が、測量のために国後島に上陸したところを幕府の役人に捕縛されました。
ゴローウニンはその後松前城下に護送されて約2年3か月間を拘留され、1813年(文化10年)に解放されました。この事件は、直前に起きたフヴォストフ事件による日露の緊張が背景にあり、江戸後期の北方外交を語るうえで欠かせない出来事です。
テストでは「1811年・国後島・ゴローウニン・高田屋嘉兵衛・日本幽囚記」という5点セットが頻出です。次の章では、まずゴローウニンという人物を掘り下げていきましょう。

ゴローウニン事件って、テストにどう出るの?

「ゴローウニン事件で仲介をした人物は誰か?」という問いが定番だよ!答えは高田屋嘉兵衛ね。1811年という年号も「いやいや(1811)捕まった」みたいに覚えておくと楽だよ。
ゴローウニン(ゴローニン)とは? — 人物プロフィール

ヴァシーリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンは、1776年にロシア帝国で生まれた海軍軍人です。1802年からイギリスのポーツマスへ留学し艦船技術を習得、帰国後(1806年)はディアナ号の艦長に任じられた卓越した航海士官として知られていました。
ロシア政府から千島・カムチャツカ方面の測量調査を命じられた彼は、スループ艦「ディアナ号」を率いて極東へ向かいます。その目的は軍事侵略ではなく、正確な海図作成と補給拠点の調査でした。ゴローウニン自身は日本との戦争を望んでいたわけではありませんでした。

私はただ地図を作るために来ただけだ。日本が友好的に対応してくれれば、補給もスムーズに進むはずだった……。まさかこんなことになるとは、夢にも思わなかった。
ゴローウニンは1811年、国後島の水・食料・薪の補給を目的として上陸しました。このとき幕府はロシア船への強い警戒心を持っており——その背景には、数年前に起きたフヴォストフ事件の影響がありました。次の章では、なぜゴローウニンが捕まることになったのか、その背景を詳しく見ていきましょう。
ゴローウニン事件の背景 — なぜ捕まったのか
ゴローウニンが捕まった直接の原因は、幕府がロシア人全般を「敵」とみなす状況にあったことです。その根本には、1804〜05年のレザノフ来航と、それが引き起こした一連の日露間の緊張がありました。

ロシアの使節レザノフは1804年(文化元年)に長崎に来航し、通商条約の締結を要求しました。しかし幕府はこれを拒絶します。激怒したレザノフは部下に命じ、日本側の施設を武力で攻撃させました。
■フヴォストフ事件 — 緊張の原因
1806〜07年(文化3〜4年)にかけて、レザノフの部下であったフヴォストフとダヴィドフは、択捉島・樺太・利尻島に停泊する日本の船を次々と略奪・焼き打ちしました。これがフヴォストフ事件です。

この暴挙により、幕府は「ロシア人はいつでも日本を攻撃してくる」という強烈な先入観を持つようになります。北方の島々に「異国船打払令(外国船打払令)」的な強硬姿勢をとる下地がここで作られたのです。

フヴォストフ事件って、ゴローウニン本人はやっていないんですよね?なのになぜ捕まったの?

そう、ゴローウニン自身は何もやっていないんだよね!でも幕府にとっては「ロシア人=フヴォストフの仲間」というイメージが強烈にあって、国後島に現れたロシア軍人を見た瞬間に捕まえてしまったんだ。いわば連帯責任みたいな扱いだね。
1811年7月、ゴローウニンが艦を離れて国後島の松前奉行所に立ち寄ったのは、補給物資の入手について交渉するためでした。しかし奉行所の役人はロシア人将校が来たと知るや、その場で全員を拘束します。ゴローウニンとその部下計7名は武装解除され、松前へと護送されることになりました。事件の背景が理解できたところで、次の章では幽閉された2年3か月の捕虜生活を見ていきましょう。
ゴローウニンの抑留 — 捕虜生活の2年3か月
国後島で捕縛されたゴローウニン一行は、船で松前へ護送され、藩の蔵屋敷に幽閉されました。1811年8月から1813年10月まで、じつに約2年3か月もの間です。
幽閉生活は厳しいものでしたが、ゴローウニンは持ち前の知識欲で日本語・日本文化の学習に取り組みました。通訳を通じてさまざまな人と対話し、江戸時代の人々の暮らしを克明に記録していきます。この記録が後に「日本幽囚記」となります。

なぜ捕まえるんだ!私はフヴォストフの部下ではない!ただ補給のために来ただけだ!……しかしこの人々は、思っていたより礼節があった。怒りをぶつける気が薄れていくのがわかった。
■脱走未遂と間宮林蔵の来訪
1812年春(3〜4月)、ゴローウニンたちは松前の幽閉場所から脱走を試みます。3月25日に6名が脱走して山中を逃げましたが、4月4日に飢えて疲労困憊したところを村人に発見されて再び捕縛されました。この脱走未遂によってゴローウニンたちの処遇はより厳しくなります。
同じ1812年、探検家の間宮林蔵がゴローウニンに面会しに訪れました。間宮は幕府の命を受けて蝦夷地・北方の調査に当たっていた人物で、簡単なロシア語を話すことができました。二人の会話は通訳を交えながら続き、互いの国の事情について情報交換が行われました。
📌 間宮林蔵とは?:江戸後期の探検家で幕府の密偵。樺太が大陸から切り離された島であることを確認したことで知られ、その海峡に「間宮海峡」の名が残っています。ゴローウニン事件当時は蝦夷地担当の幕府役人として北方に派遣されていました。
幽閉中のゴローウニンが少しずつ日本を理解し始めていた一方、ロシア側では副艦長リコルドが仲間を救うため懸命に動いていました。そしてその救出劇に欠かせない人物が、廻船商人の高田屋嘉兵衛です。次の章では、高田屋嘉兵衛がどのようにして事件解決の立役者となったのかを見ていきましょう。
高田屋嘉兵衛の活躍 — 事件解決の立役者
■高田屋嘉兵衛とは?人物背景

高田屋嘉兵衛(1769〜1827年)は、摂津国(現在の兵庫県)淡路島の出身です。漁師・船乗りとして働きながら頭角を現し、やがて北方航路を開拓した大廻船商人として成功を収めました。
彼は自力で択捉島への新航路を発見し、国後島・択捉島と本州を結ぶ北前船の航路を整備するなど、北方貿易を一手に担う民間人として幕府からも一目置かれていました。今でいえば、海外物流を仕切る敏腕の起業家といったイメージです。

私は商人です。ロシアとの喧嘩は日本の北方交易を根本から壊す。それだけは避けなければならない。ならば私が動くしかないでしょう。
■拿捕→仲介→解放
1812年8月(旧暦)、国後島沖を航行中の高田屋嘉兵衛の船(観世丸)が、副艦長リコルドの率いるロシア艦・ディアナ号に捕捉されました。リコルドはゴローウニン救出の手がかりを求めており、北方に詳しい人物として高田屋嘉兵衛を「交渉のカード」として拿捕したのです。
捕虜となったにもかかわらず、高田屋嘉兵衛はリコルドと誠実に向き合います。「日本側が警戒しているのは、フヴォストフの襲撃がロシア政府の命令による国家ぐるみの侵略だったのではないか、という点だ。ロシアがそれを否定する公式の文書を出せば、幕府は必ずゴローウニンを解放するはずだ」と丁寧に説明し、リコルドの信頼を勝ち取りました。

高田屋嘉兵衛って、自分も捕まってるのに、なんで仲介できたの?

ここがすごいところだよ!高田屋嘉兵衛は捕虜の立場でも誠実な態度を崩さなかった。リコルドは彼の言葉を信じて、「この人なら幕府と交渉できる」と判断したんだ。正直さが最大の外交武器になったわけだね!
■カムチャツカでの越冬とリコルドとの友情
拿捕された高田屋嘉兵衛は、リコルドの船でカムチャツカ半島のペトロパブロフスクへ連れて行かれ、そこで厳しい冬を越すことになりました。捕虜の身でありながら、嘉兵衛はリコルドの官舎に寝泊まりし、寝食をともにしながら少しずつロシア語を覚えていきます。
言葉が通じ合うようになるにつれ、二人は互いの国の事情を率直に語り合うようになりました。嘉兵衛は「フヴォストフの暴挙はロシア政府の命令ではなく、一将校の独断にすぎない。ロシアがそれを公式の文書で証明すれば、事態は必ず動く」と粘り強く説きます。最初は半信半疑だったリコルドも、嘉兵衛の誠実な人柄に触れるうちに深く信頼するようになり、やがて二人は敵味方の立場を超えた友情で結ばれていきました。

リコルド殿とは、敵味方の立場を超えて語り合いました。同じ釜の飯を食い、寒い冬を一緒に越えれば、相手が信じるに足る男かどうかは、自ずとわかるものです。
高田屋嘉兵衛はその後、1813年にロシア艦と共に日本に戻り、幕府への直接交渉を仲介しました。彼の働きかけによって事態はついに動き始めます。事件の解決がどのように実現したのか、次の章で詳しく見ていきましょう。
ゴローウニン事件の解決 — 1813年の釈放
1813年(文化10年)の秋、ロシア側は幕府の要求に応じて、「フヴォストフの襲撃はロシア政府の命令によるものではない」という釈明の公文書(オホーツク長官の釈明書)を箱館に持参しました。これは幕府が最も求めていた一点——ロシアが国家ぐるみで日本を侵略したのではない、という証明——でした。
この釈明書を受け取った幕府は、ロシアの説明を受け入れてゴローウニンたちを釈放します。高田屋嘉兵衛の帰国と、ゴローウニンの解放は同時進行で実現しました。

ようやく自由になれた。……しかし正直に言えば、日本人への怒りはもうなかった。彼らは捕虜の私にも礼節を持って接してくれた。日本人は、私がこれまで出会ったどの民族よりも礼儀正しい人々だ。
📌 ゴローウニン事件の解決が持つ意味:この解決により、日露間の武力衝突は当面回避されました。しかし国後島・択捉島をめぐる北方の帰属問題は根本的には解決されておらず、幕末まで続く北辺防衛の課題として幕府に残りました。高田屋嘉兵衛は帰国後も北方貿易を続け、1827年(文政10年)に没しました。
こうして2年3か月におよぶゴローウニン事件は幕を閉じました。しかしこの事件の影響は、ゴローウニンが帰国後に著した一冊の本を通じて、思わぬ形で長く続くことになります。次の章では「日本幽囚記」とその歴史的な波及効果を見ていきましょう。

ゴローウニン事件って、今の日露関係にも何か影響を残しているんですか?

直接的なつながりはないけれど、国後島・択捉島をめぐる領有問題は現在の北方領土問題にもつながっているよ。当時の日露間の「どこからどこまでが自分たちの領地か」という曖昧さが、今もずっと続いていると考えるとリアルだよね。
事件の影響と日本幽囚記
■日本幽囚記の内容
帰国したゴローウニンは、2年3か月の捕虜生活で書き溜めた記録をもとに、1816年(ロシア語版)に日本幽囚記を著しました。全3巻からなるこの大著には、江戸時代の日本の風俗・習慣・法制度・人々の性格に至るまで、ロシア人捕虜の目から見た詳細な記録が収められています。
幽閉中に日本語を学んだゴローウニンは、松前の役人や医師、商人など様々な人々と対話を重ねました。その観察眼は鋭く、「刑罰は欧州よりもはるかに穏やかである」「農民であっても読み書きができる者が多い」「人々は礼節を重んじ、見知らぬ旅人にも親切だ」と記しています。

捕虜となった私を、日本の人々は侮辱しなかった。厳しく管理されながらも、人としての尊厳は守られた。この国のことを世界に正確に伝えることが、私にできる最大の恩返しだと思った。

日本幽囚記って、今でも読めるんですか?

岩波文庫から日本語訳が出ていて、現代でも読めるよ!外から見た江戸時代の日本のリアルな姿が描かれていて、「当時の庶民ってこんな生活をしていたんだ」と新鮮な発見がたくさんあるんだ。歴史好きな人にはすごくオススメの一冊だよ!
■ペリーも読んだ!歴史的意義

日本幽囚記はロシア語版が出版されると、程なくドイツ語・英語・フランス語などに翻訳されて欧米各国で広く読まれました。鎖国下の日本の実態を詳細に記した書物は当時ほとんど存在しなかったため、この本は西洋世界にとって「日本を知るための教科書」的な役割を果たすことになります。
1853年にペリーが来航した際、日本に関する情報を事前に収集していたとされており、日本幽囚記もその参考資料の一つだったと言われています。ただし直接的な証拠は乏しく、「参考にしていた可能性が高い」という表現にとどめるのが適切です。

ちょっと皮肉だよね。ゴローウニンが「日本人は素晴らしい!」と感動を込めて書いた本が、やがて欧米の「日本に行きたい」という関心を高める材料になって、ペリーの来航につながっていく……。捕虜としての体験が、思わぬ形で開国の流れを加速させたかもしれないんだ。
もしゴローウニンが捕虜体験を書物として残していなかったとしたら——19世紀前半の欧米が「鎖国中の日本」の実態をつかむ手がかりは、さらに限られていたことでしょう。日本幽囚記は、閉じた国の内側を外の世界に伝えた稀有な一冊です。歴史的に見れば、ゴローウニンの「捕まった不運」が、日本を世界に紹介するという思わぬ役割を果たしたとも言えます。
📌 現代とのつながり:日本幽囚記によって日本の情報が西洋に広まったことは、19世紀の「日本への関心」を高め、やがてペリー来航・開国への流れを形成する背景の一つとなりました。捕虜となった一人のロシア人の記録が、日本の近代化の間接的な要因になったと考えると、歴史の連鎖の深さを感じます。
テストに出るポイント
ここからは、定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも活用してください。
📌 セット暗記のコツ:「1811年・国後島・ゴローウニン捕縛」→「1812年・高田屋嘉兵衛拿捕・リコルドと交渉」→「1813年・ロシア側が釈明書提出・幕府がゴローウニン解放」という3段階の流れで覚えよう。論述では「フヴォストフ事件が捕縛の背景にある」「高田屋嘉兵衛の仲介役としての役割」が問われやすい。

テストで一番出やすいのはどこ?

「1811年・ゴローウニン・国後島・高田屋嘉兵衛・日本幽囚記」この5点セットが超頻出だよ!特に高田屋嘉兵衛の役割(仲介者)は穴埋め問題・記述両方で問われるから、「廻船商人でリコルドと信頼構築した」という点をしっかり覚えておこう!
よくある質問(FAQ)
同一人物です。ロシア語原音に近い表記が「ゴロヴニン(Golovnin)」で、日本語では「ゴローウニン」「ゴローニン」「ゴロウニン」と複数の表記が使われています。教科書によって表記が異なることがありますが、どれも同じ人物を指しています。本記事では「ゴローウニン」を統一表記として使用しています。
直接の原因は、1806〜07年のフヴォストフ事件(ロシア人が日本側の施設を武力で攻撃した事件)によって、幕府がロシア人全般を敵対勢力とみなすようになっていたことです。1811年7月、ゴローウニンが補給のために国後島に上陸すると、幕府の役人はロシア人将校の来訪を警戒し、その場で一行を拘束しました。ゴローウニン本人はフヴォストフ事件と無関係でしたが、連帯責任的な形で捕縛されたのです。
淡路島出身の廻船商人で、北方航路(択捉島への新航路)を開拓し、北前船の運航で成功した海商です。1812年、ロシア艦に拿捕され捕虜となりながらも、副艦長リコルドと誠実に向き合い信頼関係を構築しました。「フヴォストフの襲撃はロシア政府の命令ではなく、ロシアがそれを公式に証明すれば幕府は納得する」と説いてリコルドを説得し、幕府とロシアの間の仲介役として事件解決に貢献しました。
帰国後のゴローウニンが著した体験記で、1816年にロシア語で刊行されました。全3巻からなり、幽閉中に観察した江戸時代の日本の風俗・習慣・法制度・人々の気質などを詳細に記録しています。欧米各国語に翻訳されて広く読まれ、鎖国中の日本を西洋に紹介した重要な一冊です。現代では岩波文庫から日本語訳が出ており、読むことができます。
1813年(文化10年)に解決しました。ロシア側が幕府に対し「フヴォストフの襲撃はロシア政府の命令によるものではない」という釈明の公文書を提出し、幕府がこれを受け入れてゴローウニンたちを釈放しました。高田屋嘉兵衛の帰国と同時進行で進んだこの解放劇は、約2年3か月に及んだ捕虜生活に終止符を打つものでした。
短期的には武力衝突を回避し、両国の関係を一応の安定へと導きました。しかし国後島・択捉島をめぐる北方の帰属問題は根本的には解決されず、幕末まで北辺防衛の課題として残りました。また、帰国したゴローウニンが著した「日本幽囚記」が欧米で広く読まれたことで、西洋の日本への関心が高まり、19世紀半ばの開国を求める圧力の遠因になったとも考えられています。
ゴローウニン事件についてもっと詳しく知りたい人へ

ゴローウニン事件に興味を持ったなら、こちらの書籍もオススメだよ!当事者の手記から小説まで、読み方に合わせて選んでみてね。
まとめ
- 1804年レザノフ来航・通商要求拒絶ロシア使節レザノフが長崎に来航し通商条約を求めたが、幕府はこれを拒絶した。怒ったレザノフは部下に報復を命じた。
- 1806〜07年フヴォストフ事件レザノフの部下フヴォストフらが択捉島・樺太などの日本側施設を武力で略奪・焼き打ち。幕府は対露警戒を強める。
- 1811年7月ゴローウニン、国後島で捕縛・松前へ護送補給のために国後島に上陸したゴローウニン一行(計7名)が幕府役人に拘束され、松前の蔵屋敷に幽閉された。
- 1812年春(3〜4月)脱走未遂・間宮林蔵の来訪3月25日に6名が脱走を試みるも4月4日に捕り直され、処遇が厳しくなる。探検家・間宮林蔵が幕府の命でゴローウニンに面会し情報交換が行われた。
- 1812年8月高田屋嘉兵衛、ロシア艦(ディアナ号)に拿捕される副艦長リコルドが高田屋嘉兵衛の観世丸を国後島沖で捕縛し交渉の手がかりとした。高田屋は捕虜の立場でリコルドと誠実に向き合い信頼を勝ち取った。
- 1813年ロシアが釈明書を提出・ゴローウニン釈放ロシア側が「フヴォストフの襲撃はロシア政府の命令によるものではない」という釈明の公文書を幕府に提出。幕府はこれを受け入れ、ゴローウニンと高田屋嘉兵衛が解放された。
- 1816年日本幽囚記(ロシア語版)刊行帰国したゴローウニンが捕虜体験をまとめた「日本幽囚記」を刊行。欧米各国語に翻訳され、鎖国下の日本を世界に紹介した。
- 1853年ペリー来航(日本幽囚記を参照したとされる)アメリカのペリーが浦賀に来航し開国を要求した。日本幽囚記を参考にしていた可能性があるとされる。翌1854年、日米和親条約が締結された。

以上、ゴローウニン事件のまとめでした!捕虜となったゴローウニンが「日本人は世界で最も礼儀正しい民族だ」と言い残した話、なかなかドラマチックだよね。高田屋嘉兵衛の人間力、リコルドとの信頼構築、そして日本幽囚記が世界に与えた影響……江戸時代の外交って、実はとっても人間くさいんだよ。下の記事でも江戸後期の対外関係について詳しくまとめているので、あわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「ゴロヴニン事件」(2026年5月確認)
コトバンク「ゴローウニン事件」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「高田屋嘉兵衛」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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