本阿弥光悦ってどんな人?簡単にわかりやすく紹介するよ【代表作品は船橋蒔絵硯箱!】

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もぐたろう
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今回は、桃山~江戸時代前期に書・陶芸・漆芸など幅広いジャンルで活躍した芸術家、本阿弥光悦ほんあみこうえつについてわかりやすく丁寧に紹介していくよ!

この記事を読んでわかること
  • 本阿弥光悦ってどんな人?
  • 本阿弥光悦ってどんなことをしたの?
  • 本阿弥光悦の代表作品を知りたい!
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マルチアーティスト、本阿弥光悦

本阿弥光悦は、元禄げんろく元年(1558)に京都で生まれました。

本阿弥一族は、室町時代から刀剣の手入れなどを生業なりわいとしていた家系です。本阿弥光悦も家業を継ぐことになる・・・はずでしたが、父の時代に本家から分かれて独立。

この父の独立によって本阿弥光悦は家業を継ぐことから解放され、好きだった芸術の世界へ身を投じることになります。

本阿弥光悦が好きなことに身を投じることができた背景には、本阿弥家の豊かな財産や父の人脈などの影響もありました。

本阿弥光悦は、多くの権力者や茶人などと交流することができ、その過程でさまざまな作品を作る機会を得たのです。

本阿弥光悦の芸術への関心は幅広く、家業である刀剣の扱いはもちろん、漆芸うるしげい作品の制作を行ったり、時には茶道や書道も学んだりと、マルチアーティストとして成長していきます。

元和げんな元年(1615年)、そんな本阿弥光悦に転機が訪れます。

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本阿弥光悦、芸術の聖地を築く

1615年、本阿弥光悦は、徳川家康とくがわいえやすから平安京の北に位置する鷹峯たかがみねの土地を与えられ、移住することになったのです。

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なぜ鷹峯の土地を与えられた理由ははっきりとわかっていません。

ただ、鷹峯は追い剥ぎ多く発生するようなとても治安の悪い場所だったため、何らかの理由で平安京から追い出されたのでは?という説があります。

移住の原因がどうであれ、平安京の離れに広い土地を手に入れた本阿弥光悦は、制作意欲に燃え、芸術作品の制作に没頭するようになります。

本阿弥光悦
本阿弥光悦

おっしゃ!広大な鷹峯を拠点にすれば自由にのびのびと作品が作れるぞ!

俺の気が済むまで、好きなだけ作品を作りまくってやるぜ!!

鷹峯に移り住んだ光悦は、「太虚庵だいきょあん」と名付けた建物を建て、特に陶芸と漆芸に熱中するようになります。

「本阿弥光悦が鷹峯で新作を次々と作っているらしい!」という話が世間に広まると、次第に光悦を慕う豪商や芸術家たちまでもが鷹峯に集結。

すると鷹峯には多くの家や寺院が建てられ、芸術家たちが集まる巨大な集落が誕生することとなりました。

こうして追い剥ぎだらけだった鷹峯は、京都の芸術文化の一大拠点として大いに栄えることとなります。

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本阿弥光悦が拠点にした地域は「光悦村」と呼ばれるようになり、芸術の聖地として圧倒的な存在感を示すことになったんだ。

本阿弥光悦は、寛永十四年(1637年)に享年81歳で亡くなり、光悦が住んでいた屋敷は「光悦寺」というお寺になりました。

※鷹峯、光悦寺の場所はこちら↓↓

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本阿弥光悦の芸術活動

本阿弥光悦のマルチな活動の中で、特に高い評価を得ていたのが書道と漆芸です。

書道

書道は、本阿弥光悦の芸術活動のなかでも特に評判がよく、「光悦流」と呼ばれる書道の流派が登場したほどです。

本阿弥光悦は、青蓮院しょうれんいんの住職だった青蓮院尊朝法親王そんちょうほっしんのうから書道を学び、これを自己流へと昇華しょうかさせました。

青蓮院流

青蓮院は、昔より天皇になる見込みのない皇族が住職を勤めるお寺の1つでした。(このような皇族御用達のお寺のことを「門跡もんぜき」と言います。)

鎌倉時代末期、伏見天皇ふしみてんのうの皇子で青蓮院に入った尊円入道親王そんえんほうしんのうという人物が、宋の書風と和の書風を融合させた青蓮院流しょうれんいんりゅうと呼ばれる新しい書の流派を創始しました。

青蓮院流の書は、戦国時代〜江戸時代の間、多くの人が採用した書風であり、江戸時代には公式文書の文字として採用されたほどメジャーな書風でした。

本阿弥光悦が学んだのも、当時としては定番だった青蓮院流を基本とする書道でした。

光悦の書の特徴は、線の太さや濃さを文字ごとに変化させ、1枚の紙に楷書かいしょのようなかっちりとした文字から行書ぎょうしょ草書そうしょなど、さまざまな書体を混在させている点にあります。

楷書・行書・草書の違い(出典:花鳥風月

鷹峯を訪れたことのある林羅山はやしらざんによると、本阿弥光悦が書いた書を求める人が絶えなかった・・・とも言われています。

本阿弥光悦が書いた文字

漆芸

本阿弥光悦は、漆芸にも強い関心を示し、自身も漆器の制作に携わりました。特に漆器に模様をデザインする蒔絵まきえでは、独創的なアイデアで次々と作品を創り上げ、人々をうならせました。

蒔絵とは?

蒔絵とは、箱や器に漆で模様を描いた後、そこに金・銀などの粉をくことで鮮やかな模様にする漆器の技法のこと。平安時代中期、国風文化の中で発案された日本オリジナルの技法です。

漆器っていうのは、木や紙を漆でコーティングして作られた食器などのこと言います。漆は腐食や水に強い性質があり、食器や保存箱などに頻繁に用いられていました。

さらに漆には、接着剤の機能もあります。

漆を塗った後、漆がかわく前に金銀の粉を蒔けば、漆が接着剤となって漆器に粉を付着させることができます。これを応用して、デザインに沿って金銀の粉を漆器に付けたものが蒔絵です。

平安時代の蒔絵の代表作「片輪車蒔絵螺鈿手箱」

※蒔絵の詳しい作り方は、以下のサイトが詳しいです。(もちろん、受験で覚える必要はありません!)

参考URLHARIYA

光悦の蒔絵の特徴は、古典文学から着想を得た奇抜な形をしており、さまざまな素材を用いて漆器に装飾している点です。

本阿弥光悦の蒔絵は後世の作家にも大きな影響を残し、光悦の蒔絵を真似た作品を「光悦蒔絵」と呼ばれました。

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本阿弥光悦の代表作「船橋蒔絵硯箱」

船橋蒔絵硯箱ふなばしまきえすずりばこは、国宝にも指定されている本阿弥光悦の漆芸作品の代表作。

※硯箱:硯を入れる箱のこと。硯は筆につける墨を入れる文房具の一種。硯箱は今でいう筆箱のイメージですね。

パッと見るだけでは、箱かどうかわからない奇抜な形をしています。この独創的な発想こそが、本阿弥光悦の蒔絵が「光悦蒔絵」と呼ばれる所以ゆえんです。

大きくドーム状に膨れ上がった蓋が特徴で、高さが普通の硯箱の倍以上あります。

中央の黒い装飾は、普通の蒔絵ではあまり使われない鉛板えんばんを用いています。

蒔絵は、国風文化の中で生まれた技法らしく、緻密で繊細な美しい模様が売りでした。

しかし、船橋蒔絵硯箱は素人が見ただけでも、全く違った雰囲気をかもし出していることがわかると思います。(上で紹介した蒔絵の代表作「片輪車蒔絵螺鈿手箱」と見比べてみてください!!)

鉛板は表面をハンマーのようなもので叩いたせいかゴツゴツしていて、従来の蒔絵のような上品かつ繊細なイメージとはかけ離れたものになっています。

さらに、見てもらうとわかりますが、ドーム型の蓋に文字が書かれています。

この文字は、「東路乃さ乃ゝ船橋かけて濃ミ思わたるを知人そなきを」という和歌から「船橋」のみを除いたものです。

なぜ船橋の文字がないのかというと、鉛板で表現した黒い部分で船橋を表現しているためです。実はこの奇抜な蒔絵は、和歌が詠う情景を蒔絵によって表現したものだったのです。

※船橋:船を横に並べてつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの

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船橋蒔絵硯箱の奇抜な形とか鷹峯のエピソードから察するに、本阿弥光悦は相当な破天荒な人物だったんでしょうね。

文化史って覚えるのが大変だと思います。ただ、丸暗記は難しくても、この記事を読んで「本阿弥光悦」=「変な形の蒔絵を作ってる人」ぐらいなイメージだけでも掴んでおくと、何かの時に役に立つかもしれません・・・!

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教育系歴史ブロガー。
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