今回は、1920年代に行われた幣原外交と呼ばれる日本の外交政策について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
幣原外交とは
幣原外交とは、1924年〜1931年の期間、外務大臣だった幣原喜重郎が行った、他国との協調を重んじた外交政策のことを言います。
1910年代の日本は、ヨーロッパの列強国らが第一次世界大戦で手一杯な隙を狙って、強引に中国支配を強めてきました。
中国分割(1989年)以降、多くの列強国が中国各地に様々な特権を持ち、中国を間接的に支配してきました。
そんな中、日本はドイツが持つ山東半島の権益を強引に奪ったり(二十一箇条の要求)、中国政府に資金提供して内政に直接介入(西原借款)するなど、過激な行動を採るようになります。
列強国は、こうした日本の行動を冷ややかな目で見ており、特にアメリカは日本に対して強い警戒感を抱くようになりました。
アメリカは、中国分割の乗り遅れて、中国での特権を手に入れることができませんでした。
自分だけ仲間外れで、他の列強国が中国を支配することを嫌ったアメリカは、いっそのこと中国がどの国にも干渉されない自由な国になれば良いと考えていたのです。
すると、日本は国際的に孤立するようになりますが、これを防ぐために外交方針を転換し、他の列強国と協調的な外交を進めようとしたのが幣原外交でした。
幣原外交のきっかけとなったワシントン会議
1918年に第一次世界大戦が終戦すると、世界の平和秩序について話し合うため、2つの国際的な会議が開かれました。
それが、パリ講和会議(1919年)とワシントン会議(1921年)です。
パリ講和会議では主にヨーロッパの平和秩序について話し合われ、
ワシントン会議では、主にアジアの平和秩序について話し合われました。
日本に大きな影響があったのは、もちろんアジアについて話し合われたワシントン会議です。
ワシントン会議が開かれた当時、日本の首相だったのは原敬という男。
原敬は、ワシントン会議に向けて日本の外交方針の転換を考えます。
国際会議の場で、今までみたいに列強国を無視する態度を貫けば、日本は外交上完全に孤立して、日本の経済や国防に大きな悪影響を与えることになるだろう。
そうならぬよう、日本に協調的な外交を行う意欲があることを、他の列強国に示さねばならぬ・・・!
そして1921年11月12日、いよいよワシントン会議が始まります。
当時、幣原喜重郎は、駐米大使としてアメリカに住んでいたため、このワシントン会議にも参加することになります。
ワシントン会議では、日本にとって不利な条約が次々と結ばれていきます。
九カ国条約
中国への今以上の内政干渉を原則禁止する条約。
九カ国条約は、中国支配を強めていた日本の勢いに急ブレーキをかけることになります。
さらに日本は、九カ国条約とは別に、第一次世界大戦中にドイツから奪い取った山東半島の権益を中国に返還することを認めました。(山東還付条約)
四カ国条約
アメリカ・イギリス・フランス・日本の間で結ばれた条約で、「四カ国それぞれが持つ太平洋諸国の植民地や権益を、互いに奪い合ったりするのはやめようね^^」という内容の条約でした。
四カ国条約の内容自体には、日本にとって明らかに不利な内容はありません。しかし、四カ国条約の締結によって、日本が継続を強く望んでいたイギリスとの軍事同盟「日英同盟」が破棄されることになりました。
※アメリカ・イギリス・フランス・日本の四カ国による新しい関係が構築されたことによって、日英同盟は不要とみなされてしまったのです。
ワシントン海軍軍縮条約
さらには、海軍大国だったアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の五カ国の間で、主力軍艦の保有量を制限するワシントン海軍軍縮条約も結ばれました。
日本は海に囲まれた島国なので、国を守るためには強い海軍が必要でしたが、同じ島国であるイギリスと同じ保有量を認められませんでした。
日本に不利な条約が次々と結ばれた背景には、日本が強くなることを恐れていたアメリカの牽制がありました。
そこで日本は、国力では敵わないアメリカと関係が悪化することを避けるため、不利な条約を受け入れて、逆に列強国と協調的な関係を構築してしまおうと考えたのです。
幣原外交、始まる
話を日本国内の話に戻します。
ワシントン会議から3年後の1924年、第二次護憲運動が起こって、加藤高明を首相とする加藤高明内閣が誕生しました。
この加藤内閣で、幣原喜重郎は外務大臣に抜擢。
ワシントン会議にも参加していた幣原は、外務大臣としてワシントン会議で定められた平和秩序(ワシントン体制)を守っていくことを自らの外交方針としました。
つまり、中国への内政干渉をストップし、何か国際的な問題が起こっても、日本が独断で動くのではなく、列強国と協調して平和的な問題解決を目指すことにしたのです。
ワシントン体制を守りながら、列強国と協調的な関係を構築しようとした幣原喜重郎の外交のことを幣原外交と言います。
幣原外交の内容
中国への内政不干渉を徹底
中国への不干渉を決めた九カ国条約ですが、その九カ国の中には、中国のとなりにあった社会主義国家、ソ連の名前がありませんでした。
そこでソ連は、他国が中国への干渉をやめた隙を狙って、中国で社会主義を広めるべく内政干渉を開始します。1921年には、ソ連の支援を背景に中国で中国共産党が登場しました。
1924年には、中国政府を倒すべく活動をしていた中国国民党と中国共産党がタッグを組み、その勢いはますます増していきます。(第一次国共合作)
日本は、隣国の中国が社会主義国家になることを強く恐れていたので、中国共産党に中国政府が倒されてしまうことは、絶対に避けなければならないことでした。
そのため、日本政府の中には、「中国政府が敗北しないよう、日本が裏から支援するべきではないか!」という意見もありました。しかし、幣原は中国への内政干渉を断固反対し、ワシントン会議の決定事項を遵守します。
事情はわかるが、内政干渉はダメだ。
内政干渉を行なって、中国の反日感情を高めたり(※)、列強国からの信用を失う方が、国としての損失が大きい時私は考えるだ。
※実際に、中国では1919年に日本の内政干渉に反対したデモが起こっていました。(五・四運動)
この対応によって、幣原の思惑通り、日本は列強国からの信頼を得ることに成功しましたが、中国の反日感情を鎮めることはうまくいきませんでした。
※1925年には、中国で五・三〇運動と呼ばれる大規模な反日デモが起こっています。
日ソ基本条約
日本は上の中国の話でも紹介したとおり、社会主義思想を持つソ連のことを強く警戒していました。
しかし、ワシントン会議でアメリカに睨まれていた日本は、「今は無駄に敵を増やすべきではない」と考えて、シベリア出兵以降、関係が悪化していたソ連と友好的な関係を結ぶことを考えました。
そこでソ連と日本の国交を回復するために結ばれたのが、1925年の日ソ基本条約でした。
幣原が外務大臣に就任する前から、ソ連との交渉は行われていましたが、交渉をまとめ上げて条約という形に仕上げたことは、幣原外交の大きな成果の1つと言えます。
日ソ基本条約については、別の記事で詳しくまとめているので、合わせて読んでみてくださいね。
幣原外交→田中外交
1926年になると中国では、中国革命軍(国民党&共産党の軍隊のこと)が政府を倒すため、本格的な軍事行動を開始。(北伐)
中国の内紛が激化すると、1927年3月、南京で日本人を含む多くの外国人が共産党に襲われる事件が起こります。
被害を受けたアメリカやイギリスは、報復として中国革命軍を攻撃しますが、この時も幣原は内政不干渉を貫きました。
しかし、この幣原の対応は国内外から非難を受けることになります。
幣原は、中国に住む自国民を守るための軍事行動を内政干渉と言っているようだが、少しばかり楽観主義が過ぎるのではないか。
日本人が殺されたんだぞ!?
それをただ静観しているなんて、幣原喜重郎は一体何を考えているんだ!!
同じ頃(1927年3月)、目を日本国内に転じれば、日本では金融恐慌が起こっていました。若槻内閣は、経済対策に追われることになりますが、この対応に失敗。責任を取る形で、1927年5月、若槻内閣は総辞職してしまいます。
1926年1月に加藤高明が亡くなった後、その後継者として若槻禮次郎になっていました。
二人とも同じ政党(憲政会)の人物だったので、首相が代わっても幣原外交の方針が変わることはありませんでした。
当時は、憲政の常道と呼ばれる「2大政党の立憲政友会と憲政党が、交互に政権を担うべき!(政権交代をすべき!)」という考え方がありました。
憲政の常道の考えに倣って、新しく首相になったのが立憲政友会の田中義一という男です。
この政権交代に伴って外務大臣も交代となり、幣原外交は中断することになります。
田中義一は、幣原と真逆で「中国にはどんどん干渉していくべき!」と考えていたので、首相になった5月には、早くも山東半島へ出兵することが決定。日本は、アメリカ・イギリスに続いて軍を中国へ送り込むことになります
※陸軍は、満州周辺の重要な前線拠点を守る関東軍を管轄しています。すぐ近くで日本人が殺されたり、中国政府が倒されようとしているのに、幣原外交のせいで何もできない陸軍は、幣原外交に対して強い不満を持っていたのです。
幣原外交、復活!
しかし、田中義一の中国への積極的な干渉も、1928年6月に起きた張作霖爆殺事件によって頓挫することになります。
田中義一が、暴走する関東軍をコントロールできず、田中義一の意図せぬまま、関東軍が中国政府の要人だった張作霖を暗殺してしまったのです。
田中義一は、事件の原因究明や関係者の処罰を行いましたが、その過程で昭和天皇から叱責を受け、1929年7月、事件の責任を取る形で総辞職してしまいます。
憲政の常道の考え方に従い、次の首相には立憲民政党の党首である浜口雄幸が抜擢。すると、幣原喜重郎が再び外務大臣に選ばれます。こうして、浜口内閣の下、幣原外交が再開されることになりました。
※立憲民政党は、1927年6月に憲政会と政友本党と呼ばれる政党が合体してできた憲政党の流れを汲む政党。
再開した幣原外交の内容
田中義一が、中国に対して露骨な軍事介入を行なった結果、日中関係は再び悪化していました。
中国とは、満州の権益をめぐっても長年の対立が続いていて、関係改善は簡単ではありません。そんな中、幣原は解決できる問題から取り組もうと、満州の問題は保留とし、1930年に中国の関税自主権を認めました。
同じ1930年に、ロンドン海軍軍縮会議が開かれると、幣原喜重郎はその全責任を任された首席全権となり、1930年10月、条約に調印を行います。
しかし、日本の保有できる主力軍艦がアメリカ・イギリスより少ないことに海軍がブチギレ。
海軍の意向を無視して、条約を結ぶとは何事だ!!
そもそも、大日本帝国憲法では、軍事は陸・海軍が天皇から直接命令を受けて行うことになっている。
それなのに、浜口内閣は、軍事に関する条約を海軍を無視して決定した。天皇直属の海軍を無視するというのは、天皇を無視するのと同じ!!許されることではないぞ!!
という理屈で、浜口内閣を批判。(この批判のことを「統帥権の干犯」と言います)
1930年11月には、浜口首相が狙撃され、一命は取り留めたものの、1931年4月に浜口内閣は解散。若槻禮次郎が2度目の首相となりました。
さらに、1931年9月、満州事変が起こり、関東軍が満州を占領。幣原喜重郎のこれまでの苦労が水の泡となってしまいます。
1931年12月には、第二次若槻内閣が解散に追い込まれ、憲政の常道に従って、立憲政友会の犬養毅が首相になると、その後幣原喜重郎が外務大臣に就任することはなく、幣原外交は終焉を迎えることになりました。
幣原外交の後
幣原外交が終わった後、日本は「軍事でどんどん領地を拡大していこうぜ!」と考える軍国主義を採るようになり、戦争への道を突き進みます。
1939年には日中戦争、1941年には太平洋戦争に参戦し、1945年には日本はアメリカに敗北。
日本はアメリカの占領下に置かれますが、1945年10月、高齢となっていた幣原喜重郎は首相に任命され、戦後処理を任されました。
幣原の国際協調を重んじる考え方や、過去の幣原外交でアメリカ・イギリスから名を知られていたことが評価されたのでした。
幣原は、マッカーサーとの会談を行うなど、日本の再建に尽力することになります。
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