今回は、1627年に起きた紫衣事件についてわかりやすく丁寧に解説していくよ!
紫衣事件とは
紫衣事件とは、天皇が下した紫衣着用許可を幕府が取り消してしまった事件です。
後ほど紹介しますが、事件そのものは大きな事件ではありませんでした。・・・が、「江戸幕府の力は天皇(朝廷)の決定を覆せるほど強いんだぞ!」ってことを世に知らしめることとなり、当時の幕府と朝廷の力関係を象徴していた重要な事件として、教科書にも載っています。
紫衣事件が起きた時代背景
紫衣事件が起きた背景には、禁中並公家諸法度という法の存在があります。
1615年、江戸幕府は、公家や皇族を幕府のコントロール下に置くため、禁中並公家諸法度を制定しました。
この禁中並公家諸法度には、紫衣について、次のようなルールが設けられていました。
紫衣の寺、住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且は臈次を乱し、且は官寺を汚し、甚だ然るべからず。
禁中並公家諸法度第16条
有力寺社は幕府を脅かしうるパワーを秘めた危険な存在だったため、
寺社が朝廷と癒着して好き勝手なことができないよう、紫衣の着用許可についても規制を設けたわけです。
※幕府は、禁中並公家諸法度のほかにも寺社に対して多くの規制を設けていました。(詳細はマニアックな話になるのここでは触れません。)
紫衣事件が起きたきっかけ
・・・が、当時天皇だった後水尾天皇は、法度を無視して、これまでどおり多くの僧侶に紫衣着用を与え続けました。
俺は天皇だぞ。なぜ徳川ごときの命令に従わないといけないんだ!!
1627年、この事態を問題視していた江戸幕府がついに動きます。
天皇に『法度は無視してオッケーww』なんて思われたら、禁中並公家諸法度の意味なくなって、朝廷が好き勝手なことをするようになってしまう。
これ以上、後水尾天皇の暴挙を許すわけにはいかない・・・!!
幕府は、禁中並公家諸法度が制定された1615年以降に認められた紫衣の着用許可をすベて取り消し、紫衣を僧侶から取り上げることにしました。
本来なら、日本国の王たる天皇の決定を簡単に取り消して良いわけがなく、しかも幕府は、10年以上も昔にさかのぼってすべての決定を取り消しました。
はっ!?
天皇が一度決めたことを幕府が取り消すとは何事だ!!
天皇を軽んじた幕府の動きに後水尾天皇はブチギレます・・・が、江戸時代の朝廷には幕府に逆らう力は残されておらず、幕府の動きを傍観するしかありませんでした。
紫衣事件の経過
この幕府の決定に一番困ったのが、実際に紫衣を没収されることになった僧侶たちです。
特に京都の大寺院であった大徳寺・妙心寺の2つの寺院は、紫衣の許可をもらった僧侶が多くいたため、大きな影響を受けることになります。
1628年、大徳寺の僧侶である沢庵らが、幕府に対して抗議文を出します。
そもそも、紫衣を着用するために幕府が示した条件が厳しすぎた(※)から、このような事態になったのだ!
※江戸幕府は、各宗派ごとに紫衣着用や僧侶の出世の条件を別の法度で細かに定めていました。
わかったわかった。
じゃあ、勤勉で厳しい修行も重ねた本当に紫衣にふさわしい僧侶に限って、『今後二度と幕府の法度に違反はしません』と誓約書を書くなら紫衣の着用を引き続き認めてやんよ。
大徳寺・妙心寺では、
「幕府に逆らわず、事態を穏便に済ませよう!」という穏和派と、
「仏法の話を幕府にとやかく言われる筋合いなんてねーよ!」という強硬派
の2つの派閥が生まれ、強硬派は江戸幕府から処罰を受けることとなります。
強硬派の主要人物とみなされた沢庵も1629年、出羽国へと流罪となりました。
こうして紫衣事件は、後水尾天皇のプライドを大きく傷付け、逆らった僧侶たちを処分する形で終わりました。
先ほど登場した沢庵という僧侶、「あれ?漬物のたくあんと同じ名前じゃん!」と思った方はいませんか?
実は、漬物の「たくあん」の名前の由来は、紫衣事件で流罪となった沢庵だと言われています。
※なぜ沢庵の名前が由来になったかは諸説あります。「沢庵が発案した漬物だから」とか「沢庵が全国に普及させたから」などなど・・・。
紫衣事件の結果
紫衣事件そのものは、日本の歴史に大きな影響を与えた事件ではありません。
それでも、日本史の教科書の紫衣事件が載っているのには、大きく2つの理由があります。
紫衣事件によって、天皇の許可よりも幕府の法度の方が優先であることが明らかになってしまった。
紫衣事件にショックを受けた後水尾天皇が譲位してしまい、皇位継承に影響を与えることになった。
それぞれ、簡単に解説していくね!
幕府の法度>天皇の許可
天皇の権力は、源頼朝が鎌倉幕府を開いて以降、衰弱の一途を辿っていました。
そのため、天皇であっても幕府に逆らうことは容易でなく、歴代幕府(鎌倉・室町)は、天皇に対して様々なことを口出ししてきました。
・・・ただ、これまでの幕府は、天皇に口出しをすることはあっても、法による制約を加えることはしませんでした。
というのも、古来より天皇というのは法を超越した存在である・・・と考えられていたからです。
しかし、1615年に禁中並公家諸法度が制定され、
さらに紫衣事件(1627年)で天皇の許可が法度違反で取り消しになったことで、たとえ天皇であっても法度には逆らえないことが確定してしまいました。
天皇への口出しは必要な時にそのつど行われましたが、法度による制約は口出しと違って、将軍がどんな人物になっても、法度が存在する限り効力を持ち続けます。
・・・つまり、紫衣事件は天皇に対して「どんな場面であっても、法度が存在し続ける限り、天皇は幕府に逆らえないよ!」っていう事実を突きつけることになったのです。
実際に紫衣事件以降、天皇・朝廷は完全に幕府のコントロール下に置かれ、政治の表舞台には登場しなくなります。
天皇が政治の表舞台に再び登場するのは、幕府の力が弱ってきた幕末まで待たなければなりません。
女帝の明正天皇が即位する
紫衣事件でプライドをズタボロに傷づけられた後水尾天皇は、1629年、幕府に一切相談することなく、いきなり譲位してしまいます。
譲位の際には、幕府へ事前に相談することが慣例でしたが、後水尾天皇がそれを無視したのは、天皇なりに幕府への抵抗の意思を示すため・・・とも言われています。
また勝手なことをしやがって・・・!
当時将軍だった徳川秀忠は、相談なしに後水尾が突然譲位したことに立腹しました。
というのも、後水尾天皇には男子がいなかったため、次に天皇になりうる人物がいなかったからです。
皇位継承について朝廷で議論が行われた末、後水尾天皇の娘が明正天皇として即位しました。
明正天皇は徳川秀忠の孫だったため、秀忠もこの決定に強く反対することはありませんでした。
娘が天皇即位・・・ってことは、女帝ってことかしら?
そのとおりだよ!
女帝っていうのは日本では原則として認められていなかったんだけど、皇位継承がうまくいかない時のピンチヒッターとして臨時的に即位することはOKでした。
つまり、明正天皇の即位=皇位継承がうまくいっていないことを示していて、そのきっかけとなったのが紫衣事件だったのです。
天皇制が安定してきた平安時代以降、女帝の即位は見られなくなりました・・・が、奈良時代の称徳天皇以来、859年ぶりに江戸時代に再び女帝が登場することになりました。
それほどまでに御水尾天皇の譲位は唐突で、紫衣事件は皇位継承に大きな影響を与えた事件として後世に語り継がれることとなりました。
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