今回は、古墳時代に登場する国造という役職についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
ヤマト政権から地方を任された国造
ヤマト政権は畿内を中心とした豪族たちの集まりです。
そして、ヤマト政権の規模が拡大するうちに、1つの問題が生まれます。
うーん。支配する地域が広がるのは良いことだけど、どうやって安定した統治をすればいいのだろう・・・。
そこで登場したのが国造です。
ヤマト政権は、各地の信頼できる一族たちと次のような約束をしました。
お前にその地方の支配権を与えよう。逆らう奴がいたらヤマト政権が全力でサポートする。
ただし、条件がある。支配権を与える代わりに、ヤマト政権に直接仕えてくれ。
地方の安定統治とか軍事とか、お願いしたいことが山ほどあるんだよ。
こうして、ヤマト政権と親密な関係を持つようになった地方の有力豪族のことを国造って言います。
国造の仕組みがいつ頃始まったのかは、実ははっきりとわかっておらず、諸説あります。(教科書では6世紀には国造が登場していたと書かれています。)
国造に選ばれた人たち
ところで、国造にはどんな人が選ばれたのでしょうか。
条件としては大きく次の2つが考えられます。
ヤマト政権を裏切りそうな人は当然ダメ。力がない人も安心して任すことができないのでダメです。
こう考えていくと、候補になるのはヤマト政権に関与をしている地方の有力豪族に絞られてくるわけです。
「ヤマト政権に関与をしている」という点では、氏姓制度によってヤマト政権から姓を与えられている一族が国造の最有力候補になります。
姓を与えられている一族はヤマト政権と強い結びつきがあるし、信頼性もありました。
姓には「臣・連・君・値」などがあって、ヒエラルキーが存在します。国造は、そのヒエラルキーと地域ごとの事情を踏まえながら任命が行われました。
国造と伴造
国造と似た言葉に「伴造」という言葉があります。この2つの言葉、とてもややこしいので補足説明しておきます。
伴造は、臣・連の姓を持つ有力豪族の下で部と呼ばれる人々の集団をまとめる中間管理職のこと。国造とは全くの別物です。
主に君・値・造の姓を持つ者が、伴造になっていました。
ややこしいのは、国造と伴造を兼任していた氏族もいたかもしれない・・・ってことです。
伴造は部と呼ばれる人々をまとめるリーダーだったので、「リーダーだったらついでにその地域の国造になってよ!」ってケースもあったことでしょう。
そうすると、その氏族には3つの肩書きがあることになります。
あそこに住んでいる○○氏は、値という姓を与えられている氏族で、伴造として部を束ねて、国造として地方統治をしているんだね!
という具合です。
例えば、佐藤さんという人がいて、会社では課長と呼ばれ家ではお父さんと呼ばれるのと同じイメージです。
国造の仕事
国造のメインの仕事は、地方の豪族たちをまとめるリーダーの役割です。ヤマト政権のバックアップ(後ろ盾)を得て、地方の安定統治に努めました。(中には反乱を起こす国造もいましたが・・・)
そして国造は、地方を支配する代わりにヤマト政権に仕えます。
雑務をする舎人・采女を朝廷へ送り込んだり、貴重な特産品を朝廷に貢いだりしました。
さらに、大王が各地に所有している屯倉と呼ばれる直轄領の管理を任されたり、大王が直接支配をしていた名代・子代と呼ばれる集団をまとめたりと、仕事は多岐に渡ります。
国造は、地方のボスとして君臨できる。
ヤマト政権は、地方の統治を国造に任せられる。
というwin-win関係の上に成り立っていたのが、国造とヤマト政権だったのです。
国造、反乱を起こす
しかし、国造の仕組みも完璧ではありませんでした。
527年、筑紫国(今の福岡県付近)の国造だった磐井氏が大反乱を起こします。
この反乱は鎮圧されますが、この反乱の後、各地で大王の直轄領である屯倉の設置が増えていきます。
国造だけに地方を任せるのは不安だから、屯倉を各地に増やして地方の監視を強化するぞ。
屯倉には大王の息のかかった人物を地方へ送り込み、国造の地方統治を監視しました。(中央から屯倉に送られた人物は、飛鳥時代以降に登場する国司へと繋がっていきます)
このような試行錯誤を繰り返しながら、ヤマト政権は屯倉と国造を中心に、拡大する支配地の統治を行っていたのです。
コメント
私も学生の頃は歴史を毛嫌いしてきました。今は、歴史は史実の暗記物としてではなく、反省をする材料であり、民主主義といった人民が自由を勝ち取るまでの苦難を表すものでととらえています。歴史をが民主主義に至るまでの苦難と努力の経緯として教育すれば、政治離れ抑えることができるのではないかと思っています。そんなわけで、定年後の一つの再学習として歴史を選び、このサイトに辿り着きました。
明治維新の前までは市民は教えや体制に従い、その後の戦後までは消化不良のままの民主主義をまねて、ようやく戦後に欧米からの民主主義が消化されようとしていると思います。しかし、民主主義が当たり前のように自分たちの生まれながらの権利であり、今後もそうあり続けるかのように錯覚しているように思われているのではないでしょうか。
生きることが目標であった時代、繁栄することが目標であった時代を経て、ようやく個々の幸福と体制がその方向性において一致している将来を思い描けるようになったことを学ぶことができる歴史教育になることを願っています。
中学生の頃にこのことに気が付いていればよかったのにと思います。きっと当時の先生は説明をしていたのかもわかりません。なんせ、出来が良くなかったので、それに気づきませんでした。
これからも貴サイトがより充実されることを期待しています。